旧制第一高等学校寮歌解説

平沙の北に

明治38年第15回紀念祭寮歌 南寮

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1、平沙の北に吹雪して    猛士十万春寒く
  胡笳の音亂る沙河の陣  南印度の蒼浪に
  艨艟敵を向かふとき    今歳十五の春來る
*「十万」は昭和10年寮歌集で、「十萬」に変更。

2、嗚呼歳ふりぬ人去りぬ   維新の氣魄跡もなく
  華奢の(ふう)のみ(すさ)ぶとき   尚武の色に染められて
  層樓苔に今靑む       六寮(りくりゃう)のかげ尊しや

3、勝ちて驕りて敗れては   聲を潜むる世の慣ひ
  姦邪の(ふう)(よそ)にして    獨り邊土に十五歳
  
稜々高く天を衝く      男兒の意氣よ嗚呼絶えず
2段1小節2音は、原譜は8分音符であるが、間違いとみて16分音符に訂正した。

譜は、大正14年寮歌集、昭和10年寮歌集、さらに平成16年寮歌集で大幅に変更された。

1、調・拍子
1)調
  昭和10年寮歌集で、ハ長調から同主調のハ短調に移調した。
2)拍子
  4分の4拍子であったが、大正14年寮歌集で、1段(歌詞1行「平沙の北に吹雪して」)が4分の3拍子に、2段以降(歌詞2行「胡笳の音亂る沙河の陣」以降)が4分の2拍子に変更された。さらに昭和10年寮歌集で、全小節4分の3拍子に変更統一された。

2、音
 大幅に変更されている。譜は原則ハ長調読み。大正14年寮歌集は大正14年、昭和10年寮歌集は昭和10年と略す。下線はタイのこと。

1)「へいさーの」(1段1小節)  ドーミソーーミ(大正14年)、さらに ソーソソーーミ(ハ短調でミーミミーード 昭和10年)
2)「きたにー」(1段2小節)  ミーラドーー(大正14年)、さらに ソーソドーー(ハ短調でミーミラーー 昭和10年)
3)「ふぶきしてー」(1段3小節)  レードラード ソーー(大正14年)、さらに レードラーラ ソーー(ハ短調でシーラファーファ ミーー 昭和10年) 大正14年寮歌集で3拍子になったのに伴い、「てー」は新小節として4分休符を置いた。
4)「はるさむく」(2段2小節)  レードレーミ レー(大正14年) 大正14年寮歌集で、2拍子になったのに伴い「く」は次の新小節に移行。
5)「みだるー」(2段3小節)  ソーソドード(ハ短調でミーミラーラ 昭和10年)
6)「みーなみ」(3段2小節)  ミーミレード(ハ短調でドードシーラ 昭和10年)
7)「さうろー」(3段3小節)  レードラーラ(ハ短調でシーラファーファ 昭和10年)
8)「もーどーてきを」(4段1小節)  ラーソミーレドーレミーミ(大正14年)、さらに ソーソミーレドードレーミ(ハ短調でミーミドーシラーラシーレ 昭和10年) 次の句「むかうとき」を弱起と改めたのに伴い、「む」がこの小節に繰り上げられ「ミ」。
9)「むかうときー」(4段2小節)の「かうときー」  ソードーレ ミーー(大正14年)、さらに ソードード レーー(ハ短調でミーラーラ シーー 昭和10年) 拍子が4拍子から2拍子になったので、「きー」は新小節。「む」は前小節に繰り上げられたことは前述。
11)「こーとしじゅーごの」(4段3小節)  ミーミミーレドーミソド(大正14年)、さらに ミーミミーレドードド(高)ーレ(高)(ハ短調でドードドーシラーララーシ 昭和10年)

 さらに、平成16年寮歌集でも、次の変更があった。
1)「こかねの」(2段3小節)の「ね」 「ド」(ハ短調)。
2)「みーなみ」、「こーとし」の2箇所の昭和10年に付けられたタイを外した。

 関東大震災後復刊された大正14年寮歌集の「平沙の北」の譜を、長調、短調でMIDI演奏します。他にMIDI、MP3等が作動していないことを確かめの上、スタートボタンを押して下さい。出だしのメロディーは昭和10年寮歌集の修正を待たねばならないが、現在の歌い方に近づいているのが理解できるのではないでしょうか。一高寮歌は、大正の初め、遅くも中頃には短調化していたと思われるので、「平沙の北」も大正14年には短調で歌われていたと思われる。
                  大正14年ハ長調平沙の北                    大正14年ハ短調平沙の北
              

*大阪商科大学予科逍遥歌「桜花爛漫」は、作詞・作曲不詳となっているが、この寮歌の譜を借用したものであろう。


語句の説明・解釈

語句 箇所 説明・解釈
平沙の北に吹雪して 猛士十万春寒く 胡笳の音亂る沙河の陣 南印度の蒼浪に 艨艟敵を向かふとき 今歳十五の春來る 1番歌詞 遙か彼方、春尚寒く吹雪舞う極寒の満洲の地に、我が陸軍の将兵10万人は、胡人の吹くというあし笛の悲しい音を耳にしながら沙河の陣に塹壕を掘って、ロシア軍と対峙したまま、凍えながら一冬を過ごした。一方、我が連合艦隊は、バルチック艦隊が南インド洋を廻って日本海に出て来るのを待って、海戦を仕掛けようとしている。我が寄宿寮は、そういう戦時に、15回目の開寮記念日を迎えた。

「平沙の北」
 「平沙」は平らで広い砂はら。沙漠。 平沙万里絶人煙。 「平沙の北」は、沙河の陣の辺りのことか。ここでは、「遙か遠く満洲の地に」の意。
 「ここはお國を何百里 離れて遠き満州の」(「戦友」1番 奉天会戦を歌う)

「猛士十万」
 沙河会戦の日本軍の参加兵力は12万8千人。戦死者は4,099人、戦傷者は1万6398人であった。一方、ロシア軍の参加兵力は22万1600人、戦死者は5,084人、戦傷者は3万394人、行方不明者5,868人と言われている。「十万」は昭和10年寮歌集で「十萬」に変更。

「胡笳」
 あしぶえ。西北方の異民族があしの葉をまいて作った笛。悲しい音色を出す。
  岑參『胡笳歌送顔眞卿使赴河隴」上P167
 「君聞かずや胡笳の声最も悲しきを 紫髯綠眼の胡人吹く 之を吹いて一曲猶お未だ了らざるに 愁殺す楼蘭征伐の児 涼秋八月蕭關の道 北風吹き斷つ天山の草 崑崙山南月斜めならんと欲す 胡人月に向って胡笳を吹く 胡笳の怨み將に君を送らんとす 泰山遙かに望む隴山の雪 辺城夜夜愁夢多し 月に向う胡笳誰か聞くを喜ばん」 (井下一高先輩「一高寮歌メモ」)

「沙河の陣」
 遼陽会戦で露軍は、いったん奉天へ後退したが、日本軍に追撃余力がないとみると、沙河方面まで南下し、左岸一帯で激しい戦闘が繰広げられた(明治37年10月10日から20日 沙河会戦)。「花の梅沢旅団(近衛後備混成旅団)」が精鋭部隊に劣らない活躍をしたのは、この戦いにおいてである。
 戦闘は概ね日本軍に有利に展開したが、旅順を攻撃中の日本軍には弾薬が不足し、露軍を追撃することは出来なかった。両軍は沙河を挟んで、塹壕を築き厳寒の冬を過すことになる。世に言う沙河の対陣である(10月から翌年2月まで)。沙河は中国遼寧省奉天(現瀋陽)の南約15キロメートルにある地名。

「南印度の蒼浪」
 この頃、バルチック艦隊はマダガスカル・ノシベ湾にいた。「蒼浪」は青々とした浪。日本海会戦は、対馬東方海上で、明治38年5月27日から28日のことである。
 
  バルチック艦隊の動き
明治37年10月15日 リバウ軍港出港
12月29日 マダガスカル
38年1月9日
から3月16日
マダガスカル・ノシベ湾
4月8日 シンガポール沖通過

艨艟(もうどう)
 いくさぶね。軍艦。ここでは東郷平八郎率いる連合艦隊(旗艦三笠)。
嗚呼歳ふりぬ人去りぬ 維新の氣魄跡もなく 華奢の(ふう)のみ(すさ)ぶとき 尚武の色に染められて 層樓苔に今靑む 六寮(りくりゃう)のかげ尊しや 2番歌詞 あゝ、維新以来、随分と年月が流れ、世代が変わり当時を知る人もいなくなった。維新当時の氣魂は既に無く、人々は贅沢な生活に安穏と暮らしている。そういう時代においても、ここ向ヶ丘に高く聳える六尞に住む寮生は、代々、質実剛健、武を尊ぶ伝統を守ってきた。六尞には、これら伝統がこびりついて青苔を生じ、風格が出てきた。このような六尞の姿は尊いものである。

「嗚呼歳ふりぬ人去りぬ」
 明治も40年近く経ち、世代が変わるととの意。この寮歌は明治38年の寮歌。

「層樓苔に今靑む 六寮のかげ尊しや」
 「六寮」は、東・西・南・北・中・朶の一高寄宿寮。このうち、東・西寮は3階建で三層樓と呼ばれた。朶寮は明治37年9月8日に完成した新しい寮。狩野校長個人の寄付で、この寮歌の紀念祭で「朶寮」と命名された。俗塵を避け、自治寮に籠り、自治共同・質実剛健・尚武の精神の下に修養を積む一高生は天下に誇るべき存在である。
勝ちて驕りて敗れては 聲を潜むる世の慣ひ 姦邪の(ふう)(よそ)にして 獨り邊土に十五歳 稜々高く天を衝く 男兒の意氣よ嗚呼絶えず 3番歌詞 試合に勝っては思い上がって昂ぶり、負ければ意気消沈して言葉も少なくなるのが、世の普通の姿である。しかし、一高健児は違う。籠城に反対する個人主義的風潮を抑え、一高生は、俗世間から隔絶、独り向ヶ丘に籠城して15年経つ。一高健児の意気は、正しいことはどこまでも、その勢いは天を突くほどであり、野球部が早稲田・慶応に一度、敗れたりと雖も、その意気は決して絶えるものではない。

「聲を潜むる世の慣ひ」
 明治37年6月1日、対早稲田大学に6-9Aで、翌日、対慶應義塾に10-11Aで、14年間、無敵を誇った一高野球部が敗れたことを踏まえる。

「姦邪の風」
 「姦邪」は、よこしまなこと。「姦邪の風」は、籠城主義に反対し、個人主義を主張する風潮のこと。あるいは、俗世間の汚れた邪な風俗と考えてもよいが、ここは寮生のことを論じているとみて、寮内の個人主義的風潮と解した。
 「校友會誌上個人主義を唱ふる者少なからず。11月中旬の第一學期全寮茶話會は個人主義排斥演説會の觀あり」(「向陵誌」明治37年)

「獨り邊土に十五歳」
 塵埃を避け、向陵の寄宿寮に籠城して15年が経った。「邊土」は、辺地。都から遠い地の意の他、都の近辺の地という意味もある。桃源の別天地向陵を辺土といった。

「稜々高く天を衝く」
 摩天楼の意。3階建は、当時としては高層の建築物であったろうが、それよりも一高生の志や意気が天を衝くほど高いということ。「稜々」は、かどばって正しいさま。かどだって勢いのあるさま。
 
墨水の花散りてより 胸に漲る男兒の血 氷刀腰に夜啼いて 蒼龍あはれ雲待ちき ことし十五の春の空 多年の希望遂に成る 4番歌詞  明治32年の高等商業とのボートレースを最後に、端艇部は対外試合を行っていない。胸には男児の漲る血潮が溢れているというのに、また氷のように研ぎ澄まされた刀を腰に差しているというに、試す時がない。天に昇る機会を狙って、雲雨を待っている龍の子のように、一日千秋の思いで、その日のあることを待っている。
 今年、寄宿寮は15回目の紀念祭を迎えた。日露戦争では、長い間、国民が熱望していた旅順要塞を終に陥落させることが出来た。喜ばしいことだ。(あるいは、明治36年12月に高商からボート対校試合の挑戦状が来た。拒否したものの今年こそ試合を実現したいとの気持ちが先走って、また寮委員等に対するアピールの意味で「多年の希望遂に成る」という歌詞になったか?)

「墨水の花」
 隅(墨)田川の櫻。東岸の堤を墨堤といい、古来櫻の名所。今、隅田公園がある。「花散りて」とは、明治20年から32年まで6回行われた東都の名物一高・高商ボートレースがなくなったこと。明治36年12月高等商業より對校レースの挑戦状が来たが、「然れども32年以來他校と特に行ふ所の試合を禁止するは本校の守る所なれば遺憾ながら之を拒絶す、高商方に於ては新聞紙上に讒訴の言を弄して、我は怯なりとなす。部員皆脾肉の嘆に嘆へず。」(「向陵誌」明治36年)と拒絶している。

「氷刀」
 氷のように研ぎ澄ました刀。

「蒼龍あはれ雲待ちき」
 「蒼龍」は方位の四神(蒼龍、白虎、朱雀、玄武)の一つ。、ここでは、「蛟龍」「伏龍」の意。 蛟龍得雲雨(龍が雲雨を得て天に登ること。英雄が機会をとらえて大業を成し遂げること。)

「多年の希望遂に成る」
 「他年の希望」は、かっての対高商ボートレースのようなボートの対校試合の復活である。しかし、前述したように、明治36年12月の高商からの挑戦状を拒絶しており、他校も含め対校試合の予定も、実現性もない。若干の疑問を残しながら、日露戦争における旅順要塞の陥落をいうと訳した。他に、初版寮歌集の発行、朶寮の完成も考えられるが、端艇部との関係が希薄である。端艇部が巨費1200円を投じて、アウト・クラッチの新艇「吾妻」、「綾瀬」、「梅若」を新造したのは、明治36年11月のことで、このことをいうのかも知れないが、「多年の希望が遂に成る」には弱く、かつ古い。同じ年明治36年12月に高商から対校ボートレースの挑戦状が来た。前述のように、これを拒否したものの、端艇部員としては脾肉の嘆を託っていた時でもあり、内心は試合がしたくてたまらなかった。今年こそ、対校試合を実現したいとの希望的観測の下に筆が走って、あるいは寮委員等に対するアピールの意味で、「多年の希望遂に成る」という歌詞になったのではないか、とも推測される。
 「明治37年6月1日、初版寮歌集が発行されたこと。他に、同年9月4日、朶寮が新設されたことをいうか。ただし、『墨水の花・・・・』の句から朶寮完成を指す蓋然性は少ない。」(井下一高先輩「一高寮歌メモ」)
 「明治38年1月11日旅順要塞の惂落を賀して祝捷會を開き分裂式を行う。・・・晩餐會に次で嚶鳴堂に謡曲幻燈會の催しあり。旅順惂落歌、征露歌を歌ひて散ず。3月1日紀念祭に併せて新寮の落成式を行ひ、旅順攻圍軍の司令官乃木將軍の名に因みて朶寮と名づく。」(「向陵誌」明治38年)
黯雲低く風凄く 殺氣慘澹日はくらし 紅霓亂れ銀蛇とぶ 千古の偉観今こゝに 忽ち揚る歓呼の音 祝へや祝へこの春を    5番歌詞 日露戦争中で、暗雲が低く立ち込め風が吹き荒れ、殺気が痛ましく漂って日は暗い。しかし、今日は待ちに待った紀念祭の日だ。赤い虹が崩れ、銀の蛇が空を飛ぶような、色とりどりの幟や旗が翻り、飾り付けが美しい、めったに見ることが出来ない壮観な眺めが今ここに出現した。たちまち歓呼の声が上り、紀念祭が始まった。友よ、さあ、紀念祭を祝おう。

「黯雲低く風凄く 殺氣慘澹日はくらし」
 日露戦争で暗い世間の雰囲気を描写。「慘澹」は、いたましく悲しいさま。
 「悲風慘悴日は(くら)く」(大正7年寮歌「悲風慘悴」1番)

「紅霓亂れ銀蛇とぶ」
 色とりどりの飾りつけ、風に舞う旗指物の描写。「紅霓」は虹。古くは龍の一種と考え、雄を虹、雌を霓・蜺といった。「銀蛇」は、銀色の蛇。また白い光・波などの長くうねうねとうねり輝く状態のたとえ。
 前年は日露戦争会戦のため、飾付けを廃止した。たが、この年の紀念祭は、旅順陥落で戦勝ムードに湧く中、飾付けを復活した。また新寮朶寮の落成式を同時に行った。
 「けふの祭のよそほひに 綺羅をつくせし八寮の」(大正9年紀念祭歌「のどかに春の」1番)

「千古の偉観今こゝに」
 質素な前年の紀念祭とは様変わりに派手と成った今年の紀念祭のこと。
                        
先輩名 説明・解釈 出典
東大森下達朗先輩 作詞者青木得三が晩翠「万里長城の歌」を参考にしたと思われる箇所
          「守るは猛子二十万/漠のこなたに胡笳 絶えて」
          「嗚呼跡ふりぬ、人去りぬ、歳は流れぬ」
          「歴史の色に染められし」
          「残塁苔に今青む/長城の影尊しや」
          「独り辺土に影絶えず/齢重ねて二千歳」
          「辺土に立てる長城の/連雲の影ああ絶えず」
「一高寮歌解説書の落穂拾い」から


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