さよならデフレ 津田山 昭次
「社長、これは千載一隅のチャンスです。」
マーケティング本部長は席を立ち上がり力説した。
「しかし君、今そんなことをして消費者にそっぽを向かれることはないのかね。前回、価格を値上げしたときは売り上げが40%も落ちて、バランスシート保つのに苦労したんだよ。私は。」
財務担当の専務がマーケティング本部長の意見に苦言を呈した。彼の言うとおり、わが社は以前、商品の値上げに踏み切り経営危機に陥ったことがあった。消費者の財布の紐を見誤ると危険なのだ、この業界は。
「今回の事態は数字の問題ではなく、心の問題です。彼らの主張は消費者の財布ではなく心に訴えているのですよ。」
「そんな君、あいまいで抽象的な話でわが社の経営を左右してたまるか。マーケティングのプロの言葉とは思えんよ。」
「では、専務。あなたは彼らの主張をどう思います。消費者だって今までの価格が命の尊厳をバカにした異常のものだと少なからず思っていたはずです。」
「50円のハンバーガーより、自分たちの値段を主張する牛の話聞くほうが異常だと思うよ。私は。」
マーケティング本部長の言うとおり、いくら競争に打ち勝つためといえ50円のハンバーガーは常識の範囲を超えつつあり、命あるものの尊厳をバカにしている。しかし、専務の言うとおり、本来「神の見えざる手」によって決まる肉の価格が肉になるべき牛の希望価格で決まるなどばかばかしいにも程がある。しかし、それは現実だ。
去年ごろからだった。世界中の牛たちが一斉に知性化しだしたのは。牛が知的生物になった以上、人間の食卓から牛肉が消えるのは確実と思われたが、そうはならなかった。人間の予想とは反対に、牛たちは自ら積極的に肉になろうとし、嬉々と屠殺場へ向かった。彼ら曰く「どうせいつかは死ぬなら、高級肉になって死にたい。」とのことだ。牛には牛なりのプライドがあって、その源泉は自分の肉の値段というわけだ。そんなことで、高級ブランド牛では人間との摩擦はなかったが、安い肉、特にわが社のようなハンバーガーチェーンに使われる牛たちは自らの肉の値段に納得がいかないのだ。事実、わが社のオーストラリア契約牧場でも牛たちが自分の肉の買い取り価格引き上げを要求してきている。
今日の会議は、その打開策を話しあうためのものである。その席でマーケティング本部長は牛の要求を呑んで商品の値上げに踏み切るべしと出張した。確かに、牛を育てる原価はさほど知性化前と変わらないため値上げ分は丸々会社の利益になる。経営的にはおいしい話だ。しかし、消費者の財布は怖い・・・・・。私は頭を抱えた。
「社長大変です。たった今、オーストラリアから連絡です。契約牧場の牛たちが要求を受け入れられないという理由で、牧場から集団で脱走を始めました。このままでは、肉の供給は絶望的です。」
隣室で控えていた秘書が蒼白な顔で会議室に飛び込んできた。
これで、結論は決まった。畜生、これぞまさしく「神の見えざる手」、デフレにさようならだ。
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