旧制第一高等学校寮歌解説

あゝ渾沌の

明治39年第16回紀念祭寮歌 中寮

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1、あゝ渾沌の闇の色     洶湧狂ふ瀾の音
  聞くや忽ち孤々の聲    こゝ渤海の東に
  見よや層樓雲をつく    武香陵頭自治の城

2、雲を凌ぎて今こゝに     十有六年男兒の血
  溢れて凝りて護國旗の   柏の色は永劫に
  堅き誓の四綱領       空に聳ゆる橄欖樹

6、やがて魔軍も潜むとき   波瀾収まり四海一
  かくて柏葉いや繁り     みのる橄欖君みずや
  桂冠さゝげ颯爽の      英姿一千こゝにあり
 ハ長調・4分の4拍子は変わらない。譜の変更は、概要、次のとおり。
1、リズム
1段3小節3・4音はじめ8箇所の連続する8分音符を付点8分音符と16分音符に変更した。「タタ」のリズムは無くなり、全て「タータ」となった。
2、「あゝこんとんの」(1段1小節)の最初の「ん」  「ラ」から「ソ」(大正14年寮歌集)。
3、「こゝのこえ」(2段3小節)の「こえ」の「こ」  「ド(高」から「ラ」(昭和10年寮歌集)。
4、「ぶこうりょうとー」(4段1小節)の「りょ」  「ラ」を「ソ」とし、「ぶーこーりょーとー」と音符下歌詞を変更した(昭和10年寮歌集)。
5、「みよやー」(3段3小節3・4音)・「ぶこう」(4段2小節1・2音)にタイ(昭和10年寮歌集)。


語句の説明・解釈

語句 箇所 説明・解釈
あゝ渾沌の闇の色 洶湧狂ふ瀾の音 聞くや忽ち孤々の聲 こゝ渤海の東に 見よや層樓雲をつく 武香陵頭自治の城 1番歌詞 天と地がまだ分かれていなかった時のような混沌とした闇が覆い、怒濤逆巻く波の音が轟くここ渤海の東の国日本に、にわかに産声が上がった。雲を突くように聳え立つ自治の一高寄宿寮が向ヶ丘に誕生したのだ。

「渾沌」
 宇宙生成の最初期、天地未分でどろどろであったという状態。カオス。

洶湧狂ふ瀾の音」
  「洶湧」の読みは、一高同窓会「一高寮歌解説書」では「『きょうよう』と読む」とあるが、音符下歌詞では昭和10年、平成16年寮歌集等全て「きょうゆう」である。ちなみに、広辞苑では、「きょうゆう」は「洶湧」、「きょうよう」は「洶涌」とある。ともに、「水の勢いよくわき出るさま」とある。大修館「新漢和辞典」では、「きょうよう」(水のわきあがるさま、波のわきたつさま)。しかし、この寮歌を歌う場合は、各寮歌集音符下の「きょうゆう」と歌うことで間違いはない。

孤々の聲」
 
「呱々」の聲の誤植か、あるいは「孤高」の「孤」の字を意識してあてたか。産声を上げる。転じて、物事が新しく生まれる。

渤海の東」
 
日本。「渤海」は、遼東半島と山東半島に囲まれる海域。渤海湾という。また、8から10世紀、中国東北地方の東部および朝鮮半島北部のあたりに起こった国。
 「黒潮たぎる絶東の 櫻花の國に生れ來て」(「柔道部部歌」5番)

層樓雲をつく」
 
層樓」は、幾階にも高く構えた高殿。ここでは一高寄宿寮、2階建ないし3階建で、東・西寮は三層樓と称した。建物の実際の高さというより、寮生の志、意気の高さから雲をつくと表現。
 「向ヶ岡にそゝりたつ」(明治35年「嗚呼玉杯」1番)

武香陵頭」
 
向丘の上。武香陵は向ヶ丘の美称。

「自治の城」
 一高寄宿寮は生徒による「自治」により運営された。一高は1年生から3年生まで全生徒が寄宿寮に入る皆寄宿制であった。これを俗塵を避けて向ヶ丘に「籠城」したと称した。
雲を凌ぎて今こゝに 十有六年男兒の血 溢れて凝りて護國旗の 柏の色は永劫に 堅き誓の四綱領 空に聳ゆる橄欖樹 2番歌詞 雲をも凌ぐような高い志を連綿と引継いで16年、一高健児の溢れる血潮が凝り固まったような深紅の護國旗の柏の色は永遠に金色に光輝く。明治23年2月24日、当時の木下校長に自治を許された時に、四綱領を守ると固く誓ったことは、絶対に忘れない。空には一高の文の象徴橄欖が聳え、一高寄宿寮の自治の礎は固い。

十有六年」
 
開寮してから16年。

護國旗の 柏の色は永劫に
 「護國旗」は、一高の校旗は・護国旗。三つ柏・橄欖の真ん中に「國」の字が入る。「柏」はブナ科ナラ属の落葉高木である。しかし、「秋になっても枯れ葉は落葉せずに越冬し、翌春新芽が生えそろって初めて落葉するところから、『葉守りの神』のおわす神木とされ」た(大平成人・辻幸一共著「一高校章論」)。柏の葉の色は、濃い緑であるが、護國旗では金色に描かれている。

四綱領」
 
「四綱領」とは、寮開設にともない木下校長が寮生活において守るべき精神として示した四つの項目のことで、次のとおり。
          第一  自重の念を起して廉恥の心を養成する事
          第二  親愛の情を起して公共の心を養成する事
          第三  辞譲の心を起して静粛の習慣を養成する事
          第四  摂生に注意して清潔の習慣を養成する事

橄欖樹」
 
「橄欖」は、一高の文の象徴。本郷一高の本館前に橄欖として「すだ椎(スダジー)」が植えられた。植物学的には橄欖ではないが、一高寄宿寮の正史「向陵誌」では橄欖として扱う。
暗雲低く亂れては むせびて惱む聲さむし 讒誣誹謗の夜の風 怨嗟嫉妬の朝の雨 狂ふ嵐に吹く風に 橄欖根ざし堅かりき 3番歌詞 暗雲が低く乱れ飛び、咽び泣き悩む声を立てるが、事実にもとづいたものではない。夜には無実のことを言い立て悪口をいう風を吹かし、朝には、うらんでは嘆き嫉妬する雨を降らせる。しかし、あらぬ噂を立て一高を陥れようと、いくら狂った嵐が吹こうと風が吹こうが、一高の橄欖の根ざし、すなわち自治の礎ははしっかりしているので、そんな誹謗中傷にはびくとも動じなかった。
 具体的事件は確定できないが、下に説明する明治36年の水戸新聞の記事類似の一高に対する誹謗中傷をいうものであろう。時代は下るが、大正元年には、朝日・読売両紙上に第一高等学校寄宿寮委員の名で誤解爆砕の檄文を出している。大正4年「愁雲稠き」解説参照。

「聲さむし」
 「寒し」は、内容がないこと。事実無根のこと。

讒誣誹謗の夜の風 怨嗟嫉妬の朝の雨」
 
天下の秀才一高生に対しては、中傷や妬みが付きまとった。「讒誣(ざんぶ)」 讒言し()いること。すなわち無実のことを言い立てて悪口をいうこと。「誹謗」は、悪口を言うこと。「怨嗟」は、うらみ嘆くこと。
 明治36年10月23日、 水戸の新聞「いばらぎ」に、一高生が「妓楼にのぼりて妓を擁せり」「街上、婦女子を嘲弄せり」などの事実無根の記事が出た。
 明治38年4月29日、赤門乱闘事件。寮生7名、飲食して帰途、赤門前で通行人と喧嘩し、無関係の通行人6名をも負傷させた。この事件は事実。
「嫉妬の雨に濡るゝとも 雄々しく自治の道を行く」(大正4年「愁雲稠き」5番)

 「籠城主義または一高生の似非豪傑主義に見られる独善的態度に批判の声が強かったこと、あるいは「日本新聞」「新聞いばらぎ」等の誹謗事件(『一高生が妓楼にのぼりて妓を擁せり』等の誤記事)をいうか」(井下一高先輩「一高寮歌メモ」)。

「橄欖根ざし堅かりき」
 自治の礎は固く、非難中傷にはびくとも動じなかった。「橄欖」は一高の文の象徴。「き」は回想の助動詞。
刃向ふ驕奢をたけびに たけぶ墨田の浪すごく いさむ駒場や大塚の 岡の嵐は荒ぶとも 劔を彈じて我起てば 碧空萬里花の影  4番歌詞 明治38年9月には、勤儉尚武を鍛錬するため、隅田の川波を荒川の川口渡から両国まで遠泳を実施した。驕り高ぶった敵をものともせず、11月の駒場運動会では陸上運動部が優勝し、3月には柔道部が大塚高師大講堂で行われた対高商柔道戦で勝利を収めた。向ヶ丘では、魚住景雄が一高の伝統である籠城主義を批判し大波乱が起きている。昔、中国の斉の国の孟嘗君の食客馮煖が刀の柄を叩いて不満を表したように、自分が起って個人主義の主張が間違いであると、その罪過を攻めれば、個人主義の主張は消え失せ、青空遙か彼方まで晴れ渡り、一面、自治共同の花畑が続くようになる。

「たけぶ墨田の浪すごく」
 明治20年以来、帝都を沸せた対高商ボートレースは明治32年で終わっていた。明治38年9月17日に実施された「荒川の川口渡から両国までの遠泳」をいうのであろう。

「いさむ駒場や大塚の」
 陸上運動部、柔道部の活躍をいう。
 「陸上運動部」は、明治38年、帝大・駒場両運動会で一高が優勝し、覇権を奪回した。(駒場運動会は11月の第一日曜日、帝大運動会はその一週間前の土曜日開催が原則だった)
 「柔道部」は、明治38年3月12日に高師(大塚)大講堂で開かれた第1回対高商柔道試合で、大将以下5名を残して一高が勝利した。

「岡の嵐は荒ぶとも」
 校風問題で寮が大揺れしようとも。。
明治38年10月28日、魚住景雄が「校友会雑誌」150号に論文「個人主義の見地に立ちて方今の校風問題を解釈し進んで皆寄宿制度の廃止に論及す」を発表して、大波紋が起こった。
 「個人主義の聲漸く高く遂に校風問題を起し之が爲同(11)月25日一大教場に演説会を開く。」(「向陵誌」明治38年)

「劒を彈じて」
 「彈劔」は、刀剣の柄をたたくこと。斉の孟嘗君の食客馮煖が刀のつかをたたいて歌い、不満の意を表して待遇をよくしてもらった故事(史記 孟嘗君伝)。「彈」には罪過を責めるの意もある。魚住景雄の個人主義の主張が間違いで不満であり、その罪過を追求するの意。「劔」は昭和50年寮歌集で「劒」に変更された。

「花の影」
 伝統の自治共同の花が咲く一高寄宿寮。
花一時の香に醉ひて おごる時世の高潮を よそに兜の緒をしめて 内に自覺の叫あり 魔軍群がりどよめくも 千古不落の自治の城 5番歌詞 日露戦争の勝利で訪れた一時の平和に酔って、驕る世間の風潮をよそに、向ヶ丘では勝って兜の緒を締めての諺のとおり気を緩めることなく非常時に備えている。内に寮生は、己の置かれた状況、役割、使命、すなわち自治を守ることが己の使命であるとよく認識している。自治を破壊、邪魔しようと魔軍が怒濤の如く群れとなって押し寄せようとも、我が寄宿寮は千人の寮生が守る永遠に落城することのない強固な自治の城である。

「自覺」
 己の置かれた状況、役割、使命等を認識していること。自治を守るのが寮生の最大の使命であると認識している。

「花一時の香に醉ひて」
 日露戦争の勝利に酔って。

魔軍」
 
自治を破壊、邪魔しようとする勢力のこと。理想の自治に進む行途を拒むものである。自治共同を否定する個人主義の主張も当然に魔軍勢の一つである。
 「勝に荒ぶる魔軍勢 寄せなば寄せよ我城に」(明治35年「混濁の浪」2番)

「千古不落の自治の城」
 「千」は一高生千名の千をかける。「自治の城」は1番で説明。千人の城兵が守る永遠に落ちない自治の城。
 「千張の弓の張れるあり」(明治35年「混濁の浪」2番)
 「千すぢの琴ぞ懸りたる」(明治36年「曉寄する」6番)
 
やがて魔軍も潜むとき  波瀾収まり四海一 かくて柏葉いや繁り みのる橄欖君みずや 桂冠さゝげ颯爽の 英姿一千こゝにあり 6番歌詞 やがて魔軍は退散し身を潜める時、波乱は収まって天下は太平、寄宿寮は自治共同の元の平和な寮に戻る。自治の礎は固まり、柏葉はますます生い茂り、橄欖の実は熟す。ここに世間の尊敬を一身に集めた一高健兒一千の颯爽とした姿がある。

「波瀾収まり 四海一」
 波(もめごと)も静まって、天下太平。

「柏葉いや繁り みのる橄欖」
 一高自治の礎が固まり、自治の盛んな姿。
 「みどりしたゝる柏葉は 岸にしげりて橄欖の 實は美しう星のごと」(明治39年「太平洋の」1番)

「桂冠」
 月桂冠。古代ギリシャで、月桂樹をアポロンの神の霊木とし、その枝葉を輪にして冠とし、音楽、演劇など芸能競技の優勝者に被らせて賞賛の意を表したもの。転じて、最も名誉ある地位。オリンピアで行われたマラソンなど陸上競技にはゼウス神殿の霊木オリーブの枝葉を輪にしたオリーブ冠が優勝者に贈られた。
 「桂冠さゝげ」とは、「さすが一高生」と世の人から一目置かれるほどの意。
 「目指す所はオリンピア」(明治34「姑蘇の臺は」4番)
 「昔偲びてオリンピア 桂の枝も手折るべく」(明治36「筑波根あたり」8番)

「英姿一千」
 「英姿」は男の立派な姿の漢語的表現。、「一千」は一高生の数。
                        


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