旧制第一高等学校寮歌解説

潮高鳴り

明治42年第19回紀念祭寮歌 南寮

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、潮高鳴り月落ちぬ    人よ眠りの夢さませ
  見よ(ひんがし)の空の色   (くれなゐ)燃ゆる雲の(あや)
  曉の鐘なり來れば    (あらた)なる世の響あり

2、微風(そよかぜ)吹けば岡の上    柏葉(こた)へ戰ぎ立ち
  橄欖若葉咡きて     ()ら成る自治の(うた) 
  高き調(しらべ)のあがる時   迷の夢のあとも無し
*「自」のルビは昭和50年寮歌集で「おのづか」と訂正。

3、彌生の春の花霞     花繚亂の野の草に
  知らずや人は驕樂の  (うたげ)の杯は滿つるとも
  踏みて()し日の旅枕   思ひ出多き十九年
音符下の歌詞の「子」「井」の漢字はは、原譜そのままである。
現譜は全く変更なく原譜に同じ。あまり歌われなかったからであろう。


語句の説明・解釈

語句 箇所 説明・解釈
潮高鳴り月落ちぬ 人よ眠りの夢さませ 見よ(ひんがし)の空の色 (くれなゐ)燃ゆる雲の(あや) 曉の鐘なり來れば (あらた)なる世の響あり 1番歌詞 潮が満ちる潮騒の音が聞こえてきて月が落ちた。世の人よ、夢の眠りから目を醒ませ。東の空の色を見よ。朝日の光に照らされて紅に燃えるきれいな雲を。夜明けの鐘が鳴り出した。鐘の音に新しい世の中が明ける響きがある。

「曉の鐘なり來れば 新なる世の響あり」
 「曉の鐘」  
 夜明け(明け六つ)に撞く寺の鐘。その鐘の音に新しい世の中の響があるという。
 具体的には何か? 次の3説が考えられる。私見は第2説「救世軍労働者救済」説である。
 1、「校風問題」説
 籠城主義を批判・否定する新渡戸校長のソシアリティー、魚住影雄・安倍能成・和辻哲郎等の個人主義の校風問題で寮内は大波乱を起こした。作者は、後述のように、後に基督の伝道者となるが、新渡戸校長の影響もあったという。
 明治40年1月30日 『校友会雑誌に』163号に興風会における新渡戸校長の演説「籠城主義とソシアリティー」の要旨筆記が出る。この演説で校長は籠城主義には、①排他的になる、②単なる群居に陥りやすい、③高慢心を起こす、④異を唱える者を排除し、類型的人物を養成して自ら満足するという弊害があると述べた。
 明治41年2月29日 和辻哲郎、『校友会雑誌』174号に「精神を失いたる校風」を発表。自己心霊(精神)の尊厳を説き、籠城主義(皆寄宿制)を否定し、その因襲的悪習を衝く。反響大きく、特に運動部員が猛反発した。(「一高自治寮60年史)」
 「『曉の鐘』は、校風論争か?」(井下一高先輩「一高寮歌メモ」)
 2、「救世軍労働者救済」説
 作者は、路傍で廃娼運動を訴え、貧しい労働者の救済を説く山室軍平の救世軍活動に感動し、その活動に身を投ずるために一高を退学した。救世軍は、1865年にロンドン東部の貧しい労働者階級の伝道のために設立され、世界に広まったキリスト者の伝道、社会福祉事業組織である。明治41年福岡醫科大學寄贈歌「紫淡く」に、「まづしきものゝ血をすゝり、肉をはむてふ鬼ぞすむ」とあるように、当時、日本でも貧しい労働者が街にあふれ、その救済が社会問題化していた。「暁の鐘」は、貧しい労働者を救うための鐘であり、「新なる世」を告げる鐘である。
 3、「徳富蘆花『勝の哀』影響」説
 また、作詞者は明治40年入学の中退者である。明治39年12月の徳富蘆花の「勝の哀」講演は、一高生に多大の感銘を与え、中途退学者が相次いだといわれる。その余韻の残る翌年の入学である。ただし、この演説は、当時の一高生に多大の影響を与えたといっても、「新なる世を告げる暁の鐘」とまでは、いえないであろう。
 「雀ヶ丘に立ってモスクワを見下ろしたナポレオン、奉天会戦に勝利して死屍累々の中に馬を進めた児玉将軍、彼らの胸裡に去来する悲哀を察し、煩悶を思い、槿花一朝の栄を求めず、永遠の生命を求める事こそ一日も猶予できない厳粛な問題であると説いた。この演説に打たれ、荷物をまとめて向陵を去った者が何人もいたという」(「一高自治寮60年史」)
微風(そよかぜ)吹けば岡の上 柏葉(こた)へ戰ぎ立ち 橄欖若葉咡きて ()ら成る自治の(うた)  高き調(しらべ)のあがる時 迷の夢のあとも無し 2番歌詞 向ヶ丘にさわやかな朝風が吹いて、柏の葉がそよぎ、橄欖の若葉はざわめく。寮内に寮歌の声が湧きあがる。寮歌の歌声が向ヶ丘に高く鳴り響くとき、その昔の事件など何もなかった如くである。

「柏葉 橄欖」
 柏葉は武の、橄欖は文の一高の象徴。

「咡きて」
 昭和10年寮歌集で「囁きて」に変更された。

「自らなる」
 ルビは昭和50年寮歌集で「おのづから」に変更された。いずこからか自然に。寮内にと訳した。

「迷の夢のあとも無し」
 3番の「思ひ出多き十九年」、4番の「昔の友よ今何處」につながると解す。「迷」は乱れ。事件と訳した。
彌生の春の花霞 花繚亂の野の草に 知らずや人は驕樂の (うたげ)の杯は滿つるとも  踏みて()し日の旅枕 思ひ出多き十九年 3番歌詞 弥生3月の向ヶ丘は、野の草が乱れ咲き、満開の桜は春霞に白くかすんでいる。紀念祭のなみなみと注がれた美酒に寮生は酔いしれているが、開寮以来19年の寄宿寮の歴史には、悲喜こもごもいろんなことのあったことを知っているのだろうか。

「彌生の春の花霞」
 「彌生」は、3月と彌生が岡をかける。
 「花霞」は、満開の桜の花が、遠目に霞がかかったように白くみえること。

「思ひ出多き十九年」
 悲喜こもごもいろんなことのあった寄宿寮19年の歴史をいう。「思ひ出」は、思い出す(よすが)となるもの。
夕日の影に佇みて 過ぎ()し彼方顧る 昔の友よ今何處 行きて跡なき岡の邊に 若き血潮を絞りたる 至誠(まこと)の心憶ふ哉 4番歌詞 沈む夕陽の影に佇んで、寄宿寮の過去の出来事を振り返る。徳富蘆花の「勝の哀」の講演に感動して寮を去って行った先輩達は、今、どうしているだろうか。今は彼等の跡を偲ぶべき何ものもない丘の上に、若い血潮を振り絞った、ほんとうの誠の心を思っている。

「昔の友」
 中途退学者のことであろう。作者自身もやがて中途退学して向陵を去る身である。前述の徳富蘆花が明治39年12月に講演した「勝の哀」に感動して相次ぎ一高を去って行った昔の友、あるいは社会主義活動に身を投じるために一高を去って行った昔の友か。

「至誠の心」
 きわめて誠実な心。まごころ。
碎けし心我が祈禱(ねがひ) 尊き使命(つとめ)果さんに 朽つべき命何かせん 亡び行く身を何かせん 不滅の基我が城の 礎堅き武香陵 5番歌詞 自分は、昔の友が中途退学したように、学半ばにして一高を去るが、向陵で学んだ尊き使命を忘れることなく、その使命を果たすためには身命を賭する覚悟だ。我が自治寮は、不滅の四綱領のお蔭で、既に礎も強固である。

「碎けし心我が祈禱(ねがひ) 朽つべき命何かせん 亡び行く身を何かせん」
 「碎けし心我が祈禱」は、基督者となって救世軍活動に身を投ずるため、一高を中途退学すること。
 作者は新渡戸稲造校長の感化を受けて求道していたところ、日本初の救世軍士官(後、司令官)で廃娼運動やセツルメント運動家の山室軍平の路傍での説教に接して感動し、故郷の松本日本基督教会で洗礼を受けた。一高在学中に山で遭難したのをきっかけに、一高を退学して東京神学社に入学し、卒業後、日本基督教会の伝道者となった。

「不滅の基我が城の 礎堅き武香陵」
 「不滅の基」は、四綱領のこと。四綱領とは、寮開設に伴い木下校長が寮生活において守るべき精神として示した四つの項目。「我が城」は、寄宿寮。「武香陵」は、向ヶ丘の美称。
あゝ二千載永劫の (さかえ)の光出でゝより (とこし)なへなる喜びの 我等が胸に今躍る 誠あるもの叫ばずや 力あるもの歌はずや 6番歌詞 二十世紀の早暁、永久に栄え行く自治の光が輝き出でてより、今こそ、我等一高生の胸に永久の喜びは躍る。一高生よ起て。誠の心を持つ者は叫ぼう。力ある者は歌おう。

「あゝ二千載」
 西暦20世紀の意か(一高同窓会「一高寮歌解説書」)。明治42年は西暦1909年、皇紀2569年。一高寄宿寮の開寮は、正確には1890年(明治23年)で20世紀ではない。皇紀でいえば、二千年代の世に。

「永劫の榮の光出でゝより」
 自治の光をいう。「出でゝより」は昭和50年寮歌集で、「出でてより」に変更された。
 「自治の光は常暗の 國を照らせる北斗星」(明治34年「春爛漫」6番)

「長なへなる喜びの」
 「(とこし)なへ」は永久の意で、副詞トコシナヘニから転じた名詞。

「我等が胸に今躍る 誠あるもの叫ばずや 力あるもの歌はずや」
 「今」は、単に紀念祭の今日という意味か、そうではない。1番歌詞の「曉の鐘なり來れば 新なる世の響あり」の「今」であり、「曉の鐘」に応じ「誠あるもの叫ばずや 力あるもの歌はずや」と一高生に世を救う決起を促すと解す。
                        

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