東山
霊山護国神社(明治維新史跡公園)
所在地:東山区清閑寺霊山町1(京阪電車五条駅 徒歩20分)
HP:http://www.gokoku.or.jp/
入場料:一般300円 小・中学生200円
開館:8:00〜17:00 月曜閉館



霊山護国神社
 


 清水寺のほうから東大路通りを北へ少し行くと、大きな鳥居にぶつかる。そこを右に曲がると、霊山護国神社がある。
  



霊山護国神社鳥居
 


 この霊山護国神社には明治維新史跡「旧霊山官修墳墓」があり、明治維新のために尽くした志士たち計1,356人の霊が祭られている。その後、太平洋戦争までに至る京都出身者の戦没者の霊も併せて73,011人が祭られている。
  



維新の道
 


 神社に至るまでのやや急な坂は「維新の道」と名づけられ、ふもとには石碑も建っているが、とくに変わったものがあるわけではない。だがこの先に、坂本竜馬(1835〜67)を始めとする勤皇の志士たちの墓があると考えると、何だかわくわくしてくる。
    



木戸孝允勅撰碑
 


 墓地に入ってまず最初に目に入るのは木戸孝允(桂小五郎/1833〜77)による勅撰碑。
 その後ろには数多くの墓が立ち並んでいる。
 以下、その主なところを紹介することにする。
  



頼三樹三郎・梅田雲浜の碑
 



吉村寅太郎の墓


 古いところでは尊皇攘夷運動の礎を築いた梅田雲浜(1815〜59)・頼三樹三郎(1825〜59)ら安政の大獄の殉死者の碑が立っている。
 1863(文久3)年には、大和で天誅組の変が、但馬では平野国臣(1828〜64)に率いられた生野の変が起きるが、ともに敗北する。吉村寅太郎(1837〜63)始めとする天誅組烈士も、平野国臣もやはりこの地に眠っている。ちなみに鞍馬天狗や「大菩薩峠」(1913〜44年未完)の主人公・机龍之介も天誅組に属していたということになっている。
 さらには日本陸軍の創設者といわれる大村益次郎(1824〜69)の墓もあり、必ずしも非業の死を遂げた人々ばかりが祭られているわけではない ようだ。
  



平野国臣の墓



大村益次郎の墓
 


 ここに来る人の多くの目当ては坂本竜馬の墓ということになるのだろうか。
 坂本竜馬は近江屋で共に暗殺された中岡慎太郎(1838〜67)と共に、墓所の中央あたりに眠っている。
  



坂本竜馬・中岡慎太郎の墓
 


 墓のすぐ隣には二人の功績をたたえた銅像も立っている。
  



坂本竜馬・中岡慎太郎の銅像
 


 銅像のすぐ後ろにある墓群は、池田屋事件の殉死者の墓。1864(元治元)年6月5日、近藤勇(1834〜68)率いる新撰組が京都・池田屋に終結した勤皇の志士を襲撃。9名を殺害、20数名を捕らえることに成功。志士方は多くの優秀な人材を失ったため、明治維新が1年遅れたとも言われている。
   



池田屋騒動殉難烈士の墓
 


 当然と言えば当然なのだが、この地に眠るのは勤皇派のみで、新撰組を始めとする佐幕派は眠ってはいない。それが少々物足りなく感じる。
  



長州藩士の墓
左より久坂玄瑞、来島又兵衛、高杉晋作
 


 志士たちの多くは土佐や水戸、鳥取といった出身地別に分かれて眠っている。1864年の禁門の変(蛤御門の変)で多くの人材を失った長州藩も高杉晋作(1839〜67)や久坂玄瑞(1840〜64)ら多くの墓がある。
   


木戸孝允(桂小五郎)の墓
 


木戸孝允妻(幾松)の墓
 

 墓所の一番高いところにあるのが木戸孝允とその妻松子(1843〜86)の墓である。三本木の芸者だった松子(幾松)は、幕府方に追われた木戸をかくまったことから、彼と恋が芽生え、維新後に結婚している。様々なエピソードのある維新史の中でも代表的なロマンスをあげるとすれば、この二人があ げられるのではないだろうか。
   



坂本竜馬へあてたメッセージ
 


 様々な維新のエピソードを思い浮かべながら、この地でしばしの時間を過ごした。
 敷地内の所々には、石版が置かれている。見ると、この地に眠る志士たちに寄せたメッセージである。中でも、坂本竜馬にあてたものが圧倒的に多い。
 志士たちは今もなお多くの人の心の中に生き続けているのだ。
   

(2006年5月10日)

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