取材旅行記 第5回
長篠古戦場(愛知県新城市)
当コーナーでは、松姫にゆかりのある史跡や、ゲームの背景に用いる写真を撮った場所を、いろいろと紹介させていただきましたが、今回でとうとう最後です。
ラストを飾るのは、後期の武田家にとって、もっとも大きな出来事である設楽原の戦いがあった長篠古戦場です。
1575年5月、武田勝頼は徳川家康によって落とされた長篠城を奪還すべく、1万5千の兵で城を包囲します。
しかし、城を落とすことができないうちに、織田・徳川の連合軍がやってきて長篠の近くにある設楽原に柵を造ります。
それを見た勝頼は、長篠城に抑えの兵だけを残して、設楽原へと向かい、そして合戦となります。
「長篠の戦い」とよく言われていますが、長篠城の攻防戦は確かに長篠で行われていますが、武田軍と織田・徳川の連合軍が激突したのは設楽原の地なので、「長篠・設楽原の戦い」とも言われています。
なので、今回は長篠と設楽原の二箇所訪れました。
と言っても、JR飯田線で3駅ほどなので、それほどたいした移動ではありません。
取材をしたのは2011年1月でした。
晴れてはいましたが、真冬なのでもともと気温が低いのと、風が出ているうえに周りが田んぼだらけでそれを遮るものがないので、かなり寒さを感じる中での取材でした。
名古屋で前泊して、豊橋経由で行きました。
飯田線で、豊橋始発です。
まずは時間がかかりそうな設楽原から行きました。
三河東郷駅で下車。
駅を出るとさっそくこんな案内板が。
とりあえず、資料館を目指して歩きます。
向かう途中で、さっそくこんな場所が……。
首洗い池とは……。
駅から15分くらい歩いて、ようやく資料館に到着。
外観です。
屋上からは設楽原が一望でき、位置関係がよく分かります。
出るときに地図をゲット。かなり役に立ちました。
あとは、ゲットした地図をもとに、ひたすら歩いてまわります。
順路としては、当時の武田軍の、中軍→右翼(北)→左翼(南)となります。
土屋昌次の墓です。
戦死した場所とは違う場所にあるんですね。
武田軍の本陣が置かれた場所です。
中軍を指揮した内藤昌豊の陣が置かれた天王山です。
いったん北へ向かいます。
かなり寒い道中……。
馬場信房の陣が置かれた丸山です。
大宮前激戦地です。
再現された馬防柵です。
土屋昌次の戦死の地です。
これで、中と北は見たので、あとは一気に下って南に行きます。
道中で、こんなものを見かけました。
赤備えで知られる猛将・山県昌景の墓です。
竹広激戦地です。
家康の物見塚です。
ここから家康は武田軍にビビりながら、いくさを見ていたことでしょう。
一通り見終わったので駅に戻ります。
ここで恒例の、猫を追いかける嫁です(笑
駅で電車を待っている間に豊橋で買った駅弁で昼食。いなり寿司ウマー。
つづいて、長篠城跡に向かいます。
長篠城駅で下車。
城跡は駅から10分も歩かない場所にあります。
歩いていると、物語にも登場する鳥居強右衛門に関する史跡がありました。
磔となった場所です。
墓所がある寺です。
馬場信房の墓も城の近くにありました。
設楽原からここまで撤退して、勝頼を無事に逃がすために殿を務めて戦死しました。
次は、大通寺です。
長篠城を包囲したときに、馬場信房が陣を置いていた場所です。
ここは、設楽原に出陣するにあたって、馬場信房が土屋昌次や山県昌景、内藤昌豊らと別れの杯を交わした場所でもあります。
外観です。
別れの杯を交わしたとされる場所です。
そうして、ようやく城跡までやって来ることができました。
大手門跡です。
搦手門跡です。
瓢郭跡です。
食料庫跡です。
紹介しきれないのでこのへんで(汗
本丸跡のあたりに、資料館があります。
本丸跡付近です。
資料館です。
ここにも鳥居さんが。
参考資料としてゲットしました。
とまあ、以上となります。
じっくり見て回るなら、1日はちょっと厳しいですね。
機会があったら、2〜3日かけてじっくり見てみたいものです。
歩き通しでさすがに疲れた一日でした。
作者の思いつきで始めた取材旅行記ですが、今回で最後になります。
最後まで見ていただいて、ありがとうございました。
- 愛知県新城市竹広字信玄原552番地
- 車の場合 :東名高速道路豊川ICから国道151号で35分程度。
- 電車の場合:JR飯田線「三河東郷駅」から、徒歩15分程度。
- 300円(長篠城址史跡保存館との共通券なら400円)
- 愛知県新城市長篠字市場22番地1
- 車の場合 :東名豊川ICから、国道151号を新城方面へ19キロ。
- 電車の場合:JR飯田線「長篠城駅」から、徒歩8程度。
- 300円(設楽原歴史資料館との共通券なら400円)