旧制第一高等学校寮歌解説

都の空に

明治37年第14回紀念祭寮歌 北寮

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1、都の空に東風吹きて   春の呼吸をもたらせば
  東臺花の雲深み      墨堤花の雨灑ぐ
 
2、さはれ皆人心せよ     春は都にたちぬれど
  シベリア未だ冬にして   猛鷲獨り羽を搏つ  

3、東臺の花それならで    戰雲迷ふ黄海に
  群る鯨鯢叱咤して      たけぶますらを思はずや

4、墨田の花とまがふべく   矢彈雨ふる満州の
  残の雪を蹈みしだき    進むみいくさ忍ばずや

5、其みいくさを忍びなば    其のますらをを思ひなば
  熱血男兒いかにして    都の春にあくがれん

6、健兒一千向陵に      基定めて十四年
  朝經世の書を開き     夕降魔の劔を錬る

7、經世の策胸に在り     降魔の劔腰に鳴る
  東亞の天地三千里     健兒飛躍の舞臺ぞや

8、北シベリアに風暴く     西黄海に浪高き
  今年の春の紀念祭     健兒無限の慨あり

9、北風一過浪を捲き      祖國の岸を打たん時
  あはれ護國の柏葉旗    其旗の下我死なん

10、登る朝日に露消えて   東亞の覇業成らん時
   あはれ護國の柏葉旗   其旗捧げ我起たん
この寮歌は今でも、寮歌祭などで非常に人気が高い。日露戦争勃発時の意気昂揚したところが、幾つになっても、一高生の尚武の心をくすぐるからであろう。「あはれ護國の柏葉旗 其旗の下我死なん」で、絶叫の声が聞こえる。
 
 譜の変更点の主たるところは、

1、ニ長調からハ短調に移調し、短調となったこと。
2、伝統的寮歌のリズムであるタータタータに全小節が改められ、より勇ましくなったこと。
3、最後の「あめそそぐ」がゆったりと、より余韻を残して歌いおさめるように改められたこと。

 具体的な変更箇所を下記に記す。
譜は、昭和10年寮歌集を中心に次のとおり変更された。

1、調・拍子
 昭和10年寮歌集で、ニ長調からハ短調に移調した。短調化の方法は、基本的に譜をいったんハ長調の譜に書き直し、調号を♯×2から♭×3に変更した。
 拍子は4分の4拍子で変らず。ただし、最後の「あめそそぐ」(4段3・4・5小節)の部分を平成16年寮歌集で4分の4拍子表記に改めた。

2、音の変更(譜は大正14年はニ長調読み。昭和10年寮歌集、平成16年寮歌集は、移調しているので、原則ハ長調読み)
1) 「みやこの」(1段1小節)  ドードドミ(大正14年寮歌集)、さらにドードドーミ(昭和10年寮歌集)
2) 「こちふき」(1段3小節)  ソーソラーラ(昭和10年寮歌集)
3) 「はーるの」(2段1小節)  ラーラドード(昭和10年寮歌集)、さらにソーソドード(ハ短調ではミーミラーラ 平成16年寮歌集)
4) 「いぶきを」(2段2小節)  ソーソソーミ(昭和10年寮歌集)
5) 「もたらせ」(2段3小節)  レードレーミ(昭和10年寮歌集)
6) 「とうだい」(3段1小節)  ソーソラーソ(昭和10年寮歌集)
7) 「ぼくてい」(4段1小節)  ドードラーラ(昭和10年寮歌集)
8) 「はーなの」(4段2小節)  ソーソミード(昭和10年寮歌集)
9) 「あめそそーぐ」(4段3・4・5小節)  「そー」(4小節2・3音)を1音とし レー(4分音符)、「ぐ」(5小節)にフェルマータ(昭和10年寮歌集)、さらに、前述のとおり3小節以降の拍子を4分の4拍子に改め、3・4小節を3小節とし括り、次の最終小節の「ぐ」の音を付点2分音符に改め、昭和10年寮歌集で付けたフェルマータを除った(実質変わりはない)。
10)昭和10年寮歌集で、タタ(連続する8分音符)を全てタータ(付点8分音符と16分音符)のリズムに改めた。
11)昭和10年寮歌集で付けた4箇所のタイ(「そーら」、「はーる」、「はーな」、「はーな」)は、平成16年寮歌集で、すべて外された。


語句の説明・解釈

日露戦争前夜の戦意昂揚した一高生の気概を「其旗の下我死なん」と歌う。一高生の尚武の心をくすぐるところあり、大いに愛唱された。また、この歌の譜は、「金色夜叉」の主題歌に借用され、全国的に流行した。
 この年の紀念祭は3月1日で、日露戦争は直前の2月8日(宣戦布告は10日)、旅順港外の露艦攻撃で開始された。実際に寮歌を作り応募した時には、まだ戦争は始まっていなかったのだろう。戦争が始まって後、戦意高揚の歌として、青木得三作の征露歌「ウラルの彼方風あれて」、また旅順が陥落した時に、これを祝う「北、窮髪の」が作られた。このうち、征露歌は、調子のよい「アムール川」の譜にのって、八百屋の小僧までが御用聞きの途中に歌っていたということである。
 この「都の空に」は、また太平洋戦争中、出陣学徒を送る歌として歌われた。悲しい思い出の歌でもある。

語句 箇所 説明・解釈
都の空に東風吹きて 春の呼吸をもたらせば 東臺花の雲深み 墨堤花の雨灑ぐ 1番歌詞 都(東京)の空に春風が吹いて、春が来たと知らせると、上野寛永寺に桜の雲が湧き、満開の隅田川堤の桜は花吹雪となって雨のように降り注いでいる。

「東風」
 東から吹いてくる風、春風。

「東臺」
 関東の臺嶺、すなわち東叡山寛永寺のこと。本郷からは言問い通りを根津神社方向に下りれば、すぐそこである。櫻の名所。
芭蕉  花の雲 鐘は上野か浅草か 

「花の雲」
 咲きつらなっている桜の花を雲に喩えていう語。 

「墨堤」
 隅田川の特に東岸の堤をいい、古来桜の名所。今、隅田公園がある。
さはれ皆人心せよ 春は都にたちぬれど シベリア未だ冬にして 猛鷲獨り羽を搏つ 2番歌詞 そうではあるが、浮かれないで心せよ。春は都に来たけれども、日露戦争の戦場のシベリアは、まだ寒くて氷の融けない冬であり、猛々しい鷲(ロシア)が我が物顔に独り羽ばたいている。

「さはれ」
 (サハアレの約)そうではるが。

「猛鷲」
 日露戦争の相手、ロシアをいう。義和団事件後もロシアは約束を履行せず満洲から撤退しようとしなかった。
東臺の花それならで 戰雲迷ふ黄海に 群る鯨鯢叱咤して たけぶますらを思はずや 3番歌詞 上野寛永寺の桜などは捨て置いて、黄海でロシア艦隊相手に勇敢に戦っている我が連合艦隊に思いをいたそう。

「ならで」
 (断定の助動詞ナリの未然形ナラに、打消しの助詞デの接した形)・・・でなくて。・・・以外に。

「戦雲迷ふ黄海に」
 「黄海」は中国揚子江以北、遼東・山東両半島と朝鮮半島とに挟まれた海洋。日清戦争では、明治27年9月、清国北洋艦隊を撃破した。日露の戦争でも、旅順を母港とするロシア太平洋艦隊との一戦は避けられない情勢にあった。

「群がる鯨鯢叱咤して」
 ロシア艦隊に砲撃を浴びせること。「鯨鯢」は雄くじらと雌くじらのことだが、ここではロシア太平洋艦隊、ウラジオストック巡洋艦隊のこと。「叱咤」は怒気をあらわして大声でしかること。

明治37年2月 4日  御前会議、対露交渉打切り開戦決定。
          8日  陸軍部隊、仁川に上陸。連合艦隊、旅順港外の露艦隊を攻撃。
          9日  仁川の露艦2隻を撃破。
         10日  露西亜に宣戦布告。
墨田の花とまがふべく 矢彈雨ふる満州の 残の雪を蹈みしだき 進むみいくさ忍ばずや 4番歌詞 隅田川の花火と見分けがつかない程、矢弾が雨のように飛び交う満洲の残雪を踏みしめながら進む我が陸軍の戦いに思いをいたそう。

「墨田の花とまがふ」
 「墨田の花」は、1番の「墨堤花の雨灑ぐ」を受けたものと解する(同旨 森下東大先輩)こともできる。砲弾と同じ火薬で炸裂音のする「花火」と訳した。「まがふ」は紛ふで、見分けがつかないほどよく似ている。
其みいくさを忍びなば 其のますらをを思ひなば 熱血男兒いかにして 都の春にあくがれん 5番歌詞 日露戦争のことを思ったならば、また戦争で戦っている将兵のことを思ったならば、熱血男児の一高生が、なんで都の春に浮かれていられようか。とてもそんなことは出来ない。
健兒一千向陵に 基定めて十四年 朝經世の書を開き 夕降魔の劔を錬る 6番歌詞 一高健児一千は、向ヶ丘の自治寮を開いて14年経った。朝に、世を治める書を開いて、夕には悪魔を降伏させる剣を磨く。すなわち、朝から晩まで、文武両道の修業に励んでいる。

「基定めて十四年」
 開寮十四年をいう。明治22年、一高が一ツ橋から本郷に移転し、東西寮を開き、入寮を許可されたのは、明治23年3月1日のことである。

「經世の書」
 世を治める書。

「降魔の劔」
 「降魔の利剣」 不動明王などが手に持つ、悪魔・魔物を降伏する鋭い剣。
經世の策胸に在り 降魔の劔腰に鳴る 東亞の天地三千里 健兒飛躍の舞臺ぞや 7番歌詞 国を治める策は胸にあり、悪魔を降伏する剣も腰にさしている。すなわち、国や寮に刃向うものを懲らしめる尚武の心も既に持っている。我日本の領土は北は千島から南は台湾まで三千里もある。これ一高健児の活躍の舞台である。

「經世の策胸に在り」 
 土井晩翠「星落五丈原』 「其世を治め世を救ふ 經綸胸に溢ふるれど」

「東亞の天地三千里」
 当時、日本は、北は明治8年の樺太ー千島交換条約により千島列島、南はは日清戦争により得た台湾まで領土としていた。
北シベリアに風暴く 西黄海に浪高き 今年の春の紀念祭 健兒無限の慨あり 8番歌詞 北はシベリアに暴風が吹き荒れ、西は黄海の波が高い。今年の春の紀念祭は、護国の旗を戴く一高健児にとって、考えることが限りなく多い。

「北シベリアに風暴く」
 ロシアは義和団事件に乗じ、満洲から兵を撤兵させず居残り、満鮮の権益拡大を図り、鴨綠江に進出してきた。またシベリア鉄道と東清鉄道がつながり、これによりロシアの満鮮への兵輸送能力が大きく増強された。「北シベリアに風暴く」とは、ロシアの急激な南下政策で日露の権益対立が深刻化して、一触即発の状態となったこというものであろう。戦争での陸軍は、鴨綠江を渡った第1軍、大連北方に上陸した第2軍、新編成の第4軍が遼陽を占領、第3軍が旅順を攻撃、最後に全軍で奉天を占領した(明治38年3月1日から10日、奉天会戦)。実際の戦場はシベリアでなく、南満洲であった。

「西黄海に浪高き」
 朝鮮半島付近の制海権を確保する為にも、またバルチック艦隊との合流を阻止する為にも旅順を母港とするロシア旅順艦隊(太平洋艦隊)を撃滅しておく必要があった。西黄海の海戦は誰もが予想していた。前述のとおり、2月8日に旅順港外でロシア艦隊を攻撃、日露戦争の火蓋は切られた。8月には、旅順口を脱出してきたロシア艦隊を黄海の海戦で撃破し、バルチック艦隊との合流を阻止した。東郷平八郎率いる連合艦隊が対馬東方沖海上でバルチック艦隊を破り、(日本海海戦)戦局を優勢にしたのは、翌38年5月27日から28日のことである。
北風一過浪を捲き 祖國の岸を打たん時 あはれ護國の柏葉旗 其旗の下我死なん 9番歌詞 北風が通り過ぎ、波を巻き起こし、その波が祖国日本の岸を洗う時、すなわち日露戦争の戦争の様子が祖国日本に伝えられるとき、一高健児の戦意は高揚し、護國旗の下で死んでもいいくらいに、感極まる。

「護國の柏葉旗」
 護國旗は一高の校旗。柏葉旗といったのは、一高の武を象徴する柏葉を強調するためであろう。

「其旗捧げ我死なん」
 戦意高揚し感極まった一高生の心意気をいう。
 「當時の一高は理論等なかりき、唯愉快なりき時恰も日露の風雲たゞならず全寮の興奮湧き立つ許り也」(「向陵誌」瓣論部部史昭和10年6月5日 穂積重遠))
登る朝日に露消えて 東亞の覇業成らん時 あはれ護國の柏葉旗 其旗捧げ我起たん 10番歌詞 我が日本軍の勝軍に、露(ロシア軍)は消え去り、日本が東亜の覇権を握ろうとする時、一高健児は感極まって、護國旗を捧げ起つのである。

「登る朝日に露消えて 東亜の覇業成らん時」
 「登る朝日」は日本、「露消えて」の「露」はロシアのことをいう。この戦いに勝利して、日本が東亜の覇権を握る時の意。
 「末は魯縞も穿ち得で 仰ぐは獨り日東の 名も香んばしき秋津島」(明治34年「アムール川の」3番)
                        
先輩名 説明・解釈 出典
井上司朗大先輩  特に第九節の「あはれ護国の柏葉旗、其の旗の下我死なん」は、当時の学生にとっては、内部から自然にあふれ出た憂国の叫びであって、それは同時に、日清戦役の戦果を三国干渉によって奪い去られた、日本国民全体の臥薪嘗胆の対露感情であった。
(この寮歌は、)流行歌「熱海の海岸散歩する」という「金色夜叉」の主題歌にまで利用され、全国を風靡した。更に太平洋戦争中は、寮生の出征壮行歌となる。
「一高寮歌私観」から
園部達郎大先輩  東大三年、民法を教わった穂積重遠先生(明治27)の傑作、私は難問を抱えてよく先生の研究室を訪れていた。或る日、先生が大変晴れやかだったので、つい「先生の”都の空”、今も我々よく歌ってますよ」と申したら、先生「若気の至りで、あんなの作っちゃいましたからね」とか仰言って、それでも笑顔を崩さないので、ホッとしたことがある。南方三年の間、一高同窓生が寄ると、よく寮歌(うた)ったものだが、最初が「アムール川」、次がこの歌と決まっていた。・・・7、「東亜の天地三千里、健児飛躍の舞台ぞや」 あの温厚な穂積先生の何処からあの意気が吹き出すのか。今も快く歌っている。この頭の処が、「金色夜叉」の「熱海の海岸散歩する」と同じようなのも、偶然ではなかろう。鈴木充形さん(明39、日清紡)の名曲の始り(第2作目)でもある。 「寮歌こぼればなし」から

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