江田信号場
磐越東線 昭和38年開業:昭和59年配線変更により消滅
小川郷と川前の間、風光明媚な夏井川渓谷に沿って走るこの区間は、勾配とトンネルが連続し、
蒸気時代は、郡山区、平区のD60が奮闘する難所であった。
その区間の途中、交換用の施設として
設けられたのが、江田信号場。
現在は、正式な駅として時刻表にも載っているが、
それ以前に、スイッチバックの施設自体は使われなくなっていたようである
(※停車場変遷大事典によると、
昭和59年12月1日(?)=信号場廃止→仮乗降場、昭和62年4月1日=
仮乗降場廃止→旅客駅とされているので、スイッチバック廃止は、昭和59年であると考えられる)。
*なお、ここは、西線の中山宿と対照的に、
スイッチバック構内自体が撮影されたことは、ほとんどなかったようだが、
古矢眞義さんのホームページ
に、信号所における素晴らしいSL同士の交換シーンがあるので、
併せて見ていただきたい(ここでは、その一部を転載させていただいた)。
*さらに、江田の最新状況(平成11年9月15日時点)を、
古矢さんが調べてくださったので、それに基づいて現状の配線図を完成させた上で、
古矢氏がデジカメで撮影された現状写真を掲載させていただいた
(下段の4枚。右端の写真は、中段のものとほぼ同アングルである。
なお、列車の入ったシーンは、氏のページ上で紹介中。ぜひご覧あれ!)。
引き上げ線の付け根部分にはまだ線路が残され、
かつての配線を偲ぶことが出来るが、それにしても、
ホームは延長されたとはいえ(幅が狭い部分がかつてのホーム跡であろう)、
信号場時代の方が、遥かに堂々とした構内であったように思われる。
「合理化」は、大抵の場合、鉄道から輝きを失わせるようだ。
●昭和41〜42年頃の江田信号場
*大矢真吉氏から、古矢氏と同じく、蒸気時代の江田信号場の様子を記録した、
貴重な写真を提供いただいた。
上の2枚は、昭和41年7月撮影。下の3枚は、昭和42年12月撮影。
この間に信号機が、腕木式から色灯式に変わっていることを、お分りいただけるだろう。
また、最下段の、俯瞰カットは「本線から引き上げ線を1本引き出しただけ」という
当信号場の簡素な配線を再確認するのに絶好のアングルである。
●スイッチバック使用末期の江田信号場
茨城県の渡辺伸二氏より、昭和50年代後半と思われる写真を提供頂いた。
桜が眩しい季節(この桜の木は現存するのであろうか?)であるが、この頃、蒸気時代に見られた
小屋(古矢氏写真参照)はすでに消滅しているようである。
●昭和53年の写真より“横取り線”の存在発覚!!
国鉄時代以降の機関車写真が満載のサイト
「LOCO PHOTO」
を運営している長岡行夫氏より、DD51が活躍する時代の写真を提供頂くことが出来た。
どちらも昭和53年8月に撮影されたものである。
■左写真は、DD51607+客車+DD51のプッシュプル運転(?)。
「当時信号所の職員は常駐していたが客扱いを行う駅員はおらず、列車も上り平方面6本・下り郡山方面8本であった。
朝1番の列車を撮るために構内引上げ線での撮影で回送扱いなのか客車後部にDD51が連結されていた。」(長岡氏)
■右写真は、引き上げ線に止まるDD51672単機。
「駅ホームにてウロウロしてると郡山方面から単機DD51が引き上げ線へ入線したので交換と思い期待していたが、
5分程度の停止後、再び本線へ入線して平方面へ出発して行った。」(同上)
――なお、この写真を見て分かることは、スイッチバックの引き上げ線と並ぶ、横取り線の存在である。
これは、蒸気機関車が走っている頃の写真では見られず、その後、保線車両等の留置のために設けられたものであろう
(渡辺氏から提供頂いたキハ58の写真も、前後のコマを確認すると横取り線は存在するようである)。
そして、近年まで見られた“スイッチバック線の跡”
(本ページ、古矢氏が平成11年に撮影された写真でも見られる)
と筆者が思っていた線路
は、その位置から、この横取り線であったことが判明した。
この場で訂正させて頂きたい。
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