朝。
まだ目を覚ましきっていない町の中を、俺たちは歩いていた。
結局、俺たちはあれからあるホテルの一室で夜を過ごした。
冷え切ったからだと冷えかけたこころを暖めあい、失いかけた絆を手繰り寄せた夜。
今までも何度か身体を重ねたことがある俺と遠坂だけど、でも昨夜のそれは、どこか中途半端でどこか言い訳じみていた今までのそれとは違い、心のそこからお互いを求め合い、身体中でお互いを欲した末の行為。
今までにないぐらいお互いを感じあって、確認しあった夜。
いくつかのきっかけを契機に、俺と遠坂は再びひとつに結ばれた。
早朝ということもあって空気は冷え込んでいる。
ホテルを出たのが五時をほんの少し回ったところ。それから二人でゆっくりと並んで歩き、冬木大橋をわたって深山町に入る。
もうじき家に着く。
俺が―――俺と遠坂が帰るべき家。そして、もう一人の少女が待つ家へと。
ホテルを出てからここまでの約一時間、俺と遠坂のあいだには会話がいっさい無かった。
ただ並んで、静かに歩を進める。
俺のすぐとなりには遠坂がいる。
聖杯戦争でともに戦い、でも実はそれ以前からひそかに憧れていた少女。
落ちこぼれの俺とは違ってなんでも出来る優秀な魔術師。
どんなものにも負けなくて、どんなことがあっても誇りを失わず、どんなときにも俯くことなく前へと歩き続ける少女。
その強さは聖杯戦争のときから知っていて、その強さが俺には誇らしくて、だからどこかで彼女のその強さにすがっていた。もうひとつ知っているはずのことを――遠坂が持つ弱い部分のことを俺はすっかり忘れていた。遠坂凛という少女はだれにも負けないほどの強さを持ち、すべてのものを独りで乗り越えられほどの強さを持つが、だからといって決して間違えないというほど賢くはない。
彼女だって間違える。
ただ、間違っていると知りながら、それでもなお前へと進み、決して後悔はしないと独りで唇をかみ締める。
彼女は――俺が好きになった遠坂凛とはそういう少女だった。
そこまで強くある必要はないのだから。
俺はかつて遠坂にそう言い、それなのに俺はその言葉を忘れて強くあろうとする遠坂のその強さにすがった。
その間違いに気づかせてくれたのがセイバーで、その俺の背中を押してくれたのが周りの人たち。
だから俺は再びこうやって遠坂の腕をつかまえることが出来た。
俺は歩きながら右手にふれる感触を確かめる。
やわらかくてあたたかい、遠坂の左手。
お互いの指をほんのすこしだけからませて、手をつなぐ、ともいえないような稚拙な交わり。でもそれを離すつもりもなく、彼女の薬指にひかる赤い指輪をときおり指先に感じながら、ようやく俺たちはひとつになれたんだと確かめ合う。
そして、俺たちは帰るべき家へとたどり着いた。
「――ただいま」
ゆっくりと戸を開けながら俺は言う。
返事は無い。
まだ朝の早い時間。桜も藤ねえも来てはいないようだ。
「静か……ね」
ぽつりと、遠坂が言った。
俺はその言葉に小さくうなずき、靴を脱いで中へと入る。
廊下を行く。
足元から冷たい感触が伝わってくる。
昨日まで普通に暮らしていた自分の家なのに、やけに久しぶりに帰ってきたような気がした。
俺たちは居間へと入る。
そこにもやはり誰も居なかった。
いくら朝早いとはいっても、普段のこの時間なら誰かしら居てもおかしくはないんだけど、今日にかぎっては誰も居ない。
この家にただ一人残っているはずの彼女も居ない。その気配すら感じない。
もしかして彼女はこの家からすでに消え去ってしまったのか。あんなことを俺に言っておきながら結局あいつは自分だけですべてを解決しようとしたのか。と、昨日までの俺ならそんなことを考えたかもしれない。
でも、今は違う。
彼女はここにいる。間違いなく。
ここで俺たちの帰りを待ってくれているはずだ。
すっと。
からませていた指を遠坂が離した。
「遠坂?」
振り向く。
遠坂は微笑みを浮かべていた。
なんのためらいもなく、昨日のように無理をしているのでもなく、ただ純粋に微笑んでいる。
「ほら、士郎。迎えにいってあげなさいよ」
そう言って遠坂は微笑みを深くする。
「セイバーはきっと貴方が来てくれるのを待っているわよ」
それがあまりにも奇麗で、あまりにもまぶしくて、俺はうかつにもその微笑みに見惚れてしまった。
「遠坂……」
「いいから、早く行きなさい。わたしにだって―――ちょっとはカッコつけさせてよ」
さっきとは少し違う笑み。
いつも俺をからかうときに見せるあの悪戯っぽい笑み。
俺が魂のそこから惚れ抜いている遠坂凛がそこにいた。
「ああ、わかった」
だから俺はうなずく。
こんな顔を見せられたら、もうぐだぐだ言っていられないだろう。
遠坂凛とセイバー。
二人の手を同時につかむと決めたのは自分だ。どちらも失いたくないと望み、どちらもすくいあげてみせると決めたのは自分だ。
結末がどうなるかなんてわからないけど、この思いに後悔なんてない。
俺は遠坂の微笑みを背にしながら居間をあとにした。
かつて、聖杯戦争が終わった時。
すべてに決着をつけて俺がこの家で目を覚ました時。
彼女と過ごした日々がすべて思い出になってしまったのだと気づいた時
セイバーは、いつもの場所でいつものように俺を待っていてくれた。
静かな道場。
律儀にきちんと正座して、驚く俺に優しく笑顔を向けてくれた。
あのときすべてが元通りになったと思って、でもじつはそれが危ういバランスの上で成り立っていたのだと気づかされて、それに自分なりの答えを見出した今日、俺たちはまたここからやり直す。
「ああ――でも」
道場に背を向ける。
そしてそのまま屋敷の外に足を進めた。
やり直すんじゃない。
すべて無かったことにしてやり直すんじゃない。
今まであったすべてをお互いの胸に抱きとめ、その上で俺たちは新しいスタートを切る。その出発点に、俺たちはようやく三人揃って立つことが出来たのだ。
俺はゆっくりと庭を横切り、硬く重いその土蔵の扉を開けた。
そこに―――彼女はいた。
埃っぽい、薄暗い土蔵。
小さく開いた窓から申しわけ程度に入り込んでくる光。
そこに立つ一人の少女
服装も違う、纏っている雰囲気も違う、でも確かにあのとき出会った少女。その背にまばゆいばかりの光を背負って俺の命を救ってくれた少女。
あのときのことは今まで一度たりとも忘れたことはない。そしてこれからも決して忘れることはない。
あのときからすべてが始まった。
「セイバー」
彼女の名を呼ぶ。
静かに彼女は振り向き、心のそこから震えてしまうほどの美しい微笑みを俺に送ってくれた。
「おかえりなさい――シロウ」
「……ただいま、セイバー」
挨拶はそれだけ。
それでじゅうぶん。
出会ってからまだ二ヶ月もたっていないが、すべてを言葉にしなくても分かり合えるだけの絆は積み上げてきた。それはもしかしたら遠坂以上のものを。
「ずっと、ここで待ってたのか?」
「はい」
セイバーはこともなげにうなずいた。
「シロウはきっとここに来ると思っていましたから」
「……そうか」
この薄汚れた土蔵は俺とセイバーがはじめて出会った場所。ここでセイバーと出会わなければ、セイバーを召喚することがなければ、セイバーと契約を交わすことがなければ、間違いなく今の俺は無い。
俺にとってすべての始まりの場所であり、それはきっとセイバーにとってもそうだったのだろう。
だから自然と俺たちはここに来て、そしてまたここから始まる。
「シロウ。凛は――?」
「あいつはちゃんと連れ戻したよ、この家に」
「そうですか。それは良かった――本当に……」
そう言ってうなずくセイバーの顔にはいっさいの迷いがなかった。満足げに、そしてどこかほっとしたようにもう一度うなずいた。
「ならばもう大丈夫ですね、私たちは」
「ああ、もう大丈夫だ」
セイバーの言葉に俺もはっきりとうなずいた。
俺と遠坂とセイバー。
セイバーのかつてのマスターである俺と、今のマスターである遠坂、そしてサーヴァントであるセイバー。
ともに聖杯戦争を戦い抜いた俺たち。いつしかその絆は強く深く俺たちの中に根を下ろしていた。
誰か一人が欠けることは許されない。誰か一人だけが違う場所に立っていることも許されない。
果たされるべき約束、求めている答え、辿り着く理想。
三人それぞれ目指すものはすべて違うけど、立つ場所、出発する場所はみな同じでなくてはいけない。そうすることで初めて俺たちはまっすぐに歩いていけるんだと思う。
気づくのは少し遅れたけど、こうしてまた三人が揃ったのなら遅すぎたということはなかったのだろう。
「シロウ」
「ん?」
突然、セイバーがひどく真剣なまなざしを俺に当ててきた。
「ひとつだけ――貴方に聞きたいことがある」
「え……」
「十年前、貴方は切嗣によって助けられたのですよね?」
「……ああ、そうだ」
忘れるはずもないし、セイバーだってそのことは知っているはずだ。一度、きちんと彼女に話したことがあったから。
「でも、それがどうかしたのか?」
「あの災害に巻き込まれて助かった人はシロウを含めてほんの数人しかいなかったと聞きました」
「……ああ、そうだったな」
真っ赤に焼けた大地と空の風景を思い出す。思い出したくはないが、決して忘れてはいけない風景でもある。俺の原点のひとつがそこにあるのだから。
「つらいことを思い出させてしまって申し訳ありません」
「いや、いい。忘れるわけにはいけないことだし、ときどき思い出さなくちゃいけないことでもあるから」
「そう……ですか」
セイバーの瞳が俺を見つめた。なんだろう、やけに真剣で、なにかまぶしいものを見ているような表情をしている。
その表情がきゅっと引き締まり、再び彼女は口を開いた。
「それでもシロウ。貴方は生きていた」
「あ、ああ……」
確かに、俺はあのとき生き延びることが出来た。
それでも、あのとき味わった焼けるような熱さをまだ俺は憶えている。肌が焦げ付いて、身体の内側から溶けていってしまいそうな灼熱の地獄。俺はそれから逃れるためにただひたすらさまよい続けていたのを憶えている。
そして力尽きて倒れ、ただこのまま死を待つばかりかと諦めかけたそのとき、俺は切嗣によって救われた。
「目が覚めたとき、身体中が包帯だらけだったけどな」
そのあと、医者に生きていることが不思議だったと言われたことを憶えている。
それを告げると、セイバーは何かを真剣に考え込んだ。そして静かに身体を寄せてきた。
「セイバー?」
セイバーの手が俺の身体に触れる。
その手は、確かめるように、慈しむように、俺の身体にセイバーの暖かさを伝えてきた。
「切嗣が……貴方を見つけ出してくれて良かった。貴方の中に……」
そこまで言って、セイバーは急に口をつむぐ。
どうしたのか。俺が不思議に思ってセイバーの顔を覗きこむと、彼女は俺のことをを見つめ返し、本当に嬉しそうに微笑んだ。
「確信が持てました、シロウ」
「確信?」
「はい。私とシロウが出会ったのはやはり偶然ではなかった。さまざまなものに導かれ、さまざまなものに手を引かれながら、私たちの出会いは生まれたものだったのですね」
そう言ってにっこりと微笑むセイバーはどこか子供のような表情をしていた。
今まで見たセイバーの笑顔とはまったく別のもの。落として無くしてしまった宝物をずっと探し回ってようやく見つけた、そんな喜びと安堵の折り重なった子供のような笑顔。
俺には正直セイバーがなにを言っているのか理解できないけど、彼女がそれだけ嬉しそうに笑うことが出来るのなら、まあ、いいのかなと、さして考えることなく納得してしまった。だって、それぐらいセイバーの笑顔は魅力的だったから。
「セイバー……」
俺は目の前の愛しい少女の名を呼んだ。
セイバーはしばらく考え込んだあと、ほんのちょっとうつむき、そしてすっと顔を上げた。その顔からは笑顔と表情が消え、感情を込めることなく俺を見つめてきた。
あの――はじめて会ったときのように。
「いま一度、貴方に誓う」
静謐な雰囲気さえ漂わせながらセイバーが口を開いた。でもその瞳が、ほんのちょっとだけ悪戯っぽく光っているのがなんとなく遠坂を思わせて、
「我が剣、我が魂、そのすべてを貴方に捧げよう――シロウ。私たちがこれから共に在り続けるために」
あのときの問いかけとはまったく違う言葉。
すっと、なにげなくなく吐き出された言葉だけど、その言葉に含まれた意味はなによりも大きく尊くて、俺は思わず彼女の柔らかな身体を引き寄せていた。
「ならば俺は――俺のすべてをもってそれに応えるよ、セイバー。おまえの求める答えをともに見つけ出すまで」
「シロウ……」
薄暗い土蔵の中で、再び俺たちだけの契約が交わされた。
さて、わたしが待つ居間にようやく戻ってきたこの二人。
いつもと変わらない静かなたたずまい、でもちょっぴり幸せそうなセイバーと、なんとなくばつの悪そうな顔でわたしを見て、でもやっぱり満足げな士郎。
彼ら二人の間に何かがあったというのは明白。でもまあ、そこらへんは不問にしときましょう。ちょっとしゃくにさわるけど、こういう関係を望んだのはわたしも一緒なんだから。
「で、いつまでそこにそうしてんのよ、二人とも」
わたしは自分で入れた紅茶の湯気を感じながら二人に言った。
「あ、ああ……」
あわてて座る士郎と、そんな士郎を聖母のごとき慈愛の微笑で見やるセイバー。む、これはわたしもうかうかしてはいられないわね。
居間のテーブルを中心にわたしたち三人がいる。このまま三人でいろいろと話し合わなきゃいけないことがあるけど、でもその前に……
「士郎」
「ん、なんだ、遠坂」
「朝ごはん、用意してきて」
「え、あ、いや、でも……」
ためらう士郎。まあ、それもあたりまえだ。これから大事な話があるってのに朝ごはんもなにもないだろう。
「いいから用意して。わたしは、ちょっとセイバーに話があるから」
「……あ、ああ、わかった」
今度は素直にうなずいてくれた。
そう、朝ごはんなんて方便。わたしはセイバーに聞かなきゃいけないことがある。
「で、セイバー」
席を立ってキッチンへと消えた士郎の背中を見送りながらわたしはセイバーに声をかける。
「なんですか、凛」
「ちょっとね、あなたに聞きたいことがあるの」
「はい」
承知している、という感じでうなずくセイバー。
「まず、ひとつめ。貴女、もう身体のほうは大丈夫なの?」
もともと今回のことはセイバーの身体の異変から始まった。異常な魔力の流出。そしてなぜか役に立たなくなったわたしとセイバーの間の魔力回路。
緊急的に魔力補給を士郎にしてもらったけど、はたしてそれはうまくいったのかどうか。
「はい。もう問題ありません」
「そ、なら良かった」
これでけっきょく駄目だったら目もあてられないものね。
「それで、原因はなんだったのかセイバーには心当たりがあるの?」
「……原因そのものは私にも。ですが、それのきっかけになったものはある程度わかりました」
そう言ったセイバーはキッチンのほうへ目をやる。その視線の先には士郎がいた。
まあたしかに、あいつに魔力が流出していたのがひとつの原因だったんだけど、
「なんなの、そのきっかけっていうのは?」
「それは……触媒です」
「触媒?」
この場合、セイバーが言っている触媒というのはおそらくサーヴァントを呼び出すときに必要な触媒という意味だろう。
わたしがアイツを、アーチャーを呼び出したときに触媒とされたものはわたしのペンダントだった。アイツが英霊となったあとも失わずにいてくれたあのペンダント。わたしが意図したものではなかったけれど、結果的にはそういうかたちになった。
だったら、衛宮士郎がセイバーを呼び出したときにも触媒とされたものがあるはずで……
「かつて―――私が失ったものがシロウの体内にある。それが今回のきっかけになったのかもしれません」
「触媒が……体内に?」
「はい」
なるほど、確かにそれならばいろいろな現象の説明がつく。聖杯戦争の時、士郎がセイバーを呼び出せたこと、士郎とセイバーの不思議なつながり、士郎のけがの治りが異常に速かったこと、そして今回、セイバーへの魔力供給が不安定になったこと。こまかい原因までは調べなければわからないが、確かにきっかけのひとつであることは間違いなさそうだ。
「でも、士郎の体内にあるとはね……」
触媒とはマスターとサーヴァントをつなぐ絆だ。少なくともわたしとアーチャーの場合はそうだった。アイツがわたしのペンダントを持っていてくれたことが、わたしたちが出会うきっかけとなった。
その絆が士郎とセイバーのあいだにもある。しかも士郎の身体の中に。
昔の……いや、昨日までのわたしならそれを知って心がざわつくのを抑えられなかっただろうけど、今はなぜか落ち着いてそれを受け止められた。
こういう関係になると覚悟したからか。それとも、もっと別のなにかか。
わたしは右手で左手の薬指を触る。指にはめられた指輪、わたしと士郎の新しい絆。
そうね。
セイバーと士郎のあいだに確かな絆があるように、わたしと士郎のあいだにも確かな絆がある。そして、わたしとセイバーのあいだにも……
わたしたち三人の関係。傍から見ればおかしな三人の関係かもしれないけど、こういう関係を望んだのはわたしたちだ。
わたしがいて、セイバーがいて、士郎がいる。
三人が一緒で、それぞれ違う目標を持っていて、でも三人が揃っていなきゃ意味がなくて……
ほんと、不思議な関係だけど、それぞれがそれぞれに確かな絆を持っている。
だったら、胸を張ればいい。
「じゃあ、ふたつめの質問よ」
「はい」
「セイバー……わたしたちは、このまま貴女を『セイバー』と呼び続けていいの?」
大事な質問。
このまま彼女はセイバーで在り続けるのか。
「はい、かまいません。あなたがた二人の為の『剣』となる。これが今の私の誇りです」
「……そう」
セイバーの瞳にはなんの迷いもなかった。
一人の少女としてではなく、主に仕える剣としてこの地にとどまる。彼女がなにを考え、なにを胸に秘めてそうするのか、それはわたしにはわからないこと。でも、彼女が自分でそう在ると決めたのなら、わたしには――わたしたちにはなにも言うべきことはない。
けれど、ひとつだけ……
「じゃあ、いつか聞かせてね。貴女の本当の『名前』を」
わたしが知りたいのはセイバーの『真名』ではなくて『名前』
それは多分、士郎も同じ気持ちだと思う。
「……はい、約束します、凛。すべてに答えを見出した時に――必ず」
それだけ聞ければじゅうぶん。
「じゃあ、次は最後の質問」
そしていちばん大切な質問。
「セイバー。貴女、士郎のこと―――好き?」
いちばん聞きたいこと、いちばん知りたいこと、答えはわかりきっているけど、確認しなくてはいけないこと。
「はい。私は、シロウを愛しています」
そしてセイバーは予想通りの答えを、いや、予想以上の答えをわたしに返してきた。それも何一つためらうことなく。
それがなんだかあまりにも潔いんで、わたしは微笑みに崩れる頬を抑えることが出来なかった。
ふふ、そうでなきゃね、セイバー。
自分の好きな男を愛していると言う少女が目の前にいて、その告白を聞きながらそれを歓迎している自分がいる。
なんかこう、自分でも不思議な感覚。昨日までのわたしならきっとこうはならなかっただろうけど、今のわたしはなぜかあたりまえのようにそれを受け入れることが出来る。
やっかいなやつに惚れちゃったなあ、とそう思う。
とんでもない馬鹿でお人よしで、魔術師としての素質はゼロのくせして固有結界なんていう禁呪中の禁呪を使えて、正義の味方を目指すっていう子供みたいな夢を持っていて、そのくせわたしの初めてを奪ったけだもので、でもとっても優しくて、おまけにわたし以外の女に愛しているとか言われてるとんでもないやつ。
じゃあそれだけの甲斐性があるのかといったらとてもそうは見えない、ただのどこにでもいる普通の男の子。
ああ、でも……
夕焼けのグラウンドで飛べるはずのないものに挑み続けていた少年の姿を思い出す。
きっかけは多分些細なもの。
でも、惚れてしまったのだからしょうがない。
一緒に生きていくと決めてしまったのだからしょうがない。
もうここにはいないアイツと、約束してしまったのだからしょうがない。
「そうね、わたしも―――士郎を愛しているわ。他の誰よりも深く……ね」
セイバーとおなじ言葉、でも最後にちょっとだけ付け足す。
ピクン、とセイバーの表情がゆれる。
勝負は正々堂々と。ただし、手加減はしないからね、セイバー。
「……で、さっきからそこに突っ立っているお馬鹿さんは?」
わたしは朝食をのせたお盆を持ったまま石のように固まっている士郎に声をかけた。
こういう場合はいったいどうすればいいのだろう。
目の前には俺の好きな女の子が二人。
美しい金髪と緑玉石の瞳を持つ、透き通った流水のような雰囲気を漂わせる少女、セイバー。
いたずらっぽい瞳と長く奇麗な黒い髪、そしてしっぽと羽根を隠したあかいあくま、遠坂凛。
で、その二人の少女が「愛している」と口々に言った『しろう』なる男は多分、というか間違いなく俺なわけで。
「……で、さっきからそこに突っ立っているお馬鹿さんは?」
なんて言われたって固まっているしかないじゃないか!
なんて逆ギレしても仕方ないから、とにかく座ろう。
これは最初っから覚悟していたことなんだし、いきなりでちょっとびっくりしたけど、あまつさえ魔眼に捕らえられたかのように固まってしまったけど、でも俺が答えを出さない限り前には進めないことだ。だいいちもうすでに答えは出ている。あとはその確認だけ。
俺は座って遠坂とセイバーを見る。
一人は真剣に、一人はなんだか楽しそうに、いや、もう一人もやっぱりちょっと楽しそうに、俺を見つめてきていた。
俺はなるべく目立たないように深呼吸して、言うべき答えを選択する。
「俺は……遠坂も、セイバーも、二人とも好きだ。愛している」
言いながら、ああ、俺とんでもないこと言ってるなあ、と少々自己嫌悪。
でもこれが俺の正直な気持ちだ。
「ひどく無責任だってことはわかってる。勝手なことを言ってるってのもわかってる。でも、俺はやっぱり二人が好きなんだ。どちらかだけを選ぶなんて俺には……今の俺には出来ない。でも、約束する。いつか――それがどんなものかはわからないけど、いつか必ず答えを出す」
そこまで言っていったん息を吐く。
ふう、と、心を落ち着かせるように。
「約束する」
正義の味方になる。
そう願ったのはなぜだったか。
切嗣に助けられ、切嗣の生き方が奇麗だと感じた。切嗣のようになりたいと思い、切嗣が死んだ時、あたりまえのようにその跡を継ごうと決めた。
正義の味方になる。
アイツは、エミヤシロウはそう願い、それを成し遂げ、そしてその行為を憎んだ。
交わした剣戟と思いのすべて。
それは磨耗した願いを研磨し、未熟な願いを成長させた。
正義の味方になる。
まわりで泣いている人たちを助けるために。
正義の味方になる。
でも、そのためには、忘れちゃいけないことがある。
俺の目の前にいる二人の少女。
俺が、いちばん泣かせたくないと願う二人の少女。
もう絶対泣かせたくない。悲しませたくない。
だから―――
「約束する」
ゴールではなくて、スタート地点の確認。
歩き出す場所が間違えていたら、そこに辿り着くことなんて絶対に出来ないから。
「もう二度と、俺はおまえたちを泣かせない。俺は、おまえたち二人の正義の味方になる」
ここから始める。
いちばん大切な女の子を泣かせてるようじゃ、正義の味方になんてなれっこないから。
馬鹿だ馬鹿だとは思っていたけど、ここまで突き抜けているとは思わなかった。
でも、士郎らしいといえばらしい。
かつて夕暮れのグラウンドで見つけた馬鹿は、今もまったく変わっていなかった。
こんな馬鹿を放っておくなんて出来るはずがない。
約束どおり、しっかりと真人間に修正してみせる。
ほんと、自分でも面倒な生き方を選んじゃったかなとは思うけど、こうなったら腹をくくりましょう。
ああ、もしかして、これこそがこの遠坂凛の最大の失敗だったのかもしれない。
このどこまでも馬鹿なこの男に惚れてしまったことこそが。
やはり、シロウはバカだ。
そんなことを恥ずかしげもなく言い切るのは、やはりこの人意外にはいまい。
でも、シロウらしいといえばらしい。
一直線に前しか見ておらず、どこまでも危なっかしい人。
かつての私にどこまでもそっくりで、そして決定的に違う人。
もうこれは確信だ。
彼と共に在れば、私は必ず答えを見出すことが出来る。いや、もしかしたらその答えはすぐそばにあるのかもしれない。
それがどんなものかはわからない。哀しい答えが待っているかもしれない。
でも、それがどれほど哀しい結末だとしても、彼と――彼らと一緒ならば、私はきっと笑っていられる。笑ってさよならを言える。
それは、どれだけ素晴らしいことだろうか。
遠坂を見る。
まったくなに言ってんのよこの馬鹿は。
そんな顔で俺を見つめてくる。
セイバーを見る。
まったくなに言ってるんでしょうこのバカは。
そんな顔で俺を見つめてくる。
けっこう勇気を出して言った俺はなんとなく釈然としない。
だってしょうがないじゃないか、これが俺の本心なんだから。
でもこれを言えば余計に視線がきつくなるだろうから言わないけど。
なんだかもうすでに三人の力関係が決定してしまった感じだ。いや、それはだいぶ前からか。
「ほんとうに馬鹿ね、士郎は」
「まったくです」
「いや、だって、しょうがないだろ」
やっぱり決まってしまっている。
「でもまあ、それが士郎なんだけどね」
「それもそうですね」
さて、この場合は褒められたと喜んでいいものだろうか。
「さ、お話はこれでおしまい。朝食にしましょう」
「はい」
なんか、すべてをさらっと流す遠坂の言葉。それにこっくりとうなずき返すセイバー。
俺はといえばその二人をぼおっと見ているだけ。
なんか。
昨日からいろいろあったことがあっさりと流れさって、そして始まるのはいつも通りの光景。
俺が朝ごはんを作って、遠坂がおいしい紅茶を入れて、セイバーがそれらをおいしそうにたいらげる。
なんにも変わらない日常。
いや、ほんのちょっとだけ変わったのは俺たち三人の距離感。
わかりきっていたことを改めて再確認して、俺たちはそれぞれ違う道を支えあいながら歩いていく。
遠坂は遠坂の、セイバーはセイバーの、そして、俺は俺の道を。
偶然という名の奇跡で巡り合わせた俺たち三人。
二人の少女と、一人の男という関係。
おかしな関係かもしれないけど、でも、出来るかぎりこの関係を大事にしたい。
いつまで三人一緒にいられるかわからないけど、この偶然の奇跡を大事にしたい。
もう少しすれば再び学園生活が始まる。
最上級生としての一年間。
そして、そのあとには時計塔へとわたる。
魔術の訓練、剣術の鍛錬、さらには英語の練習なども。
やるべきこと、やらなければいけないことは山ほどある。
それこそ休んでいる時間など無いだろう。
これからも俺たちの前にはいろんな困難が待っていると思う。
遠坂には守るべき約束があり、セイバーには見出さなければいけない答えがある。
そして、俺には乗り越えなければいけない大きな壁がある。赤い騎士の背中がある。
でも、うん。
大丈夫だよ、きっと。
道に迷った時、道を違えそうになった時、俺たちには帰るべき場所があるのだから。
「士郎、なにぼおっとしてるのよ」
「シロウ。はやくしないとせっかくの朝食が冷めてしまいますよ」
そんなこと言いながらせっついてくる二人。
「ああ、わかってるよ」
もうじきいつものように藤ねえが来る。桜も来る。
また騒がしい一日が始まる。
これから何度も繰り返される日々。
いつもとおなじ、でも今までとちょっと違う日常。
それを笑顔で迎えられることを喜びながら、俺は自分で作った朝食に手をつける。
一人では出来ないことも二人なら。
二人では大変なことも三人でなら。
そうやって俺たちはこれからも一緒に歩いて行く。
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