小島剛夕と白戸三平のなぞ
長篇「カムイ伝」を読んでいくと、白戸三平の絵は、巻を重ねるに従い、マンガのタッチから
次第に、省略が少ない、絵物語のタッチに近いものに変わっていきます。「小島剛夕遺稿集・華別れ」を読むと、
「カムイ伝」は白戸三平が案をねり、小島剛夕が下書きをしたものを、複数のアシスタントが次々に流れ作業で仕上げて
いったものであることがわかります(白戸自身の回想による)。このアシスタント集団の中には白戸三平の実弟岡本鉄二
氏が当然含まれています。
当時(昭和40年代の始め)貸し本文化はほぼ壊滅しており、貸し本業界のスターだった小島剛夕も、少年雑誌に進出
できた白戸のアシスタントを勤めることで、糊口をしのがなければならなかったのでしょうか。白戸三平の絵のタッチが
次第に絵物語ふうになっていったということは、この集団作業の中で、作画にかんしては、小島剛夕のイニシアティブが
次第に確立されていったと想像することもできます。
「小島剛夕遺稿集・華別れ」に入っている狼と熊の絵は、まったく白戸三平の絵とそっくりで、白戸の絵と言われても
、そのまま通ってしまいます。昭和44年、戸川幸夫「日本オオカミ」の挿し絵として書き下ろされたとあります。
この絵も「白戸三平/小島剛夕・劇画集団」の共同製作によるものでしょうか。それとも私達が後期の白戸三平の絵と
思っているのは小島剛夕の絵なのでしょうか。
また小島剛夕がひばり書房の専属であったとき、大手の出版社から頼まれて作品を書くチャンスが巡ってきたが、専属
会社に不義理をするわけにはいかないので、出身地にちなんで諏訪 と名乗り、弟子の絵柄に似せて、別人の
ようにして、「」を書いた。とあります。その表紙の絵のタッチは白戸三平の絵とそっくりです。「華別れ」にはほか
にも諏訪名義の作品として、「」、「」が載っていますが、この表紙の絵も白戸三平の絵そのものです。すると「弟子の
絵柄に似せて」という「弟子」とは白戸三平のことでしょうか。しかし「華別れ」に載っている白戸三平の思い出の寄稿
にはそのようなことは一切かかれていません。
いったい、小島剛夕と白戸三平との関係は師弟の関係だったのでしょうか。貸し本の売れっ子は小島剛夕と白戸三平が
横綱だったそうです。かれらはある時には師弟の関係となり、ある時はライバルとなり、またある時は、逆転して、先生
が弟子のアシスタントとなって傑作を生み出すのに力を貸したのではないでしょうか。そうしながらも、アシスタント達
の尊敬は、すこぶる達者で、絵の大好きなセンセイのほうに集まったりして、絵柄がだんだん絵物語ふうになっていった
....。小島剛夕は徹底した職人で、紙芝居を書いていたこともあり、絵さえ書けたら誰の作品というようなことには
こだわらずに協力したのではないでしょうか。
最後のお弟子さん(それは女のひとでしたが)が思い出を書いているのを
読むと、剛夕師匠は絶えず絵に新たな工夫をし、それがうまくゆくととても喜んだそうです。