旧制第一高等学校寮歌解説

姑蘇の臺は

明治34年第11回紀念祭寮歌 北寮

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1、姑蘇の臺は荒れ果てて   麋鹿の庭となりぬとも
  武蔵の原をうねり行く    隅田の流乾くとも
  いかで變らむ變らめや   向が岡の丘の上
  太敷く建てし自治の城    守る健兒の其操

2、岡の岩根は低くとも     高き理想の夢に醉ふ
  一千餘人の丈夫が     腰にはきたる斬馬劍
  君の御爲め國の爲め    仇なすものは打ち拂ひ
  たヾ一筋にすゝむなる    矢竹心の雄々しさよ
明治37年初版寮歌集には譜不明として譜の記載はないので、大正10年寮歌集による(平成16年寮歌集添付の原譜と同じ)。
 
現譜とほとんど変わりはない。昭和10年寮歌集で次の変更があった。

1、「かわらむ」(4段2小節)の「らむ」  1音1字とするため、4分音符が付点8分音符と16分音符に分けた。
2、タタ(連続8分音符)のリズムをタータ(付点8分音符と16分音符)のリズムに改めた(10箇所)
3、スラー・タイが4箇所付いた(例:「こそのだーい」はの「だー」)


語句の説明・解釈

語句 箇所 説明・解釈
姑蘇の臺は荒れ果てて  麋鹿の庭となりぬとも 武蔵の原をうねり行く 隅田の流乾くとも  1番歌詞 春秋時代に呉王夫差が美人と誉れ高い越の西施を得て、豪華絢爛を尽くしたという姑蘇の臺が荒れはてて、鹿の遊ぶ原野となってしまったが、そのように武蔵野を流れる隅田川の水が万が一乾くことがあったとしても。

姑蘇(こそ)の臺」
 春秋時代に、呉王の闔廬が築き、その子の夫差が越を破って得た美人の西施と遊んだ台の名。今の江蘇省呉県の西南の姑蘇山上にあった。

麋鹿(びろく)」は、麋(トナカイ、おおしか)と鹿。 「隅田の流」は、隅田川の水。
いかで變らむ變らめや 向が岡の丘の上 太敷く建てし自治の城  守る健兒の其操 1番歌詞 向ヶ丘にいかめしく建てた高く聳える自治の五寮を守る一高健児。自治を守るという固い操は、どんなことがあっても変わることはない。

「向が岡」
 本郷区向ヶ岡彌生町。明治22年から昭和10年駒場に移転するまでの一高の所在地。今の東大農学部キャンパス。

「太敷く建てし」
 「太敷く」とは、柱などをいかめしく建てること。宮殿を立派に建てること。明治33年9月10日、南・北・中の三寮が一高校内に落成、東・西二寮と合せ、一高寄宿寮は五寮となった。収容力が増えたので、翌34年念願の皆寄宿制が実現することが出来た。
岡の岩根は低くとも 高き理想の夢に醉ふ 一千餘人の丈夫が 腰にはきたる斬馬劍  2番歌詞 向ヶ丘といっても丘そのものは、それほど高くはないけれども、そこに集う一高健児の掲げる理想は高い。一千余の猛々しく勇ましい若者は、校旗・護国旗の下、スパルタ武士にも劣らない尚武の心を持っていて。

「岡の岩根は低くとも」
 「岩根」は、岩の根元。大部分が大地に埋もれ固定した岩。「岡の岩根は低くとも」とは、向が岡といっても、それほど高い丘ではないけれどもの意。本郷の標高は20メートルから50メートル位という。
 「この節全体が明治23年5月17日に起こった『インプリー事件』を含意していると考える。」(森下達朗東大先輩「一高寮歌解説書の落穂拾い」)
 明治23年5月17日 「インプリー事件」起きる。校庭での対明治学院野球戦応援に同学院教授インプリーが垣根をまたいで駆けつけたことで揉め、投石負傷させた。
 「一高寮生の一部にはこの事件を、神聖な城の垣根を越えて闖入した洋漢を膺懲した英雄的エピソードとして伝え、やがて定着してゆく正門主義の発露として語りつぐ者もいたようであるが、そうした説明は当を得たものとは言えまい。」(「一高自治寮60年史」)

「斬馬剣」
 前漢の名剣の名。馬を一刀で切断し得るほどの極めて鋭利な剣。

「尚武の風はスパルタの」(明治36年「筑波根あたり」8番)

「この節全体が明治23年5月17日に起こった『インプリー事件』を含意していると考える。この日、一高の校庭で一高と明治学院との野球戦が行われ、試合は6回、0-6で一高が不利であった。この時、一人の外人(明治学院教授のインプリー氏)が垣根を越えて校内に入ってきた(「岡の岩根は低くとも」)。これを見つけた一高生が難詰し、さらに投石して外人の顔を傷つけるに至った(「仇なすものは打払ひ」)ため、国際問題にもなりかねないと懸念されたが、関係者の奔走によりようやく解決した。一高生の一部には、この事件を正門主義の発露ととらえ、英雄的エピソード(「矢竹心の雄々しさよ」)として語りつぐ者もあった。」(森下東大先輩「一高寮歌解説書の落穂拾い」)
君の御爲め國の爲め 仇なすものは打ち拂ひ たヾ一筋にすゝむなる 矢竹心の雄々しさよ 2番歌詞 天皇のため、また国のため、刃向う者は打ち払い、ただ、大和心一筋に、いよいよ猛り勇む心の男らしいことよ。
「矢竹心」は、「弥猛心」 いよいよ猛り勇む心。

「大和心の一すぢに ちかひしかため千代かけて 匂ひも清きますら男の まほらの友も千餘人」(明治34年「世紀の流れ」1番)」
飛びくる野球(たま)は久方の 空に轟くいかづちか 天が下には敵もなく  外國ばらの膽寒し 3番歌詞 バット一振、飛び来る球は、空に轟く雷のようだ。野球部は天下に敵もなく、外国人チームの如きも一高野球部の強さに驚き恐れている。 「久方の」は、天・空・月にかかる枕詞。

「外國ばらの膽寒し」
 無敵を誇った一高野球部は、横浜アマチュア倶楽部、米国軍艦乗員(ヨークタウン号、ケンタッキー号、デトロイト号)を寄せ付けず大勝。一高は明治29年から37年まで、横浜の外人チームと13回戦い11勝した。「ばら」は、接尾語。人に関する名詞について、・・・の如き仲間・階層の人の意にそえる。対象に対する敬意に欠けた表現に使われることが多い。「膽寒し」は、驚き恐れる意の「胆を冷やす」と同じ意。

  3、飛びくる野球(たま)は久方の   空に轟くいかづちか
    天が下には敵もなく     外國ばらの膽寒し
    隅田河原の夕まぐれ    逆巻く浪に漕ぎ行けば
    みつちは激し鰐怒り     向はんものゝ影もなし
   *「河原」は、遅くも大正7年寮歌集で「川原」に変更。
隅田河原の夕まぐれ 逆巻く浪に漕ぎ行けば みつちは激し鰐怒り 向はんものゝ影もなし 3番歌詞 隅田川原の夕まぐれ、逆巻く浪を掻き分けて、一高端艇部がボートを漕ぎ出せば、みつちが暴れ、鰐が怒り狂う姿にも似て、刃向う敵もいない。

「隅田河原の夕まぐれ」
 明治20年から32年にかけて、一高端艇部は前後6回、高等商業学校(現一ツ橋大学)と競漕し、六たび墨江に凱歌を挙げた。

「みつち」
 (チはヲロチ(蛇)のチに同じ、威力あるものの意) 想像上の動物。水にすみ、蛇に似て、角と四足をもち、人に害を与えるという。
 
十九世紀の昔より 筑波颪にひるがへる 自治の旗風今も猶ほ 色あざやかに押し立てゝ 4番歌詞 19世紀の昔から、わが一高は筑波颪の厳しい向ヶ丘に自治寮を立て、爾来、今日に至るまで自治の礎をさらに強固に発展させてきた。この自治の力をもって、オリンピック出場を目指そうの意。

   4、十九世紀の昔より     筑波颪にひるがへる
     自治の旗風今も猶ほ   色あざやかに押し立てゝ
     目指す所はオリンピア   二十世紀に鞭打ちて
     いでやためさん我腕    いでやためさん我腕   
  
目指す所はオリンピア 二十世紀に鞭打ちて いでやためさん我腕 いでやためさん我腕  4番歌詞 前年のパリ大会ではボートが競技種目に加えられた。一高端艇部の目標は、オリンピック出場だ。今年は、世紀が変わり20世紀となった。気持ちを新たに猛練習を重ね、さあ、さあ、オリンピックで我腕を試そうではないか。

「オリンピア」
 オリンピック競技大会のこと。「鞭打ちて」と、オリンピック出場を目指すという。明治34年は西暦1901年。前年パリで、万国博覧会が開かれ、その付属大会として、第2回オリンピック大会が開かれた(5月14日から10月28日)。パリ大会からはボートも競技種目となった。ちなみに、日本が始めてオリンピックに参加したのは、明治45年(1912年)、ストックホルムで開かれた第5回大会からである。

「二十世紀に鞭打ちて」
 明治34年は、前述のとおり19001年で、世紀が代り、二十世紀を迎えた。4番出だしで「19世紀の昔より」とは、少しオーバーである。「鞭打ちて」は、猛練習して。
                        

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