14.山川惣治のライバルたち 伊藤幾久造2
伊藤幾久造は戦前の少年雑誌「少年倶楽部」に高垣眸の「まぼろし城」「怪傑黒頭巾」の挿し絵を
書いています。
「まぼろし城」の挿し絵(上)を見ると、筆による衣服のひだの階調表現、荒涼たる景観の描写、左からの光線に
よるコントラストの強い画面-----これは椛島勝一の挿し絵の技法の時代劇への応用であることがわかります。
「少年倶楽部」では、時代物の挿し絵はペンで書かれるものが大部分でした。山口将吉郎、高畠華宵、伊藤彦造みな
ペンを使っていました。斉藤五百枝はコンテを使っていました。挿し絵に筆を使っていたのは椛島勝一と梁川剛一など
現代物の挿し絵画家たちでした。時代物を椛島勝一の技法でかいてやれ、これが伊藤幾久造の発明です。
戦後「少年」に小山勝清文の絵物語「少年宮本武蔵」の絵を書いたときには、時代物のブームのころで、一時
「少年王者」の人気を抜いています。このときは、山川惣治に学んだのか、ペンによる絵でした。そのうち、
「少年クラブ」の「少年太閤記」、「少年源為朝」で、大きな駒を書く時には筆を使っています。前のページの
「少年源為朝」の絵は輪郭にはペンを、塗りには筆を使っています。大きな絵は両方使って効果をあげることができ
ます。階調表現は筆のほうがずっと楽ですから。ただ、絵物語の小さなこまの中に小さな絵をかくときには、ペンで
ないとかけないのでしょう。
1980年、南洋一郎が亡くなったとき、週間朝日が「少年倶楽部の旗手たちはいま...」という記事を掲載
しました(昭和55年8月8日)。
その中で「伊藤幾久造氏(当時79歳)は『少年宮本武蔵』(昭和34年)以来、挿し絵は描いていないが、新聞の連載
小説にはいまでも目を通す」と書かれており、「最近のさし絵画家の中には人間の顔もロクにかけないヤツがいるん
ですね。問題じゃないですか。」と、元気に発言しています。
私が「少年太閤記」「少年源為朝」を読んだとき、伊藤幾久造の人物の顔は全く安定していて、安心して見ていられ
ました。おおっすごいとうならせるということもなかったが、手を抜いているなとか、この絵は失敗だなとか、疲れ
てきたなとか、マンネリだなと思うことはなかった。絵物語の連載のころ、伊藤氏は50代後半でしたから、作風が
安定していたのは、当然かもしれません。講和条約締結で、チャンバラを禁じた占領軍がいなくなったので、東映
映画をはじめとする時代劇のブームが起きました。「赤胴鈴之助」などもこのブームにのっかったものでしょう。
時代劇の挿し絵のベテランに最後のチャンスが巡ってきたことを同時代の読者として喜びたいと思います。