洛中
白峯神宮
所在地:京都市上京区今出川通堀川東入ル飛鳥井町261番地(地下鉄烏丸線今出川駅徒歩10分)
HP:http://www10.ocn.ne.jp/~siramine/index.html



白峯神宮
  


 二条城から再び電車で今出川に。本隆寺に戻る途中、白峯神社に立ち寄った。

 ここ白峯神宮は1868(明治元)年に創建されたというから、まだ新しいほうの神社である。御祭神は崇徳天皇(111964)。崇徳天皇は保元の乱(1156年)で後白河天皇(112792)方と戦い敗れ、讃岐の国へ流され無念の死を遂げている。また、1873(明治6)年には藤原仲麻呂(恵美押勝/70664)の乱に関与して淡路に流された淳仁天皇(73365)も合祀されている。

 白峯神宮の名前の由来は崇徳天皇崩御の地である白峯山からとったもので、現在も崇徳天皇陵は香川県坂出市青海町の白峯陵にある。

 崇徳天皇は讃岐にあること8年。世を呪いながら死んでいったと伝えられる。彼の死の直後には源平争乱が起きて、その呪いは現実のものとなった。白峯神宮はそうした崇徳天皇の怨霊を鎮めるために創建された。しかし…いくら魂の世界が永遠であろうと、白峯神宮の創建は崇徳天皇の死後700年もたっている。淳仁天皇に至っては死後1100年である。かなり説得力を欠く。
 それでは、なぜこの時期に白峯神社が建てられたのだろう。明治元年といえば、明治維新によって、皇室に政治の主権が戻ってきた年である。つまり、ようやく、崇徳天皇の呪いが晴れたということを意味しているのではないか。また、そのことをアピールするという政治的意図が大いに含まれているのではないだろうか。そもそもこの神社は孝明天皇(183167)の創設の遺志を継いだ明治天皇(18521912)の勅願ということで、社格は最上位にある。
 1878(明治11)年には、崇徳天皇と同じく保元の乱で敗れた源為義(10961156)と源為朝(113970)父子を祀る「伴緒社」が境内社として建てられた。強弓で知られた源為朝だけに、「弓矢の神・武道の神」として祀られている。
    



伴緒社
  


 
今出川通りに面した正門横には「まりの神様。スポーツの守護」と言う看板が掲げられている。どうもこの白峯神社はスポーツ、それもとりわけサッカーにご利益があるらしい。
 そのいわれは、そもそもこの地には平安時代以来、蹴鞠の宗家であった飛鳥井家の邸宅があった場所なのだそうである。もともとここには「鞠の精」を祀った精大明神があり、現在でもここに祀られている。「鞠の精」は平安時代の蹴鞠の名手であった関白・藤原成通(10971159)が、千日に渡る蹴鞠修行を果たした直後に出現した童子の姿をした神様であったそうである。ちなみに、この藤原成通は後白河天皇の側近であったのだが、後白河天皇こそまさしく崇徳天皇の宿敵。なんとも皮肉な因縁である。
 同じ頃の藤原頼輔(111286)も、やはり蹴鞠の名手であったが、その孫の飛鳥井雅経(11701221)と難波宗長がそれぞれ蹴鞠の宗家である「飛鳥井流」と「難波流」を起こしている。共に、幕末までに衰退するが、1903(明治36)年に明治天皇のご下賜金により有志による保存会が結成される。2003(平成15)年の保存会100周年を記念して、境内に「蹴鞠碑」が建立された。
     



蹴鞠碑
 


 蹴鞠保存会は毎年4月14日と7月7日に、ここで奉納を行っている。境内には蹴鞠をする「蹴庭」もある。
 

 

蹴庭
 

  
 面白いことに蹴鞠の神様が、現在では「蹴鞠は日本のサッカーの原点」ということで、サッカーの神様になってしまった。かつてはパチンコにご利益があるといわれたそうだから現金なものである。
 本殿を覗いてみると…あるわあるわ。サッカーはじめ、野球、バレーなど様々な球技関係者が奉納したボールの数々。今年はサッカー・ワールドカップの年だけに、サッカー関係が目立つ。まあ、本当にご利益があるのなら、パープルサンガはもっと強そうなものだが…(笑)
  



奉納されたボールの数々
 


 境内には樹齢800年の小賀玉(おがたま)の木があり、京都市指定の天然記念物となっている。神社よりもはるかに古い歴史を持っているわけである。
  



小賀玉
 

(2006年5月21日)

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