やまなし学研究2010 テ-マ:「山梨の農と食」・「甲斐の国人物伝」(山梨学院大学主催) |
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古代甲斐国
の庶民の姿 |
山梨と馬の関係 |
1)甲斐の国には馬と関係する地名が多く存在する
・ 今の笛吹市に在る「栗原」はもとは「呉原」と呼んだが、此の呉は古代中国の南部
を「呉(くれ)」北部を「胡、漢、唐、」と呼び、中国南部から馬が日本に運ばれた
関係で、呉原→栗原となった
・ 栗原の傍(塩山)に在る「等々力」も轟(中国の馬に引かせた戦車に由来)と共に
牧場を走り回る馬の馬蹄と理解出来るが、馬の飼育に深く関わった地名
・ 初めは上記の場所で飼育された馬が巨麻郡に移り、現在の中巨摩・北巨摩・
南巨摩に広がって行った
2)中世以前の古道と馬の往来との関係
・ 信濃:穂坂路、棒道、逸見路、佐久往還(戦国期)
・ 武蔵:秩父往還、青梅街道、甲州街道(桂川沿いのルート)
・ 駿河:河内路、中道、若彦路、鎌倉街道
この様な街道を利用して馬が荷役として盛んに使われた
3)朝廷への貢馬数(朝廷に馬を献上すること)
地 域 |
貢馬数(延喜式制) |
郡 数 |
1郡当たりの頭数 |
甲斐国 |
60 疋 |
4郡 |
15.0 疋 |
武蔵国 |
50 疋 |
19郡 |
2.6 疋 |
信濃国 |
80 疋 |
10郡 |
8.0 疋 |
上野国 |
50 疋 |
14郡 |
3.6 疋 |
以上の様に、甲斐国が小規模の土地から多くの馬を献上していた事が判る
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農民の税の制度
(1200年~1300年頃から整備) |
1) 身体上に障害のない21~60才までの男子(正丁:せいてい)に租・調・庸・雑徭
(ぞうよう) ・兵役等が課せられた
2) 61以上~65才までの男子(老丁)は正丁の2分の1の調・庸が課せられた
3) 17~20才までの男子(少丁)は正丁の2分の1の調・庸が課せられた(中男とも言う)
(平城京は少丁が大勢働いた)
4)それぞれの税金の種類
・ 租:口分田に課せられた税で、収穫量の約3%を納めた
(税は地方財政に充てられ、郡の正倉に蓄えられた)
・ 調:男子のみに課せられた税で、麻布や絹又は海産物等の地方の特産物を納めた
・ 庸:一年に10日の労働を行う代わりに、布を納めた
・ 兵役:正丁の約3人に1人の割合が兵士として軍団に集められ、更に此の中の一定
の人数が防人(さきもり)や衛士(えじ)となって、九州や都に派遣された
防人:諸国から3年交代で九州地方に派遣された兵士で、天平3年(AD730年)
からは、東国の兵士に限られた
衛士:諸国から都に集められた兵士で、任期が一年で都の警備にあたった
・ 雑徭:地方の役人(国司)のもとで、一年間に60日働いた(ぞうようと読む)
・ 公出挙:国から強制的に稲が貸し付けられて、秋の収穫時に5割(後に3割)の
利息を納めた(くすいこと読む)
その他
・ 運脚:調・庸の物品を都に運んだ(食料は自給)
・ 仕丁:50戸に正丁2人が選ばれて、都の雑役を行った。任期は3年で都の造営
事業の重要な労働力となった
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甲斐国の
生業と負担 |
1)平城宮から出土した木簡から、「山梨郡雑役胡桃子(くるみ)」と書かれていて、
都に献上した事が判る(天平寶字六年六月:AD763年)
2)正倉院調庸(絹)墨書銘文の中に、「甲斐国巨麻郡猪郷物部高島調壹疋」
と書かれており、甲斐国の連恵文(恐らく医者の名前)が献上した絹と考えられる
3)同じく、白絁金青袋に、「甲斐國山梨郡可美(加美)里日下マ(日下部)一疋」
と書かれている(和銅七年十月:715年で平城京が出来た5年あと)絁は絹のこと
4)佐賀県唐津市 中原遺跡出土木簡から「甲斐國津力(港)戍(守り)人 不状之知
(此れ以上の情報はない)」がある
☆胡桃の文字の「胡」は中国の西方を意味している文字で、此の他、漢や唐があるが
何れにしても、中国西部から伝わっている事が判る。其れに対して中国南部は「呉」と呼び中国南部から伝わったくるみは「呉桃」と書く。因みに、中国南部から伝わった着物を「呉服」として、現在もこの文字が使われている。又、中国の後漢末期に「三国志」があるが、魏、蜀、呉の三国の内の「呉」は孫権が長江流域につくった国で、「呉越同舟」の諺でも知られている。
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他の地方
との交流 |
1)長野県佐久市聖原遺跡で出土した土器に以下の文字が書かれていた「甲斐國
山梨郡大野郷戸主乙作八千(鉢)」と書かれ、底部に「此後与佛成為」と書かれて
いて「此ののち仏とならん」と読む事が出来る。又、此の鉢は鉄鉢型土器で法隆寺
献納宝物に同じ形の鉄鉢が有る。
2)甲斐の国に関する地名では、於曾、石禾(今の石和)、大野、可美(加々美)等の
記述が有り、木簡や土器にその名が記されているる
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全国に有った
掲示板 |
石川県加茂遺跡より出土した加賀郡牓示札(ぼうじさつ)は全国各地に有った掲示板で
こうした読み下し文が人が集まる要所に立てられて読まれていた。
その内容は以下の通り
① 田夫、朝は寅の時を似って田に下り、夕は戍(犬)の時を似って私に還るの状
② 田夫、意に任せて魚酒(ごちそうの意)を喫ふを禁制するの状
③ 溝堰(田に水を引く溝や堰のこと)を労作せざる百姓を禁断するの状
④ 五月卌日前を以て、田植えの竟(おわる)を申すべきの状
⑤ 村邑の内に隠れ潛みて諸人と為ると、疑わる人を捜し捉ふべきの状
⑥ 桑原なくして、蚕養ふ百姓を禁制すべきの状
⑦ 里邑の内にて故(ことさら)に酒を喫ひ酔い、戯逸(ぎいつ)に及ぶ百姓を禁制
すべきの状
⑧ 農業を慎勤すべきの状。件の村里長たる人は百姓の名を申せ。案内を検ずるに
国の去る正月廿八日の符を被るに併(いわ)く・・・・(以下省略)
この読み下し文は、真水の川底に腐らずに埋まっていたもので、木の素材に墨で書かれていて、当然薄れて字が読めない木片を墨が炭素であるため木質より腐り方が少ない部分を慎重に蘇がえらせて、国学院大学教授の佐野光一氏により墨筆したものとのこと
尚、牓示札は嘉祥二年二月十二日(AD842年)と書かれていて、今から約1200年前の掲示板とのこと
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山梨オリジナル
の食品加工 |
地域食材
食品加工・開発
への取り組み |
1)食品開発の為に重要な6要素(数字が大きくなる程重要度が高い)
① 経 済 性:安価(?)・高価(?)、安心・安全への消費意識増大
② 簡 便 性:スーパー・デパート・コンビニ等の利便性(外食・中食の充実)
③ 貯 蔵 性:加工技術の進歩(流通システムの確立)
④ 嗜 好 性:好き・嫌い・テクスチャー(歯ごたえ・喉越しなど)・季節性志向
⑤栄養特性:5大特性(糖質、脂質、蛋白質、ビタミン、ミネラル)
⑥ 安 全 性:食物の根底を支える食の安全確保
2)四季の野菜と果物(山梨主要農産物)
① 野菜 ② 果物
・春:キャベツ、たけのこ ・春:イチゴ、梅
・夏:トマト、ナス、トウモロコシ ・夏:桃、サクランボ、すもも、ソルダム
・秋:キノコ、サツマイモ ・秋:ブドウ、梨、柿、キゥイフルーツ
・冬:ニンジン、カブ ・冬:ゆず
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山梨の風土が
育んだ多彩な食材 |
1)山梨の地域特産物
① 武川米(農林48号)
② ブドウ(甲州種)やモモ(白凰)、サクランボ
③ 甲州ワインビーフ(牛にブドウの絞りカスを食べさせて育てた牛肉)
④ 八幡イモ(里芋)や大塚にんじん(80cm以上も有る長い人参)
⑤ 甲州百目柿(大きな柿)
⑥ 明野の浅尾大根
⑦ 甲州もろこし(甘々娘、スイートコーン)
⑧ 紫花豆(かなり大粒な煮豆)
⑨ 甲州ワイン
2)その他の特産物
① 南部茶
② 塩山の枯露柿(干し柿)
③ 甲州小梅漬
④ 身延の湯葉
⑤ 鮑の煮貝
⑥ ミネラルウォーター(生産量日本一):番外
3)地域限定グルメ
① 甲州ほうとう
② 吉田のうどん(讃岐うどんと較べて麺がかなり固い)
③ おざら(ほうとうを冷やして食べる)
④ 大月おつけだんご(小麦粉のだんご汁)
⑤ みみ(ほうとうの生地を竹製のザルの形に加工した汁)
⑥ 甲州鳥モツ煮(B-1グルメでグランプリ受賞、甲府の蕎麦屋の賄い食から広まった)
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山梨の農林と
畜産物の現状 |
1)農林畜産業の生産状況(関東8県+長野+静岡:関東農政局H21年調査)
① 山梨は、東京、神奈川の次に生産量が低い:10都県の中で7番目
② ダントツなのは茨城(一位)、千葉(二位)、長野(三位)
2)部門別農業産出額の都県別構成割合
① 果実部門ではダントツ(一番)しかし、長野の果実の出荷が山梨に迫っている
② 米と野菜と畜産で、茨城がダントツ
3)山梨農業生産額(H21年度:関東農政局資料)
① 一位はブドウ:260億円
② 2位はモモ:185億円
③ その他:194億円
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食品開発
コンセプト |
1)食品開発の情報源
① 消費者情報
・食生活実態
・外食メニュー
・料理雑誌のメニュー・社会の動向 ・消費者の声
② 業界・他社情報
・既存のマーケット商品・成長初期の商品
・強力な競合でない商品・他社開発のヒット商品に便乗
③ 流通からの情報
・量販店の購買情報(通販情報を含む)
・インターネット購買情報
④ その他外部情報
・輸入食品の動向・海外新商品
・原材料業者情報
・食品専門家情報
・家電メーカーの動向(家電製品の売れすじと食品開発との関係)
⑤ 現行事業の周辺情報
・ブランド活用
・研究開発の成果
・流通チャンネル活用
・技術・設備の活用
⑥ 技術に関する情報
・新素材・新包装情報・新技術情報
・新生産プロセス
2)アイデアの開発
① 原材料を新規な物に変更する・原材料を一部置き換える
② 他分野のアイデアを参考にする
③ 話題性のある素材を活用する
④ 包装形態を変更する
⑤ 複数の商品を組み合わせる
⑥ 玩具的(おまけ)な発想を加える
⑦ 健康食品的な要素を加える
⑧ 安全性要素を追加する
3)商品コンセプト作成手順
① 主要製品属性
・ブランド→商標をどうするか
・製品コンセプト→主原料・製法・形状
・ターゲット→想定顧客・性別・年齢
・容器・包装→個装(個別)・内装(中身が見える)
② 付帯製品属性
・バラエティー・用途・・使用法→種類・調理法・喫食法
・容量・数量→中身・数量・使用回数
・中身の形状→粉末・顆粒・液体・ブロック
③ 法的製品属性
・品名・原材料表示・賞味期限(消費期限は約5日間)・価格
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商品販路拡大
への取り組み |
1)戦略1(商品作りアイデア):やまなしブランド強化。しかし、今一歩踏み出していない
① 手塩に掛けた食材を商品化→有機栽培・自然農法・優良品種
・豊かな自然で育まれた食材
・愛情を込めて良いものを作る
② 高度な技術を活用して商品化(伝統技術・機械化・作業能率化)
・歴史と伝統が商品価値を守る
③ 売れる商品づくりへの発想転換が重要
④ やまなし「独自のブランド」
・果樹王国
・新鮮野菜直送:関東・中京・関西の中間地点
・森のキノコ
⑤ 山梨オリジナル品種(甲州)としての差別化
・甲州ブドウ・甲斐路
・甲州ワインビーフ
・甲州ワイン・鮑の煮貝・ほうとう
⑥ 地域資源を有効に活用した連携強化と開発
・生産者と産・官・学の連携
2)戦略2(流通・販売戦力):販売チャンネルの拡大
① 山梨の立地条件は東京圏にあり、地理的な優位性をフルに活用
② 卸売市場対応として、産地直送可能な量販店への流通拡大
③ 海外(特にアジア諸国)への輸出拡大
④ グリーンツーリズム(都市と農村の連携交流)
⑤ 農産物直売所(道の駅)の拡充と観光農園と旅ツアーとの連携
⑥ 具体的な販路拡大事例
・商品規格・ネーミング・包装・デザインなど「やまなし」イメージが出来るような
斬新な取り組み
・学校給食や福祉・医療施設・企業への給食食材として提供
・レストラン・ホテルで山梨オリジナルのメニューを開発
・コンビニとの弁当・飲料・デザートなどの連携事業
・菓子メーカーとの連携による地域食材の活用
3)戦略3(情報戦略):企画力・提案力のアップ
・市場動向調査・マーケティングリサーチ・消費者ニーズ
・消費者モニターとの連携
・産地情報の発信・的確な情報発信・配送システムの確立
・対象者をイメージした商品開発(女性・若者)
・キャラクターの活用
・インターネットを活用した販路拡大
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マーケティング・アングル
で見る山梨の「食」 |
山梨の「食」で
想起されるもの |
1)今年は「鳥もつ煮」がB-1グルメでグランプリを受賞したが、鳥モツ煮を知らない
山梨県人が多い(少なくとも、積極的に県外に発信して来なかった)
2)ブドウや桃、ワイン、吉田のうどんの方が県内で良く認められている
3)山梨の食事処には、「そば、うどん、カレー、寿司」ののぼりを良く見掛けるが、
客の要望で自然発生的に増えて行った意味合いが強い(新規開発されてはいない)
4)山梨はファミレス店が全国で一番多い(飲食店=人口1,000人当たり4店舗強)
5)山梨の「食」のブランディング(顧客や消費者にとって価値のあるブランドを構築
する為の活動)における課題を考える必要有り(役者は揃っているのに何故?)
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マーケティング論における「欲しいキモチ」
の捉え方 |
マーケティングの流れ
1)ニーズ:ある人の感知する何らかの欠乏感→「お腹空すいたなー」「スカッとしたいなー」
2)ウォンツ:ニーズの具体的解消手段に対する欲求→「(デリーベイの)カレーが食べたいなー」
3)ディマンド(需要):購買の意思・能力・権利を伴ったウォンツ
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「食」に関する
製品の分類 |
1)食事形態の三類型
① 内食:自らが調理したものを自らの空間で食べる
② 中食:他者が調理したものを自らの空間で食べる(冷凍食品等温めて食べる)
③ 外食:他者が調理したものを他者の空間で食べる(レストランなど)
2)形態的製品分類
① 財((goods)→ 有形の製品
② サービス → 無形の製品
3)サービスの4大特性
① 無形性:認識が困難→プロモーションが困難
② 消滅性:作り置きが出来ない→需給調整が困難
③ 協働性:消費者の生産への関与→変動性
④ 変動性:品質が変動的→ブランディングが困難
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サービスの再定義
から見る「消費」 |
効用源泉 +他者の活動=従来の「製品」 消費者の活動→効用=残されたマ‐ ケティング
(使い道の元) ↓ としての可能性 (活用) の可能性
① 財:ヒト サービス ↓
モノ (ストック不可能)→消費能力開発 ニーズの創造
カネ
② 情報
①②はストック可能
(流通性)
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山梨の「食」
(あるいは食ビジネス)
はいかにあるべきか |
1)秋葉原モデル(電気街で目利きの利く客が製品の高いレベルを要求(発展)
2)讃岐うどん:うどん屋の中のうまい店を地元の人の多くが県外の客を説得
☆「目利き消費者」と「ビジネス」との共創が、強い製品やブランドを育てる
結論:以上どちらも熱心な地元の客の目利きが、地域の活性化を育てた
此れに対して山梨の場合は折角、果実やワイン、ほうとう、吉田のうどん等の
ブランドが有りながら、地元の目利きが育っていない
3)一方、地域活動として以下の取り組みがはじまっている
① 「ワイン・ツーリズム山梨」
② 「スローフード甲州」
③ 「グアンタス(Ven+)実育山梨」・・・ヴァンフォーレ甲府+(タス)
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甲州博徒の群像 |
江戸時代後期
の甲州博徒 |
1)江戸の後期に、日本中の博徒の20%が甲州に居た(全国一位?)
2)当時は養蚕が盛んで、養蚕農家は年に百両(今の価値で600万~1,000万円)
の収入がある裕福な農家も有り、所詮裕福であるが故に金遣いが荒く博打など
を打つ者達が多かったが、その博打うちを目当てに博徒が集まる素地が有った
3)博打の勝負はもとより、子供までが賭け事に走るなど風紀が荒んでいた
4)当時の甲府の人口が30万人に対して、取締まり側(武士)は500人程度と少なく
警備や治安が十分ではなかった
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黒駒勝蔵(大親分) |
1)村役人の家の出身[上黒駒村(現在の笛吹市)に天保三年(1832年)に生まれた]
2)高い教養(檜峰神社の宮司に教えて貰う)→草莽の志士(そうもうのしし:幕末動乱
の世に官に仕えず民に在ろうと志した士を言う)
3)黒駒村と竹居村は近距離に有り常に争い事が絶えなかった
4)扇状地の特質
① 絶えない水争い(上流の有利さ)
② 檜峰神社を中心とした山利用(山林資源)
③ 害獣防御の為の村ぐるみの鉄砲所持
以上を背景に黒駒村と竹居村(現在の御坂町辺り)は何かに付け衝突を繰り返す中で、草莽の志士を目指した勝蔵が「黒駒勝蔵親分」としての存在を際立たせて行くことになる
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黒駒勝蔵と
清水次郎長 |
1)二人の立場
① 黒駒の勝蔵:山の博徒=地縁による親分子分の関係が強い
② 清水次郎長:海の博徒=地縁によらないバラバラな親分子分の関係
(子分の多くは各地より集まっていた)
2)清水次郎長について:次郎長は自分の傍に文士を置いて伝記を書かせ、其れを
「東海遊侠伝」にして江戸でベストセラーとなる本にする等
の宣伝上手な博徒であった。其れに対して、黒駒勝蔵は
「東海遊侠伝」の中では徹底的に悪人扱いされた。しかも、
後世の芝居や浪曲、講談の世界では次郎長は人情厚く
語られているが、勝蔵は殆ど登場していない
3)勝蔵と次郎長の生涯
① 勝蔵は時代の変遷で国内の治安強化が高まり次第に居場所が無くなり、次郎長
や甲州博徒達と激突した後、博徒人生を諦めて尊王攘夷思想に傾き明治政府を
後押しする様になって行った(次郎長と争い事をした記録はない)
② しかし、新政府の立役者でありながら、明治4年に39歳で処刑されてしまう
理由は諸説あるが、明治政府は博徒を味方に出来ない立場から博徒時代の
悪事を理由に捕縛したか、政府の機密事項を知ってしまった口封じなどがある
いずれにしても、勝蔵の墓は確認出来ていない
③ それに対して、清水次郎長は侠客人生から足を洗い、明治26年(73歳)まで
生きた
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勝蔵と次郎長
との激突 |
1)やがて、甲斐国内の治安取締りの強化→勝蔵は駿河へ
2)一方、富士川水運の駿河への輸送ルート(遠州往還)とは別に、殴り込みルート
で中道往還や富士山の北側(御殿場)を通る鎌倉往還が有ったが、黒駒勝蔵
一行は中道(又は鎌倉)往還を使って殴りこみに清水に向かったと思われる
3)しかし、次郎長と勝蔵が対決をしたのかについては定かではない
4)由比(静岡)からの戻りに中道往還を通り国分三蔵・勝沼祐天(いずれも博徒)を
襲撃し上黒駒に戻っている
5)大宮(清水)から中道往還を通り勝沼犬上郡次郎を襲撃している
6)以上2件の史実が残されているが、勝蔵は次郎長との対決を回避した可能性が有る
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その他の甲州博徒
と、今回のまとめ |
1)中村安五郎(竹居吃安:竹居(村)のドモヤス(ドモリだったのでこう呼ばれた)で、
黒駒勝蔵は竹居吃安の子分(竹居吃安も次郎長と争い事をしている)
2)国分三蔵・勝沼祐天・勝沼犬上郡次郎など
3)当時の博徒は多くの子分を持ち、彼等を統括するにはそれなりの力量(手腕)と
教養が必要で、進んで勉学に励んだ(竹居吃安・黒駒勝蔵)又、家が豊かで村民
のトップである立場より、それが実力者として徐々に博徒化した一面が有る
4)甲州博徒を含めて、日本人の心の中には侠客・博徒・渡世人を社会の必要悪と
捉えている部分が有り、多くの博徒の反社会的行動も、内栽(示談)に済ませる
様に願い出る古文書が多い。後日、ラベルが「黒駒の勝蔵」の日本酒(一升ビン)
を酒屋で見掛けた |
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山梨における
「週末農業」の現在 |
講師紹介 |
1)15年前にそれ迄の仕事(金融機関のコンサルタント)に見切りをつけて、山梨の白州
町に移住し、此れからは自然を相手にした生き方に魅力を感じたので、10年前に
NPO法人(えがおつなげて)を設立した
2)バブル崩壊後の日本の3重苦が山梨移住の切っ掛けとなった
① バブル崩壊による不良債権:短期課題でどうやらこの課題は乗り越えた
② 産業・雇用の空洞化:正しく海外への工場移転が集中し、国内の活力が低迷
③ 総合的自給率の低さ:今後長期的な課題として、この対策が必要不可欠
3)増富に耕作放棄地を借り受けて、都市と農村の交流・連携を通した共生社会作り
(週末農業や週末林業)の橋渡しをNPO法人が仲介役を引き受けている
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週末農業
(週末林業) |
1)昨年は週末農業に都市から山梨へ年間5000人が集まっている
2)都市には土が無く、都会に住む人達は自然を求めて進んで農地(畑や田圃)で作物
を作る事に魅力を感じている。又、遊休農地の開墾ボランティアとして参加している
3)北杜市の増富地区は農地の2/3が遊休農地で、昨年はこの遊休農地を賃貸し全国
から集まった約500人/年のボランティアにより人力で開墾し約3haの農地が復活
4)木の枝切りや間伐をボランティアが進んで作業する都会の若者達や、学生が長期
休みに出掛けて来て泊まり掛けで山に入っている
5)農村ボランティアは東京が最も多く、都市近郊の各地から集まっている。又、年齢別
には20才代が多く、男性より女性の方が約10%多い
6)開墾した畑を活用し小麦を栽培している。又、都会の親子が農作業を楽しく体験す
る数が年々増えて来ている
7)海外からも大勢集まって来て、昨年はアメリカから半年掛りで来日している
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企業の週末
農業活動 |
1)企業が社員の福祉活動の一環として、地主に遊休農地の小作料を払い、社員が
週末農業を体験する。その仲立ちをNPO法人が関わっている
2)三菱地所が社会貢献の一環として、都市・農村交流「空と土プロジェクト」を北杜市
須玉の増富にスタートさせた
3)レストランファーム(都市のレストランに収穫した農産物を有料で届ける)や、
マンションファームと言い、都市のマンションに住む人達に呼び掛けて、地元も
参加して棚田を開墾し作物を作る活動「お田植えツアー等」も近年盛んになって
来た(三菱地所だけで15万世帯がマンションに住んでおり、案内を出すと直ぐに
満員なる程の盛況ぶりとのこと)
4)新丸ビルにレストランファームで収穫した作物をイベントとして80種類ほどを販売し
完売した(H21年実施)
5)森林を伐採した枝や間伐材を使って木工製品を作る製品開発を三菱地所が実施
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やまなし企業
ファームリーグ構想 |
1)サッカーのJリーグよろしく、山梨の遊休農地再生企業と連携し、チームごとに独自
事業を展開中。H21年実施(日経新聞に掲載された)
2)日本の耕作放棄率ワースト3は ① 長崎県(離島が多い)② 山梨県 ③ 長野県で、
まだまだ山梨における遊休農地はかなり存在する
3)日本は内需型産業を育成しないと自給率は下がり、雇用が失われることをこの
リーグ構想で発信すると、全国から「遊休農地視察ツアー」が盛んになり、アメリカの
ウォールストリートジャーナル(金融新聞く)の記事に取り上げられ、イギリスのBBC
ラジオや米国のCNNテレビでも放送された
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食糧自給率 |
1)世界の農作物の自給率は、オーストラリアが断突で327%、次にフランスとアメリカ
が100%を超えているが、日本は40%に留まっている(40年前の自給率:60%)
2)日本の各県の自給率は、北海道が200%、秋田と山形が100%を超えているが、
その他の県は100%に届いていない
3)地球上の農作物は干ばつ等により不作が続き、豪州米が不作で日本向けはゼロ、
ロシアでも小麦が輸出禁止となっている
4)一方、日本でも農業就労人口が年々減って来ており、此のままでは40年先に農村
は滅亡の危機に有る(毎年20万人が減少)
5)都市住民の農村志向の高まりが近年続いているが、マルチハビテーション(都市と
地方の両方に土地を持つ)が流行しているが、ある調査によるとこうした都市住民
の願望は、70%を超えるとの報告も有る
6)一方、農山村の高齢化、過疎化が限りなく進む中で、新たに多様な担い手が社会
構造上からも必要となる
7)ロシアのマルチハビテェーションである「ダーニャ」は菜園付き別荘を意味するが、
日本の別荘とは異なり、別荘と小屋の中間的存在。しかし、都市とダーニャを行き
来する中で作物を作る習慣が古くからあり、ロシア国民の60%と高く作物不足の
危機の中でも食料は安定している
8)企業の社会的責任としてCSR(Corporate Social Responsibility)があるが、
行政・民間・非営利団体のみならず、企業も経済だけではなく社会や環境等の要素
に責任を持つべきとの考えより成立した概念で、近年多くの企業が植林をしたり
河川の清掃などに取り組んでいる
9)日本経団連が1%(ワンパーセント)クラブを立ち上げたが、経常利益の1%以上を
社会貢献事業に拠出すると言う構想(1990年立ちあげ:現在271社)
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今後の課題 |
1)都市住民の田舎暮らしの壁
① 家族の壁:家族の中に田舎の生活を好まない人がいる場合
② 経済の壁:予算に応じた理想の土地や家が見つからない
③ 仕事の壁:今の職場に未練はないが、田舎で再就職が出来るかとなると難しい
④ 医療福祉の壁:子供の急病などの対応が心配
⑤ 田舎での人間関係の壁:田舎で友人関係が出来るか否かが心配
⑥ ライフ&ワークスタイルの壁:都会の友人や仕事関係が希釈にならないか心配
2)企業の農的活動の課題
① 企業の中に適した人材がいない
② 農村との距離が問題(移動時間が掛り過ぎるなど)
③ 実施する上のメリットやリスクが見えない
④ 活用した事が無いので、出来るかどうかが心配
以上の課題に対して、企画講座や都市と農村の交流活動を今後発展させる事が必要
具体的にはこうした活動により、年間10兆円、100万人雇用の可能性等の検討が望
まれる
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9. |
甲州を描いた
浮世絵師達
広重、豊国、国芳、北斎 |
甲府の道祖神祭り |
道祖神祭りは「どんど焼き」の事ですが、正月飾りの門松を燃やし無病息災を祈る行事です。しかし、江戸時代の甲府は街中で火を燃やすと危ないので、各家では道祖神祭りに道祖神幕[1.63m(幅)×10m(長さ)]を飾りお祭りを盛り上げたそうで、その幕に描く絵を江戸に住む浮世絵師達が甲府に来て描いたとのこと。しかし、当時は100枚以上は有ったと考えられる幕が現在は3枚のみ残っているそうです。 |
安藤広重 |
1)天保12年(1842年)に広重が道祖神幕を描く為に2回来山していますが、前半の道祖 神幕は焼失し、後半の幕が近年アメリカで再発見されたそうです。
2)酒折に在る「善光寺」の境内を広重が描いたスケッチ画が残っていて、現在の善光寺 の建物そのものを描いています。
3)安藤広重は別名を歌川広重と言いますが、浮世絵師としては後者が正しい様です
(広重は、安藤家の家督を継いだ事から安藤の姓が一般的に知られているが、
浮世絵師として「東海道五十三次」を制作した広重は、歌川広重を名乗っている)
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三代目豊国(国貞) |
1)現在3枚の浮世絵が残っており、弘化4年~嘉永5年(1848年~1853年)の作品
2)いずれも、「甲州善光寺境内之図 初午」で別名「王子稲荷初午祭ノ図」(今の甲府市)
①善光寺境内で虚無僧姿の女性が描かれていて、和泉屋市兵衛(本屋)の印とこの
絵をチェックした改印(あらためいん)がある(いずれの浮世絵も同様)
②同じく子供を背負った女性を描がいた浮世絵で、女性の着物の柄に「鎌+○+ぬ」
が連続して描かれていて「構わぬ」と読み、此れは歌舞伎役者の市川団十郎が
好んだ図柄との事。しかも、この絵には歌が詠まれている(歌の紹介省略)
③子供と遊んでいる女性で、何故かお歯黒だが眉は剃っていない不思議な姿。女性
は歌を詠んだ絵馬を持ち、子供が持つ旗には村田(本屋)の文字が有りスポンサー
の名前との事。しかも和服には括り猿の模様が有り市川小団次が好んだ図柄
3)いずれも、甲府の本屋や菓子屋(升太)などスポンサーの文字が書き込まれている
が、浮世絵は一回に200枚を刷るのが一般的で、スポンサーが金を出していた。
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国 芳 |
1)国芳は、甲斐名所双六を描いているが、弘化4年(1848年)に甲府に滞在している
2)国芳が残した三枚の浮世絵
①甲州一連寺([正木(しょうのき)稲荷之略図]を背景に、煙草入れとキセルを持った
女性を描いているが、江戸の本屋の和泉屋市兵衛が作らせた。尚、正木稲荷は
甲府の遊亀公園(動物園)に有る稲荷神社で、現在も正木祭で賑わっている。
尚、一連寺は元々今の甲府城に有ったが、城を建てる時に現在の場所に移した
②同じく、正木稲荷納涼の時に振り袖姿の女性が描かれていて、背景に歌が詠まれ
ている浮世絵で、作者名が吉岡舎(きっこうしゃ)と書き込まれている。
③同じく、女性が描かれていて、手に持った手拭いには本屋の村田の文字が有り、
背景にある幟には甲府の芝居小屋のカメヤ座が描かれている。又、遠景には富士
山と緑橋や柳橋(現在の相生町辺り)が描かれている。 |
葛飾北斎 |
1)北斎は冨嶽三十六景で有名だが、その中で「甲州三坂水面」の浮世絵は、雪の
ない富士と河口湖の冬の逆さ富士が描かれていて、一見不釣り合いだが江戸
時代は、冬の富士を描くことが多く恐らく当時の信仰心によると考えられる。
2)三坂は現在の御坂峠だが、どう見ても御坂峠からの富士とは形が違うので、江戸
に居て書いている可能性が有り実景を観ていないかも知れない。
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8. |
金山衆と戦国時代 |
甲斐金山のイメージ |
1)隠し金山:金山は枯渇すると別の場所に移動し、その情報は極めて早く隠せる訳
がない
2)囚人による過酷な労働:一部にそうした事実が有ったかも知れないが、一般的には
金堀り(かなほり)と呼ぶ集団で構成され囚人達では無かった
3)武田氏の財宝:確かに甲州金として武田氏が金塊の一部を徴収したが、それは4:6
又は5:5程度で金山を直営し全てを取り上げた訳ではない
4)おいらん淵伝説:あくまでも伝説であるが、武田勝頼が徳川軍に敗北し、黒川金山
を廃坑にする時に55人のおいらんを集めて宴をやり、宴台で踊るおいらん達を
宴台ごと淵に落し溺死させ口封じをした逸話の様だが、事実は不明
以上、甲州金山には事実とは違うイメージがある
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金山衆とは |
1)日本中に多くの金山・銀山がある中で、甲斐の国の金掘り達のみを金山衆
(かなやましゅう)と呼んだ。他の金山・銀山の金掘り達は金山衆とは呼ばない
2)彼等は各自が独立した立場を持ちながら集団を形成し雇用され臣従した訳ではない
が、ほとんどが家内工業の域を出ない小規模経営であった
3)其の金山が枯渇すると次々に別な場所に移動する遍歴の民であった
4)極めて情報が早く、金塊を商人に売り日用品や貨幣に替える中で、商人から情報を
得ていたと考えられる
5)金山衆は鉱山技術者で、鉱山経営者でもあり独立した職人でもあった
6)金山が枯渇して行く中で、江戸時代になると土木事業に転出したり鉱山経営を廃業し
里に下る人も多かったが、土地を持たない彼等を金山下り(かなやまくだり)と呼び
軽蔑された
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甲斐の金山 |
確認されている金山は、黒川山金山、西八代郡の金山、南巨摩郡早川町の金山で、
下部に有る湯之奥金山や丹波山にある丹波山金山なども知られている。しかし、調査
が済んでいない金山が多く名前のみの金山が沢山ある |
金の採掘 |
1)金鉱石を挽き臼で細かく砕いて、多量の水に晒して金の粒を見付ける
2)しかし、不純物や金では無い物質を含んでいるので精錬をする。その精連方法は、
銅を混ぜて加熱すると、銅に金のみが付くので残りの鉱石を除去したのちに銅と金
を分離する
3)黒川金山遺跡より出土の金粒付着土器(素焼きの小さな皿)と、勝沼氏館跡で確認
された工房跡からも土器が見つかっている
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まとめ |
1)武田信玄の時代に甲州金が多量に作られて、武田の財力が潤沢になりこの甲州金
により武田信玄は大いに発展したことになっているが、その甲州金を産出したのが
金山衆達で、産出した金を5:5又は4:6として徴収したことと、採掘した金を運ぶ馬
一疋にいくらと言う形で通行税(駄別役)を掛けて、武田氏の鉱山に対する収益に
なっていたのが実態で近世の徳川幕府の様な金山を直営していたのではない
2)金山衆は田地役・公事役・本棟別(家屋税)等を免除されていた。恐らく他の職人の
場合と同様に製品(金)の納入を義務づけていたと思われる |
7. |
「農」の視点から
振り返る山梨ワイン |
戦前・戦中迄
の山梨ワイン |
1)果樹産地としての山梨
・江戸時代からブドウを江戸まで売りに行った(山梨は日照条件が良く特に甲州種
の生産に向いていた)
2)国産ぶどう酒と甘味ぶどう酒
・国産ぶどう酒は、とにかくスッパイぶどう酒で評判が悪かった
・一方、「赤玉ポートワイン」は安く親しまれていたが、スペイン産ワインにシロップを
加えた甘味のあるぶどう酒は評判が悪かった
3)デラウエア種の導入とブドウ種
・デラウエア種(アメリカ)は害虫に強く導入に成功した
・一方フランス種は害虫に弱くすべて失敗した
4)観光ぶどう園のはじまりとぶどう酒
・中央線の開通と大いに関係がある
・しかし、最初は食用ぶどうが中心で、ぶどう酒は人気が無かった
5)経営の安定化と醸造製造
・食用に供しないクズぶどうをワインにする製法が一般化した
・国策により大正時代には3000社を超えるぶどう酒会社が誕生した(現在でも
国内に200社あるぶどう酒メ-カ-のうち81社が山梨に有る)
6)農家によるぶどう酒醸造会社の設立
・戦時中は自由にぶどう酒を作る事が出来ず、密造酒が出回った
・そこで、農家は組合を作り製造することになった(75社)
7)ぶどう生産の供出制
・戦時中は軍の命令でぶどうは米作に転作させられた
・しかし、ぶどうからとれる酒石酸が潜水艦の音波を遮る効果が有ることで、
海軍への供出用としてぶどうの生産が復活した
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戦後のぶどう酒 |
1)酒ブームと信用を落したぶどう酒
・昭和20年代に酒が良く売れた
・しかし、ぶどう酒の品質が悪く(すっぱい)信用を落とした:ラビット・ワイン
(ワインを飲んだ兎が余りのすっぱさに飛び跳ねたとか)
・しかし、昭和30年代にかなり良くなった
2)笹子トンネルの開通
・天野久知事たちの努力によりトンネルを使って県外にぶどう酒が運ばれた
・富める山梨へ
3)第一次ワインブームの始まり
・東京オリンピックと大阪万博を機会にぶどう酒が飲まれるようになった
・洋食がブ-ムとなりぶどう酒の需要が増えて行った
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第一次ワインブーム
以後の山梨 |
1)県外ワインメーカーの進出と効果
・若いワイン技術者が県内に入って来た
・山梨大学にワインの研究施設が整った
・中小ワインメーカーのレベルが上がった
・大手メ-カ-が専用種を山梨に持ち込んだ
・垣根栽培が流行した
2)果樹振興特別措置法の制定
・昭和36年あたりから米が余って来てぶどうの生産に転化する農家が増えて来た
・景気が上向き給料が上がりぶどう酒の生産も上向いたが、しかし、ぶどう酒農家は
余り恩恵を受けなかった(生食用ぶどうが中心)
3)酒税法の改正と干しぶどうの輸入
・ぶどう酒の税率があがり農家にとってメリットが無くなって行った
・当時海外から干しぶどうが大量に輸入されたが、生のぶどうより4~5倍甘い
4)醸造技術の進歩と生産技術の遅れ
・山梨大学で人材を育成したり農家が組合を作って醸造技術が向上した
・反面、棚によるX型長梢(ちょうしょう:長く伸びた枝)栽培は生産性が低く欧州で
採用されている垣根栽培方式(コルドン)に変えることが必要だが、現在も変わっ
ていない
5)山梨県需給安定協議会の設立と解散
・甲州種(白ワイン)とマスカット・ベリ-A(赤ワインの安定供給を目的に昭和43年
に設立した ・甲州種とベリ-Aの安定供給が整った(昭和60年)
・しかし、運営が思う様に行かず平成6年に解散 |
その後の山梨
のぶどう酒 |
1)ジベレリン処理とワイン原料の供給
・ジベレリン処理(種無しぶどう)は生食用には向いているが、ワインの原料としては
多量に出来過ぎて返って品質が悪くなった
2)災害とワイン生産
・伊勢湾台風(昭和34年)によりぶどう畑が壊滅的な被害を受けた
・そこで、水はけの良い斜面に作られていた畑を平坦地に移す様になった
・平坦地に作られた畑は機械化による耕作が可能であるが、斜面の畑より水はけが
悪く病害虫によるぶどうへの影響が顕著になった
3)山梨でドイツのワインにエチレングリコール(車の不凍液)を混入し甘味を偽って
販売した事件で全国的に評判を落とした
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これからの山梨
のワインの将来 |
1)県外のぶどうの生産が年々増加している(長野や北海道など)
2)少子高齢化の関係でぶどう農家が高齢化し、後継ぎが減少傾向にある
3)しかし、近年山梨ワインの評価が上がって来ているので、ぶどうの生産を増やす
政策が必要になる
4)そうした中で、サッポロワイン(勝沼ワイナリー)が生産を止めることが報じられており
危機感を感じる(山梨大学と共同して海洋酵母を使って醸造したワインで知られる)
5)山梨にはワインセンター(勝沼)と果樹試験場そして山梨大学ワイン研究科など
ワインにとって優れた人材や経験(知識)をもつ日本唯一のワイン王国であり何と
してもワイン技術を発展させて世界に発信して行かねばならない
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6. |
天野久とその時代 |
天野久の紹介 |
1)明治25年(1892年)笹子峠の近くの名主の家に生まれる
2)天野家は一度没落するが貧窮の中で刻苦勉励し、28歳で酒造会社を買取り県下最大の酒造
会社(笹一酒造)に成長させた(苦労する母親の姿を見て女性の役割重視の心が育つ)
3)昭和26年(59才)より山梨県知事を16年(4期)務めた
4)昭和43年76才で死亡(知事を退いた翌年)
5)彼は極めて現実主義者で、既成の観念や権威への反発心が強く、嫌いなものは
インテリと官僚と饒舌な人。賭け事(賭博)も大嫌い
6)大変なアイデアマンで、強い意思と信念を持ち逃げない・ぶれない人であった
7)大きな包容力と冷徹な計算→聞き上手にして自説を曲げない
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太平洋戦争後の
山梨の社会情勢
(3つの勢力の流れ)
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①)GHQ主導による農地解放→自作農→農民組織化=革新右派・保守左派
②)製糸業・製材業隆盛(金持)=保守右派
③)労働運動の活発→官公労中心=革新左派
以上3つの勢力が戦後の山梨に存在する中で、初回の知事選挙では官選知事の流れの中で吉江勝保(役人)を選出したが、昭和26年の2回目の選挙で天野久が当選する
天野久知事誕生の経緯と背景
1)戦後の政治と民主化の波
2)戦後の構図として、庶民とエリ-トの戦い(県民と官僚に寄る権力の戦い)
3)大衆選挙の恐ろしさ
4)山梨の保守と革新
以上4つの背景の中で、①~③の勢力との関係で新しい人材として天野久が選出された
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天野県政の足跡 |
1)富める山梨(スロ-ガン)・・当時の一人当りの県民所得が全国47県中43番目
・南アルプスにス-パ-林道を造り、天然林の切り出しを活性化させた
・野呂川(南アルプス)の水を御勅使川に引き入れて水不足の原七郷を豊かにした
しかし、その後大水害を引き起こす原因となった
・笹子峠にトンネルを造った(果樹農家は笹子峠を越えて東京へ運んでいた果樹を
早くしかも傷まずに送れることに大変喜んだ)
・農業を近代化させ、当時新潟米が一反歩あたり3.5万円の時に10万円を目指した
2)人作り
・県立女子短期大学を作ったが、母親への敬慕が根底にある。しかし、山梨の女子は
10%以下で、殆どが長野や静岡からの学生。山梨の優秀な女子は東京に出てしまう
しかし、天野久は一向に気にせずに「山梨の事は山梨で育てる」と言い、極めて
土着性が強かった
・新制高校を多数作ったが、県の財政は大変であった
3)地方病の撲滅
・地方病(日本住血吸虫)は貧乏県の象徴との発想から、徹底的に撲滅した
・灌漑用水路はコンクリ-ト化して、宮入貝の駆除を徹底的に実施
・河川の多くも護岸をコンクリ-トにした
・山梨県は1996年(平成8年)に流行終息宣言を出したが、天野久が残したこの
功績の意味する処は大きい
4)政治の目線が常に県民に向いていた
・大衆迎合が大嫌いだった
・土着性が強かった
・とにかく都会が嫌いで、「山梨は山梨で育てろ」が口癖だった
・天野久には都会へのコンプレックスが無かった
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大衆選挙の難しさ |
・第一回選挙:天野久知事誕生の経緯と背景(上記)に加え特定郵便局長と3教組
からの支援を受けて対立候補(吉江勝保)を上回る得票で当選した(45代)
・2回目選挙:保革連合し当選(46代)
・3回目選挙:革新をまとめ切れなかったが、特に3教組が分離。しかし結果は当選
できた(47代)
・4回目選挙:農民票が革新に付き完全な仲間割れであったが、当選した(48代)
・5回目選挙:田辺国男との一騎打ちで有ったが、意地も有り出馬するも落選
当時成立した農民基本法(弱小農家切り捨て)も、不利となった
・その後、田邉国男と望月幸明が3期ずつ知事を務めた後、天野建(天野久の3男)
が金丸信の支援を受けて、草の根知事として3期務める。
尚、カッコ内の数字は戦前からの官選の回数を含めている
|
5 |
山梨における農業
教育の現状と課題 |
農業教育
(全国) |
1)明治~大正
1.1)初等・中等教育
☆実業補習学校(明治26年)
目 的:諸般の実業に付く児童に小学校教育の補修と同時に簡易な方法でその職業
に必要な知識・技能を教育する
入学資格:尋常小学校卒業以上等
修業年限:3年以内
☆徒弟学校(明治27年)
目 的:職工として必要な技能を教育する
入学資格:年齢12才以上及び尋常小学校卒業以上
修業年限:6ヶ月以上4年以内
授業時間:日曜日又は夜間、地域の状況に寄り季節を限定して行う
☆簡易農学校(明治27年)
目的:簡易な方法で農事教育を行う
入学資格:年齢14才以上
修業年限:定めない。農閑期などに開設する
☆実業学校(明治32年)
目 的:工業・農業・商業等の実業に必要な教育を行う
・農業学校(明治32年)
a)甲種農学校
入学資格:年齢14才以上、修業年限4年の高等小学校卒業以上(但し試験科目に
外国語を加える)
修業年限:3年、但し1年以内の延長が出来る
授業時間:実習を除き毎週30時間以内、実習時間は農事の繁閑に応じて行う
甲種農学校に付属出来る科
・予科
入学資格:年齢12才以上、高等小学校第2学年終了以上
修業年限:2年以内
授業時間:毎週30時間以内
・専攻科
目的等:卒業の後に特に農業に関する1科目(又は数科目)を専攻する
修業年限:2年以内
・補習科
目的等:更に高等の農業学校に進む為の補修を行う
修業年限:2年以内
b)乙種農学校
入学資格:年齢12才以上で、修業年限4年以上の尋常小学校卒業以上
修業年限:3年以内
授業時間:実習を除き毎週27時間以内、実習時間は農事の繁閑に応じて行う
c)別科(農学校に附設できる科)
目的等:農学校には簡易な方法により農業に必要な事項を教育する為の別科を置く
1.2)高等教育
☆専門学校令(明治36年)
目的:高等の学術・技芸を教育する
入学資格:中学校若しくは修業年限4年以上の高等女学校を卒業したもの又は、
これと同等の学力を有すると認められた者
修業年限:3年以上
☆実業専門学校
例えば、
盛岡高等農林学校 →盛岡農林専門学校 →岩手大学農学部
(明治35年) (昭和19年) (昭和24年)
鹿児島高等農林学校→鹿児島農林専門学校→鹿児島大学農学部
(明治42年) (昭和19年) (昭和24年)
☆帝国大学
目的:国家が必要とする学術・技芸を教育する
2)第2次世界大戦後
2.1)後期中等教育
☆新制高等学校・・・農業高等学校
2.2)高等教育
短期大学・大学・大学院:農学部など(生物資源生産学など)
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山梨県の農業教育 |
☆中等教育(農業学校~新制高等学校)
・峡東地域:山梨県養蚕教習所(明治28年)・・現在の県立石和高等学校
山梨県園芸高等学校・・・笛吹高等学校
・峡中地域:山梨県農林高校(明治37年)・・・現在の県立農林高等学校
・峡北地域:北巨摩郡立農学校(大正4年)・・現在の県立峡北高等学校
県立峡北農業高等学校・・・現在の北杜高等学校
・峡南地域:峡南農工学校(大正12年)・・・現在の県立峡南高等学校
・郡内地域:県立岳麓農工学校(昭和13年)・・・県立岳麓農工高等学校→
県立吉田高等学校
☆高等教育(短期大学・大学・大学院)
・山梨大学が農学系学部:生命環境学部(仮称)を検討中
その他、生命工学科・ワイン食物科学科・環境科学科・社会経営学科など
|
農水省が定めた
教育施設関係 |
1)農水省が定めた明治期の学校
・札幌農学校
開拓使の仮学校(明治5年に芝増上寺に作った)→札幌学校(明治8年)→
札幌農学校と改称(明治9年))→東北帝国大学農科大学(明治40年)文部省所管
→北海道帝国大学へ(大正7年)
・駒場農学校
農事修学場(明治7年に内藤新宿農場内に)→東京山林学校と合併して東京農林
学校(明治19年)→東京帝国大学農科大学(明治23年)文部省所管
・東京山林学校:樹木試験場(明治15年に西が原に設置)
2)山梨県における文部省所管でない学校
・農事講習所:県立農事講習所(明治15年)→県立農学校(明治18年、翌年廃校)
・農会技術員養成所(昭和10年)
・農業技術員養成所(昭和18年)
・農事試験場農業講習施設(昭和22年)
・農業大学校(昭和45年)
・専門学校山梨県立農業大学校(平成20年~)
|
山梨における農業
の現状と課題 |
1)耕地面積:50,500ha(1960年)→27,200ha(2000年)54%に減少
2)総世帯数に対する農家世帯数
・1960年(昭和35年)・・・16.4万世帯(総世帯)の50% (農家世帯数=8.2万世帯)
・2000年(平成12年)・・・30.9万世帯(総世帯)の9% (農家世帯数=2.78万世帯)
3)県総人口に対する農家人口
・1960年(昭和35年)・・・総人口(78.2万人)の57% (農家人口=44.5万人)
・2005年(平成17年)・・・総人口(88.4万人)の10% (農家人口=8.8万人)
4)少子高齢化社会の中での課題
4-1)経営の機能(農家は生産だけでは無く経営全般に取り組む)
経営の機能 |
今迄の農家 |
此れからの農家 |
企画
(ビジョン作り) |
政府・JA |
すべてを
農家が行う |
生 産 |
此処だけが
農家の仕事 |
販 売 |
(JA) |
開 発 |
種苗・農機・肥料
農薬等の業者 |
4-2)その為の農業教育の方向性
・農林高校の場合
高校入学迄に家業として初歩的農業技術を身に付けた上で高校教育を履修する |
→ |
3年間の学校教育の中で農業の基礎や地域と農業の関わりを段階的に学習する |
・農林高等学校と専門学校農業大学校の教育連携
1)農業の担い手として必要な下記を農業高等学校で学ぶ
a)県内5ブロックの農業の現状に付いての調査研究
b)生産現場での栽培技術を農業大学校で学ぶ
c)各地域の先進経営を直に学ぶ(農業経営座学、農業簿記、マ-ケティング演習)
2)上記を学習した上で、専門学校農業大学校で継続教育を受ける
|
4 |
昭和初期の山梨
の農民運動
-樋口光治伝- |
農民運動家「樋口
光治」氏の紹介 |
1)1)明治30年(1897年)現在の甲府市国母に樋口家の四男として生まれる
2)家は小作農家で、兄達が3人いたが、長男と二男は地方病で早くに亡くなり、三男は
幼なくして亡くなったので光治が家を継ぐことになる
3)少年時代の小作農家は極めて貧乏で、いくら働いても小作料が高く僅かな野菜を街
で売り歩いて生計を立てていた
4)家が小作農家で有ったが、光治は学校の成績が良く地主の薦めで県庁の給仕に
なるが父親の病気で県庁勤めを辞めて農業を始める(明治44年:光治14才)
5)光治は頭が良く弁が立つので、青年団長をやったり日比谷公園での青年改造連盟
発会式へ参加するなどをしながら次第に農民運動家として活動する様になった
6)大正から昭和初期に掛けて小作争議が全国的に活発になる中で、小作争議による
小作料減免活動等で地域の中心人物となり村会議員となる(大正15年)
7)戦後、山梨県会議員に社会党から出馬し当選。地域の制度改革を目指すが、
しかし、次期選挙に落選し更に農地改革制度が成立したことで、小作農家が少なく
なるに連れて農民運動から離れ、晩年は自治会長などをして過ごし1995年に98才
で亡くなる |
明治から大正初期
の山梨の小作農家 |
1)山梨は小作農家が全国平均でその割合が多かった
2)とにかく収入が少なく下着や着替えを買う金もなかった
Ⅰ反歩当りの労賃+収益の合計(大正2年) 単位:円
田圃の質 |
上 田 |
中 田 |
下 田 |
地 主 |
19.709 |
16.439 |
16.113 |
自作農家 |
45.829 |
36.00 |
26.005 |
小作農家 |
25.819 |
19.461 |
9.005 |
但し労賃を含めない収益のみの比較では
自作農家 |
37.309 |
27.24 |
16.39 |
小作農家 |
16.804 |
10.251 |
0.23 |
何と、下田の小作農家の収益は1反歩あたり1円以下で、小作料による
収益が16円(働かない地主や自作農家)と較べて極めて少ない
3)しかも、地主の権力は絶大で反抗しようものなら土地を取り上げると言う脅迫に晒さ
れて小作農家はビクビク生活をしていた
4)しかし、地主と小作人の親分子分としての繋がりが有り仲々この制度を打ち破る事
が出来なかった
|
大正後期~昭和初期に掛けての農民運動 |
1)大正後期以降に農民運動が起こり、小作争議が全国に展開される中で、山梨でも
小作料の減免活動が活発になった
2)減免率が徐々に進んで、大正後期に10%~20%であった減免率が、昭和初期には
50%、つまり小作料が半分になった
3)こうした時代の趨勢により特に大地主たちは小作農家との関係を諦めたり、土地を
手放して東京に移り住む地主が出現した(大正中期から昭和初期)
4)しかし、一方自作農家は土地を手放す事が出来ず、小作農家と敵対する関係が
その後も続いた
|
戦中から戦後の
山梨の農民運動 |
1)戦時中は、大政翼賛会(国粋主義的勢力から社会主義的勢力までをも取り込んだ
左右合同の組織)の看板を背負っての農民運動であったが、表向きは賛同を装いな
がら裏で活動をする状態が続いた
2)しかし、農民運動だけでは農村の貧困は良くならないことを樋口光治は実感する
3)我々はプランメ-カ-にならなければならないと考えたが、しかしなり得なかった
4)戦後は、社会党(右派)に入って県議会議員になり農協の結成や農地改革に取り
組んだが、二期目に落選してからは、地域つくりへシフトして行く(社会党が労働
組合政党に変わって行った事も要因のひとつ)
5)昭和22年に法制化された農地改革は山梨の場合はスム-スに進んだが、当然
のことながら土地を奪われた地主の多くは樋口を恨んでいやがらせが続いたが、
その後は没落の一途をたどることになる。その結果、山梨県全体では農家の26.6
%を占めた小作農家が4.5%に減少し、農地の87.6%が自作地となり小作料は
耕作者本位に定められて、小作料減免が問題となる事態はあり得ない事になる |
まとめ |
1)明治以降の農民運動は、日露戦争勝利や第一次世界大戦を経て大正デモクラシ-
の流れの中で、徐々に変革が進んだ
2)大正後期以降大地主の中に土地を手放したり、小作農家との付き合いを止める者
が多く出たのは、やはり時代の趨勢からであろう
3)特に、明治以降国民が全て小学校へ通う制度が確立した事が、国民の学力を高め
社会との関わりに目覚めて行き農民運動が盛んになった基盤が此処に有ると思う
4)こうした明治~昭和の時代を生きた「樋口光治」氏は上手に話が出来る人で、戦略
・戦術に優れていて本人はプランメ-カ-になりたかったが、小作組合員時代に村
八分にあったり、戦時中に組織化された大政翼賛会の日本的ファシズムや戦後の
社会党の政策と相いれない(社会党が労働組合政党に)思想的背景などから政治
活動から離れて行ったと思われる。しかし、一生を通した信念の有るその農民運動
は、高く評価されて良いと思う。(ある農民活動家の百年:山本多佳子著を読んで)
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3. |
「道の駅とよとみ」
の挑戦 |
旧豊富村の紹介
-現在中央市- |
1)玉穂町、田富町、豊富村が4年前に合併して中央市が誕生した。市の命名は、
甲府盆地のほぼ中央に有る事から名付けられた。
2)豊富村はかつて(明治時代以後)は養蚕が盛んで、日本で有数の産地であった。
3)しかし、次第に養蚕がすたれて、スイ-トコ-ンや桃、スモモなどの果樹農家へと
転換していった。
4)こうした農作物の販売を目的に、H10年に「道の駅とよとみ」が誕生した。
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道の駅とよとみ |
1)当初は36軒の農家で立ち上げたが、現在は187軒の搬入委員会で運営している
2)優秀な農業アドバイサ-の協力を得て、より高い農作物の品質管理に取り組んでいる
3)地産地消を心掛けて豊富以外の農家よりの入荷は受け付けていない。
4)特にスイ-トコ-ンは人気が有り、農産物の売り上げ(年間)2億3000万円の20%
を占めている。
5)朝採りした野菜が人気:野菜は夜水分を吸収し昼間太陽の光で成長するが、逆に
野菜から水分がなくなる。朝採りは野菜に十分水分が凝縮しているので、ス-パ-
の様に市場で仕入れた前日の野菜より甘くて美味しい。農家では早朝に畑に出て
収穫し、6時半(開店は9時)には道の駅に並び、野菜置き場は早い者勝ちなので
競い合って良い場所取りを行っているとのこと。
6)加工施設を構内に造って、自前の野菜を利用して商品化し販売している。
・トウモロコシ焼酎やトウモロコシワイン
・ボイルコ-ン(スイ-トコ-ンを茹でて真空包装し年間を通して販売)
・フジザクラポ-ク(県推奨豚)を使って手作りハムやウインナ-などを販売
・手作り味噌の販売
7)駐車場は68台とまあまあなのだが、来場者が多くいつも混み合っている。
8)中央道の甲府南ICを出て、国道140号線を豊富方面に4km程走ると、左手に青い
屋根の道の駅が見えて来ますが、ICも近くロケ-ションの良い場所に有ります。
9)この道の駅には「シルクの里公園」と呼ぶ公社が経営する温泉施設や宿泊設備、
レジャ-設備などが有る。
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農産物直売所を
核とした取り組み |
1)消費者との交流
1-1)搬入委員会を中心としたイベントの開催
①野菜の袋詰企画(1月)
②スイ-トコ-ン収穫祭(6月):1日に2万5千本を販売
③桃の収穫祭(7月)
④漬物(野沢菜など)祭(10月)
⑤鍋祭り感謝祭(11月)
1-2)観光の窓口としてバス会社とタイアップして県外からの観光客を受け入れている
①野菜の袋詰め放題ツア-
②収穫体験ツア-(スイ-トコ-ン、イチゴ、ナス、野沢菜狩り)
1-3)講習会等の開催
・農業経営アドバイサ-を招いて、野菜栽培や、新品種などの講習会を開催して
地域農家の活性化を図っている。
・農家以外の道の駅を訪れた人達を対象にした講習会も実施している。
2)地域との関わり
・朝採りした農産物を買い求めに大勢の人が行列を作るほど賑わっている。
・生産者の160名以上がボランティアとしてイベントに参加し、道の駅を盛り上げている
・しかし、農家(搬入委員会メンバ-)の平均年齢は63.3才でやはり高齢化は此処で
もこれからの課題となっている。
3)環境保全型農業の推進
・下水道が100%普及している。
・下水の汚泥と家庭から出る生ごみは全てコンポスト化している。
・汚泥と生ごみを再資源化して肥料として格安に農地へ還元している。
・かつての桑畑は荒廃農地として活用されていなかったが、現在は花モモやぶどう
畑(ワイン用)などに有効活用されている
コンポスト化:堆肥化すること
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全国直売所甲子園
2009で全国1番に |
1)2009年10月に東京で開催された全国直売所2009で、全国(1万3000ヶ所)で 一番になった。
2)その後、民放局やNHKの夕方の番組で紹介されて、一躍有名になり特に土日は
県外からの人達で大変賑わうようだ。
3)プレゼンのまとめ方に一工夫(プレゼン資料をビジュアル化)したり、揃いの帽子をか
ぶった50人の農家の人達がバスで会場に出向き、声援した事も審査員に好印象
を与えた。
4)地元の新聞社からの取材や、山梨県から表彰されるなどの栄誉を受けた。
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見学まとめ |
1)講演のあと休日に孫を連れて現地に行って見たが、かなりの客で混み合っていた。
2)思っていたよりも建物は小さく狭さを感じたが、野菜コ-ナ-はその一角だけで、
特産品や土産物のスペ-スの方が広く、この点は普通の道の駅と変わりはなかった
3)ハトバス御一行様の歓迎看板を見かけたが、マスコミに取り上げられた宣伝効果が
功を奏している様に感じた。
4)駐車場の広さがは今迄に行った道の駅よりやや狭く、あれでは混雑は仕方がない
5)しかし、農家を中心とする法人組織を作り、農産物の直売を自主運営している意気
込みはさすがであると感じた。
6)確かに奥に加工施設が有り、特産のハムやソ-セ-ジやウインナ-そして、此処で
作られた味噌やフトクリ-ムなどが販売されていた。(講義で発表の通り)
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2.
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鎌倉時代初期
の甲斐源氏
-源頼朝との関係- |
河内源氏の存在 |
1)源氏は河内(摂津国:大阪)が発祥で、源満仲(清和天皇から数えて4代目)が摂津国に源氏武士団を形成したのが始まり。その一族が常陸国(茨城県)に移って行った
2)源満仲の子に源頼信がいて甲斐守となっているが(尊卑分脈)甲斐に来た訳ではなく、甲斐源氏の祖と言われる新羅三朗義光の子である武田義清の代に甲斐に来ている
☆尊卑分脈:南北朝から室町初期に出来た系図集で、正式名は「新編纂圖本朝尊卑分脈系譜雜類要集」と言い長いので一般的に「尊卑分脈」と呼ぶ
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平家討伐の挙兵時期 |
頼朝の場合
①山木兼隆(伊豆の代官で平家側)を襲撃し謀殺
②石橋山(小田原と湯河原の中間)で平家側大庭景親や熊谷直実らと戦い、大敗して
山中を逃げ回り、船で安房国に落ち延びた(3000騎の平家軍に対し頼朝軍は300騎)
③その後安房で挙兵し進軍しながら東国武士を参集し次第に膨れ上がりながら鎌倉へと向かった
④関東は長く河内源氏の地盤であったが、源義朝(頼朝の父)が平治の乱で平家に敗れてから没落し、東国武士達は平氏政権に従う様になった。
⑤頼朝は、現在の墨田川の辺りで上総広常(東国武士)の軍(2万騎)と出会うが、遅参を怒った頼朝に対して広常は頼朝の首を平家に献上しようとする秘かな考えに対して、逆に頼朝の威に感服して心から従う様になった。こうした事等により鎌倉到着時に2万5千騎に膨らんだ経緯が此処に有る。
甲斐源氏の場合
①武田信義と安田義定が波志田山(山梨と静岡の境辺り)で平家側の俣野五郎景久らと戦い勝利した。
②頼朝は甲斐源氏を味方につけようと腹臣である北条時政・義時親子を使者として送り込んだ。
③甲斐源氏は当初意見が分かれたが、頼朝が鎌倉で東国の一大勢力を築いた事を知り加勢することに決めた。
④甲斐源氏の勢力はこの時期頼朝勢力に対比して対等以上の優位な立場にあったが、武田信義・安田義定を中核とする甲斐源氏の実力的支配の及んだ甲斐・駿河・遠江は頼朝勢力の範囲外に有って別個の簒奪者勢力(さんだつしゃせいりょく:下臣が上位の地位を奪い取ること)として存在した。・・・彦由一太「甲斐源氏と治承寿永争乱」 |
富士川の合戦
1180年(治承4年) |
①治承4年10月16日に頼朝は20万騎の大軍を率いて鎌倉を出発した
②甲斐源氏(武田信義や安田義定達)は10月18日に黄瀬川沿いに陣をはった頼朝軍に合流した(甲斐源氏軍2万騎)
③此れに対して平維盛(これもり)を大将とする追討軍(7万騎)は出発が遅れたことと、飢饉による食糧難で兵糧が不足等により追討軍が富士川西岸に到着した時は4000騎程度で士気が一向に上がらなかった(敵前逃亡する者が多かった)
④武田信義軍が平家の後背を衝かんと富士川の浅瀬に馬を入れた所、富士沼の水鳥が反応し大群が一斉に飛び立ち此れに驚いた追討軍は大混乱し逃げ惑った(源平盛衰記、平家物語、吾妻鏡、山槐集に水鳥の羽音の記述が有るが、玉葉集にはその記述は無い)
⑤玉葉集には源氏の総指揮官を武田信義としている
⑥合戦の翌日奥州平泉から源義経が黄瀬川にいる頼朝の基に駆け付け兄弟の出会いを喜ぶ
①吾妻鏡:後世鎌倉幕府により作られたが、幕府に都合良く脚色されている部分が多い
②山槐集:内大臣中山忠親の日記
③玉葉集:九条兼実の日記
②と③の作者はいずれも京にいて知り得た情報を基に日記に綴っているが、吾妻鏡より冷静(且つ客観的)に事実を記述している
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富士川の合戦以後 |
源頼朝の場合
①頼朝は当初上洛を考えたが周囲から反対されて鎌倉に戻り、常陸国の佐竹秀義を征伐する。
②相模国府で論功行賞が行われ、武田信義に駿河守護を、安田義定に遠江守護の恩賞を与えた。
③源義経と源範頼(どちらも頼朝の実弟)は頼朝の命で、宇治川の戦い(木曽義仲を討伐)や一の谷の戦い・屋島の戦い(平氏に壊滅的打撃を与えた)で活躍し、そして壇ノ浦の戦いで平家を滅亡に追い込んだが、頼朝は二人の弟が自分への反感を恐れて最後は殺害してしまう。
甲斐源氏の場合
①甲斐源氏は東海道を進軍し、武田信義と安田義定は夫々武田信義は駿河守護、安田義定は遠江守護として勢力をを拡大して行った
②しかし、頼朝は勢力が拡大する甲斐源氏を恐れて、徐々に弱体化を図る様になった
③頼朝代官として源範頼・義経が上洛し、木曽義仲を撃った(宇治川の戦い)ことにより甲斐源氏は頼朝との直接対決を余儀なくされた。
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甲斐源氏の失脚 |
1)武田信義:頼朝追討の宣旨を受け取ったとの嫌疑を掛けられて、鎌倉に出向き起請文を提出する(1182年)
2)一条忠頼(武田信義の子):威勢を振るい、「濫世之志」を差し挟んだ(無闇に世の中を乱そうとした)として、鎌倉御所で謀殺(計画的に殺すこと)
3)武田有義(武田信義の子):鶴岡八幡宮の法会出席の御剣役を渋って失跡され逐電
4)板垣兼信(武田信義の子):駿河国や遠江国で年貢取り立てに従わない等の罪で隠岐国へ流罪
5)安田義定(武田義清の子):息子(安田義資)の事件に連座して遠江国の地頭を解任
その上で、義資(息子)事件で処置に不満を持ち反逆を企てたとして梟首(きょうしゅと読み晒し首のこと)
6)安田義資(安田義定の子):艶書(恋文)事件を起こし不謹慎を咎められた罪で梟首
7)泉義季(安田義定の子):兄義資事件で常陸国へ流され、父義定事件で誅殺(ちゅうさつと読み罪を処して殺すこと)
いずれにしても、富士川の合戦で頼朝を助けた武田信義と安田義定の息子達は頼朝からことごとくひどい仕打ちを受けた。その中で、武田信義の息子である武田信光と武田信義の弟の加賀見遠光一族などが難を逃れた(その武田信光の末裔に武田信玄がいる)
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1. |
山梨でアグリビジネスは成長可能か |
講演者紹介
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1)親はトマトの生産を中心とした農家で、10年間県外で銀行や保険会社に勤めた
2)農業をビジネスチャンスに出来ないかと考えて山梨に戻り、独自に「農業生産法
人」を立ち上げた(H16年)
3)NPO法人「農業の学校」を設立(H17年)
4)試行錯誤を繰り返して現在では30種類の野菜を生産し、ス-パ-やコ-プ等へ
納めている
5)最初は土壌のデ-タ-化や、徹底したマ-ケティング、人材の育成を行い、現在
では20人ほどの素人で経営している。
6)現在は甲府市内で農地を借用し生産しているが、最近では相模原市でも生産を
開始した
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やって見て判ったこと |
1)遊休農地は増加の一途で、高齢化の為に耕作出来ない農家も増えている。遊休農地
は全国に38万ha有り、山梨で農地を借用することは難しくない。
2)作物を作って見たい若者が増えて来た。年間約100人(女性:40%)が体験に来
るが、本格的に取り組む若者は現状5人程度(今後も積極的に募集を掛けて行く)
3)土壌をデ-タ-ベ-ス化し、納入先へ出掛けて積極的にマ-ケッティングをやる
4)1個98円の売価でも、生産者として適度な利益は出る
5)農産物に規格が有るのは、流通側がやり易くするからで、規格外を消費者が嫌って
いるのではない
6)顧客は値段以上の満足を求めている
7)買いたい人は向こうから来る
①食糧不足等より国産農産物のニ-ズは上がる
②しかし、実際には生産現場では無く流通に注目・集中
③きちんと作れば、消費者は必ず来る
8)それには、毎日の作業を軽減して作業効率を上げる事が重要
9)農家は「作る」のは上手だが、「売る」のがへた。
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人材の育成 |
1)研修生を積極的に受け入れて、一緒に農作業を行う中でヤル気とモティベ-ション
を高めて貰うようにしている。
2)平均年齢は25才の若い仲間だが、中には女性も居て一生懸命働いている
3)その中で、5S活動+改善を日々の作業でやっている
4)ウイリアム・ウオ-ドの提唱した以下の言葉を念頭に若者と付き合っている
① 凡庸な教師は指示を出す
② 良い教師は、説明をする
③ 優れた教師は、やって見せる
④ 偉大な教師は、心に火を付ける
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まとめ |
1)良いものを確実に、安定して作れる技術をもつ
2)常識は非常識⇒非常識の中にチャンスがある
3)職人技術・プロの要素をできるだけ排除し、仕事・作業・行程をシンプルに
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