観戦、コペンハーゲンにて
前編
コペンハーゲン
ぼくのバイト先であるこのお店は、飲み屋とお酒のスーパーが一緒くたになったような所で、どこかおっとりとした優しい店長さんとその娘さんであるネコさんが切り盛りするお店です。ぼくは、半年ほど前からこのお店でバイトさせてもらっています。店長もネコさんも、それにバイトの先輩方もとても優しい人ばかりで、良いバイト先を選んだなと自分でも思います。仕事のほうにも慣れ、最近は結構大事な仕事を任されるようにもなりました。
そのコペンハーゲンなんですが、不況のあおりを受けてか近頃経営が苦しくなったようで、その打開のために最近はランチを出し始めるようになりました。料理好きの先輩が考案したこのランチは、今のところ上々の評判を獲得しており、この頃はお昼だけ通う常連さんなんかも増え始めたぐらいです。
そこら辺、初めは店長もちょっと複雑な心境だったみたいですが、ネコさんのほうは結構あっけらかんと受け入れていました。
「不況だし、しゃあないでしょう」とは、ネコさんの言。
最近はお昼に来ていたお客さんが夜のほうにも流れ込んだり、逆に夜のお客さんがお昼にも来るようになったりと、それぞれ相乗効果がうまく作用して順調にお客さんを増やし続けています。
そういうこともあってか、それとも根がそうなのか、最近では店長の顔からはニコニコとした笑みが消えることはありません。むしろネコさんのほうが、いつもつまらなそうなやる気なさげ顔をしています。
似てないよなぁ、とバイト仲間たちはいつも言っています。
いずれにしても、コペンハーゲンが繁盛していることには違いないわけで、そうなると当然のことながら仕事の量も増えていきます。
二ヶ月ほど前だったでしょうか。この店に何人かの新しいバイトが入ってきました。忙しさが増し始めた時期だったのでぼくたちも大歓迎で迎えましたが、実は大歓迎の理由として忙しさ以外にもう一つ別の理由がありました。いえ、正確に言うなら、むしろそっちのほうが理由としては大きかったと思います。
その……その中にいたのです。
金色の髪と、凛とした瞳を持つ、この世のものとは思えないほどに美しいあの人が――
その人がねこさんから紹介された時、ぼくを含めた店の人間は全員呆然としてしまいました。誰もなにひとつ喋らず、呆気に取られたようにその人を見つめていました。
「初めまして、セイバーと申します。至らぬところもあると思いますが、ご指導のほどよろしくお願いいたします」
どっからどう見ても日本人には見えない彼女が、日本人以上に流暢な日本語でそう挨拶しました。そして、軽く頭を下げます。
固まっていたぼくたちは、それを見て思わずそろっていっせいに頭を下げます。それはもう深々と。なにか、そうしなければいけないような、ぼくたちにそうさせるような雰囲気が彼女にはあったのです。
ネコさんはそれを見ながら、珍しく楽しそうにして言いました。
「ま、仲良くするように」
またしても、ぼくらはいっせいに頷きます。
こんな綺麗な人と仲良くなれるなんて、そんな嬉しいこと、こっちから進んでやるに決まってるじゃないですか。
たぶん、そこにいた男の人全員がそう思ったことでしょう。もちろん、ぼくだってそうです。こんな人と出会えるなんて、ここでバイトをしていて良かったと心のそこから思いました。
そう、最初の出会いからすでに、ぼくの心はセイバーさんに奪われてしまっていたのです。
あ、自己紹介が遅れました。
ぼく、早川和樹といいます。新都の学園に通う学生です。
身長は170ほど、運動部に所属しているわけではありませんが、体力にはそれなりに自信があります。
顔のほうは自分ではわかりませんが、お店に来る女性の常連さんには「可愛いわね」と言われることが多いです。正直、女の人から可愛いと言われるのはあまり嬉しくないのですが、客商売ですから相手にそんなことを言うわけにもいきません。いつか「男らしい」と言われるような男性になることがぼくの当面の目標です。
そんなぼくですが、セイバーさんがこのお店に来てからというもの、頭の中は常に彼女のことでいっぱいになってしまいました。その美しさだけではなく、その品のある立ち振る舞い、もはや気高いとまで評してもいいほどの真面目さ、天上の楽器を鳴り響かせたかのような透明に澄んだ声。もう、彼女のすべてが、このぼくを魅了するのです。
セイバーさんが来てすでに二ヶ月近くが経ちましたが、いまだその熱は収まることなく、それどころかより激しく燃え立ちながらぼくの脳をぐるぐるとかき回し続けています。
「こんにちは。今日もよろしくお願いします、カズキ」
「こ、ここここんにちはです、セイバーさん。ここ、こっちこそ、よろしくお願いします!」
夕方、いつものようにバイトに入ったぼくに、セイバーさんが声をかけてくれました。女性の人に下の名前を呼び捨てにされることなんてほとんど無いので、つい返事がおかしなことになってしまいます。
少し前までは、セイバーさんはお昼のほうにしか顔を出さなかったので、夕方から入るぼくとはすれちがう形になってしまい、めったに顔を合わせることが出来ませんでした。ですが、最近の彼女はお昼だけではなく夜のほうも手伝ってくれるようになったので、一緒に働くことがとても多くなりました。
おかげで、今はバイトに来ることが楽しくて仕方ありません。もっと親しくなって、いつか、その……で、デ、デートになんかも誘ったりして一緒に映画を見に行きたいなぁ、なんてとんでもない野望を秘めたりなんかもしています。
今はその、ちょっと挨拶を交わすだけで精一杯ですが、いつか、いつか――お誘いする事が出来たら、と。ライバルも大勢いますから、頑張らないといけませんが。
それから、以外かもしれませんが、セイバーさんは実はとても仕事の出来る人なんです。
ぼくと同じくフロアーの担当なんですが、物覚えも速いし仕事も正確で機敏、ねこさんが「もしかして経験者?」なんてたずねるほど凄いのです。ちょっと接客の際の表情が硬くて無愛想なところもありますが、逆にそれが良いなんて言うお客さんもいて、セイバーさん目当てに通うお客さんも増えたぐらいです。
売り上げが目に見えて伸び、店長さんは彼女を紹介した衛宮先輩に感謝することしきりでした。ぼくもいろんな意味で衛宮先輩に感謝です。
あ、衛宮先輩っていうのは、このコペンハーゲンで働く人たちの中でもかなり古株の人です。ランチを始めようって言い出したのもこの人だし、そのレシピを考えたのもこの人だったりします。
ぼくよりも一つ上なだけだっていうのに、すごい頼りがいがあって優しくって仕事も出来て、ぼくの一番尊敬する先輩です。
セイバーさんは衛宮先輩のお父さんの知り合いらしく、そのつてを頼って日本にやってきたそうで、さっきも言ったようにセイバーさんをこのお店に連れてきてくれたのも衛宮先輩です。
もしかして先輩のところで暮らしているんだろうか。気になってそうセイバーさんに尋ねたことがあります。するとセイバーさんは、先輩の知り合いの家に下宿している、と、珍しく慌てたように言ってました。
それもそうですよね。衛宮先輩は大きなお屋敷に一人で住んでるんだし、そこに一緒に住むってことはいわば同棲していることになるわけで、セイバーさんに限ってそんなことあるはずないですし、あの時はほんとうに馬鹿なこと聞いてしまいました。
「そ、それじゃあ、ぼく着替えてきますんで」
「はい」
セイバーさんは頷きながらホンの小さくぼくに微笑みかけてくれました。
それだけでぼくの心は浮き立ちます。今日はとても気持ちよく仕事が出来そうです。
備え付けの更衣室でささっと着替えてフロアーに戻ります。そこではすでにセイバーさんや衛宮先輩が夜の開店に向けた準備に取り掛かっていました。あわてて、ぼくも一緒にそれを手伝います。
「んー、みんな早いねえ」
準備もだいたい終わり、仕上げにテーブルの掃除をしているところでネコさんがようやくお店に来ました。そのまま、相変わらずやる気なさそうな感じでカウンターの中に行き、仕込みに余念がない店長のそばに、ぐでぇー、と突っ伏します。
駄目店員の見本そのものな姿です。たまには真面目に仕事してくださいよ、とぼくなんかは言いたくなりますが、とうの店長はまったく気にする様子がありません。もう慣れっこになっているのでしょうか。
ちなみに、衛宮先輩やセイバーさんもまったく気にしていないようです。お二人ともすごい真面目な人だから、こういう人には厳しいのかな、なんて思っていたのですが。もしかしたらお二人ももう慣れてしまったのでしょうか。それとももっと身近に似たような人でもいるのでしょうか。
「そろそろかな」
店長が言います。
時計を見ると、すでに開店時間五分前となっていました。
「早川くん。表のほう、よろしく」
「あ、はい」
ぼくは表に行き「準備中」となっている札を裏返しにして「営業中」に変えます。さらに、店の前にある看板の電球に明かりをつけます。ちかちかと瞬く電球が、開店準備がすべて整ったことの印です。
よし、と、それを見て気合を入れなおしたぼくは店内へと戻りました。せっかく入れなおした気合が抜けないよう、なるべくネコさんのほうは見ないようにしておきます。
お客さんはすぐにやってきました。
「いらっしゃいませ」
また忙しい夜が始まりました。
「レバ刺し一枚、豆二枚、入りました」
「はいはいー」
フロアーのお客さんからの注文を伝えると、見かけによらずテキパキとした動きで店長がお皿を差し出します。それをお客さんのところに持っていくと、すぐにまた別のお客さんから注文が。それをまた店長に伝え、お皿を受け取りお客さんに持って行きまた別の注文を受ける。くるくると忙しく立ち回りながらそれを繰り返していきます。
開店から一時間。
カウンターの席はすでに満席。テーブルのほうもほぼ一杯の状態。ここのところの少々異常なぐらいの繁盛ぶりは今日も続いているようで、ぼくを含めたバイトの人たちは辺りをせわしなく動き回る破目になっています。
カウンター内にいる店長さんもかなり忙しそう。それでもいつものニコニコ顔を崩さないところはさすがです。やる気なさげな態度をまったく崩さず、だけどそれなりにしっかりと仕事をこなしていくねこさんもさすがといえばさすが。
そして、セイバーさん。
「ビール二つお願い」
「承知しました」
やや硬い表情と言葉でお客さんの注文を受けています。でも、動きのほうは機敏そのもの。動き一つ一つに無駄がないというか、こう……つい見惚れてしまいぐらいに綺麗。好きになってしまった贔屓目とかじゃなくて、その証拠に、ほら、お客さんも何人かどこか呆けた顔でセイバーさんの動きを視線で追っています。
中にはセイバーさんの接客を受けたいがために、さしたる理由も無いのに彼女を呼ぶお客さんなんかもいて、さすがにそれは違うんじゃないかとぼくは思うけど、セイバーさんのほうはまったく気にも止めず応対していきます。まあ、不愛想なのはかわりないのですが。
「こっちもビールお願い」
「はい」
「こっちは唐揚げね」
「承知しました」
「こっちは……」
次から次へと注文が飛び交い、さすがのセイバーさんも少々困り気味のようです。当然、ぼくは彼女に助け舟を出します。
「向こうのテーブルはぼくがやりますから、セイバーさんはこっちをお願いします」
「え? ですが、カズキは奥のほうも……」
確かに、ぼくの本来の担当は別にあって、こっちにまで手を貸すのはさすがにきついのですが、
「大丈夫です。これでもこのお店では結構なベテランですから」
やっぱりちょっとは良いところ見せたいじゃないですか。
「そうですか。わかりました。ありがとう、カズキ」
「い、いえ……そんな……」
軽く、ほんとうに軽く微笑むセイバーさん。それだけのことなのに、ぼくの心はふわふわと浮き上がって天井を突き破ってしまいそうになります。この笑顔が見れるならなんだってやってあげたくなってしまいそうで、お客さんの気持ちがなんとなくわかったような気がしました。
「んー、今日はいつもより早いやね」
だいぶお客さんが引いた店内を見やりながら、ネコさんがつぶやきます。
閉店まであと数十分という時間になり、残っているお客さんはカウンターのほうに数人だけ。店内は、数時間前の喧騒がうそのように静まり返っていました。バイトの人ももう大部分が引けています。
「後片付けに入りますか?」
ぼくが聞くと、ネコさんはむぅーとうなりながら考え込みます。もうお客さんが来ることはないし、カウンターのほうは店長さんがいれば問題ないし。
「ん、そうしようか」
「はい」
頷いたぼくが後片付けに取り掛かろうとすると、ネコさんがキョロキョロと店内を見渡します。そして素っ頓狂な声をあげました。
「あれ、そういやエミヤんは?」
ネコさんが言うところのエミヤんというのは衛宮先輩の愛称のことです。まあそう呼ぶ人はネコさんだけなんですが。
「衛宮先輩ですか? そういえば……さっきから見ませんね」
お客さんでごった返していた時は見かけたのに、お客さんがいなくなってから見えなくなるっていうのも不思議ですけど。
今日の衛宮先輩は早めにバイトを引ける予定だったらしいのですが、お店のほうが予想以上に忙しかったために、結局最後まで仕事を手伝っていたのです。そのおかげでこれだけ早くお客さんを片付ける事が出来たわけなのですが。
衛宮先輩も人が良いというかネコさんがいい加減だというか。まあ、ネコさんはいい加減だけど(あるいはそれゆえに)気前の良いところがあるので、その分の手当てはしっかり出すのでしょうが。
あ、そういえば。
「セイバーさんもいませんね」
彼女も先輩同様、予定時間をはるかに越えて仕事に付き合わされた一人です。そのセイバーさんも見当たりません。
「ありゃ、そういやそうね」
ネコさんがまたしてもうなります。あの二人がいないと後片付けのほうもはかどらない、というよりネコさん自身が働かないといけなくなる。たぶんそれが嫌なんだと思います。
衛宮先輩はもしかしたらネコさんよりもこの店に詳しいかもしれない、ていうような人だし、セイバーさんもネコさんの数倍、数十倍、労働意欲にあふれた人ですから。
「和樹くん、ちょっと探してきてくれる」
「はぁ……わかりました」
せめて後片付けぐらいは自分でやればいいのになぁ、とか思いますが、口に出すのはやめておきます。一応、雇い主ですから。
「ロッカーのほうかな?」
もう着替えてるのかもしれない。そう思って行ってみるけど、そこはがらんとしていて誰もいません。隣りの休憩室も覗いてみますが、そこにも二人はいません。
ほかに行きそうな場所といえば……裏口?
ぼくは裏にある勝手口のほうに向かいます。ゴミ出しやらなんやらで結構利用することの多い裏口なので、二人がいるとするならばあとはここぐらいしか考え付きません。
裏口のドアを開け、外を見渡します。
「……あれ、ここにもいない」
小さな電灯が照らすだけの薄暗い裏口。そこにも二人の姿はありません。
「困ったな」
ほかに思い当たるところは……ほかに、ほかに……うーん……思いつきません。とりあえず、いったん中に戻ってから……
そう考え、ドアを閉めて踵を返そうとした時、左手の方向から物音が聞こえてきました。ガタン、となにかが崩れるような小さな音。
あ、もしかして、二人とも奥のほうにいるのでしょうか。ぼくは耳をすませます。
「……シロウ……こ……う…………で……ん……ぁ……」
ん、間違いない。セイバーさんの声だ。それに衛宮先輩もいっしょにいるみたいです。名前が聞こえましたし。
ぼくはホッと一息ついてそっちに向かいます。見落としていたらねこさんになに言われるかわかったもんじゃないですから。
それにしても、お二人ともこんなところでなにしてるんでしょうか。
裏口の、さらに左側の奥は、四方を壁に囲まれた行き止まりになっています。ちょうど店の裏側になり周囲から完全な死角ともなっているので、バイトの人たちがサボり場所として良く利用したりするような場所です。
あの二人に限ってサボるなんてことありませんし、まあ、もう閉店の時間なのでならサボるもなにもないのですが。もともと今日のお二人は時間外労働なんですし。なので、二人がここにいる理由がわかりません。
まあ、本人たちに聞いてみればはっきりしますね。
ぼくは奥まで歩いていき、突き当りまで行きます。ここをさらに左に行けば、さっき言った店の裏側。そして、セイバーさんと衛宮先輩のお二人がいるはずです。
「セイバーさ……」
ん、と言いながら角を曲がろうとした時、不意に不思議な声が聞こえてきました。ぼくは思わず足を止めます。
「はぁ……っん、んん……あんっ、あぁ……」
不思議な声です。どこか切羽詰ったような、苦しげな声。そしてその声は、普段とは声音がまったく違うとはいえ、まぎれもなくセイバーさんのもの。
それがなにか苦しんでいるものだとしたら、すぐにでもそっちへ行って助けてあげなければいけませんが、ぼくの足は動きません。なんかそういう類の声とは……いえ、苦しんでいるような声には違わないのですが……その、なんと言いましょうか。
いまそっちへ行くと、なにか‘とんでもないもの’を目撃してしまうような、そんな予感がしたのです。
「んぁっ、そこは……シロウ……んんっ」
ぼくがその場に硬直している間にも、セイバーさんの声は流れてきます。
熱を帯びたような声、苦しんでいるような声……
戻ったほうがいいと、なにも聞かなかったことにして戻ったほうがいいと、ぼくの直感がそう告げていました。
幻想を壊したくないのなら、今すぐここから立ち去れ――と。
その直感が脳へと伝わり、脳が全身へと指令を発します。
ですが――
「ふぁ、あ、あぁぁ――っ」
聞こえてくる声が、その指令をあっという間にかき消してしまいました。そして、まったく逆の行動を取らせようと全身に響き渡ってきます。
一歩、ぼくの足が前へと踏み出しました。
頭で理解しての行動ではありません。人としての……いえ、男としての本能が、ぼくの足を勝手に進ませるんです。
ゆっくりと、ですが確実に。
「……ゴク――」
いつの間にか口の中に溜まった唾液を飲み、一つ息を吐いてから、ぼくは角からそっと顔を覗かせました。
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あとがき
後半は18禁となってしまったので、前後に分けました。
細かい事は後編のあとがきで。
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