優しい雨−1

 いつものように慌しい昼食を終えた高耶が、自分の部屋に入ろうとすると、廊下の向こうから人影が近づいてくるのが目に入った。
「中川…」
 そういえば、診察するから来いと言われていたのに、ずっと行っていない。さすがに後ろめたさを覚えて言葉に困った。
 そんな高耶を知ってか知らずか、中川はにこにこ笑って、書類袋を差し出した。
「仰木さん、嘉田さんからおみやげ預かってきましたよ。」
「あ、おう。ありがとう。」
 とまどいながら受取ると、
「今日こそは、きっちり診察させてもらいますからね。時間がないなんて、言わせませんよ。」
そう言って中川がにっこり微笑んだ。この笑顔が曲者なのだ。診察するまでは、てこでも動きそうにない。高耶は午後からの予定を諦めた。

「オレの部屋でもいいか?」
「もちろん。そのつもりで用意してきました。」
 中川は診察かばんを持ち上げると、高耶に続いて部屋に入った。
 部屋に入ったらすぐ診察にかかるつもりの中川だったが、書類袋を開けて資料を見たとたんに没頭してしまった高耶に、
「やれやれ。診察の後にすればよかったですね。」
諦めたようにそう言うと、微笑みながら隅の椅子に腰掛けた。
「悪ぃ中川。すぐ済むから。」
高耶は資料から目を離さないままだ。中川はそんな高耶を黙って見守った。

 書類袋に入っていたのは、小競り合いの続く各方面への補給基地を確保する為に、兵頭が考えた作戦試案だった。
几帳面な兵頭らしく、細部までよく考えられた試案だったが、それを実行するには人選が難しい。
小人数で行う作戦には、状況に合わせた柔軟な対応が要求される。それは誰もができることではないだけに、どうしても『できる』者ばかりが任務につくことになる。
特定の者だけが忙しくて、他の者が遊んでしまうのでは、人は育たない。

(まず訓練が必要だな)
 高耶は訓練のメニューと参加させるメンバーの条件を書き出すと、また資料を見直し、いくつか修正を加えると、指導者として兵頭と武藤の二人を挙げた。
二人とも、指導力も能力も申し分ない。仲の悪さが少々気にかかったが、いざとなるとそんなことにこだわる彼らではないことを高耶はよく知っていた。
それに二人が競うことも、参加者への良い刺激になる。
「よし、これでいこう。」
 そう決めるまでの時間は、机に座ってからわずか二〇分足らず。
次々と起きる難題を、高耶は驚くべき速さで処理していく。凄まじい集中力だ。

 中川はそんな高耶に感嘆すると同時に、胸が塞がれるような痛みを感じていた。
 もちろん戦場では、決断の早さが生死を分けることはいうまでもない。だから優れた武将は迅速な対応をするものだ。ゆっくり迷っている暇はない。
だが高耶の姿には、それだけではないなにかがあった。

 まるで命を削って燃やし尽くそうとしているようで、胸が絞めつけられる。
どうかそんなに生き急がないで欲しい。そう懇願しても彼は止まらない。
わかっているから何も言えない。ただ祈るような思いでじっと見つめつづける。
彼の全てを魂に刻みつけるように。

 重い痛みを胸の奥に閉じ込めて、中川は声をかけた。
「さあ仰木さん、診察しましょうか。」
いつもの明るい穏やかな笑顔がそこにあった。

 数日後、高耶の計画をもとに、訓練が実施された。
潮の班と兵頭の班に分かれての紅白戦である。準備を入れて期間は一週間。
山の頂上にある砦を占領することを目標とし、作戦の計画から実行まで参加者が全て行う。
指導にあたる潮と兵頭は、相談には乗るが指図はしない。
致命的な欠陥や危険過ぎると思われることは指摘して再考させる。トラップを仕掛けるのもOK。
気を抜くと、訓練とはいえ命の危険すら有り得るという厳しいものであった。

 勝っても負けても遺恨は許さないこと。敵味方を問わず、命を最優先すること。
それが条件だ。最終日に山頂の砦で待っている高耶から旗を奪えば訓練終了となる。

 この訓練の狙いは、第一に、状況を自分自身で判断して動ける人材を育てることにあった。
その上でチームとして動けることが大切なのだ。これに参加している各班10名ずつが、狙い通りに成長してくれれば、次からの作戦で選択肢が大きく広がる。

「兵頭、武藤。思いっきりやるがええ!おんしらの戦いぶり、しっかり見せてもらうぜよ。期待しちょるき、全員気合入れて頑張っとうせ!」
初日に嘉田が皆にゲキをとばした。
「おおぉっ!」
予想通り、お互いに敵愾心を燃やして意気が上がっている。
「負けねえからな。」
「勝つのはわしらじゃき。」
潮と兵頭はがっちりと睨み合い、闘志を体いっぱいに漲らせた。

 

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