旧制第一高等学校寮歌解説

をぐろき雲は

明治42年第19回紀念祭寄贈歌 福岡帝國大學

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1、をぐろき雲は空をとび   逆巻く浪は天をつく
  えみしの艦を玄海の    底の藻屑と碎きけむ
  其いさをしは弘安の    昔とすぎてなつかしや

2、多々良濱邊に春來れば  千代の松原をちこちに
  もしほの煙長閑さよ     日に淺りゆく水底の
  巖埋もれて櫻貝       より來る磯も静かなり

3、志賀の島山秋たけて    海の中道絶え絶えに
  枯るゝ歴史の悲しさよ    いにし昔を尋ねむと
  そヾろ歩きに訪ひくれば  水城(みづき)の跡は崩れたり


4、あゝうつりゆく世の様を   思へば遠し三百里
  彌生が岡の花蔭に     かほる歴史を荷ひつゝ
  たてる六寮千余人      健兒の意氣(ゐき)や今如何に
*「千余人」は、昭和50年寮歌集で「千餘人」に訂正。
3段1小節1音の音符は誤植で記載なし。大正7年寮歌集からド(付点4分音符)とした。
譜は、大正14年寮歌集で、2段1小節1音ソがレと高く訂正された。他は、すべて原譜と同じで変更はない。


語句の説明・解釈

 福岡帝國大學とあるは、縷々既述のとおり、明治42年当時は、正式には京都帝國大學福岡醫科大学である。一高現寮歌集は、明治42年以降の「福岡醫科大學」を「九大」に改めた。これは関東大震災後に復刊された大正13年11月1日付寮歌集で福岡醫科大學からの寄贈歌は全て九大寄贈歌(本寮歌は「明治42年九大」)と改めたものを、同醫科大學が九大に統合された年次を間違い、明治42年以降について訂正したものである。福岡醫科大學が九州帝國大學に併合されたのは、明治43年ではなく、九州帝國大學が創設された翌年の明治44年である。明治45年の「筑紫の富士」以降の寄贈歌は「九州帝國大學」寄贈歌、明治44年の「雲や紫」以前の寄贈歌は「福岡醫科大學」寄贈歌とするのが正しい表示である。

語句 箇所 説明・解釈
をぐろき雲は空をとび 逆巻く浪は天をつく えみしの艦を玄海の 底の藻屑と碎きけむ 其いさをしは弘安の 昔とすぎてなつかしや 1番歌詞 黒い雲が空を飛び交い、逆巻く浪は天をつくほど高い。折からの大暴風雨もあって、日本に襲来した蒙古軍は、海の藻屑と叩き潰された。元寇という未曽有の国難に国を護るために戦い、蒙古軍を見事に撃退した御家人たちの功績は、遠く弘安の昔のことだが、今でも懐かしい。
 すなわち、自治が危機に瀕した時には、元寇の時の御家人のように、寮生は起ちあがって戦わなければならない。「時の潮の風すごく」(5番歌詞)吹き荒ぶ今が、起ちあがる時であるという。

「をぐろき雲は空をとび 逆巻く浪は天をつく」
 蒙古軍の軍船を沈めた大暴風雨。所謂神風。「をぐろき」は、「をぐらき」か。暗いの意。

「えみしの艦」
 1274年(文永の役)、1281年(弘安の役)二度にわたる蒙古襲来事件(元寇)。その時の蒙古軍の軍船。

「玄海の底の藻屑と碎きけむ」
 蒙古軍(高麗軍、元が1279年滅ぼした南宋軍との連合軍)は、折からの大暴風雨で壊滅的被害を受けて日本侵攻は失敗に終わった。
 1.文永の役(1274年、文永11年)
 32000人の元・高麗軍(東路軍)。博多や筥崎宮は戦火で焼失。大優勢の元軍は、自主的に撤退したが、帰途、暴風雨に遭遇し、大被害を蒙った。
 2.弘安の役(1281年、弘安4年)
 元・高麗軍は42000人。対馬・壹岐を侵し博多を目指したが、防塁と日本軍に阻まれ、上陸できなかった。一方、1279年に元に滅ぼされた南宋軍を主体とした江南軍10万人は平戸付近で東路軍に合流、平戸から鷹島に移動していた時に、大暴風雨に襲われ、元軍は壊滅的被害を蒙り、敗走した。

「昔とすぎてなつかしや」
 「なつかし」は、昔の事が思い出されて懐かしい。
多々良濱邊に春來れば 千代の松原をちこちに もしほの煙長閑さよ 日に淺りゆく水底の 巖埋もれて櫻貝 より來る磯も静かなり 2番歌詞 元寇の戦場であった多々良浜に春が来れば、白砂青松の続く千代の松原のあちらこちらに藻塩を焼く煙が立ち上り、長閑な風景となる。春から夏にかけて、昼間は潮の干満が大きい。潮が引いて水底が浅くなったと思ったら、潮が満ちて巖を隠す。桜貝が打ち寄せられる磯は、潮干狩りの静かな磯である。
 すなわち、昔、蒙古襲来があって、国中あげて戦ったことなどなかったかのように平和である。

「多々良濱邊 千代の松原」
 1.多々良濱(福岡市箱崎付近)
 元寇の戦場。文永の役では、この地の筥崎宮は戦火で焼失した。また、1336年(建武3年)ここで、京都から敗走した足利尊氏の軍と九州南朝の菊池武敏の軍がこの多々良濱で衝突、手勢の少ない尊氏軍が勝利した。この合戦の後、尊氏は上洛し室町幕府を開いた。
 2.千代の松原
 この当時は、福岡県筑紫群千代(現福岡市、その一部は同市東公園)。鉄道唱歌に、天の橋立、美保の浦とともに三松原の一つと歌われた。鉄道唱歌の文句によれば、当時は多々良濱から博多まで綺麗な松原が続いていた。
 「千代の松原磯づたひ 梢をわたる譜のしらべ」(明治45年「筑紫の富士」2番)
 「千代の松原砂青く 寶滿の山雪白し」(大正6年「つめたき冬の」4番)

「おちこちに」
 遠いところと近いところに。あちらこちらに。

「もしほの煙」
 藻塩を焼く煙。海草に塩水を注ぎかけて塩分を多く含ませ、これを焼いて水に溶かし、その上澄みを釜で煮詰めて塩をつくる。

「日に淺りゆく水底の 巖埋もれて」
 特に春から夏にかけては満潮と干潮の差が夜間に比べて昼間の方が大きく、日中、潮が引いて水底が浅くなったと思ったら、間もなく潮が満ちて、巖も埋もれて。
志賀の島山秋たけて 海の中道絶え絶えに  枯るゝ歴史の悲しさよ いにし昔を尋ねむと そヾろ歩きに訪ひくれば  水城(みづき)の跡は崩れたり 3番歌詞 志賀の島は秋たけなわで、潮が満ちて、海の中道は、一部に海水に浸かって道切れとなっている。志賀の島は、古くは、神功皇后の伝説が多く残り、また「漢委奴国王」と刻まれた金印の発見されたところである。鎌倉時代には元寇の戦場となり、捕虜の蒙古兵をこの地で処刑した。古いこの地の歴史が、枯葉が落ちるように、また海の中道が途切れるように忘れ去られていくのは悲しいことである。歴史の跡を尋ねようと、ぶらぶらと歩いたら、白村江の戦(663年)に敗れた日本が、唐・新羅の侵攻に備え、中大兄皇子が今の大野城市から大宰府にかけて築かせた水城の跡は崩れたままであった。
 すなわち、海の中道が途切れ、水城が崩れたままになっているように、先人の血と汗で築いてきた一高の歴史伝統が忘れ去られ、自治の防備に綻びが生じているのではないかと心配して、4番以下に続く。

「志賀の島山 海の中道」
 志賀の島は、福岡市東区、博多湾の北部に位置し、海の中道(陸繋砂州)により今は陸続きになっている。しかし、満潮時には海の中道の一部が道切(みちぎれ、海水に浸かること)となるため、今は橋が架けられている。1784年(天明4年)、この地で、「漢委奴国王」と刻まれた金印が発見されたことで有名である。。金印公園近くには、蒙古塚が残る。元寇の戦いの戦場の一つでであり、この地に蒙古の捕虜を集め、処刑した。また、三韓征伐の神功皇后の伝説が多く残る

「水城の跡は崩れたり」
 水城は、664年(天智3年)に唐・新羅の侵攻に備え築かれた土塁の防護施設。主体は全長1.4km、幅8m、高さ約10mの人口盛り土で、前面に濠を掘る。周辺の土塁や大野城、基肄城とともに、大宰府防衛のための羅城(外郭)をなす。
あゝうつりゆく世の様を  思へば遠し三百里 彌生が岡の花蔭に かほる歴史を荷ひつゝ たてる六寮千余人 健兒の意氣(ゐき)や今如何に 4番歌詞 時は移り世の中の様子は昔と変っていく。思えば自分は本郷から三百里も離れた筑紫の果てにあるので、向ヶ丘の様子は分からないが、六つの寄宿寮で、輝かしい歴史を担って立つ千余人の健児の自治を固く守るという意気は、昔と変わりはないであろうか。

「思へば遠し三百里」
 東京と福岡の距離。JRの鉄路計算では、1174.9kmで確かに約300里である。

「彌生が岡の花蔭に」
 「彌生が岡」は、向ヶ丘に同じ。本郷一高の住所は、本郷区向ヶ岡彌生町であった。
 「花蔭」は、旅寝の場所。寄宿寮。
 平忠度 「行き暮れて木の下かげを宿とせば 花や今宵のあるじならまし」


「かほる」
 昭和50年寮歌集で「かをる」に変更された。

「六寮千余人」
 一高の六棟(東・西・南・北・中・朶)の寄宿寮の千余人。「千余人」は昭和50年寮歌集で「千餘人」に変更された。
淵瀬は變り幾とせの 苔はむすとも香陵の 堅き根城よ亡びざれ 時の潮の風すごく 世は荒ぶとも若人の 自治の旗色汚れざれ 5番歌詞 飛鳥川の淵瀬が常でないように幾年月が経過すれば、向陵も古びて苔が生えることがあろう。しかし、自治を守ると固く誓った自治寮を落城させてはならない。籠城主義を否定する個人主義の主張が如何に寮内に大波乱を起こそうとも、破邪顯正の剣でこれを打ち負かし、一高の自治共同の旗印を汚してはならない。

「淵瀬は變り幾とせの」
 古今933 「世の中は何か常なるあすか川 昨日の淵ぞ今日は瀬となる」

「香陵」
 武香陵。一高の所在地向ヶ丘の美称。

「堅き根城」
 自治を守ると固く誓った自治寮。「根城」は、根拠とする城。出城に対する。

「時の潮の風すごく」
 校風問題をいうか、学生生徒の風紀取締強化をいうか。「堅き根城よ亡びざれ」、「自治の旗色汚れざれ」の語句から、また全体の脈絡から校風問題と解す。
 1.校風問題説
 明治41年2月、和辻哲郎、『校友会雑誌』174号に 『精神を失いたる校風』を発表。自己心霊(精神)の尊厳を説き、籠城主義を否定し、その因襲的悪習を衝く。反響大きく、特に運動部員が猛反発した。
 2.風紀取締強化説
 明治41年6月22日、荒畑寒村らによる所謂「赤旗事件」が起きた。大杉栄・荒畑寒村らの直接行動派が”無政府共産”などの赤旗を振り回し、警官隊と衝突、堺利彦・山川均らも検挙された。この事件は、時の西園寺内閣が倒れる契機となった。この事件を受け、内相原敬は、天皇に社会主義者取締りにつき上伸し、文部省は9月29日、学生生徒の風紀取締強化を通牒した。

「自治の旗色汚れざれ」
 「行途を拒むものあらば 斬りて捨つるに何かある 破邪の劍を抜き持ちて」(明治35年「嗚呼玉杯に」5番)
                        


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