旧制第一高等学校寮歌解説

としはや已に

明治41年第18回紀念祭寄贈歌 東大

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1、としはや已に十八と     積もり積もりてなりたるか
  今日歸り來る陵の上に   紅翠紫や
  みやび色のみ多くして    むかしの姿なかりけり
*「積もり」は大正14年寮歌集で「積り」に変更。

2、思へばこぞの秋のくれ   北仙臺のますらをと
  戰ふうはさ聞きしとき    われ等が血潮躍りにき
  もの皆變るたヾなかに    むかし偲ぶはこれのみぞ

3、聞けば彌生の花ざかり   西に嵐山やかつら川
  ふるき都に攻め入りて    怨のいくさこゝろむと
  行け行け友よいざ行きて  揚げて歸れやかちどきを
*「西に嵐山」は昭和10年寮歌集で「西嵐山」に変更。

4、舊きみやこはなつかしき   をしへの君のますところ
  向ヶ岡のますらをの      その名に耻ぢず潔く
  はえあるいくさ戰ひて     揚げて歸れやかちどきを
*「耻ぢず」は昭和50年寮歌集で「恥ぢず」に変更。

5、むかし偲ぶのよすがとて   われ等がのぞみ一筋に
  こゝにぞかゝる九戰士     行けや行け行けわが友よ
  三度われらは叫ばなん    揚げて歸れやかちどきを
原譜は 3段1小節3音に付点はなく8分音符であったが、誤記とみて、付点8分音符に訂正

ヘ長調・4分の4拍子は変わらないが、出だしの「としはやすでに」、終わりの「むかしのすがたなかりけり」が大正14年寮歌集で大きく変わった。また、連続8分音符は、昭和10年寮歌集(一部大正14年寮歌集)で全て付点8分音符と16音符に訂正され、タタのリズムはタータに変わった。
 譜の変更の概要は、次のとおりである。

1、「としはやすでに」(1段1・2小節) 「ドードレーミ ソソミー」を「ドードドーミ ソーソミー」に変更(大正14年、ソーソと伸ばしたのは昭和10年)
2、「つーもり」(2段1小節) 「ミドラーレ」を「ミードソーソ」に変更(大正14年、ソーソと伸ばしたのは昭和10年)
3、「くれない」(3段4小節)の「く」 「ド」が「ミ」に(大正14年)、再び「ド」に戻った(平成16年)
4、「むらさき」(4段3小節)の「き」 「ド」を「ミ」に変更(昭和10年寮歌集)
5、「みやび」(5段1小節) 「ミーミソ」を「ミーソミーソ」に変更(平成16年)(後半のミソをミーソと伸ばしたのは昭和10年)
6、「くして」(5段4小節) 「ミドレ」(4分休符)を「ミードレー」と休符を取った(ミードと伸ばしたのは昭和10年)
7、「むかしのすがたなかりけり」(6段) 「ミードラード ソーラド ソーミソラ ソー」を「ミードソーソ ドードドーミ レーレドーシ ドー」に大幅変更(大正14年、ソソをソーソ等と伸ばしたのは昭和10年)
8、スラー・タイは、1、2箇所変更があるが省略(同じ個所で付けたり外したりしている)。平成16年寮歌集で全て取り外した。

 この寮歌も、昭和10年寮歌集を待つことなく、「嗚呼玉杯や」「春爛漫」同様、それ以前から(遅くも大正14年寮歌集)実際の歌い方に寮歌集の譜が訂正されていたことが分かる。大正14年寮歌集の「としはや已に」のMIDI演奏は、他のMIDI、MP3などが演奏されていないことを確かめて、下のスタートボタンをクリックして下さい。
                             大正14年寮歌集の「としはや已に」
                          

山口高等学校應援歌「鴻峰はれて」は、この寮歌の借譜である。譜にタタ(連続8分音符)のリズムが残っており、原曲や大正14年寮歌集に近いメロディーである。
「一高の歌はその後、一高庭球部部歌として現在でも歌われているところから、恐らくは山高初期の庭球部顧問の満井信太郎教授が口ずさんでおられたものを、当時、山高の應援歌の曲として取り入れたのではあるまいかと推察される」(山口高等学校寮歌集から)
 *文中、「満井信太郎」とあるは、明治36年南寮々歌「彌生が岡に地を占めて」(作曲は鈴木充形)、明治36年奮水泳部歌「都の南三十里」の作詞者である。


語句の説明・解釈

青木得三(明治38年英法卒)作詞、鈴木充形(明治39年工科卒)作曲の唯一の寮歌。対三高戦、雪辱を期して初めて征西する一高野球部を鼓舞激励するために寄贈された。このように、この歌は、もともと野球部の歌であったが、庭球部部歌「向ふが岡の新草に」(久米正雄作詞、山田耕筰作曲)を庭球部員は軟弱として歌わず、代わりにこの「としはや已に」を庭球部歌の如く歌っている。
 「揚げて歸れやかちどきを」の歌詞は、対三高戦に燃える一高生の意氣をいやが上にも高揚させ奮い立たせる。最後に「かったがええー、かったがええー」と叫べば、最高の気分となる。一高生の尚武の心をくすぐる歌詞では、「都の空に」(明治37年寮歌)の「その旗の下我起たん」と双璧をなす。

語句 箇所 説明・解釈
としはや已に十八と 積り積もりてなりたるか 今日歸り來る(おか)()に 紅翠紫や みやび色のみ多くして むかしの姿なかりけり 1番歌詞 我が寄宿寮も、既に開寮18周年と積もり積もってなったか。今日、紀念祭で向ヶ丘に帰ってみたら、お公家さんのように軟弱な風が目立ち、昔の勤儉尚武の風はどこにもない。本当に嘆かわしい。

「としはや已に十八と」
 一高寄宿寮もすでに開寮18年となったか。

「積り積りて」
 大正14年寮歌集で「積もり積もりて」に変更された。


「紅翠紫や みやび色」
 勤倹尚武の風がすたれ、勢いを増す軟弱な個人主義の風潮を嘆く。新渡戸校長の説く「ソシアリテー」(籠城主義を否定)に対する反感反発も含む。「みやび」は、里び、鄙びの対。ビは、・・・らしいの意。
 明治38年10月 魚住影雄「個人主義の見地に立ちて方今の校風問題を解釈し進んで皆寄宿制度の廃止に論及す」を校友会雑誌に発表。論難相次ぐ。
 明治39年10月 校長となった新渡戸稲造、ソシアリテーの必要を説く(籠城主義批判)。
 明治41年2月 和辻哲郎の「精神を失いたる校風」(籠城主義を否定し、その因習的悪習を衝く)を校友会雑誌に発表。大波紋、運動部を中心に猛反発。
 「作詞者の青木得三氏によれば、『氏の在学当時、氏の部室では、紀念祭といえども女人禁制としていた』ことを踏まえて表現したという(一高同窓会『会報』第39号)。従ってこの歌詞は、具体的には紀念祭に来場する女性の服装の色を表現している。」(森下東大先輩「一高寮歌解説書の落穂拾い」)
思へばこぞの秋のくれ  北仙臺のますらをと  戰ふうはさ聞きしとき  われ等が血潮躍りにき もの皆變るたヾなかに むかし(しの)ぶはこれのみぞ 2番歌詞 思えば昨年の秋の終わりに、長い間の念願であった仙台・二高と柔道戦を復活して戦うという噂を聞いた時、我等の血潮は熱くなり躍った。一高の校風が軟弱していく中で、昔の勤儉尚武の風を思い出させてくれるのは、全寮あげて対校戦に燃える一高生の姿だけだ。

「北仙臺のますらをと 戰ふうわさ聞きしとき」
 中絶していた対ニ高柔道戦復活の動きをいう。実際に対二高戦が復活したのは、明治43年のことである。
 対二高戦は明治31年、32年野球と柔道戦が行われた。一高では、この対校戦は当然継続するものと思っていたが、二高尚志會の総会決議により、「一切の対校競技は禁止」され、「かくて、二高との対戦はわずか二回で中絶し、雪辱の機を失った野球部は切歯扼腕し、柔道部また腕を撫し脾肉を嘆いてやまなかった。」(「一高應援團史」)

「むかし偲ぶはこれのみぞ」
 「むかし」は、勤儉尚武の風。「これ」は、対二高柔道戦、3番以降の対三高野球戦などの全寮あげて戦う対校戦。
聞けば彌生の花ざかり 西に嵐山やかつら川 ふるき都に攻め入りて 怨のいくさこゝろむと 行け行け友よいざ行きて 揚げて歸れやかちどきを 3番歌詞 彌生の桜の花の盛り、西部に嵐山や桂川の名所のある前の都の京都に攻め入って、対三高野球の復讐戦を予定しているとか聞いた。野球部選手はもちろん、寮生もどんどん京都へ應援に行って、三高を負かし勝鬨をあげて帰ってきてくれ。

「聞けば彌生の花ざかり」
 一高初の征西は4月1日に予定されていた。彌生は、陰暦の3月である。

「西に嵐山やかつら川」
 昭和10年寮歌集で「西嵐山やかつら川」に変更された。「嵐山」は、京都市西部にある山。大堰川に臨み、亀山・小倉山に対する(歌枕)。「かつら川」は、京都市南西部を流れる川。大堰川の下流で、鴨川を合せ、宇治川に合流して、淀川となる。三高と戦うのであるから、「東山や鴨川」とあってよいところだが、「嵐山」の方が、攻め入って闘うに相応しい響きがあるからであろう。

「怨のいくさこゝろむと」
 明治40年4月8日、対三高野球戦(於一高球場)は、4-9で敗れる。一高は全寮挙げて敗戦の復讐を誓い、野球部は猛練習を重ねた。この「としはや已に」は、対三高戦の勝利を叱咤激励するために寄贈されたものである。
 4月9日(三高校庭)の対三高戦は、2A-1で勝利し、「怨み」を晴らした。
舊きみやこはなつかしき をしへの君のますところ 向ヶ岡のますらをの その名に耻ぢず潔く はえあるいくさ戰ひて 揚げて歸れやかちどきを 4番歌詞 前の都である京都は、一高自治寮生みの親の木下元校長、育ての親の狩野前校長のいらっしゃるところで、なつかしい。二人の恩師の前で、向ヶ丘の一高健児らしく、その名に恥じることなく堂々と栄えある戦いをして、三高を負かし勝鬨をあげて帰ってきてくれ。

「をしへの君のますところ」
 明治39年7月、京都大学文科大学長に転任した狩野亨吉元校長、一高自治寮の生みの親木下元校長も京都帝國大學長退任後も京都に在住。籠城主義を否定する新渡戸校長に対する反発から、一高自治寮の生みの親と育ての親の居住する京都には、特別の親しみを感じたのだろう。同時に、元両校長の前で、恥ずかしい試合は出来ないということである。

「いくさ」
 野球の試合のことで、戦争ではない。
むかし(しの)ぶのよすがとて われ等がのぞみ一筋に こゝにぞかゝる九戰士 行けや行け行けわが友よ 三度われらは叫ばなん 揚げて歸れやかちどきを 5番歌詞 勤儉尚武の昔を思い出させてくれと望むのは、ただ一つ、対三高野球戦に勝つことだ。この一戦に懸けて、野球部のナインはもちろん、寮生もどんどん京都へ應援に行って、三度、我等は叫ぼう、三高を負かし勝鬨をあげて帰ってきてくれと。

「むかし偲ぶのよすがとて」
 勤儉尚武の昔。具体的には明治23年以降14年にわたる野球部黄金時代、墨堤に六たび凱歌を揚げた対高商競漕会のこと。「よすが」は、手がかり。

「九戰士」
 野球の選手ナイン。「九戰士」はどうみても野球部のことだが、久米正雄作詞・山田耕筰作曲の軟弱な庭球部歌を好まない庭球部は、この寮歌を部歌として愛唱している。

「揚げて歸れやかちどきを」
 「かちどき」は戦いに勝って軍勢があげる大声。征西を前に、是非とも雪辱を遂げろと鼓舞激励する。
 「紀念祭の夜の全寮茶話会には流麗な弁舌をもって鳴る作詞者青木得三も、この寄贈歌を引っさげて駆けつけたが、この夜、登壇して激励演説をした記録はない。全寮茶話会の話題は、もっぱら籠城主義皆寄宿制度を否定する和辻論文に向けられたようである。」(「一高應援團史」)
                        
先輩名 説明・解釈 出典
園部達郎大先輩  寄贈歌ながら、『庭球部應援歌』に奉られた光栄ある歌。京都遠征にも係るし、『揚げて帰れやかちどきを』とあって相応しいが、問題は、五番、どうみても野球の選手じゃないか、というのが薮睨み根性。シングル5、ダブルス2組ならどうだというが、明治41年で通用するのか。『良い歌だから拝借しました。』・・・それで良いんだろう。 「寮歌こぼればなし」から


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