旧制第一高等学校寮歌解説

アムール川の

明治34年第11回紀念祭寮歌 東寮

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1、アムール川の流血や    氷りて恨結びけむ
  二十世紀の東洋は    怪雲空にはびこりつ

2、コサック兵の劍戟や    怒りて光散しけむ
  二十世紀の東洋は     荒浪海に立ちさわぐ
*「散しけむ」は昭和10年寮歌集で「散らしけむ」に変更。

3、滿清既に力盡き       末は魯縞も穿ち得で
  仰ぐは獨り日東の      名も香んばしき秋津洲

4、櫻の匂ひ衰へて       皮相の風の吹きすさび
  清き流を汚しつゝ      沈滞こゝに幾春秋

5、向が岡の健男兒      虚聲偽涙を外にして
  照る日の影を仰ぎつゝ    自治寮たてゝ十一年

6、世紀新に來つれども      北京の空は山嵐
  さらば兜の緒をしめて    自治の本領あらわさむ
*「來つれども」は大正7年寮歌集で「來れども」に変更。
1、JASRACは依然として永井建子作曲(著作権消滅)と明示する。しかし、一高寮歌集はじめ、旧制高校寮歌愛好家の間では一高生栗林宇一の作曲とするのが定説。そうだとすれば「春爛漫の」とともに、作詞・作曲とも一高生による記念すべき最初の寮歌となる。(ただし、当時の一高生の「19世紀末の歌?と譜は同じ」とのメモもある)
2、最近、永井建子には明治32年作曲の軍歌「小楠公」という曲があり、明治34年作曲の「アムール川」の元歌であるとの説が出された。メロディーは酷似していることから、古い方の「小楠公」の方が元歌と考えるのが妥当との意見が強くなっている。下に「小楠公」のメロディーを載せる。スタートボタンを押してお聞きください。
 ちなみに、この譜は、「小楠公」のためだけのものではなく、広く「七五調の軍歌を歌うため」に作曲された。当時の多くの軍歌がこの「小楠公」のメロディーで歌われ、栗林宇一もこの軍歌などに相当の影響を受け、、一高寮歌「アムール川の」を作曲したと推測される。ただし、世間にこのメロディーを広く流行らせたのは、「征露歌」を通じてであり、「アムール川」の寮歌は、「小楠公」事件をもっても微動だにしないだろう。
                              
一高「アムール川」の譜の変遷の概要は以下のとおり。これほどの愛好寮歌が一部を除き、100年以上も歌い継がれながら原形をほぼ保っている。秀歌の証拠だろう。
1、ト長調・4分の2拍子はそのまま。
2、譜の変わったところは、「二十 せいきの」(3段1・2小節)と「くわいうん」の「ん」(4段1小節4音)で、それぞれーソソーソ ソーソソーソ、 ミ(昭和10年寮歌集)のみである。


語句の説明・解釈

 この寮歌の譜は、人気が高く内外で借用されている。一高では「征露歌」(明治36年)に、軍歌として「歩兵の本領」、労働歌として「メーデーの歌」、さらに海を渡って北朝鮮共産党の歌となっているとか。「征露歌」最後の歌詞「戰はむかな時機至る」は、今も應援歌として歌っている学校が多いのでは。

語句 箇所 説明・解釈
アムール川の流血や 氷りて恨結びけむ 二十世紀の東洋は 怪雲空にはびこりつ 1番歌詞 ロシア・コサック兵による清国人の大量虐殺で、清国人の遺体が筏のようにアムール川を流れ、広い川を真っ赤に血で染めたという。清国人の恨みで、アムール川は氷ってしまったようだ。20世紀の東洋は、満蒙の権益を巡る日露の深刻な対立で、戦雲が立ち込めて、一触即発の情勢だ。

「アムール川の流血」
 明治33年7月13日のミハイル号の銃撃に端を発したブラゴヴェシチェンスク事件(同月16日、コサック兵が清国人3000人を虐殺) および8月2日から3日の黒河・愛琿事件(兵力2000が黒河鎮に渡河上陸、清国人を大虐殺)(井下一高先輩「一高寮歌メモ」)
 「怨は長きアムールや 魯人の暴に清の民 罪なく逝けり數五千」(明治37年「征露歌」8番)
 
 アムール川は、中国では黒竜江で同じ川である。ロシアと清国は1858年愛琿条約(1860年北京条約)で黒龍江沿いの国境を取り決めた。ブラゴヴェシチェンスク(現ロシア・アムール州州都)は、黒龍江左岸でロシアの要塞都市として築かれた。愛琿(現中国・黒龍江省黒河)はその対岸の清国側の都市で、距離はわずかに750メートルの至近である。1900年(明治33年)義和団事件で、ブラゴヴェシチェンスクが清軍に砲撃される事件が起きた。その報復として、ロシアのコサック兵が混住する全ての清国人をアムール川左岸から排除するためにアムール川に突き落としたり、また対岸愛琿に渡河して清国人を多数虐殺した。清国人の遺体が筏のようにアムール川一面をを真っ赤に染めて下って行ったという。
 ロシアの東進に対する清露間の国境は、1689年(清国康熙帝、露国ピョートル大帝の治世)のネルチンスク条約で、アルグン川ー外興安嶺を境とすると決められた。これを改めた愛琿条約はロシアにアムール川左岸の領有、松花江の航行権を認めたもので、清国側に不満の残るものであった。清国側はこの愛琿条約を否認しようとしてロシアと争ったが、1860年11月北京条約で再確認させられてしまった。

「怪雲空にはびこりつ」
 義和団事件に乗じて満洲・朝鮮の権益を露骨にを拡大しようとするロシアと日本との対立の深刻化をいう。ロシアは満洲撤兵の約束を履行せず、事態はやがて日英同盟、日露戦争へと発展していく。そういう気運をいうのであろう。2番の「荒浪海に立ちさわぐ」も同じ。
コサック兵の劍戟や 怒りて光散しけむ 二十世紀の東洋は 荒浪海に立ちさわぐ 2番歌詞 コサック兵は、義和団暴徒許さじと荒れ狂って剣を振るったのだろう。20世紀の東洋は、遼東半島の権益を巡る日露の深刻な対立で、黄海の海に荒波が騒いで、一触即発の情勢だ。

「コサック兵の劍戟」
 「コサック兵」は、もとトルコ語で、自由人の意。15から17世紀のロシアで、領主の過酷な収奪から逃れるため南方の辺境に移住した農民とその子孫。のち半独立の軍事共同体を形成、 騎兵として中央政府に奉仕し、ロシアのシベリア征服・辺境武備に重要な役割を果たした。ロシア革命の時には、反ボリシェヴィキ勢力に属した。シベリア征服のエルマーク、反乱指導者のステンカ・ラージン等は有名。ソ連崩壊後、コサック兵組織が復活、チェチェン紛争等に義勇兵として参加しているようである。ここでは、ロシア側の国境守備兵。「劍戟」は、刀で切り合う戦い。ここでは義和団暴徒および清国人の虐殺。
 「血に飽くことを知らずして 劔に人道蹂躙す 彼殘虐のコサック兵 滿韓の野に狂へるを」(明治37年「思ひ出づれば」第二の4番)

「怒りて光散らしけむ」
 義和団暴徒許さじと、荒れ狂って剣を振るったのだろう。「怒りて」は、ロシアの要塞都市ブラゴヴェシチェンスクが清軍(義和団暴徒)に砲撃されたことを怒って。「光散し」の「光」は剣光で戦い。
 「けむ」は、過去の事態に関する①不確実な想像・推量、②原因の想像、さらに③伝聞を述べることがある。
 「血に飽くことを知らずして 劔に人道蹂躙す 彼れ殘虐のコサック兵 滿韓の野に狂へるを」(明治37年「思ひ出づれば」第二の4番)
 1番では、ロシアの残虐な行為を非難しながら(氷りて恨結びけむ)、2番では、この行為の正当性を擁護しているかのようだとして、井下一高先輩は「本寮歌はロシア側に共感してかの如し」という(一高寮歌メモ)。
 
「荒浪海に立ちさわぐ」
 明治28年の日清戦争では、せっかく獲得した遼東半島をロシアが呼びかけた独露仏の三国干渉により、放棄せざるを得なかった。しかもロシアは、その見返りに清国から旅順・大連の租借を得た。日本は、この屈辱を臥薪嘗胆のスローガンのもとに、ロシアを仮想敵国に海軍軍備増強などに国を挙げて取り組んだ。
滿清既に力盡き 末は魯縞も穿ち得で 仰ぐは獨り日東の 名も香んばしき秋津洲 3番歌詞 中国は、もう力が尽きて、今は極薄の魯縞(魯狄(ロシア))さえ射抜く力がなくなった。東洋の盟主として、ロシアの南下を食い止めることの出来るのは、独りその名も美しい秋津島の日本だけである。

「満清既に力盡き」
 アヘン戦争以来、列強の半植民地と化した中国は、日清戦争(明治27年から28年)で日本にも破れた。明治33年の義和団事件では、、列強に宣戦布告するも、北京は陥落し敗北した。
 
 清の時の皇帝は光緒帝。日清戦争後、康有為らを登用して内政の改革を企てたが(変法自強。日本の明治維新にならって、国会を開き、憲法を制定、立憲君主制を実現しようとした)、1898年(明治31年)戊戌の政変で、西太后らを中心とする保守派に鎮圧され、幽閉された。

「魯縞」は、魯の国に産する、薄くてしまの細かい白絹。明治37年2月の「征露歌」に「怨は長きアムールや 魯人の暴に清の民」とあるように、またロシアを蔑称して「魯狄」というように、「魯」はロシア。 魯狄(ロシア)を暗喩する。「穿ち得で」とは、国力が極端に衰退した意。具体的には、ロシアの南下を食い止め、東亜の平和を守る力は中国にはない。「秋津島」は、日本国の異称。東亞を守ることの出来るのは、今や我が日本である。

 「『魯縞』の『魯』はロシア(魯西亜)を暗喩しており、かつて強大であった清国の国力が衰えて、今やロシアに太刀打ちできず日本の力を頼るしかなくなっていることを詠っている。」(森下達朗東大先輩「一高寮歌解説書の落穂拾い」)       
櫻の匂ひ衰へて 皮相の風の吹きすさび 清き流を汚しつゝ 沈滞こゝに幾春秋 4番歌詞  維新の文明開化の影響で、「花は櫻木人は武士」(端艇部部歌)と詠われた武士の魂や大和心が失われ、日本人の順風美俗は、今日まで長きにわたり、世間の惡風汚俗に侵されてきた。(森下達朗東大先輩のご指摘により前説の「臥薪嘗胆説」を改めた)

「櫻の匂ひ衰へて 皮相の風の吹きすさび」」
 「櫻の匂ひ」は、大和心、武士の魂。「皮相の風」は、世間の惡風汚俗。
 「近来我邦の風俗漸く壞敗して禮儀將に地に墜ちんとし殊に書生間に於ては徳義の感情甚だ薄く、試みに其下宿屋に在る狀況を察すれば放縦横肆にして殆んど言ふに忍びざるものあり。」
「苟も此惡風に染まざらん事を欲せば宜しく此の風俗に遠ざかり、此書生との交際を絶たざるべからず。而して此目的を達せんが爲には籠城の覺悟なかる可からず。我校の寄宿寮を設けたる所以のものは此を以て金城鐡壁となし世間の惡風汚俗を遮斷して純粋なる徳義心を養成せしむるに在り。決して徒に路程遠近の便を圖り或は事を好みて然るに非る也。」(「向陵誌」明治23年2月24日木下校長訓辞)
 「日本国内の状況を踏まえた表現と思われるが、具体的にどういう現象を踏まえているかは不詳。あるいは櫻に象徴される日本精神を忘れ去り、外面的にヨーロッパ風を模倣した皮相な風潮を指しているのかもしれない。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
 「『桜の匂ひ衰へて』とは、明治になって武士道精神が衰え風俗がみだれたことをさす(CF.「花は桜木人は武士」)。同じ作者による明治36年の東大寄贈歌『かつら花咲く』の第四節に『十三年の其の昔……皮相の風に逆ひつ』とあることからもわかるように、『皮相の風』云々は自治寮発足以前における下宿学生たちの悪風汚俗の情況をさすと見るのが順当であろう。したがって『沈滞こゝに幾春秋』は一高の自治寮が発足するまでの時期をさすと解する。これを受けて次の第五節では、『自治寮たてゝ十一年』と歌っている。」(森下達朗東大先輩「一高寮歌解説書の落穂拾い」)

「沈滞こゝに幾春秋」
 明治33年9月10日、南・北・中寮の3新寮が校内に落成し、一高自治寮は五寮となった。収容能力が増えたので、翌34年1月8日、寄宿寮規程が改正され、「本校生徒ハ在学中寄宿寮ニ入ルベキモノトス」となり、全寮制(皆寄宿制)が実現した。一高自治の完全を期す為には、巷の俗塵を完全に断ち切って向ヶ丘に全員が籠城する体制が不可欠で、特に明治30年の南北寮分割問題以来、寮生は、全寮制を強く念願してきた。「沈滞こゝに幾春秋」、ついに本年これが実現を見た。なお、「幾春秋」の期間については、前掲の森下達朗東大先輩の「一高の自治寮が発足するまでの時期をさすと解する。」が妥当であろう。
向が岡の健男兒 虚聲偽涙を外にして 照る日の影を仰ぎつゝ 自治寮たてゝ十一年 5番歌詞 一高健児は、世俗の虚偽・欺瞞・不正といった俗塵を絶って、向ヶ丘に籠城した。護國の旗を仰ぎながら、また、ひたすら真理を探究しつつ、自治寮を立てて、11年経った。

「虚聲偽涙」は、「虚聲」は、うその評判、根のないうわさ。「偽涙」は、うその涙。虚偽に満ちた俗世間の風潮に惑わされること無く、真理探究と人間形成の修養のため一高生は別天地向陵に籠城した。「照る日の影」は、護國旗、また真理の両方の意と解す。
世紀新に來つれども 北京の空は山嵐 さらば兜の緒をしめて 自治の本領あらわさむ 6番歌詞 今年、西紀は改まり21世紀を迎えたが、中国では義和団事件が起き、連合軍が北京に侵入したり、たいへんなことになっている。そうであるから、一高生は、全寮制になったのを機会に、兜の緒をしめて、自治の本領を発揮しよう。

「世紀新に來れども」は、明治34年は1901年20世紀である。「來つれども」は、遅くとも大正7年寮歌集で、「來れども」に変更、それ以降の寮歌集で踏襲。「北京の空は山嵐」は、明治33年8月14日 義和団鎮圧の列強軍が北京入城したこと。
                        
                        
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