旧制第一高等学校寮歌解説

朝金鷄たかなきて

明治40年第17回紀念祭寮歌 中寮

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1、朝金鷄たかなきて    洋々の樂地に響き
  東風に銀馬は嘶きて   彩雲の幕天に引く
  時はうつりて十七の   春を迎ふる紀念祭

2、南の濱に上げし名や   花に隅田の勝歌や
  響は胸に殘れども    忍べば遠き榮の跡
  榮枯浮沈は世をめぐり  悲歡こもごも綾を織る

3、今梟雄のをたけびに   嵐は狂ひ雲湧きて
  一世の光暗くとも     見よ若き血は花と咲き
  蛟龍の吟劒は舞ひ    虹霓の意氣文は成る
調・拍子、メロディーとも全くと言って程、変更はない。6箇所にスラーやタイが付いただけである。スラーやタイが付いた箇所は、「あーした」、「のーがく「、「こーちに」、「のーまく」、「とーきは」、「はーるを」である(昭和10年寮歌集)。


語句の説明・解

語句 箇所 説明・解釈
朝金鷄たかなきて 洋々の樂地に響き 東風に銀馬は嘶きて 彩雲の幕天に引く 時はうつりて十七の 春を迎ふる紀念祭 1番歌詞 明治23年3月1日、東西寮に入寮許可がおり、開寮記念茶話会が開かれた。その朝、金鷄星に住むという時告げ鶏の金鷄が高く鳴いて、暁を知らせた。それと共に洋々として楽の音が地に響き渡り、きれいに着飾った白馬が春風に鬣を振るわながら空に向って嘶く。昇る朝日に、七色の虹が天に祝いの天幕を引く。あれから17年、今日、一高寄宿寮は、喜びの第17回紀念祭を迎える。

「金鷄」
 金鷄星にすむという鷄。この鷄がまず鳴いて暁をしらせ、他の鶏がこれに応じて鳴くという。
「時はうつりて十七の」の語句から、今から17年前、すなわち一高寄宿寮開寮式の模様を美化した表現と解する。そして「金鷄」は、一高自治寮開設に多大の功あった初代寮委員長「赤沼金三郎」とダブる。*当時は委員長制はなかった。委員長相当の職にあった。

「洋々」
 水流などが満ち溢れるように流れるさま。広々と広がったさま。

「彩雲の幕天を引く」
 虹は雲ではないが、「彩雲の幕」を七色の虹と訳した。

「大赦の詔勅を出す際、黄金で飾った鶏の模型を竿の上に留まらせ、絳い幡を口にくわえさせた儀礼。これから大赦、恩赦の意」(井下一高先輩「一高寮歌メモ」)
晩翠「あけぼの」 「金鷄あしたの消息寄せて/ひんがし棚引く靉く紫雲の粧」(森下東大先輩「一高寮歌解説書の落穂拾い」)
「開寮から17年経過した『ことし』の紀念祭時の情景描写だと思います」(森下東大先輩コメント)
南の濱に上げし名や 花に隅田の勝歌や 響は胸に殘れども 忍べば遠き榮の跡 榮枯浮沈は世をめぐり 悲歡こもごも綾を織る 2番歌詞 横浜で一高野球部が長躯碧眼の外人チームを見事に打ち負かし、全国民はその快挙に狂喜した。隅田川では帝都を熱狂させた対高商ボートレースで六たび連続して勝ち、高商を墨堤の桜と散らせた。しかし、これらの栄光の歴史は遠い昔のことである。栄枯盛衰は世の常という。一高の歴史も喜びもあれば悲しみもある。

「南の濱に上げし名や」
 南の濱」は横浜のこと。一高野球部が横浜で外人チームと戦って勝利したこと。
 長躯碧眼の外人勢を相手に明治29年以来明治37年まで13回戦い11勝した。一高野球部員の快挙に対し全国民は狂喜した。
 「墨田川原のの勝歌や 南の濱の鬨の聲」」(明治36年「彌が岡に」2番)

「花に墨田の勝歌や」
 明治20年から明治32年にかけ対高等商業(現一ツ橋大学)との間で行なわれたボート戦。一高が6連勝。東都の名物であった。

「忍べば遠き榮の跡」
 これらの光榮は遠い昔のことだ。
今梟雄のをたけびに 嵐は狂ひ雲湧きて 一世の光暗くとも 見よ若き血は花と咲き  蛟龍の吟劔は舞ひ 虹霓の意氣文は成る 3番歌詞  残忍で猛々しい梟雄の早稲田・慶応野球部は、一高野球部から覇権を奪って、雄たけびをあげている。バントやスクイズという誠に卑怯な戦術を使う早稲田・慶応に、一高の正義の戦法は破れた。球界は闇となり、早稲田・慶応が好き放題に暴れまくっている。しかし、野球部は振るわなくても、一高の撃剣部は仙台に遠征して二高を負かし、文芸部・弁論部は在学中に世に名をなす者も出て、一高生の若き血潮は文武に立派な花を咲かせている。

「今梟雄のおたけびに」
 「梟雄」は残忍で猛々しい人のこと。
① 一高野球部から覇権を奪った早稲田・慶応野球部のことか。
② 運動部の反感を招いた新渡戸校長のソシアリティー思想のことか。
③ 魚住景雄の皆寄宿制批判をはじめとする個人主義の主張か。
④ 栗野昇太郎転校事件のことか。
 寮内に大波乱を起こした③も捨てがたいが、4番で軟弱を取り上げているので、3番歌詞の梟雄は、若干の疑問を残しつつも、①の早稲田・慶応野球部とする。
 明治38年、一高野球部は早稲田・慶応に敗れ、14年間君臨した王座の地位を早慶に譲った。早稲田野球部は、翌年、安倍磯雄野球部長に率いられアメリカに遠征、グローブ(グラブ)やスパイク・シューズの新用具の使用、バントやスクイズ・プレーなどの科学的野球術を我国へもたらした。三高でさえ、内野手のミットはグローブと代わり、足袋、脚絆は靴と靴下となったのに、一高は以前と変わらず伝統を墨守して、新用具・新戦術をなかなか採用しなかった。

(栗野昇太郎転校事件)
 「桂太郎首相は、日露講和条約締結後、初の駐露大使として、外交界の長老でロシア事情に明るい栗野慎太郎を起用することを決め、本人に諮ったところ、栗野は東京に残る老婆の面倒を見させるため、五高在学中の息子の昇太郎を一高に転校させることを承諾の条件に持ち出したといわれる。・・・(明治)39年9月、新学期の開始とともに一高の英法3年のクラスに見知らぬ生徒一人が座っていた。」(「一高自治寮60年史」) この問題は五高でも大川周明などが文部省の決定撤回を求めて運動したが、文部省の省議撤回は困難との見方から全国高等学校長会議は、この事件は既成事実として不問に付することになった。しかし、後日、当時のこの問題の担当寮委員であった大学生末弘嚴太郎等による新渡戸校長弾劾事件へと発展する。

「一世の光暗くとも」
 「一世の光」は、「その時代の光」と解すべき(森下東大先輩コメント)

「蛟龍の吟劍は舞ひ」
 かん高い笛の音のような掛け声をあげて剣を振い。「蛟龍」は想像上の動物で、まだ龍にならない(みずち)。英雄が機会をとらえて大業をなしとげることの喩に使われる。蛟龍得雲雨。「蛟龍の吟」は「龍吟」、雅楽の龍笛の別称、また笛のひびきをいい、ここでは剣道の試合の掛け声。
 「勇壮な吟声をいっている。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
 明治39年4月4日  仙台遠征、対二高撃剣試合。大将以下3人残して勝つ。

「虹霓の意氣文は成る」
 雄々しく健やかな文章を書こうという意気があって、立派な文章が出来る。具体的には文芸部・弁論部の活動が活発で世に名をなしていること。
  「虹霓」は虹のことだが、古くは龍の一種と考え、雄を虹、雌を霓、蜺といった。「虹霓の意氣」は、龍文、すなわち雄々しく健やかな文章を書こうという意気。別に、雲雨を待って天に昇ろうという意気があって、初めて大業(文、きれいな模様の絹織物)が達成できるとも解釈可能である。この場合は、3番歌詞後半は、撃剣部だけのこととなる。「蛟龍」が「虹霓(龍)」となるの意味にかない、捨て難いが、今は一高同窓会「一高寮歌解説書」の解釈に準じ文化部(文芸部・弁論部)のこととする。
 「詩文の才能に富んでいることを『紅霓穎を吐く』ともいった。そのように美しく立派な文を作ること」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
 この頃、文芸部や弁論部の活動が盛んであった。
 明治40年1月28日 谷崎純一郎、文芸委員に任命。
    41年2月     和辻哲郎、立沢 剛文芸委員に就任。
その他に、野村長一(胡堂、明治40年卒)、魚住景雄(同39年卒)、安倍能成(同39年卒)。ちなみに、菊池 寛、倉田百三は、ともに明治43年入学の中退組。
 「新渡戸新校長は、ややもすれば文芸部や弁論部などの文化活動を偏愛した」(「一高自治寮60年史」)。
 「されど望は盡きざりき 紺碧の空白銀の 文運の星瞬けば 今六寮の若き血は 燎原の火と行く如く 亂れし世をば焼き果てん」(大正3年「黎明の靄」4番)
華奢の流の行く處 泛びて波に夢を見る 軟弱の風吹く處 醉ひては花の蔭にぬる 此世の機運かへすべき 健兒が務偉なる哉 4番歌詞 「平氏にあらざれば人にあらず」とあれだけ榮華を極めた平家一門も、終には壇ノ浦の海の藻屑と消えた。尚武の心を忘れ、「花や今宵のあるじならまし」などど軟弱に過ごしていれば、戦場で露と消えるのも当然の話だ。華奢・軟弱の世の風潮に警鐘を鳴らし、これを改めるのが一高健児の大きな使命である。

「華奢の流の行く處 泛びて波に夢を見る」
 壇ノ浦で討死した平家の公達平行盛(清盛の孫)が都落ちの際、師藤原定家に託したという歌と、全性法師の歌に返した歌を踏まえる。
 「ながれての名だにもともれ ゆく水のあはれはかなき身はきえぬとも」(新勅撰1194)
 また、全性法師の「ひとりのみ波間にやどる月をみて むかしの友や面影にたつ」の返歌
 「もろともにみし世の人は 波の上に面影うかぶ月ぞかなしき」(玉葉2318)
 「平行盛の歌ではイメージがくずれるのではないか。『泛びて波に夢を見る』は、寿永4年3月壇ノ浦で平家滅亡の折、二位の局が安徳天皇を抱きかかえて、『波の底にも都の候ふぞ』慰めて入水したこを指すと解す』(森下東大先輩コメント)

「軟弱の風吹く處 醉ひては花の蔭にぬる」
 一ノ谷の戦いで平家の武将平忠度(清盛の異母弟)が岡部六弥太忠澄に首を討取られた際、忠度が箙に結び付けていたという次の歌を踏まえる。平氏一門の都落ちの際、都へ引き返して歌の師藤原俊成に自詠の巻物を託した話(「青葉の笛」2番)は有名である。
 「行き暮れて木の下蔭を宿とせば花や今宵のあるじならまし」(平家物語)
 「ぬる」は「濡る」で、夜露に濡れる。
 (「青葉の笛」2番)
   更くる夜半に門を敲き わが師に託せし 言の葉あはれ
   今わの際まで持ちし箙に 残れるは「花や 今宵」の歌。
 明治38年10月28日 魚住影雄、「校友会雑誌」150号に論文「個人主義の見地に立ちて方今の校風問題を解釈し進んで皆寄宿制度の廃止に論及す」を発表、大波乱を起こる。
 「『軟弱の風吹く処』まで平家と結びつける必要はない。『酔ひては花の蔭にぬる』は、藤原実方中将が殿上人たちと東山へ桜狩に出かけたところ、にわかに降り出した雨に皆あわてたが、ひとり実方は桜の樹下に身を寄せて、『桜狩り雨は降りきぬ同じくは濡るとも花の蔭にかくれむ』という歌を詠んだので、人々がその風流心を賞賛したという逸話(『撰集抄巻8など』を踏まえたものであろうと解する。『ぬる』は『夜露に濡れる』のではなく『雨に濡れる』ことになる。」(森下東大先輩コメント)

「機運をかへす」
 「機運」は、世の中の動向。趨勢。
 「世の中の動向、趨勢』の意に解した方が意味が通じる。」(森下東大先輩コメント)
 「かへす」は返す。華奢・軟弱の時の流れを、もとの正常な時機に戻す。改めると訳した。
葉末に宿る白露も 萬象の影うつすなり 千草の花は咲き出でゝ 一つに薫る武香陵 其處に力の泉わき 其處に希望の光あり 5番歌詞 草の葉の先におく玉の露も、秋の月だけでなくありとあらゆるものの姿をうつす。一寄宿寮には寮生千名の千のいろんな色の花が咲くが、それが自治共同の一つの香りに匂う。これが一高の力の源泉であり、そこに我が一高寄宿寮の希望の光がある。

「白露」
 葉の上などの、白く見える露。「露」は、はかない命の喩えとされることが多いが、月を宿す白露と歌に詠まれることも多い。白玉の露を寄宿寮に喩え、月すなわち新渡戸校長のソシアリティーだけでなく、魚住影雄の皆寄宿制度の廃止、運動部の籠城主義など色んな考えの者が寄宿寮にはいると暗に示すと解す。

 定家 「色かはる浅茅が末の白露になほ影やどす有明の月」
 西行 「わづかなる庭の小草の白露をもとめて宿る秋の夜の月」
「千草の花は咲き出でゝ 一つに薫る武香陵」
 多種多才の人材がいて、いろんな考えを主張するが、最後は柏の旗の下、一つに纏まるのが一高寄宿寮である。個人主義の台頭による校風問題を念頭においてか(4番参照)。「千草」は寮生千名を踏まえた表現。「咲き出でゝ」は昭和10年寮歌集で「咲き出でて」に変更された。
月天心にかゝりては 蹈むべき道を照すなり 友愛の情溢れては 幽蘭袖に香ぞ高き 自由の風に羽ばたきて かけるは何處理想の地 6番歌詞 月が人の踏むべき道を照らし出すことが出来るのは、空高く中天にあるからだ。新渡戸校長を排斥すべきではない。新渡戸校長が友情の神髄と激賞した「友の憂ひに吾は泣き 吾が喜びに友は舞ふ」の友愛の情が寄宿寮に溢れてこそ、香りゆかしい校風が花咲くのである。一高生よ、自由の風に羽ばたいて、理想の地を目指そうではないか。

「月天心にかゝりては 蹈むべき道を照すなり」
 籠城主義を否定しかねないソシアリティー思想を説いて守旧派の反感を買う新渡戸校長を擁護する意か。「天心」は天の真ん中。中天。寮歌では、黙示を与えるのは星(北斗星、北極星)が多い。。ここでは、「蹈むべき道を照らすのは、星でもなく、四綱領でもなく、天心の月である。月は、「高嶺に澄める秋の夜の月」と愛唱していた新渡戸校長ないし校長の唱えるソシアリティーのことであると解す。
この年の全寮歌6曲全ての歌詞に「月」が出てくる。
 「黙示聞けとして星屑は 梢こぼれて瞬きぬ」(明治36年「綠もぞ濃き」1番)
 新渡戸校長愛唱歌
  「折々は濁るも水の習ひとぞ思ひ流して月は澄むらむ」
  「見る人の心ごころにまかせ置きて高嶺に澄める秋の夜の月」
 校長直筆の後者の歌の額は、一高の廃絶に至るまで食堂に掲げられていた。

「幽蘭袖に香ぞ高き」
 「幽蘭」は、香りがゆかしく気高い蘭の花。寮の雰囲気をいうか。
 古今139 「五月待つ花橘の香をかげば 昔の人の袖の香ぞする」
 「『友愛』と『幽蘭』が出てくるのは、易経繋辞伝上に『二人心ヲ同ジウスレバ其の利キコト金ヲ断ツ。心ヲ同ジクスル者之言ハ、其ノ臭、蘭ノ如シ。』とあることから、友人との固くて清い交わりを『金蘭の交わり』と呼ぶことを踏まえたものだと思う。」(森下東大先輩コメント)

「友愛の情」
 新渡戸校長のソシアリテーの影響か。
 「友の憂ひに吾は泣き 吾が喜びに友は舞ふ」(明治40年「仇浪騒ぐ」4番)

「自由の風」
 「自由」という語は一高寮歌には珍しい。
明治・大正の寮歌では、
 「棹さす術もあら海に 自由の旗ぞ翻へる」(明治40年「あゝ大空に」5番)
 「自治よ自由よ友情よ 柏の色のあさみどり」(明治45年「希望の光」2番)
 「せめて愛しき同胞に 自由と平和あらしめよ」(大正6年「比叡の山に」6番)
 「自由に生きる歡喜の はた苦惱の涙もて」(大正8年「まどろみ深き」5番)
 「自由の園におのがじし 理想のひかりもとめつゝ」(大正9年「のどかに春の」4番)
 「自治と自由の工向上の 旗風薫る武香陵」(大正10年「あゝ紫の朝霧に」5番)

「理想の地」
 理想の自治の花さく地。
                        

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