日本一周第3回「白い雲のように」 

第13日目「名古屋のひとよ〜愛知県・ 岐阜県・滋賀県〜」
 

2006年8月17日(木)

 
 
 早稲田実業の次の試合は8月18日 (金)、日大山形との対戦となった。1日間が空いたこともあり、少し遠出をすることにした。くれぐれも言っておくが、今は日本一周旅行の最中なのだ。
      
 

 


7:44 大阪 →(環状線)→ 奈良 →(みやこ路快速)→ 京都
→ (新幹線のぞみ)→ 名古屋 10:42
名古屋 →(地下鉄桜通線)→ 久屋大通 →(名城線) → 矢場町 
 

 
 

 
〈名古屋〉

 
 
 青春18切符を使い、のんびりと愛知県の名古屋へやってきた。かなり東に戻ったことになる。
 
 
 



味噌カツの「矢場とん」
   

 
 
 さっそく昼食を摂ろうと思い、名古屋名物味噌カツを食べに有名な「矢場とん」へ。
 11時過ぎに着いたにも関わらずすでに長い列。もっとも僕は一人だったので、意外とすんなり入ることができた。
     
 
 



名物味噌カツ
 

 
 
 ボリュームもあり、すっかりお腹がいっぱいになったので、名古屋観光を始めようと思う。
  
 

 


矢場町 →(名城線)→ 名古屋港
 

 
 
◆南極観測船ふじ(HP
 
 
 名古屋は初めてではない。つい最近も来ていて、名古屋城熱田神宮を観光している。そこで今回は名古屋港へ出た。
   
  
 
 



南極観測船ふじ
 

 
 
 係留されている南極観測船ふじを見学しようと思う。
 “ふじ”は、初代初代宗谷の後を受けて1965(昭和40)年から南極観測に従事。1983(昭和58)年に後継の“しらせ”に任を譲るまで18年間活躍した。
 南極観測隊というと、南極に置き去りにされて1年間を生き延びたタロ、ジロが有名だが、“ふじ”のすぐ近くには2匹の像が建てられている。もっともジロは1960年に南極で病死。タロも1961年に日本に帰国しているため、“ふじ”のことは知らないはず だ。 
      
 
 



タロ・ジロの像
 

 
 
 “ふじ”の中に入ってみた。
  
 
 



南極観測船ふじ
 

 
 
 “ふじ”の中には乗組員の寝室など、当時の様子がそのまま展示されている。
 また、南極観測に使われた物の展示や、南極の様子を再現したジオラマなどもある。 
   
 
 



一般乗組員の居室


ジオラマ
 

 
 
 甲板にはヘリコプターが。“ふじ”にはヘリコプターが計3機が載せられていたそうだが、これは1965(昭和40)年から9年間に渡って使用されたもの。
 
 
 



ヘリコプター
 

 

 


12:27 名古屋港 →(名城線)→ 金山 →(東海道線)→ 大垣 →(東海道線)→ 関ヶ原 13:49
 

 
 

 
〈関ヶ原〉

 
  ◆関ヶ原古戦場跡(HP  
 
 岐阜県に入った。岐阜県は白川郷以来ということになる。今回は関ヶ原へ。
  
 
 



関ヶ原駅ホーム
 

 
 
 関ヶ原といえば、豊臣秀吉(1537〜98)亡き後の天下をめぐって徳川家康(1543〜1616)の東軍と石田三成(1560〜1600)の西軍が争った地。天下分け目の関ヶ原の合戦(1600年)跡地である。
 関ヶ原駅を降りてすぐに「東首塚」があった。ここは関ヶ原合戦の後、徳川家康が首実検をした後に東西2箇所にその首を埋葬したことから、それぞれ「東首塚」「西首塚」と呼ばれ ている。この首塚を築いたのは当時この地の領主であった竹中重門(1573〜1631)であった。
  
 
 





東首塚
 

 
 
 その際に首を洗ったとされる井戸もある。
 
 
 



首洗いの古井戸
 

 
 
 関ヶ原の合戦は、東軍7万人、西軍8万人。計15万もの軍勢が入り乱れて戦った。その際の各軍勢の陣地跡が残されている。見所があまりにも多いようなので、まずは関ヶ原歴史民俗資料館で情報収集することにした。
  
 
 



関ヶ原歴史民俗資料館
 

 
 
 関ヶ原歴史民俗資料館には竹中半兵衛像があった。竹中半兵衛重治(1544〜79)は秀吉の軍師で、関ヶ原を支配していた。関ヶ原の合戦に際してはその子・重門が東軍として参戦している。
   
 
 



竹中半兵衛像
 

 
 
 資料館を出てすぐのところにある御霊神社(みたまじんじゃ)は、関ヶ原の合戦で亡くなった招聘の霊を祀るために建てられた。もっとも建てられたのは合戦380年を機とした1980(昭和55)年のことで、かなり新しい。
  
 
 



御霊神社

 

 
 
 陣跡をいろいろ見て回ることにしたが、まずは東首塚のすぐ脇にある松平忠吉・井伊直政陣跡。松平忠吉(1580〜1607)は家康の四男で、関ヶ原 の合戦が初陣。岳父にあたる井伊直政(1561〜1602)が補佐していた。忠吉・直政は先陣を切ろうと、宇喜多秀家 (1572〜1655)軍に対峙するが、東軍の先陣は福島正則(1561〜1624)と決まっていたため咎められた。忠吉・政直は島津義弘(1535〜1619)軍を攻撃。関ヶ原の合戦の火蓋が切って落とされることになった。
  
 
 



松平忠吉・井伊直政陣跡
 

 
 
 関ヶ原歴史民俗資料館のすぐ近くには「徳川家康最後の陣跡」がある。家康は当初は東の桃配山に陣取っていたが、その後この地点に移動してきた。
   
 
 



徳川家康最後の陣跡
 

 
 
 家康最後の陣跡のすぐ脇には田中吉政陣跡。田中吉政(1548〜1609)は、この地から出陣して西軍総大将・石田三成軍と戦う。後に、石田三成を捉えるという功績 もあげている。
    
 
 



田中吉政陣跡
 

 
     
 さらに北に20分ほど行った高台が岡山(丸山)。ここには黒田長政(1568〜1623)と竹中重門が陣を敷いた。ここから開戦を告げる烽火があげられた。
  
 
 



岡山(丸山)烽火場


岡山(丸山)から関ヶ原古戦場方面を見渡す
 

 
   
 関ヶ原の合戦は当初、石田三成率いる西軍有利であったと言われている。しかし、西軍の小早川秀秋 (1582〜1602)が突如東軍に寝返りったことで、状況が一変。東軍が優勢となり、西軍は敗走する。
 「決戦地」は、東軍の執拗な攻撃を受けた石田三成軍が戦った最大の激戦地であったという。
     
 
 



関ヶ原古戦場 決戦地
 

 
 
 決戦地の北西には笹尾山があり、その麓には西軍総大将・石田三成が陣取っていた。
 敗れた三成はここから北の伊吹山に向けて敗走する。 
   
 
 



笹尾山


石田三成陣跡


石田三成陣跡から見た光景
 

 
   
 三成陣跡から南には西軍の島津義弘(1535〜1619)が陣を敷いていた。西軍が壊滅する中、島津軍は孤立し東軍に包囲される。島津軍は敵中突破を決意し、見事成功。「島津の退き口」として知られることとなり、これが敗戦の将ながら所領安堵が認められる要因ともなった。
     
 
 



島津義弘陣跡
 

 
 
 島津陣のすぐ近くには小西行長(1558〜1600)の陣跡。小西軍は西軍の主力として奮戦するも敗走。捕らえられ後に斬首される。
    
 
 



小西行長陣跡
 

 
 
 関ヶ原の合戦の口火が切られたのは、小西陣のすぐ近く。先にも述べたように、井伊直政に抜け駆けされた福島正則が宇喜多秀家軍を攻撃したのがこの地であったという。もっとも碑が建っているのは、実際の地よりも300メートル北だそうだ。
   
 
 



開戦地
 

 
 
 関ヶ原古合戦場跡にはこれ以外にもまだいくつもあるようだが、今日は歩き回って、すっかり汗だくになってしまった。名残惜しいが、そろそろお暇しよう。
  
 

 


関ヶ原→(東海道線)→ 米原 →(東海道線)→ 野洲
 

 
 
〈野洲〉
 
 
 関ヶ原からの帰り道、人身事故の影響で電車が滋賀県の野洲駅に立ち往生した。これも何かの縁だと、復旧を待つ間、駅前の炉ばた焼きの店に入った。 ヨコワ(マグロ)のお造りとハモの天麩羅を注文。
  
 
 



ハモの天麩羅とヨコワのお造り
 

 

 


野洲→(東海道線)→ 大阪
 

 
 
 食べ終わった頃には電車は動いており、大阪に帰ることができた。
 明日はいよいよ甲子園の準々決勝戦である。
 
 
  そして、神戸〜兵庫県・大阪府〜 若き力〜兵庫県・大阪府〜  
 


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