友田信号場


東海道本線 明治40年開業:自動信号化及び電化により消滅



牧ノ原台地を越え、菊川沿いに10パーミルの勾配と400Rの急曲線が連続する 金谷〜堀之内(現在の菊川)間は、東海道本線の中でも比較的早く(明治36年12月7日) 複線化された区間であるが、信号自動化以前の線路容量の増大を目差して、 ほぼ中間地点(217.7km付近)に設置されたのが、当信号場。
同線・箱根越えの区間に置かれた谷峨信号場よりやや早い開設 (明治40年3月14日)ということで、 あるいは、複線勾配上に設けられた待避線引き出し型の信号場としては 最も初期の存在ではないだろうか。

「菊川地域鉄道史」(菊川町編纂委員会編集/平成元年11月菊川町発行)によれば、 信号場の設備は――
1)スイッチバック式の、延長約560mの側線と、下り・上り両本線をつなぐ渡り線。
2)本屋・官舎・路線班詰所
3)昭和初期に自動信号機となるまでは、機械信号機(腕木信号機と、それを 操作する装置)。
――となっている(*なお、マップは、同線箱根越え区間の信号場配線と上記資料から 類推したものである)。

このうち、スイッチバック線の役割は、勾配を登り切れない「上り重量貨物列車」を 待避させ、後続列車を待ち合わせながら、ボイラー圧力を上げて、 再び牧の原トンネルへと続く勾配区間へ送り出すためであった。
なお、友田信号場付近は、当区間にあって唯一とも言える 257mの水平&直線区間であるが、資料から推測すると、 スイッチバック線は、この区間では本線と並行して設置され、 本線が菊川方面に向けて左カーブを描いて勾配を下り出す地点から 盛り土をして高度を稼ぎながら水平に引き出されていったようである。
このように、列車運行上、重要な役割を負った当信号場も、 昭和初期に信号が自動化され、さらに昭和24年5月20日:静岡〜浜松電化が 完成し、貨物列車の登坂能力が上がると、存在意義を失い、 同年7月12日に廃止された。
●友田信号場跡地現状報告
当信号場の資料を提供戴いた、静岡県焼津市在住の影武者さんより、 跡地の現状報告が届いた。 明治のスイッチバックの痕跡を捉えた最新ルポを、感謝の気持ちを込めて、 ここに転載させていただいた。 ぜひご覧あれ。

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