旧制第一高等学校寮歌解説

颶風を孕み

明治43年第20回紀念祭寮歌 中寮

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1、颶風を孕み雨を呼ぶ    妖雲暗く胡砂罩めて
  白禍の風の吹きすさぶ   黄海の波荒い哉
  太平洋は名のみにて    怒濤ぞ寄せる大八州

2、吼ゆる怒濤を(よそ)にして    民泰平を歌ひては
  桃源郷裡夢深く        華陽の眠りいつ醒めむ
  葷酒汚巷に香を高み     紅霓の意氣今何處

3、嗚呼恨なり神州の       正氣の流れ豺狼が
  あだし爪牙に濁されて     無明の闇の只中に
  悲風一陣ハルピン府     祖國の帝威誰が責ぞ

4、起て日東の健男子      義憤に血湧く(もろ)腕に
  寳刀の鞘打ちはらひ     捲土叱咤の雄叫びに
  華奢軟弱の潮わけて     かざせ五國の旗高く


*1番歌詞「寄せる」は昭和10年寮歌集で「寄する」に変更。「大八州」は大正14年寮歌集で「大八洲」に変更。

2段3小節の1・3音はともに8分音符であったが、誤記であり付点8分音符に訂正した。2段4小節のミ(付点4分音符)は、誤記で1オクターブ低く間違っていると思うがが、そのままとした(大正7年寮歌集も低いミ.)。

大正14年寮歌集で、2段4小節のミの音は1オクターブ高く訂正された。その他は、調・拍子を含め変更はない。


語句の説明・解釈

語句 箇所 説明・解釈
颶風を孕み雨を呼ぶ 妖雲暗く胡砂罩めて  白禍の風の吹きすさぶ 黄海の波荒い哉 太平洋は名のみにて 怒濤ぞ寄せる大八州 1番歌詞 中国には、強烈な風と雨を孕んだ妖しい雲が暗く立ち込めている。北方の蒙古地方の沙漠の砂を含んだ風が吹き荒れ、黄海の波が荒れている。すなわち、光緒帝、西太后と相次いで崩御した清朝は、3歳の宣統帝が即位したが、もはや王朝の維持は困難で、各地に暴動蜂起が相次いでいる。日本はロシアと満洲の権益をめぐり、話合い中である。衰退する中国の弱みに付け込んだ欧米列強の中国に対する半植民地化行動はますます激しくなった。穏やかな海の名前をもつ太平洋も名前だけで、怒濤のように大波が日本に寄せて来た。すなわち、アメリカが南満洲における日本の特殊権益独占に異議を唱え、満州における鉄道中立化を強く求めてきた。

「颶風を孕み雨を呼ぶ」
 「颶風」は、強烈な風。熱帯低気圧の旧称。
 土井晩翠 『雪の歌』「あらしを孕み風を帯び/光を掩ふてかけり行く」(森下東大先輩「一高寮歌解説書の落穂拾い」)
 (明治43年1月23日、逗子開成中学生徒12人・小学生1人が七里ヶ浜で遭難し話題となったが、この寮歌の「颶風」とは関係ない)。

「妖雲暗く胡砂罩めて」
 満州の権益をめぐる日露の交渉をいう。日戦争後も日露間で満州の権益について交渉が行われていた。清朝の衰微と各地の暴動蜂起も含めていうか。「胡沙(砂)」は、北方の蛮族の沙漠。蒙古地方の沙漠。
 清朝は、明治41年11月、光緒帝、西大妃と相次いで没し、3歳の宣統帝(溥儀)が即位したが、もはや王朝の維持は不可能であった。
 明治40年7月 第1次日露協約
    43年7月 第2次日露協約
 満州の権益について、日露は明治40年7月の第1次日露の秘密協約で、満州を南北に分けて利益範囲を確定した。明治43年7月の第2次日露秘密協約では、南北満洲の権益拡大と両国利益擁護の共同行動をとることを約した。
 
「白禍の風の吹きすさぶ 黄海の波荒い哉」
 欧米列強諸国の中国に対する半植民地化行動のすさまじさをいう。
 「白禍」は、黄禍の対。白色人種の及ぼす禍。
 「黄海」は中国の揚子江以北、遼東・山東両半島と朝鮮半島により挟まれた海洋。黄河の水が流入し、黄色く濁っていることからその名が付けられた。

「太平洋は名のみにて 怒濤ぞ寄せる大八州」
 日露戦争後の太平洋地域の権益等をめぐる日米関係の悪化、緊張をいう。ここでは下に掲げる3つの問題のうち、直近の「満洲における鉄道中立化案の米国提議」をいうと解する。
 1.南満洲の特殊権益
   明治42年12月18日 米国、満州における鉄道中立化案を提議。
      43年 1月18日 日露両国、米国の満州鉄道中立化案に不同意を表明。 
 2.太平洋地域の権益
   明治41年11月30日の高平ールート協定で、日本がハワイ・フィリピンへの領土的
   野心のないことを表明したことになって、日米間の緊張は回避された。
 3.移民問題
   明治40年3月14日 大統領命令により、日本人労働者のアメリカ入国禁止。
      41年2月18日 移民に関する日米紳士協定により日本政府、移民を自主規制。
 
 「怒濤ぞ寄せる大八州」の「寄せる」は昭和10年寮歌集で「寄する」に変更、「大八州」は大正14年寮歌集に「大八洲」に変更された。
吼ゆる怒濤を(よそ)にして 民泰平を歌ひては 桃源郷裡夢深く 華陽の眠りいつ醒めむ 葷酒汚巷に香を高み 紅霓の意氣今何處
2番歌詞 日本外交は、日韓併合問題、満洲の権益をめぐる日露協商、太平洋の権益をめぐる日米協議などと大変な時期にある。国民は日露戦争が終わって平和が来たと、まるで桃源郷の夢を見るように惰眠を貪って、危機に対する備えを忘れている。この浮かれた夢は何時醒めるのであろうか。国民は快楽に耽って堕落してしまった。龍が天に昇るような意気はどこへ消えてしまったのだろうか。

「吼ゆる怒濤を(よそ)にして」
 対外関係は難しい局面にあるのに。併合へと進む日韓関係。満洲の特殊権益に関する日露協商、これに異を唱えるアメリカへの対応。

「桃源郷」
 陶淵明の「桃源原記」に書かれた理想郷から、俗世間を離れた別天地。

「華陽の眠り」
 今の言葉でいえば、日露戦争勝利後の「平和ボケ」。
 「華陽の夢の花泛ぶ 世は濁江の波枕」(明治40年「華陽の夢の」1番)
 「華陽の眠り」  六朝梁陶弘景は晩年、江蘇省句容の句曲山に隠棲し、華陽隠居、華陽真人と号した。(井下一高先輩「一高寮歌メモ」)
 「書経『武成』篇に、周の武王が殷の紂王を伐ち、その武功が成就したこと、そして武器はしまって文徳を布き、馬を崋山の陽(南)に帰し、牛を桃林の野に放って、天下にもう用いないことを示したと記されている。このことから、『天下泰平』を貪ることを『華陽の眠りと表現したと考えられる。」(森下達朗東大先輩「一高寮歌解説書の落穂拾い」)

「葷酒汚巷に香を高み」
 快楽に溺れる俗世間。「葷酒」は、ネギ・ニラなどの生臭い野菜(または肉)と酒。

「紅霓の意氣」
 龍のように天にも昇る意氣。紅霓は虹のこと。古くは龍の一種と考え、雄を虹、雌を霓・蜺といった。
嗚呼恨なり神州の 正氣の流れ豺狼が あだし爪牙に濁されて 無明の闇の只中に 悲風一陣ハルピン府 祖國の帝威誰が責ぞ 3番歌詞 ああ、なんと痛ましく残念なことであるか。日本に刃向う残忍な豺狼のような独立運動家の刃にかかって、前韓国統監伊藤博文公が暗殺された。神国日本の韓国併合という正しい気風が汚され、迷妄の闇の只中に入ってしまった。ハルピンに、勢いよくさあっと吹いた悲しい風は、すなわち伊藤公の暗殺は、帝国の威厳を傷つけた。その責任は誰が負うものであろうか。

「神州の正氣の流れ」
 明治42年7月6日 閣議、韓国併合の方針決定。

「豺狼があだし爪牙に濁されて」
 日本に刃向う独立運動家の残酷な刃にかかって。「豺狼」は山犬と狼のこと、残酷な人の例に使う。ここでは抗日朝鮮独立運動家。

「無明の闇」
 「無明」を闇に喩えていう語。ここに「無明」は、真理に暗いこと。一切の迷妄・煩悩の根源。

「悲風一陣ハルピン府」
 明治42年10月26日、満州視察と日露関係調整のため渡満した伊藤博文がハルピン駅頭にて朝鮮独立運動家安重根により暗殺されたこと。明治42年11月4日、伊藤博文の国葬が行なわれた時には、一高生は貴族院脇に参列し、公を見送った。
 「一陣の風」は、激しい勢いでさあっと吹いてくる風をいう。
 「北満城下何の夢」(明治34年「青鸞精を」4番)
起て日東の健男子 義憤に血湧く兩(もろ)腕に 寳刀の鞘打ちはらひ  捲土叱咤の雄叫びに 華奢軟弱の潮わけて かざせ五國の旗高く 4番歌詞 日出る国の一高健児よ、起て。こんなことがあって、いいものかと正義の血が湧く両腕に伝家の宝刀の鞘を打ち払おう。すなわち尚武の心を奮い立たそう。土を巻き上げるような激しい調子で勇ましく叫びながら、贅沢や快楽に耽る風潮をものともせず、一高生は護国の旗を高くかざして、国を守ろう。

「寶刀の鞘打ちはらひ」
 伝家の宝刀を抜いて。勤倹尚武の心を発揮して。

「捲土叱咤」
 土を巻き上げるように激しい調子で大声をあげて叱りつけること。

「華奢軟弱の潮わけて」
 「華奢軟弱の潮」は、質実剛健・勤儉尚武の反対。平和ボケして贅沢や快楽に耽る風潮。
 明治43年5月27日 校友会雑誌に「軟弱分子を排除せよと」の意見多く、文芸部3名と尞委員5名とが意見交換したが、結論はでなかった。

「護國の旗」
 一高の校旗。護国は一高の建学精神。
「歌聲どよめ」
大きく歌声を響かせよ。
星霜移る春二十 青山招く丘の上 花は万朶の春霞 龍蟠り鵬憩ふ 茲武香陵あけの空 歡聲どよめ祝歌(ほぎうた) 5番歌詞 時は移り、今日、一高寄宿寮は、20回目の紀念祭を迎えた。向ヶ丘の上には樹木が青々と茂って人を誘い、桜の花は満開で、白く霞のかかったように霞んでいる。ここ向ヶ丘には、有為の一高生が、蛟龍や趨鵬がひそむように、飛躍する日に備え修業に励んでいる。夜通し寮歌を歌って、朝明けの空に、大きな声を響かそう。

「春二十」
 第20回紀念祭。

「花は万朶の春霞」
 「万朶」は、たくさんの枝。昭和50年寮歌集で「萬朶」に変更された。

「龍蟠り鵬憩ふ」
 龍蟠鳳逸之土(李白、与韓荊州書) 龍がひそみわだかまり、鳳凰が姿を見せないように、素質がありながら、まだその才能を発揮できずにいる人。一高生。
 「み空を翔くる大鵬も 羽根未だしき時のまを 潜むか暫し此の森に」(明治32年「一度搏てば」1番)

「武香陵」
 向ヶ丘の美称。

「歌聲どよめ」
 大きく歌声を響かせよ。
                        


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