旧制第一高等学校寮歌解説

霞薫ずる

明治41年第18回紀念祭寮歌 朶寮

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1、霞薫んずる深山邊の 岺上(ヲノヘ)の櫻散り來ればー
  朧の月の影碎く     岩間の清水(シミズ)落ち來ればー
  花は集り水凝りて    雄々(ヲゝ)しき呱々の聲擧る
*1.2行末の「-」は大正14寮歌集で削除。
*「霞薫んずるは昭和10年寮歌集で「霞薫ずる」に変更された。


2、(ハナ)(タマシ井)水の精     友を集めて寄り來つゝ
  荒ぶ嵐の中に立ち    狂へる(ナミ)に嘯けば
  活々不羈の眉高く     健兒は成りぬ岡の上

3、「自治共同」の手綱執り 「勤儉尚武」(ムチ)うてば
  振ふか天馬(タテガミ)は    鬼火寒林に舞ふが(ゴト)
  扶搖を斬って嘶けば    光を帯びぬ裸形(ラギョウ)(
上の原譜4段1小節5音ソは、平成16年寮歌集添付の原譜ではシとなっている。
昭和10年寮歌集で、タタ(連続8分音符)のリズムをタータ(付点8分音符と16分音符)に変更し(5箇所)、連続16分音符(7箇所)にスラーを付した。


語句の説明・解釈

「難解で不自然と思われる表現が目立ち、詩的表現としての成熟に達していないのが惜しまれる。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)とあるように、難解である。敢えて、説明解釈を試みるが、独断な箇所は避けられない。賢明なる諸兄のご意見・ご教授を賜りたい。

語句 箇所 説明・解釈
霞薫んずる深山邊の 岺上(ヲノヘ)の櫻散り來ればー 朧の月の影碎く  岩間の清水(シミズ)落ち來ればー 花は集り水凝りて 雄々(ヲゝ)しき呱々の聲擧る 1番歌詞 霞立つ深山の峰の上に咲く桜の花びらが散って来て、また岩間の清水が落ちて、水面に浮ぶ朧月の影を砕いた。月影に代わり花びらが水面をおおって、そこに元気のよい産声が上がった。孤高の精神と清き心を求め、俗塵を絶って向ヶ丘に自治寮が誕生した様子を述べる。

「岑上の櫻」
 峰の上の桜。孤高の精神を象徴する。

「朧の月の影碎く」
 水面に映った霞んだ月の影を砕く。「月の影」は非現実的な、浮かれた世俗の歓楽を象徴する。
 「文脈からすれば、『朧の月の影を』を砕くのは『桜の花びら』ではなく、『落ち来る岩間の清水』ということになりましょう。」(森下達朗東大先輩)

「岩間の清水」
 岩と岩の間から湧き出る清水。汚れのない清きものを象徴する。

「花は集り水凝りて」
 「花」は「岑上の櫻」。「水」は「岩間の清水」。花と水が一緒になって。すなわち水面を花びらがおおって。

「呱々の聲」
 産声。自治の誕生を暗示。
(ハナ)(タマシ井)水の精 友を集めて寄り來つゝ 荒ぶ嵐の中に立ち 狂へる(ナミ)に嘯けば 活々不羈の眉高く 健兒は成りぬ岡の上 2番歌詞 武士の心を持った一高生が自治により寄宿寮を運営してきた。ソシアリティーや個人主義の校風の吹き荒ぶ嵐の中に立って、また、汚れ濁った波が逆巻く世の中に悲憤慷慨しながら、向ヶ丘の一高健児は、活き活きと自由で意気が高い。

「花の魂 水の精」
 「華の魂」は、武士の心。
 「花は櫻木人は武士」(明治43年「端艇部應援歌」) 
 「水の精」は、清水の精で、自治。
 「青苔とざす岩が根に 千里の力こめて湧く 清水の歌や自治の曲」(明治41年「そよぐ橄欖」1番)
 「ここの『華の魂』は『花の精』を言い換えたの過ぎず、第一節に『花は集り水凝りて』とあるように、『花の精』と『水の精」とが一体となって自治を誕生させたものと解すべきだと思います」(森下達朗東大先輩コメント)
 
「荒ぶ嵐の中に立ち」
 籠城主義を批判・否定する新渡戸校長のソシアリティー、魚住影雄、安倍能成、和辻哲郎等の個人主義の校風問題で寮内は大波乱を起こした。
 明治40年1月30日 『校友会雑誌に』163号に興風会における新渡戸校長の演説「籠城主義とソシアリティー」の要旨筆記が出る。この演説で校長は籠城主義には、①排他的になる、②単なる群居に陥りやすい、③高慢心を起こす、④異を唱える者を排除し、類型的人物を養成して自ら満足するという弊害があると述べた。
 明治41年2月29日 和辻哲郎、『校友会雑誌』174号に「精神を失いたる校風」を発表。自己心霊(精神)の尊厳を説き、籠城主義(皆寄宿制)を否定し、その因襲的悪習を衝く。反響大きく、特に運動部員が猛反発した。(「一高自治寮60年史)」

「狂へる濤に嘯けば」
 汚れ濁った波が逆巻く世の中に悲憤慷慨しながら。「嘯く」は、吼える。高誦する。
 「混濁の浪逆巻きて 正義の聲の涸れし時」(明治35年「混濁の浪」1番)
 
「活々不羈の眉高く」
 「活々不羈」は、活き活きと自由に。
 「眉高く」は、意気が高くと訳した。ちなみに「眉を上げる」は、まゆをつり上げる。怒った様子にいう。
「自治共同」の手綱執り 「勤儉尚武」(ムチ)うてば 振ふか天馬(
タテガミ
)
は 鬼火寒林に舞ふが(ゴト) 扶搖を斬って嘶けば 光を帯びぬ裸形(ラギョウ)()
3番歌詞 寄宿寮が自治寮で、勤儉尚武の心を重んじるから、一高生は何ものにも拘束されず自由でいられるのだ。自治を守る一高健児が一たび立てば、寮内に旋風の如く巻き起こった籠城主義を否定する魑魅魍魎のような個人主義の主張など一刀のもとに斬り捨て、墓場のひとだまと消滅させる。そうして、一高健児は、再び汚れの無い、自由の子として光り輝くのである。

「振ふか天馬(タテガミ)は」
 「天馬」は、ギリシャ神話の有翼の天馬・ペガソス。ゼウスの雷霆の運び手、また一時、怪物キマイラを退治した英雄ベレロフォンの愛馬となった。のち天に上ってペガスス星座となる。天馬は、漢の武帝が張騫の報告から大苑(フェルガナ)に遠征軍を送り手に入れた日に千里の道を走るという天馬・汗血馬と考えてもよい。ただし、汗血馬は、天は翔けない。この場合は、後述の「扶搖」は、天に昇るための旋風でなく、校風問題(含むソシアリティー)のみの意味となる。ペガソスとすれば、天に昇る旋風にも、校風問題にもどちらにも解釈できる。
 この寮歌は、歌い出しからして、明治39年寮歌「霞かぎれる」と共通点が多い。「霞かぎれる」では、一高生を「汗みな血とふ若駒」と汗血馬に喩える。ペガソスと解した私も、後述の一高・矢部先輩、東大・森下先輩のご意見を頂いた後は、汗血馬のような駿馬の意に傾きつつあるが、天を自由に翔けるペガソスも捨て難く、今しばらくは、そのままとする。
 「龍駒一千嘶けば」(明治38年「春長江の」6番)
 「汗みな血とふ若駒は 三尺ながき鬣を 雄たけびともにふるふ哉」(明治39年「霞かぎれる」4番) 

 「ギリシャ神話を離れ、天馬を、駿馬と考える。ギリシャ神話では確かにベレロフォンはペガソスに乗って武勲をあげたものの、天のゼウスの宮に昇ろうと野心をおこし、ゼウスの怒りを買い、傲れるベレロフォンは、ペガソスに振り落とされて地上に落下し、ペガソスはそのまま天に昇った。」(矢部 徹一高先輩)
 「この寮歌の中で、天馬が空を翔けると言っている箇所は見当たりません。強いて言えば扶搖ですが、これとても、『扶搖を斬って嘶く』のであって、扶搖を利用して空に昇るような表現ではないと思います。この寮歌の天馬は、例えば汗血馬のような足の速い馬を天馬にたとえたものと解すれば十分でしょう。」(森下達朗東大先輩コメント)
 
「鬼火寒林に舞ふ如」
 「鬼火」は、湿地に小雨の降る闇夜などに燃え出て空中に浮遊する青火。狐火。「寒林」は、古代インドの風習で屍を捨てて、禽獣の食うに任せた所、墓地。墓地に鬼火がふわふわと舞うように。しかし、天馬が、つむじ風を捕まえて天に昇る様子としては、非常に不自然である。自治の行く手を拒む魑魅魍魎が退治され、冬枯れの林に鬼火となってさ迷う様の表現と解す。あるいは、「扶搖」にかかる修飾句として、「墓地の鬼火のようにふあふあと舞う程度の」扶搖(校風問題)」など斬り捨てと解してもよい。
 「魑魅魍魎も影ひそめ 金波銀波の海静か」(明治35年「嗚呼玉杯」5番)
 「『鬼火』は、中国で古くから、歳月を得た血、戦死した兵士の血などが、暗夜や雨の降る夜など、自然発火して燃えると考えられた。おにび。きつね火。『寒林』はインドで死体を捨てた場所という。天馬がまるで大鵬のように、つむじ風を絶ち切りながら天空に昇ってゆく」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
 「墓場に奇怪な火の玉が浮遊する超自然的現象のように」(矢部 徹一高先輩)

「扶搖を斬って嘶けば」
 勢いよく巻き起こった籠城主義を否定するソシアリティーや個人主義の主張を退治して鬨の声をあげれば。「扶搖」は、天馬が天に昇る「つむじ風」でなく、自治共同の敵である校風問題と解す。「斬って」は、「自治の行く手を拒むものを斬りて捨つる」(「嗚呼玉杯」5番)の意。
 「天馬がまるで大鵬のように、つむじ風を絶ち切りながら天空に昇って嘶く、といったのであろう。」(一高同窓会「一応同窓会「一高寮歌解説書」)
 「架空的な大風を斬って(切っての強調と考えられます)一高生の跨る駿馬は疾駆し、嘶くのである。」(矢部 徹一高先輩)

 明治38年10月 魚住影雄「個人主義の見地に立ちて方今の校風問題を解釈し進んで皆寄宿制度の廃止に論及す」を校友会雑誌に発表。論難相次ぐ。
 明治39年10月 校長となった新渡戸稲造、ソシアリテーの必要を説く(籠城主義批判)。
 明治41年2月 和辻哲郎の「精神を失いたる校風」(籠城主義を否定し、その因習的悪習を衝く)を校友会雑誌に発表。大波紋、運動部を中心に猛反発。

「光を帯びぬ裸形の兒」
 「光を帯びぬ」
 「ぬ」は存続完了の助動詞の終止形とし、「扶搖を斬って嘶けば光を帯びぬ」、「裸形の兒光を帯びぬ」の両方にかかると解し、天馬、裸形の兒が光を浴びて輝く。すなわち、自治寮も、一高生も光輝く。
 「裸形の兒」
 1、古代インド宗教説
 「束縛から離れることを表すため裸でいるのが正しい、とする古代インド宗教の一派の説。自主独立、自由不羈の兒」(井下一高先輩「一高寮歌メモ」。同旨 一高同窓会「一高寮歌解説書」)
 2、赤ん坊説
 「『赤ん坊』のこと。第一節の『呱々の声挙がる』、第二節の『健児は成りぬ』もこのことを裏づけている。一高生を、一切の束縛から自由な『赤ん坊』に喩えたもので、解説の趣旨とも符合する。」(森下東大先輩「一高寮歌解説書の落穂拾い」)
 2番歌詞の「活々不羈の眉高」い健兒と同じ意味である。「裸」には汚れの無い、また立寮の精神に戻るの意もある。
向ヶ岡の曙や 春來(ハルク)と告ぐる歌の聲 神韻罩めて鳴り來れば 紫深き夜は沈み 見よ健闘の日は明けて 鐡火の時よ今熟す 4番歌詞 向ヶ丘に朝は白々と明け、春を告げる一高紀念祭の寮歌の歌声が、極めて優れた趣で鳴り響く。暗黒の夜は去り、見よ、対三高野球戦の日は明けて、鉄も燃やす熱い血潮を滾らせる時が終にやって来た。

「春來と告ぐる歌の聲」
 3月1日開催の紀念祭寮歌の声。

「神韻」
 詩文などの極めて優れたおもむき。

「鐡火の時」
 鉄も燃やす熱い血潮の滾る時。4月8日の対三高野球戦。
嗚呼一千の健兒團 文の典型武の理想 血燃ゆる歌に送られて 三尺無反(ムソリ)の劍とり 南溟の方空遠く 六氣の瓣に御するかな 5番歌詞 文にも武にも頂点を極めんとする一千の一高生の決死の壮行の歌に送られて、尚武の心を奮い立たせて、天の気、地の気全ての力を味方につけて、京洛の豎子を成敗すべく初征西の旅に出発する。

「三尺無双の劍」
 長さ三尺の反りない剣(直刀)。三尺は「三尺の秋水」(長さ三尺ほどの、とぎすました剣)の三尺。この「剣をとり」とは、実際に剣をとるのではなく、尚武の心を震わせての意。

「血燃ゆる歌」
 寮歌、部歌、應援歌等、対三高野球戦壮行の歌。
 紀念祭の夜の全寮茶話会では、初めて征西する野球部を盛大に送り出すために青木得三作「としはや已に」が披露され、当然に野球部九戦士の激励と壮行の演説に沸くものと思われたが、その実、全寮茶話会の話題は、和辻哲郎の「精神を失いたる校風」(籠城主義を否定)の批判に向けられ野次と怒号が飛び交う会となった。

「三尺無反の劍とり」
 尚武の心を振い起して。
 「三尺無反の劍よし無くも」(明治41年「巨大の天靈」4番)

「南溟の方空遠く」
 南溟は、[荘子逍遥遊]南の方にある大海。ここは征西先の三高のある京都。

「六氣の瓣に御する哉。」
 ありとあらゆる気力を振り絞って、あるいは天の氣、地の氣すべての力を味方につけて。戦いに臨む気概のこと。
 「六氣」は、天地間の六つの氣。蔭・陽・風・雨・晦・明。また、寒・暑・燥・湿・風・火。また人体の六氣。好・悪・喜・怒・哀・楽。
 「陰陽風雨晦明、または寒暑燥湿風雨。自然の天候のこと。また朝の氣(朝霞)、日中の氣(正陽)、日没の氣(飛泉)夜半の氣(沆瀣)、天の氣、地の氣ともいう。」(井下一高先輩「一高寮歌メモ」)
今日十八の紀念祭 星の光に舞ひ出てゝ 鞘を拂へば漫理(ミダレヤキ) 健兒が胸を躍らせて 若き血潮の色見する 一道の氣ぞ天を射る 6番歌詞 今日は第18回紀念祭の日、星空の下、剣舞を舞って、刀を鞘から抜き放てば、見事に波打った波紋がキラリと光って、若い一高生の血潮は昂ぶる。雪辱の一念に燃える意氣は天をも突くばかりである。

「舞ひ出てゝ」
 昭和10年寮歌集で「舞ひ出でゝ」、同50年寮歌集で「出でて」に変更された。

漫理(みだれやき)
 刃紋が波のように乱れ打ったもの。波紋は刃を丈夫にするための焼入れの技術によって生じる模様で、刃の部分と地の部分の硬度の差によって生じる。

「一道の氣ぞ天を射る」
 雪辱の一念に燃える意氣は天をも突くばかりである。明治40年4月の第2回対三高野球戦は、まさかの負け(4-9)であった。
                        


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