12-5-1.なぜ絵物語はマンガに負けたか
昭和20年から25年頃、10本以上の連載・読み切りを抱えた小松崎茂は、アシスタントも使わず、
徹夜の連続で超人的にかきまくっていました(「少年マンガの世界1」平凡社)。山川惣治はあまり原稿依頼が多い
ので、背景などは、お弟子さんにかかせるプロダクションシステムを日本ではじめて使いはじめていました。
(戦後漫画50年史/竹内オサム著/ちくまライブラリー/1995年、赤本漫画と漫画少年/清水勲著)
それが昭和30年代になると、少年雑誌の人気連載は、「鉄腕アトム」や「鉄人28号」などのマンガにすっかり奪われて
しまいました。「絵物語の時代は短かった」(異能の画家・小松崎茂 根本圭助著/光人社)のです。なぜこのような
ことになったのでしょう。
これについて、技術的なことが従来から言われています。絵物語の細密画を書くには長年のトレーニングが必要で、
限られた作者しか書けなかった。一方、漫画は簡単な線でよく、だれでも書けた、というようなことです。
しかし現在のマンガをみていくと、絵物語に負けない細密画がコマの中に描かれていることに気づきます。白土三平
の平成13年現在の画風は、マンガというより、絵物語といってもいいくらいです。昭和32年ころ、小島剛夕が書いて
いた絵物語の絵とかわりありません。また白土に限らず、そこらのマンガの中にでてくる、オートバイや自動車や、
拳銃や、戦車は、しばしば、昔の絵物語もおよばぬ正確さでかかれています。現在のマンガ家(の少なくとも一部)は
絵物語風の絵を描こうと思えば描けるのです。彼らはそれが必要と思えば修行して描くのです。ですから細密画を描く
のに修行がいるということは、現在絵物語が書かれない主な理由ではありません。昭和30年代に絵物語作家がマンガ家
に転向した理由も細密画がかけないというのではありません。
現在のマンガ家には絵物語の絵は書けるのですが文が書けないのです。文を書く必要を認めないといってもいいで
しょう。手塚治虫は語らずして語るストーリーマンガの技法を発明したのです。
絵物語を読むと絵と文が一定の比率で紙面を埋めています。一つの絵には必ず一定の文が必要です。しかし説明が全く
不必要な絵もあるのです。その場合も絵物語ではなにかの文をつけなければいけません。手塚治虫はそのような言わず
もがなの文を省略して、わかる者はわかれとばかり説明なしの絵をつきつけるだけです。それによって、映画の無言の
シーンに似た芸術的な感動をマンガにもたらしたのです。
映画のショットの積み重ねのように絵のコマを重ねていって、ストーリーを語る。クローズアップやロングショット、
俯瞰といった映画的な手法をとりいれて、個人が映画を作ることができるようにした。これが世界にほこる手塚の
業績です。絵のコマを多数使用するために、またコマからコマへのスピードをあげるために、簡単な線で物を表現
しなければならない。マンガの絵が、絵物語の絵をしのいだのは、コマからコマへのスピーディーな展開が求め
られたから付随的にそうなったのです。マンガと絵物語的と、絵そのものの魅力は甲乙つけ難いと思います。
ただ絵物語では、地の文のほうがマンガ以上に魅力のある世界を作れなかっただけです。
マンガの絵はだれにでも書けるから、絵物語はマンガに負けたという説は、一面的な議論にすぎません。私はSF
の挿し絵をマンガ家が描いていると(文庫など)幻滅してしまいます。そのような本は決して買わないようにしてい
ます。見るに耐えないからです。マンガの絵が絵物語の絵よりすぐれているのであれば、どうしてそんなことを
感じるでしょう。
晩年の手塚治虫は、若いころの絵より省略の少ないリアルな絵を描きました。劇画に対抗したからとも言えます。
また、マンガ読者が大人層にも広がったため、大人が読んでも恥ずかしくない絵柄に変えたとも言えます。どちらに
せよ、「誰にでも書けるような絵が魅力がある」のなら、そのようなことはしなかったでしょう。絵は変えたが、
コマ運びは変えませんでした。コマ運びが真に重要な点だったからです。
ストーリーマンガにはコマとコマの運びの中に絵物語にはない芸術的可能性、芸術的自由度があった。だから勝つべく
して勝ったのであって、これをひっくり返すのは、山川惣治にも小松崎茂にも容易なことではありません。