旧制第一高等学校寮歌解説

嗚呼玉杯に

明治35年第12回紀念祭寮歌 東寮

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1、嗚呼玉杯に花うけて   緑酒に月の影やどし
  治安の夢に耽りたる    榮華の巷低く見て
  向ヶ岡にそゝりたつ     五寮の健兒意氣高し

2、芙蓉の雪の精をとり   芳野の花の華を奪ひ
  清き心の益良雄が    劔と筆とをとり持ちて
  一たび起たば何事か   人生の偉業成らざら
*「劔」は昭和10年寮歌集で「劍」(5番と同じ字)に変更。

3、濁れる海に漂へる    我國民を救はんと
  逆巻く浪をかきわけて  自治の大船勇ましく
  尚武の風を帆にはらみ  船出せしより十二年

4、花咲き花はうつろひて  露おき露のひるがごと
  星霜移り人は去り     梶とる舟師(カコ)は變るとも
  我のる船は常へに    理想の自治に進むなり

5、行途(ユクテ)を拒むものあらば  斬りて捨つるに何かある
  破邪の劍を抜き持ちて  舳に立ちて我よべば
  魑魅魍魎(チミモウリョウ)も影ひそめ   金波銀波の海静か
現在の曲は、ハ短調。明治37年初版寮歌集では、ニ長調であった。父に肩車され聞いた「嗚呼玉杯」も確かこのような調子であったと思う。 一高寮歌解説書(P66)に、「曲調は元来ハ長調で作曲され」とあるは、ニ長調の間違い。ちなみに昭和50年寮歌集 添付の原譜は「ニ調」、平成16年寮歌集添付の原譜は「ハ調」(調だけの問題なので訂正しなかったと聞く)となっている。 大正10年寮歌集では、変体仮名?で「よ調」とよく似た表示、これを「は調」と判じたのであろう(あくまで憶測)。

大正10年頃に、この「嗚呼玉杯は」は一高では特別の歌、締めくくりの歌として定着した。定着化の過程で、この歌は今我々が聞く玉杯のように次第に荘厳な曲になっていった。大正10年の寮歌集では、譜に変更はなかったが、関東大震災で復刊された大正14年の寮歌集では、「は調 4/4」と明示され、次のように変更された。これを「ハ短調」で歌えば、現在の「嗚呼玉杯」である。
 
1、「えいがのちまた」の「ちまた」 3段1小節 「ドーレミー」から「ドーミレー」
2、「ひくくみて」の「みて」 3段2小節 「レーレドー」から「レーミレー」
3、「むかふがおかに」 3段3小節 「ソーソミードミーソド」から「ドードラーソラードレー」
4、「そそりたつ」 4段1小節 「レーレドーラドー」から「ミーレドーラドー」
            
        大正14年寮歌集掲載「嗚呼玉杯」の左はハ長調の、右がハ短調のMIDI演奏である。

 その後、昭和10年寮歌集で、「けんじ」(4段2小節)が「ラードソー」から「ラーラソー」(ハ短調読みでは「ファーファミー」)に変更され、現在に至っている。

 
私たちは、先輩から昭和10年寮歌集で、ハーモニカ譜から五線譜に直すとともに、この時に初めて「実際の歌い方に譜を訂正した」と聞いてきたが、関東大震災で版を失い復刊された大正13年11月1日の寮歌集で、「嗚呼玉杯や」、「春爛漫」等の譜は、その当時の実際の歌い方に訂正されていた。


語句の説明・解釈

寮歌祭ではお馴染みの寮歌ですが、一高では、玉杯は特別の歌で、滅多に歌うことはない。「嗚呼玉杯」が特別の地位を占めるようになったのは、何時のことか? 関心のある方は、こちらをクリックして下さい。昭和13年理甲・奥田教久大先輩の「嗚呼玉杯」考を掲載しております。

「翌年再び作詞を依嘱さるるに際し、『春爛漫』の字句修正の程度ならばとて応諾したるも、中々出来上らず、たしか2月11日の紀元節の夜、芝桜川町の叔父の宅より帰寮の途次、日比谷練兵場を横ぎり桜田門までほうこう(彷徨)漫歩しながら構想思案し、ほぼ成案を得たり。これ『嗚呼玉杯』の寮歌なり。
 二重橋際に皇居を拝しつつ。おほりの水に月光のきらめき、四方のしこぐさ(醜草)伏しなびき、国運の隆々たるより連想して、『ちみもうりょう(魑魅魍魎)も影ひそめ、金波銀波の海静か』の結句を得、初三節に『春爛漫』と同工異曲ながら一高健児のさっそうたる雄姿を描写し、更に数カ月後一高を去る哀愁を托して、『花咲き花はうつろひて、露置き露の干るがごと』に始まる第四節を作れり。
 帰寮後直ちに作曲者楠正一君に示し、措辞語詞の硬軟緩急を塩梅して出来上がりたるもの、すなわち東寮寮歌『嗚呼玉杯』これなり。
 この歌も相当愛唱されたるも、校内外共に依然『春爛漫』の独断場たるの感を呈し、共に比肩きっ(拮)抗するに足らず。
 かくて明治39年横浜正金銀行に入り海外に勤務することになり、時に異郷にありて『春爛漫』の歌声の聞き感慨にふけることもありしが、作歌後17年すなわち大正8年満洲長春において一高シベリア視察団より、『嗚呼玉杯』はわれらの愛唱おかざる大切なる歌にして校歌ともいうべく『春爛漫』は2番目の愛唱歌にして、はるかに下風に立つ、と聞き、さもあらんと一応首肯しながらも、し(嗜)好の推移変遷に驚かされたり。
 後、昭和2年ロンドンより帰朝して内地勤務となりしが、この時ははすでに『春爛漫』の影薄く、一般に一高寮歌といえば『嗚呼玉杯』を指すに至れり。」(矢野勘治「六十年・夢心地の感慨」昭和35年11月3日朝日新聞ー旧制高等学校全書第6巻より抜粋)

語句 箇所 説明・解釈
嗚呼玉杯に花うけて 緑酒に月の影やどし  治安の夢に耽りたる 榮華の巷低く見て 向ヶ岡にそゝりたつ 五寮の健兒意氣高し 1番歌詞 玉杯に散りくる桜の花びらを(うかべ)べ、緑酒に月の影を宿しては、桜の木の下で宴を張って、治安の夢に浮かれている。そういう栄華の巷を見下ろして、向ヶ丘に高く聳える五寮の寄宿寮に籠城する一高健児の意気は高い。「玉杯」は、玉(珠に対して美しい石をいう)で作ったさかずき。さかずきの美称。 「綠酒」は、中国の緑色に澄んだ上等の酒。うまい酒。

「嗚呼玉杯に花うけて 緑酒に月の影やどし」
①「受けて」か「浮けて」(泛けて)か。
 初版寮歌集、嗚呼玉杯が特別の地位を占めた大正中頃に矢野勘治自身が認めた字をみても平仮名である。杯にはすでに月の影が浮かんでいる。そこにひらひらと桜の花びらが落ちてきて、月の影を揺らしたと私自身は解釈している。月の影は、静で虚。これに対し「花」は、動で実とした方が、宴会の描写はリアルで詩的であると思うのだが、如何か。

「『うけて』は、『浮けて』(浮かべての意)で、『受けて』ではない」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)

②「緑酒」を飲んでいるのは誰か。
 「治安の夢に耽りたる榮華の巷」の俗人と解す。しかし、豪傑主義を好む立場から、弊衣破帽の一高生が酒を飲んで天下国家を論ずる姿を想像するのも、これまた結構である。寮歌として否定しない。一節の歌詞を花の宴の描写ではないとする見方もある。末尾の一高・井下先輩の意見を参照下さい。

「月の影やどし」
 櫻の花びらが舞い散る中、玉杯の酒には月の影が映っている。花びらが盃に落ち月の影がゆらゆらと揺れている。昔、武将が陣中で使ったような大きな杯になみなみと酒を注いで飲んでいるようである。

「五寮」
 東・西・南・北・中寮の五寮。明治34年、一高は1年生から3年生まで全員が寮に入る皆寄宿制となった。
芙蓉の雪の精をとり 芳野の花の華を奪ひ 清き心の益良雄が 劔と筆とをとり持ちて 一たび起たば何事か 人生の偉業成らざら 2番歌詞 富士山の雪のように純白な、吉野山の桜のようにきれいな、清き心を持った勇ましく猛々しい一高健兒が、文武両道の才を発揮して、一度世に立てば、必ずや人生の偉業を達成する事であろう。 「芙蓉の雪、芳野の花」は、富士山の雪、吉野山の櫻。

「劔と筆」
 一高生は文武両道に秀でることが求められた。校章は武を象徴する柏と文を象徴する橄欖で形作る。柏葉橄欖は、ギリシャ神話(正しくはローマ神話」)の武の神マルスと文の神ミネルバの象徴である。本郷一高の倫理講堂には文を代表する菅原道真と武を代表する坂上田村麻呂の肖像画が掲げられていた。そして、本館の玄関前には橄欖の木が植樹されていた(すだ椎)。3番歌詞「尚武の風を帆にはらみ」も同じ趣旨。

「マルスの神は矛執りて ミネルバの神楯握り」(明治35年西寮「混濁の浪」4番)
「柏蔭は力なりけり 橄欖は叡智を香りき」(昭和9年「梓弓」3番)
「橄欖の森柏葉下 語らふ春は盡きんとす」 (大正3年「黎明の靄」2番)
濁れる海に漂へる 我國民を救はんと 逆巻く浪をかきわけて 自治の大船勇ましく 尚武の風を帆にはらみ 船出せしより十二年 3番歌詞 濁った海に漂っている我が国民を救おうとして、逆巻く波をかき分けて、尚武の風を孕ませ自治の大船が勇ましくて船出してから12年たった。自治寮を大船にたとえる。すなわち、俗界で目標を失い、さ迷っている国民を救おうと、向ヶ丘に自治寮を立て、武士の心をもって籠城してから12年経った。
「自治の光は常暗の 國を照せる北斗星 大和島根の人々の 心の梶を定むなり」(明治34年「春爛漫」6番)

「自治の大船」
 明治28年北寮々歌「西に富士東に筑波」は、「嗚呼玉杯に」3番以下の”自治の大船”に関する歌詞に多少の影響を与えたかと推測する。 
  1番   自治の港を船出せし 東西寮と南北寮
  3番   自重のマストに掲げし帆に 廉恥の風をはらませて
  6番   吹き來る風を物とせず 逆巻く怒濤を蹴破りて

「十二年」
 生誕12年のことだが、何時の頃からか、「十餘年」と歌う。一高寮歌祭で、「今後は原文通り『十二年』でお願いしたい」と改めようとしたが、依然として『十餘年』と歌う一高生が多い。

「籠るも久し十餘年」(明治34年「春爛漫」3番)
「操を立てゝ十餘年」(明治35年「混濁の浪」1番)
「籠りてこゝに十二年」(明治36年「野球部部歌」1番)
花咲き花はうつろひて  露おき露のひるがごと 星霜移り人は去り 梶とる舟師(カコ)は變るとも 我のる船は常へに 理想の自治に進むなり 4番歌詞 年々春が来ては桜の花は咲いては散り、朝、露が結んでは、やがては消えてしまう。そのように星は巡り霜降る年が変わるにつれ、寄宿寮の一高生は卒業して入れ替わっていくけれども、我等の寄宿寮は、永久に理想とする自治を達成しようと進んでいく。
 
「星霜」は、星は1年に天を一周し、霜は年ごとに降るから、年月をいう。 「梶とる舟師」は、自治の担い手一高生。 「我のる船」は寄宿寮。
行途(ユクテ)を拒むものあらば 斬りて捨つるに何かある 破邪の劍を抜き持ちて  舳に立ちて我よべば 魑魅魍魎(チミモウリョウ)も影ひそめ 金波銀波の海静か 5番歌詞 我等の行く手を邪魔するものがあれば、これを斬って捨てるだけだ。破邪顕正の剣を抜き持って、自治の船の舳先に立って叫べば、自治を邪魔しようとする魔物は退散して、金波銀波のきれいな静かな海となる。 すなわち、自治を邪魔する者がいれば、自治の大切さを説いて、誤った見解を打ち負かしてやるだけだ。寄宿寮の先頭に立って、自治を叫べば、誰も反対する者などいない。自治寮は順風満帆である。

行途(ゆくて)を拒む」
 「拒む」の読みは、「こばむ」か「はばむ」か。一高生の多くは「こばむ」と歌うが、新制東大生は「はばむ」と歌う。ちなみに私自身は小さい頃から、「はばむ」と歌っていた。しかし、今は一高生にあわせ、「こばむ」と歌う。

「破邪」
 (仏)誤った見解を打ち破ること。破邪顕正。ここでは、自治に反対・邪魔する者がいれば、自治の大切なことを説いて、誤った見解を改めさせること。

「魑魅魍魎」
 山の怪物や川の怪物。さまざまの化物。「魑」は虎の形をした山神、「魅」は猪頭人形の沢神、「魍魎」は、すだま、木石の精気から出る怪物。三歳くらいの幼児に似て、色は浅黒く、耳が長く目が赤くて、よく人の声を真似て人を騙すといわれる。ここでは、寄宿寮の自治を邪魔する個人主義の風潮等をいう。
「人間社会に害毒を流す不正で邪悪なもの一切を指している」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
                        
先輩名 説明・解釈 出典
井上司朗大先輩

 この時も、(「春爛漫」の時のように)寮委員松野松太郎氏からの直接の委嘱があり、矢野氏は『春爛漫』を女性的とする一部寮生の批評に答える意気込みで、同じ宮城(皇居のこと)前をさすらいつつ、章を成したという。歌詞は『春爛漫』の境地を更に掘りさげたもの、表現は通俗に堕せず、文学性に走らず、一読高朗清爽、しかも月夜の荒海をゆくが如きイメージの崇高性と一抹の悲壮味とは、之に適わしい天才楠正一氏の作曲を得て、当時全国の若人の愛誦する国民歌となった。

「一高寮歌私観」から
園部達郎大先輩  「原文の『十二年』に戻せ、の論、ご尤もである。・・・・といって、今から『十二年』と言われても、歌の勢い、つい『十余年』を続けそうな気がする。」

「通常コバムと歌っている。これに対して、『ハバムではないか』、大分以前からこの説がある。八十年ご厄介になった『字源』ではどうやらコバム論、ハバムは、沮、阻むを使っている。戰後の『広辞苑』では、コバム、拒、ささえ防ぐ、はばむ、そして承知しない、応じない、ハバム、 沮、阻む、難、なじる、行手を抑え邪魔をするとあって、どうやらハバムの方が歌意に適する。では、ハバムに統一した処で、少なくも九十年歌って来た咽喉は熱唱の余りコバムと歌ってしまいそうな気がする。」
「寮歌こぼればなし」から
井下登喜男先輩 一節は二節以下に謳う高邁な理想の序曲でなければならない。従来の議論の決定的な誤りは、これを花の宴の具体的情景描写と捉え、緑酒、玉杯も文字どおりの酒、酒器と考えた点にある。ここでいう『玉杯』とは『自治』または『四綱領』の、『緑酒』とは『文武』ないし『経国済民』の比喩的表現でなくてはならない。こう解することで始めて、この一節が『嗚呼玉杯に』という一高の代表的と呼ぶに相応しいものになるし、2節以下と矛盾なく読めることになる。」  「一高寮歌メモ」から


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