早稲田
早稲田大学
所在地:新宿区戸塚町1−104(早稲田駅徒歩5分)
HP:http://www.waseda.jp/top/index-j.html



早稲田大学のシンボル大隈講堂
  


 私学の雄・早稲田大学。僕が4年間を過ごした母校である。そんなわけで今更観光とかそのような場所では無いのだが、僕が卒業してから15年以上経って、大学もだいぶ変わって来た。そこで、久しぶりにミーハー気分で観て歩くことにした。  
    



東京メトロ早稲田駅入り口
 


 早稲田大学はどこにあるのか。それは「早稲田の森」にある。新宿区早稲田町。もっとも、早稲田大学のキャンパスがあるのは隣接する西早稲田。さらに本部や大隈講堂があるのは戸塚町で、早稲田町には研究センターなどキャンパスの一部があるだけである。

 早稲田大学の最寄り駅は東京メトロ早稲田駅。
 もっとも僕自身は大学時代は高田馬場駅から約20分歩いていた。これを「馬場歩き」もしくは「アリババ(アルババ)」と言う。他にも都電早稲田駅がある。東京メトロ西早稲田駅ができたのは2008年のことなので、僕の現役時代に利用することはなかった。
        
◆南門通り



早大南門通り
 


 早稲田大学のメインキャンパス(早稲田キャンパス)に行くにはいろいろな道順があるが、もっともポピュラーなのは、早稲田通りから早大南門通りに入っていくというもの。
    
 南門通りの奥には早稲田のシンボルともいうべき大隈講堂が見えてくる。
 



大隈講堂が見えてきた
  


 南門を通り過ぎる。
     



南門
  


 ところでこの南門のすぐ右手にある桜の木は「バカ桜」として有名である。
 おそらく早咲きの桜の品種なのだろうが、他の桜より半月は早く、3月中旬には咲き始め、他の桜が咲くころには散ってしまう。
    



南門のバカ桜
(2006年3月20日)
 


 早稲田大学のキャンパスの外、早稲田の森のいたるところに大学関連施設が点在している。それも近年、徐々にその数が増えてきた気がする。
    
 例えば、南門の向かいにあるレンガ造りの建物は小野梓記念館。かつてlこの地には「第一学生会館」があった。いわゆるサークル棟で部室が入っていた。アジアの市場を思わせる雑多な空間であったが、惜しまれつつ2001年に閉鎖・解体されてしまった。
 その跡地に小野梓(1852〜86)の名を冠した小野梓記念館が建てられている。
 



小野梓記念館
 

  
 小野梓は、大隈重信(1833〜1922)の片腕として東京専門学校(早稲田大学の前身)の設立に尽力。大隈を「建学の父」と言うのに対し、小野は「建学の母」ともされる。
 小野梓記念館の地下には小野記念講堂(小野講堂)があり、そこには小野梓像が建っている。
 小野講堂は僕が現役の頃は、構内の7号館にあった。それが、小野梓記念館の完成と共にここに移ってきたのである。
  



小野梓像
 


 小野記念館の1階の壁は「早稲田ギャラリー」となっている。早稲田大学の歴史が写真でわかるようになっている。
      



早稲田ギャラリー
 


 小野梓記念館のすぐ隣にある高層タワーは、大隈記念タワー。16階建て75.75メートル(250尺)で、大隈講堂(125尺)のちょうど倍の高さである。 
  



大隈記念タワー
 


 大隈記念タワーの10階にある「125記念室」は、展示室になっていて、誰でも入ることができる。
 東京専門学校から現在に至る早稲田大学の歴史を、写真や手紙などで観ることができる。個人的には、早稲田大学野球部を作った安部磯雄(1865〜1949)に関する展示が興味深かった。
    



125記念室
 

  
 15階にレストラン「西北の風」、16階には校友サロンがある。
 



校友サロン
 


 なお、大隈タワーにはもともと「第二学生会館」があった。僕が所属していたかるた会や茶道研究会などもここで活動をしていた。確か9階建ての最上階に和室があった。先日、15階のレストランでかるた会関係のパーティがあったのだが、つまり、その当時であれば僕らがいたのは空中になるわけだ。
 さすがは早稲田大学1高いビル。16階からは景色がとても綺麗に見える。
    



大隈タワーから見た景色


東京スカイツリーも見える


大隈タワーから見た夜景
 


 早大南門通りは、大学の正門に面したメインストリートと言うこともあり、商店街も個性的である。老舗の店からいかにも学生向けの店など、僕自身の想い出のある店もふくめていろいろある。
   



南門通り商店街
 


 その一つが「三朝庵」。カツ丼とカレー南蛮発祥の店とのことである。
  



三朝庵
 


 入口には「元大隈家御用 元近衛騎兵連隊御用」という看板がかかげられているからも、この店の由緒がわかるというもの。
 もっとも学生だった僕はこの店には数えるほどしか行ったことがなかった。そこで、久しぶりに行ってみた。
  



 


 名物のカツ丼を食べてみた。ちなみにカツ丼は単品790円。
 何の変哲もない普通のカツ丼で、普通においしい。これが正真正銘オリジナルのカツ丼ということになる。
    



名物カツ丼
 


 なんでも「昔はお金持ちでなければ洋食屋に行けない時代で、宴会料理の冷えた残りを煮て出したのが始まり」あるいは「カツがたまたま余ったとき、もったいないからと、早稲田の学生さんの提案もあって作ってみたのがカツ丼だった」
(*)というのが由来だそうである。
 一説に、1917年頃、早稲田鶴巻町にあった洋食屋「ヨーロッパ軒」でカツ丼が供されたのが走りだとも言うが、こちらはソースカツ丼だったようである。三朝庵は、卵とじのカツ丼の元祖なのだろうか。いずれにせよカツ丼のルーツは早稲田にあったのだ。なお、「ヨーロッパ軒」はその後1924年、店主の故郷・福井に移転するが、今ではソースカツ丼は福井の名物になっている。

* 「三朝庵(カレーうどん,カツ丼発祥の店)@早稲田 - 高田馬場B級グルメ」(http://babameshi.web.fc2.com/sanchouan.html
      



三朝庵内部
 


 有名店としては「高田牧舎」もある。漫画「東京大学物語」や映画「男はつらいよ/寅次郎サラダ記念日」などで、主人公が待ち合わせに使う店として登場している。もっともここも、学生には高価なので、ほとんど利用する人はいない。僕も、大学卒業間際に行ったことが無いことに気づいて慌てて利用したぐらいである。
  



高田牧舎
 

◆大隈講堂



大隈講堂
 


 さて、早稲田のランドマークともいうべき大隈講堂。
 1922年に亡くなった「建学の父」大隈重信を偲んで1927年に建てられ、現在国の重要文化財にも指定されている。
 高さは125尺(37.88メートル)。これは生前の大隈が唱えていた「人生125歳説」によっている。大隈は、「摂生すれば125歳まで生きることができる」と語っていたそうである。実際には83歳で亡くなったが、この125というのは早稲田にとって特別な数字となり、2007年には早稲田大学は建学125周年を祝っている。
   



大隈講堂入口


扉には「W」「A」「S」「E」「D」「A」と書かれている
 


 大隈講堂は早稲田大学の節目節目のイベントが行われる。例えば、学部入学式。
 早稲田は1学年約1万人もいるため、一度に全員の入学式は行えない。そこで2回に分けて行われるが、それでも大隈講堂には入りきれないため、文学部キャンパスにある記念会堂で行われる。大隈講堂で行われる のは学部ごとの入学式だけ。
 なお、付属校・系属校の入学式・卒業式も大隈講堂で行われるため、早稲田実業出身の僕は、中学・高校の入学式・卒業式も併せて計6回ここを使っている。
 その他、講演会や映画上映会、コンサートなども行われる。僕も、ここでいろいろな人の講演を聞いた。思い出すと、マレーシアのマハティール首相(1925〜)や羽田孜元首相(1935〜)、小泉純一郎元郵政相(1942〜)、映画評論家の淀川長治(1909〜98)、発明家のドクター中松義郎( 中松義郎/1928〜)など…(肩書きは当時)。
       



小講堂入口
 


 考えてみれば、僕はここのステージにも立っている。早実時代、僕は演劇部に所属していたが、文化祭の演劇公演をここの地下の小講堂で行ったのだ。また、大学時代に所属していたイベントサークルでも、大隈講堂を使ったイベントを行っているので、何度となく使っている。

 公演がある時にはもちろん、大隈講堂の中には入れるのだが、それは客席まで。大隈講堂には普段は入れない場所がいろいろある。
 そこで、2013年10月19日に開催された稲門祭の際に、大隈講堂を見学するキャンパスツアーに参加し、そうした場所を見学してきた。
    



大隈講堂の時計塔
(2013年10月19日)
 


 キャンパスツアーには学生ガイドの案内で参加した。僕以外のも家族連れなど計8人のツアーだった。
 時計台の入口は、2階に登る階段のすぐ脇にあった。普段は鍵がかかって開かない場所だ。
  



時計台入口
 


 時計台は、7階にあたる場所にあり、細い階段を上っていく。
  



時計台に続く階段
 


 やがて階段の上に時計盤が見えた。大隈講堂には4方に4つの時計盤があり、どの方角からでも見ることができる。
  

 

裏から見た時計盤
 


 時計室の中には、他の3つの時計盤がある。
 



時計室入口
 


 時計盤には小さな電球が取り付けられていて、夜になると灯りがともるようになっている。
   



時計室の中


時計盤
 


 本当はまだこの上にも階があり、鐘が設置されているらしいのだが、残念ながらツアーではそこまでは行けなかった。
  



この先に鐘が
 


 大隈講堂の回廊も普段は入れない場所。なんでも、大隈講堂のステージに立った人物しか入れないというが、過去にはヘレン・ケラー(1880〜1968)、マハトマ・ガンジー(1869〜1948)、アルバート・アインシュタイン(1879〜1955)といった偉人も来ているという。
   



大隈講堂回廊
 


 回廊には大隈重信像が建っている。現在キャンパス内にも大隈重信像があるが、それは2代目で、ここにあるのが初代のものである。
 普段は大隈ガーデンハウス(学食)に行く途中に、遠くから眺めることしかできないので、じっくりと見られる機会は貴重である。
   



初代大隈重信像
 


 大隈講堂の敷地の左の隅には「早稲田の栄光」の歌碑が建っている。
 1947年、早稲田大学70周年を記念して作られた応援歌で、早慶戦で勝った時と卒業式で歌われる。 たいていの早大生にとって学生として最後に歌う歌になる。
    



「早稲田の栄光」歌碑
 

◆大隈会館



大隈会館入口
 


 大隈講堂を正面に見て左手にあるのが大隈会館。早稲田大学の本部である。
 すぐ左手にあるガラス張りのカフェが目に入る。「Uni.Shop & Cafe125」。早稲田グッズを販売している。
  



Uni.Shop & Cafe 125
 


 そのカフェの斜め前にある建物に注目してもらいたい。「早稲田大学総合案内」の建物なのだが、実はこれ旧大隈重信邸唯一の現存遺構なのである。
  大隈重信は1874(明治7)年、早稲田に別邸を購入。現在の大隈会館のあった辺りである。1882(明治15)年には別邸に隣接する地を東京専門学校(現・早稲田大学)のために購入している。
なお、大隈の本邸は九段下の現在千代田区役所本庁舎のある辺りにあったが、1887(明治20)年に渋沢栄一(1840〜1931)に売却し、早稲田に移って来たそうである。
 1901(明治34)年に焼失しているが、翌年再建。この総合案内は、当時は守衛詰所として利用されていた。
         



総合案内 
 


 大隈会館に向かう途中、右手に大隈庭園の入口がある。ここはもともと大隈邸の庭園で、なかなか見どころのある場所である。ここは改めてゆっくり来ることにしよう。
    



大隈庭園入口
 


 さらに、左手には「W」の形をした碑が建つ。早稲田大学応援歌「紺碧の空」の歌碑である。
   



紺碧の空歌碑
 


 大隈会館は早稲田大学の本部である。総長室を始めとした大学の様々な機能がここにはあるが、その他にもレストラン「楠亭」などもある。
   



大隈会館入口
 


 中を覗いたら巨大な熊のぬいぐるみが。早稲田のマスコット・キャラ“ビッグ・ベアー”。“おおくま”にちなんでいるのだろう。
    



早稲田のマスコット
ビッグ・ベアー
 

大隈ガーデンハウス



大隈ガーデンハウス入口
 


 大隈会館の右手には大隈ガーデンハウスがある。ここはいわゆる学食。
  



大隈ガーデンハウスへの道
 


 大隈講堂と大隈庭園の間の道を通って、大隈ガーデンハウスへと出る。
   



大隈ガーデンハウス
 


 早稲田大学といえばバンカラのイメージがあるが、学食はかなりお洒落である。
  
◆早稲田キャンパス



早稲田大学正門
 


 それではいよいよ早稲田大学のキャンパスに進もう。
 「早稲田キャンパス」の名称がついたのはごく最近のことで、2008年になる。それまでは「西早稲田キャンパス」だった。僕が在籍当時は「本部キャンパス」と言っていたが、正式名称なのか通称なのかは覚えていない。
 2008年に当時の「大久保キャンパス」のすぐ近くに東京メトロ西早稲田駅が出来たため、「大久保キャンパス」が「西早稲田キャンパス」と改称され、「西早稲田キャンパス」が「早稲田キャンパス」になるというややこしい名称変更がなされた。
   
 早稲田大学は「門の無い大学」として知られている。
 実際には、門はあるにはあるのだが、例えば東大の赤門のような立派な門は存在しない。その気になれば夜中でも簡単にキャンパスに入ることができる。
    



正門
 


 門を入ってすぐ左手の草むらに「早稲田大学校歌」の歌碑が建っている。
 「♪都の西北…」で知られる早稲田大学校歌は東儀鉄笛(1869〜1925)作曲、相馬御風(1883〜1950)作詞、坪内逍遥(1859〜1935)校閲で早稲田大学創立25周年を記念して明治40年に発表された。
 校閲にあたった坪内は相馬御風の詩を見て感激し、各節の最後に「早稲田、早稲田、早稲田…」のエールを加えただけだっそうである。
  



早稲田大学校歌碑
 


 早稲田大学のキャンパスの建物を観ていくことにしたい。
 まずは1号館。正門に一番近いところにあるだけに、早稲田の看板キャンパスとして、入学センターや現代政治経済研究所がある。
  



1号館
 


 教室としては政治経済学部を中心に授業が行われている。政治経済学部は早稲田の看板学部であるので、それも当然。
 



1号館入口
 


 余談だが、僕が大学4年生の頃は、14号館が建て替え工事中で、14号館にあった社会科学部の授業もここ1号館で行われていた。その当時、社会科学部生の友人が「社学が看板学部だと認められた」と威張っていたのを思い出す。 それに対して「今だけだよ。」と言い返していたが、案の定すぐに追い出され、もとの14号館に戻されてしまった(笑)
     



1号館渡り廊下


中庭
 


 続いて、キャンパス内を号館順に回っていくことにする。
  
 
 2号館は旧図書館。現在は会津八一記念博物館となっている。
 1925(大正14)年に建てられ、東京都選定歴史的建造物にもなっている。
   



2号館
 


 図書館としては1991年まで使われた。現在でも図書館の分室・高田早苗記念研究図書館がある。
 会津八一記念博物館は歌人・書家で、早稲田大学の文学部教授でもあった会津八一(1881〜1956)を記念した博物館である。
  



会津八一記念博物館入口
 


 フェンスに囲まれているのは3号館があった場所。現在新しい建物を建設中である。3号館は確かもともとは政治経済学部があったような気がする。
 



3号館工事現場


大隈タワーから見た3号館工事現場
 


  フェンスには大学の歴史を描いた絵が飾られている。
 



 


(追記)
 その後、2015年になって早稲田を訪ねたところ、3号館は無事完成していた。
  



完成した3号館
(2015年7月5日撮影)
 


 中に入ると、4代学長にして2代総長・塩澤昌貞の像があった。
 



塩澤昌貞像
(2015年7月5日撮影)
 


 3号館が工事中だった期間、現在政治経済学部が入っていたのは4号館である。
  



4号館


4号館ラウンジの入り口
 


 4号館の脇を抜けると、東門があり、大隈通り商店街の方へ抜ける。
    



東門
 


 4号館の隣の5号館は「坪内博士記念演劇博物館」。早稲田大学の文学部の基礎を作った英文学者・劇作家の坪内逍遥(1859〜1935)の70歳と、1909(明治42)年から19年間の歳月をかけた「シェークスピヤ全集」全40巻の翻訳事業の完成を記念して、1928(昭和3)年に設立された。
  



演劇博物館
 


 日本唯一の演劇を専門に扱う博物館ということで、演劇に関する展示は充実している。また、建物自体も16世紀のイギリスの劇場フォーチュン座を模している。
 演劇博物館の図書室は演劇・映画に関する文献が豊富で、「キネマ旬報」のバックナンバー等17万冊を収蔵している。僕もHP「映画史探訪」の執筆に際して何度もここに来ている。
   
 坪内逍遥の像も演劇博物館のすぐ脇にある。1962年、演劇博物館創立70周年を記念して建てられた。大学にてシェークスピアを講義している姿だそうである。
 台座には、逍遥を偲んだ会津八一の和歌が刻まれている。
 



坪内逍遥像
 


 6号館には教育学部やITセンター、オープン教育センターなどが入っている。
   



6号館
 


 6号館は1935(昭和10)年に建てられた由緒あるもの。
 演劇博物館からは建物の下をくぐって北門の方へ出ることができる。
 



6号館
 

 
 6号館の真下に何やら飾られているものがある。なんでも、「勇払油ガス田(北海道)の沼ノ端SK−6D号井の掘削に使用した石油・天然ガス井掘削用ビット」だそうである。
  



掘削用ビット
 


 6号館の隣の7号館には早稲田ポータルオフィスがある。
  



7号館
 


 「ポータルオフィス」とは、「学事に関する学生へのワンストップサービスを目指し、全学生対象のオープン科目の学生対応、授業運営支援業務、そしてITセンターの利用者支援業務を一体的に展開する拠点」なのだそうだ。要するに大学の総合案内のようなもの。
 ちなみにポータルオフィスがあるのは、かつての小野講堂の跡地。小野講堂は現在は、南門通りにある小野梓記念会館に移っている。
     



7号館ポータルオフィス入口
(旧小野講堂)
 


 7号館には生協の購買が入っているが、その名も「コープセブン店」。
  



コープセブン店
 


 7号館の南側には、大隈講堂と並ぶ早稲田のシンボル・大隈重信像がある。
 1907年の創立25周年を記念して建てられた。
  



大隈重信像
 


 大隈像の背後に立つと、大隈講堂を見つめて立つ大隈公の姿を拝むことができる。これはまさしくベストショット。
  



大隈重信像と大隈講堂
ベストショット
 


 大隈重信像の左側(7号館側)に座っているのは高田早苗像。高田早苗(1860〜1938)は、大隈重信の側近で早稲田大学3代目総長。なお、高田早苗は、坪内逍遥、天野為之(1861〜1938)、市島謙吉(1860〜1944)と共に「早稲田四尊」と も称された。
 坪内逍遥像は既に見たように演劇博物館の前にある。また、市島謙吉像は早稲田大学図書館に建っている。
  



高田早苗像
 


 唯一、天野為之像だけは早稲田の森にはなく、彼が校長を務めた早稲田実業学校のキャンパス(現在国分寺)内にある。
  



天野為之像
(早稲田実業学校キャンパス内)
 


 8号館は法学部。2005年に建て替えられたが、見た目が当時とそっくりに作られている。
 



8号館
 


 8号館と2号館の間の道の突き当りが南門である。
   



南門へ続く道
 


 その隣の9号館は、政経や法学部の大学院が入っている。
 確か、ここにパソコンルームがあって、学生時代たまに使った記憶がある。
   



9号館
 


 9号館と10号館の間にある門は「第3西門」。目立たない場所にあるので知らない人も多いのではないか。僕も現役時代はほとんど使ったことがなかった。
  



第3西門
 


 第3西門に行く途中の広場に「富塚跡」という看板が建っている。説明書きによると、この辺りはかつては水稲荷神社の境内で、富塚という古墳があったそうである。早稲田大学が拡張した際に水稲荷神社は移転したが、富塚もまた崩されたそうである。
  



富塚跡
 


 第3西門は早稲田通りに面している。
 もっとも、今は帰るわけではないので、再びもと来た道を戻った。
  



第3西門へ続く道


外から見た第3西門
 


 再びキャンパスへ。
 第3西門に向かって右手にある10号館は、共通教室。特に、109教室は広いため、様々なイベントに使われる。
  



10号館
 


 その隣の11号館は商学部。2009年に建てられた新しい建物。
  



11号館
 


 エントランスは白い大理石で、旧11号館の入口をイメージしているとか。
  



11号館エントランス
 

 
 中に入ってみた。エスカレーターがある近代的な建物で、早稲田のイメージとずいぶん違う。
    
 



エントランスホール


エスカレーター
 


 エントランスホールにある胸像は平沼淑郎像。平沼淑郎(1864〜1938)は、早稲田大学3代学長。平沼騏一郎・元首相(1867〜1952)の兄でもある。早稲田大学商学部学長として学部の充実に貢献したとかで、ここに胸像が飾られた。
   



平沼淑郎像
 


 次の12号館は、11号館の裏手にある。
 10号館の脇から行かなければならない不便な場所にあるため、ほとんどの人は存在を知らないのではないか?
 社会科学部のキャンパスである。
  



12号館
 


 ちなみに12号館の脇にはゴミ捨て場がある。そういえば、早稲田祭の片付けでここに来たことがあった。
  



ゴミ捨て場
 


 かつて存在した13号館は、1998年に解体されて現在は存在しない。
 次の14号館に行くために、11号館の脇を北門へ向かって進もう。
 11号館と14号館の間にある階段は西門へ続く。
  



西門へ向かう階段
 


 その階段の脇には緑があるが、ここにはなかなか興味深いものがある。
  



14号館脇の緑
 


 それは杉原千畝のレリーフ。
 杉原千畝(1900〜86)は早稲田大学高等師範部英語科出身の外交官。戦時中リトアニアの領事館に勤務していたが、ナチスドイツの迫害を受けて逃れてきた難民に、外務省の訓令に逆らってビザを発給し続け、「日本のシンドラー」とも呼ばれる。
  



杉原千畝のレリーフ
 


 また、その近くには様々な石が陳列されているが、「地底・海底からの手紙」として寄贈されたもの。手前から層状チャート、日高変成岩、カンラン岩とのこと。
  



地底・海底からの手紙
 


 14号館もまた11号館同様近代的なビルディング。社会科学部のキャンパスがあるが、1998年に現在のものに建て直されている。
   



14号館
 


 工事中はちょうど僕の在学時代だったが、早稲田の最初の近代的なキャンパスである。
  



エントランスホールのモニュメント


エスカレーター
 

 
 そういう意味では、1966年に建てられたままの15号館にはほっとする。共通教室で、教職課程の授業が多く行われていたので、僕も実際に ここで授業を受けた。
  



15号館
 


 懐かしいので中に入ってみた。
  



15号館
 


 う〜ん、ちっとも変わっていない。
   



15号館廊下


15号館教室
 


 14号館と15号館の間の道の突き当りにある16号館。ここも当時のまま残っている。
   



16号館
 


 16号館は教育学部の校舎。ということで、学生時代には何度も来ている。
  



16号館
 


 16号館のすぐ近くにあるのが西門である。西門には2つの門がある。
    



第1西門


第2西門
 


 西門の近くに来ると、不思議な匂いがしてくる。早稲田名物の「牛めし三品」。メニューはカレーと牛丼、カツの3品。僕は皿の上にカツを乗せ、カレーと牛を半分ずつかけた“ミックス”が好きである。
     



牛めし三品
 


 まずは地ビール早稲田。
 学生時代にこの店でビールを飲むことはなかったので、なんだか自分が大人になった気がする(笑)
  



地ビール早稲田
 


 食事は中カツ玉ミックスを注文したが、相変わらずのボリュームだ。
 



中カツ玉ミックス
 


 「三品」を筆頭に、西門通りは個性的な店が多い。かつてはトンカツと衣の間にチョコレートの入った“チョコとん”を出す「フクチャン」もあった。
  



西門通り
 


 西門通りを早稲田通りに向かうと右手に17号館がある。
 ここには競技スポーツセンターがある。
  



17号館
右手が競技スポーツセンター
 


 また、生協の店舗も入っている。
  



ライフセンター
 


 17号館を反対側から出ると坂道があるが、これがグランド坂。
  



グランド坂から見た17号館(右)と15号館
 


 かつてここには安部球場のグランドがあったことからその名が残っている。
  



グランド坂
 


 グランド坂を降りると右手に大学の北門がある。
   



北門
 


 その向かいにあるのが学術情報センター、いわゆる図書館である。
  



学術情報センター入口


学術情報センター
 


 学術情報センターの入口を入ってすぐ右に2体の像が建つ。ここが安部球場であったことの数少ない名残だと言える。
 それは早稲田大学野球部の初代部長・安部磯雄(1865〜1949)と、初代監督・飛田穂洲(1886〜1965)である。飛田は「一球入魂」という言葉を生み出し、日本学生野球協会の設立に務め“学生野球の父”と呼ばれている。安倍もまた、早慶戦の誕生に関わり、六大学野球連盟会長初代会長や日本学生野球協会初代会長を務め日本野球の父と呼ばれる。戸塚球場を大隈重信に働きかけ建設させ、死後その名を取って安部球場と名付けられた。
 早稲田大学野球部が今なお日本の野球界をリードしている要因にはこの2人の野球の父がいたからとも言えるだろう。2人とも野球殿堂入りしている。
   



飛田穂洲像と安部磯雄像
 


 学術情報センターの中には市島謙吉像が。市島謙吉は初代図書館長で、「早稲田四尊」の一人である。
  



市島謙吉像
 


 図書館は卒業生でも使用できるので、僕も時々利用している。何しろ天下の早稲田大学図書館である。所蔵数は536万冊。東大(915万冊)、京大(656万冊)に次ぐ蔵書数で、私立では断トツ。
 ちなみに雑誌類を所蔵しているバックナンバー書庫や、映画が観られるAVルームを学生時代からよく使っていた。
  



図書館入口
 


 図書館を出たらグランド坂を下る。左手に老舗の天婦羅屋「金城庵」がある。1919(大正8)年創業。天婦羅がうまいが、2階のお座敷もコンパなどによく使われる。
 



金城庵
 


 「金城庵」の手前にある大隈通り商店街を、大隈講堂方面に向かって歩く。
 両側にやはりユニークな店がいろいろ並んでいる。
 





大隈通り商店街
 


 その一つがパスタ屋「まほうつかいのでし」(通称「まほでし」)。「幻想の月」「山の精の涙」「白い恋人たち」といったユニークなネーミングのメニューが並ぶ店で。この界隈では数少ないお洒落な店。なので、僕も数えるほどしか来たことがない。
  



まほうつかいのでし
 

 
 ここも2015年に通ったところ閉店していた。いったい、今の早大生はどこでデートをしたらいいのだろう(笑)

 このように母校・早稲田大学とその周辺を散策してみた。大学時代4年間を過ごした町だけにいろいろと懐かしく。改めて観察してみるとあちこち変わっていることに気づかされた。しかし、たとえどのように変貌しようと、この町は僕にとっての「心の故郷」だといえる。
 もっとも、僕は早稲田キャンパスに通っていたわけではなく、文学部(戸山キャンパス)のほうに毎日通っていた。次は戸山キャンパスを散策しようかと思う。
   

(2013年6月29日)


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