九州(沖縄・屋久島)

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左の画像は、糸満市(沖縄)にある摩文仁(まぶに)の丘で、太平洋戦争で4人に一人が亡くなった沖縄の戦没者の他に、沖縄戦で命を落とした県外の人々と外国人を含む24万人の氏名が刻まれて、太平洋に向かいその幾つもの刻銘碑が建てられていた。

私は今回、沖縄を旅して本土には無い底抜けに明るい琉球の人達と沢山のお喋りをしたけれど、60年前に沖縄がこうむった多くの犠牲を私達はもっともっと温かな心で理解して
そして、事実を正確に知らねばならないと思う。

此処 「摩文仁」は、多くの人達が100mの断崖絶壁から身を投げて死んで行った哀しい丘だが、しかしそれ程迄に被害を受けながら、日本が大好きな沖縄の人(うちなんちゅう)が私なりによく理解出来て、沖縄が「大好き人間」になった今回の旅である。

 本来は此処に桜島の画像が載るはずであるが、残念な事に錦江湾から見えるはずの
6日間の鹿児島で過ごした日々の中で、一度も桜島を観る事が出来なかった。そこで、左の写真は薩摩半島の最南端にある開聞岳の画像なのだが、それにしてもすぐ近くまで行っているのに桜島は厚い雲の中で、桜島にすっかり嫌われてしまった。

しかし、国内で最後に行ったことになる鹿児島は、鹿屋や知覧、そして出水で若き特攻隊員を初めとする悲しい戦争の歴史の中で、平和である事の大切さを沖縄と共に語り掛けてくれたが、何故か観光地化されていない佐多岬や池田湖など色々と想い出深い鹿児島であり、今度は桜島に合いに再度此の地を訪れて見たいと思っている。

参考までに
桜島の謂われは、カゴ(崖がそそり立っの意味)の島で、その「カゴシマ」が現在の
鹿児島なのだそうです。つまり、鹿児島は桜島のことだったのです。

この画像は、屋久島の白谷雲水峡を少し登った所にある「弥生杉」の画像だが、最後に樹齢3,000年の屋久杉を観た想い出の場所である。

とにかく、強行軍で山登りをやり、道に迷いながら登山道を歩き、低血糖を心配しながらしかし、岩からしみ出ている屋久島の水を美味しく飲みながらの1泊2日の屋久島の旅も、想い出に残る大切な旅であったと言えよう。

しかし、正直の所、屋久島の事前の勉強が不足し、現地で仕入れた情報は有り難かったけれど、もっと早くから調べて置けば良かったと、今も残念に思っている。
1)期 間:H18年05月05日〜5月27日
2)日 程
5月05日(金) 先祖の墓参りの後、中央道を南下し名阪道を経由して大阪のフェリ−乗り場へ。そして、夕方門司港へ向け出航した。 山梨県
長野県
愛知県
奈良県
大阪府
午後4時過ぎに出航した「フェリ−おおさか(9,500トン)」は、6時半ごろ明石海峡大橋をくぐり、瀬戸内海を夜通し走って翌朝九州に着くが、船内は銭湯やレストランなども有り、400人以上の乗客で賑わっていた。
5月06日(土) 早朝、新門司へ到着。その足で九州道を通り福岡空港へ車を置き、沖縄へひとっ飛びして那覇空港へ
福岡県
沖縄県
福岡空港で駐車場が運良く取れて沖縄へ行く事が出来たが、この日は午後から首里城を見学したが、その日本の世界文化遺産を代表する首里城の正殿は、朱色に漆を上塗した琉球建築様式で、それは見事だった。
5月07日(日) レンタカ−で那覇から北の恩納村〜名護市、そして帰りはR58を通り米軍基地を見ながら那覇へ

沖縄県 美ら(ちゅら)海水族館の大きな甚平サメと琉球村の見事なアトラクションは見応えがあった。そして、沖縄の米軍基地を幾つも通り那覇へ戻った。
5月08日(月) 早めにホテルを出発して、糸満市にある「摩文仁の丘」と「ひめゆりの塔」を見学。4時の飛行機で福岡へ
沖縄県
福岡県
県立沖縄平和祈念館前の広い庭には、沖縄県民の犠牲者(15万人)及び県外と海外を含む合計24万人もの沖縄戦の死者を刻んだ「平和の礎」の碑が並び、太平洋の荒波に洗われる目の前の絶壁を前にしてその平和祈念館は建てられていたが、その展示物で島民の4人に一人が犠牲になった沖縄の人達(うちなんちゅう)の魂の叫びを知る事が出来た。
5月09日(火) 大分道の浮羽から本耶馬溪にある「青の洞門」を見学し、宇佐神宮と数々の信仰で知られる国東半島を一周してから湯布院へ
福岡県
大分県
久し振りの道の駅での宿泊だったが、ぐっすりと良く眠れた。そして、耶馬溪と宇佐神宮を観て国東半島の六郷山文化に触れ、其の先の湯布院で温泉に入ったが、その由布岳は小雨の中でうっすらと見えていた。
5月10日(水) 由布岳に別れを告げて、別府市役所を訪ねると観光課の次長が丁寧に別府を紹介してくれた。そして、午後から高崎山の猿達にご対面してから竹田市を通り高千穂までを走ったが、そこはさすがに此処が九重連山と判る険しい山道だった。
大分県
宮崎県
別府市では「別府八湯」と銘打ち、時代ごとに栄えた市内八箇所の温泉場を巡り歩くキャンペ−ン中で、別府市役所では今度は是非時間を掛けて来て欲しいとのこと。しかし、今回は時間が無いと言うと、八つある地獄めぐりを紹介してくれたが、時間の関係で四つを見学してから、其の先にある九重連山の国道を通り高千穂まで走った。
その国道は狭く鬱蒼と茂る木立の中を遠々と走る国道とは名ばかりの道で、実に心細かった。
5月11日(木) 高千穂峡の遊歩道を歩き、9km先にある「天の岩戸」を観てから廃線となった高千穂鉄道沿いに延岡へ。そして日向を通って西都原へ。西都原では沢山の古墳群を見学し、宮崎を経由して日南海岸にある道の駅(フェニックス)へ
宮崎県 高千穂峡は、阿蘇から流れ出た溶岩が急激に冷えて出来た柱状摂理の切り立つ岩と、五ヶ瀬川の急流が良くマッチした峡谷でとっても素晴らしかったが、一方西都原では300以上の古墳が律令制時代迄に出来た九州南部の謎の多い不思議な場所で、その考古博物館でボランティアガイドの方から色々と教わる事が出来た。
5月12日(金) 日南海岸の素敵な海岸線を走り、飫肥城を見学して都井岬で御崎馬に合ってから、志布志港で初めての鹿児島入りを果たし大隈半島を横断して錦江湾の根占へ
宮崎県
鹿児島県
飫肥城はその武家屋敷と言い城郭と言い、此の地の人達が街を大切にしている姿をあちこちで見掛けた。そして都井岬で120頭の御崎馬を観てから、此の日初めて最後の鹿児島県入りを果たした。しかし、せっかくの櫻島は雲の中で姿を見ることが出来なかった
5月13日(土) 根占から佐多岬へ行き、再び根占へ戻り鹿屋市役所で日本海軍の資料館を聞くとそこから近い場所に鹿屋基地史料館がありそこで、908名の若き神風特別攻撃隊員の悲しい歴史と有名なゼロ戦の実物を見学出来た。その後、垂水へ行き大根占を経由しフェリ−で薩摩半島の先端の山川迄行き、指宿の道の駅で宿泊した。
鹿児島県 地図で知られる佐多岬は意外にも寂れた観光スポットで、野生の猪に足を突付かれたり廃屋と化したレストランは寂しいが、正しく九州最南端の絶景の中で私は灯台と太平洋をゆったりした時間の中で過ごせた。鹿屋では、海上自衛隊が管理運営する史料館で日本海軍の歴史と朽ち果てたゼロ戦を三菱重工の技術支援を得て見事に復元されたその実機の前で写真を撮る事が出来た。又、山川迄のフェリ−の旅は50分程で錦江湾を横断したが、開聞岳が真正面に見えたその時、此処が鹿児島であることを実感した。
10 5月14日(日) 指宿から長崎鼻と開聞岳を観て池田湖へ。そして、枕崎迄行き、知覧の特攻平和会館では日本陸軍の千人以上の若き特攻隊員が戦争末期に沖縄戦で命を落としたその遺品などを見学、知覧の武家屋敷を観て指宿へ戻った。
開聞岳の直ぐ近く迄行って見たが稜線が綺麗な小高い山だった。そして、池田湖が火口湖で九州で一番大きく水深が日本で4番目の湖である事を知った。その後枕崎で昼食をとり、両側が茶畑の道を走り知覧へ行ったが、此処が日本陸軍の特攻訓練基地で記念館で三角兵舎や飛燕や疾風や隼と言った川崎航空機製の飛行機などを見る事が出来た。
11 5月15日(月) 指宿港から高速船(赤色のトッピ−)で屋久島の宮之浦港へ。午前中にバスでガジュマル園を観て、午後から途中の宮之浦と安房でバスを乗り換えて樹齢3000年の紀元杉へ向かったが、乗換えの待ち時間が何と1時間以上と屋久島バスはのんびりしていたが、気さくな運転手さんの案内で、ヤク鹿をわざわざバスを停めて教えてくれたりしながら過ごし、空港の傍にある宿泊先のホテルに夕方戻った。
前日にバッテリ−トラブルが有り朝の始動が出来るか心配したが、一発でエンジンが掛かってひと安心。そこで、水中翼船はいよいよ8時半に出航し一時間と少しで屋久島へ着いたが、観光案内所でお薦めを聞き、昼前に根や幹同士が絡み合ったガジュマルを観て、午後からバスを2回乗り換えて紀元杉を観に行った。しかし、お目当ての樹齢6000年の縄文杉は山の頂上近くにあり、往復に10時間は掛かるので日帰りでは絶対無理との事。屋久島の勉強が不足していることを恥じた。そこで、途中の安房で日帰りコ−スを聞いた所、楠川分かれから山を登り白谷雲水へ出るとバスの便がある事を教えてくれた。
12 5月16日(火) 早目に支度をして5時半のバスで荒川登山口まで行き、教えて貰った楠川別れを通り過ぎて三代杉まで歩き、再び楠川分れへ戻ってから辻峠(950m)迄登り、白谷山荘から白谷雲水へ。その後、弥生杉を観てから昼のバスで宮之浦港へ着いた。そして、夕方の船で種子島経由で指宿へ戻り、喜入の温泉に入ったが、久し振りの登山は膝が痛く足が攣ってしまったが、温泉に入り良く揉むとすっかり治っていた。
この日の屋久島はかなりの雨で用意したレインコ−トを着てから出発した。処で、楠川分れから辻峠迄の山道は登り詰めで(本格的な登山は40年振りだが)ガイドブックでは登り80分とある所をほぼ1時間で登り切った。そして、下山中に足を痛め、弥生杉のある所迄痛む足を引きずりながら頑張った。それから昼過ぎに宮之浦港へ戻り、遅めの昼食とお土産(屋久島焼酎)などを買い4時半のトッピ−3(黄色の船体)で再び指宿へ戻り、「喜入」の道の駅にある温泉に入ってゆっくり休んだが、思えば屋久島で頑張り過ぎた事が後半の旅に体調管理の上で影響した様に思う。しかし、屋久島も想い出に残る良い旅であった。
13 5月17日(水) 鹿児島市役所で「維新ふるさと館」と城山を教えて貰い、その2箇所を見学してから霧島方面を走り、福山と垂水へ行き櫻島からフェリ−で再び市内へ。そして、入来に住む昔の仲間を尋ねて、入来温泉に入り、美味しい地鶏の刺身などをご馳走になり、友の家に泊めて貰い旧交を温めた。

「維新ふるさと館」は、特に幕末の薩摩藩のあり様を詳しく紹介していたが、何と言っても西郷ドンを詳しく語っていた。そして、西郷隆盛自刃の地である城山は市内の中心に在り小高い城内から市内が良く見渡せた。そして、垂水迄の湾沿いの道を走り、此れで錦江湾を一周出来た事を確かめた。しかし、桜島を見ようと近く迄行ったが結局桜島を此れ迄を含めて一度も見る事が出来なかった。帰りは桜島フェリ−で市内へ戻ったが、車に乗ったままの15分はアット言う間だった。
14 5月18日(木) 出水市役所で、資料館を教えて貰い行って見たが、色々なことを知った。是非、ツルの飛来地で知られる此処のセンタ−を観て行って下さいと誘われたが、時間の関係でそこへは行かなかった。そして、午後から「水俣病資料館」を見てから人吉の30km先にある「五木の子守唄の里」の五木まで行った。
鹿児島県熊本県 出水には戦前、海軍の航空兵の訓練用滑走路があり、戦争末期に特攻基地として特に沖縄戦に参加し殆ど何も知らずに数百名の若者達が此処から飛び立って行った事を資料館の館長が話してくれた。そして、午後から行った「水俣病資料館」では公害病として多くの犠牲者が今も苦しむこの病気の全てを教えてくれたが、水銀で汚染された範囲を濃度別に閉じ込めたり浚渫したりしてその場所を「エコパ−ク水俣」と呼ぶ公園にして、その一角に資料館(市立)と情報センタ−(国立)が建てられていた。一方、ロマンを感じて訪れた五木の里はスピ−カ−から子守唄が流れる道の駅以外に何にも無く、外灯も無い寂しい所であった。
15 5月19日(金) この日は出発前から休養日と決めていたので、まず五木から球磨川沿いに八代へ行き、コイン・ランドリ−で2週間分の洗濯をしてから熊本市を通り、阿蘇の入口の大津にある道の駅までを走った。八代も熊本も阿蘇も以前来ている所だが、久し振りの熊本は殆ど昔と変わりはなかった 熊本県 この日も雨の朝だったが、急流で知られる球磨川沿いの道を走り、八代へ向かった。そして、八代市役所で近くのコインランドリ−を教えて貰い、一番大きな洗濯槽に下着の他にズボンやタオルケットなども入れて洗濯した。そして、洗濯の待ち時間に此れまでのメモの整理をしたり、特に何処へも行かずに一日を過ごしたが、前に来たことのある熊本ではお城だけは観ようと駐車場を探したが見つからず、35度の気温にうんざりして結局何処も観ずに阿蘇まで行った。
16 5月20日(土) 玉名へ向かう途中の菊水町で古民家と幾つもの古墳をまとめた「肥後古代の森」を通ったので寄って見た。そして、玉名で昔仕事上の付き合いで知っている社長を25年振りに尋ね懐かしく話し合ったが、その後大牟田で三井三池坑のある石炭産業科学館へ行き、柳川の水郷を観て、一気に佐賀県の「厳木」迄走った。厳木(きゅうらぎ)は、佐賀の山の中にある珍しい地名の町だが、温泉が有る事と翌日、吉野ヶ里遺跡へ行くのに都合の良い場所にあり、当初から決めていた。
熊本県
佐賀県
玉名はかつて私が設計したクレ−ンに搭載する減速機の購入先で社長はお元気で畑の草取りから戻り会って下さった。そして、大牟田で観た石炭産業博物館はかつての炭坑節で有名な石炭の産地で、此処で、この炭坑の基礎を築いた團琢磨を知り、筑豊より格段に優勢であったこの炭坑の労働争議を含む長い歴史を知る事が出来た。次に行った柳川は水郷の街として知られているが、あまり興味は無かったので、北原白秋の生家などを観て、厳木へ向かった。その厳木では「佐用姫の湯」と呼ぶ温泉に入ったが、5世紀頃外国に出兵する若者に恋をして夫婦になった佐用姫が、夫との別れの時に長い布をいつまでも振り続けて別れを惜しんだ故事に因んで道の駅に「佐用姫の像」が建てられたが、何でもこの像は20分でひと回りするとの事であった。
17 5月21日(日) いよいよ吉野ヶ里遺跡へ行く日になり、長崎道の東背振迄走ると10分ほどで到着する事が判ったが、其の前に以前数十回は来ているであろう ある客先の現場を見に行ったが、新たな建物が増築され業績の好調振りが見えて嬉しかった。そして、何度も来ているのに一度も行っていない吉野ヶ里遺跡を昼過ぎまでゆっくり見学し、午後からは普賢岳の噴火で大きな災害となった島原の雲仙岳災害記念館へ行きその先にある道の駅(みずなし本陣)で宿泊した。此処も、土石流で埋まっている民家を永久保存し、訪ねる人が見学出来る様に整備されていた。
佐賀県
長崎県
この遺跡は、県が工業団地として此処を開発する着工寸前に地元の高校教師が全国に働き掛け工事を中止させ此の地が弥生時代の大集落の跡である事が分かった事を以前から知っていたが、こんなにも広大である事は知らなかった。そして、ビデオで開発の経緯を見たり、弥生時代の稲作や国家としてまとまって行く流れなどを詳しく見る事が出来た。又、お墓の見学場所を捜していると、植木屋さんが私を軽トラに乗せて柵の外にある現在発掘中の現場まで連れて行ってくれた。何でも今日は休日で対応していないが、普段はガイドが案内していると言う。この親切な植木屋さんの好意が嬉しかった。午後から観た雲仙岳災害記念館は数人の女性のアテンダ−が、火砕流の速い流れを床下のデモで見せたり、今回の普賢岳溶岩流の実写映像をスクリ−ンに映しながら、音と床が振動する装置等で其のものすごさを体験出来るコ−ナ−が有ったりして結構迫力があった。
18 5月22日(月) この日は、島原の先にある口ノ津迄行き、雲仙温泉を通って長崎市へ行ったが、坂の町長崎は交通量も多く市電に追い掛けられる様に街中を走ったが、駐車場が仲々見つからないので市内を暫く走ってから、長崎観光を諦めて西海橋へ行く事にした。その西海橋までの海岸線は、結構海辺より高い場所と、暫く走ると再び海辺に戻ったり起伏が激しい道だった。
長崎県
口ノ津は17年前に妻と天草〜島原を旅行した時のフェリ−乗場のある街だが、其の後 かなりの山の中に硫黄の臭気が漂い湯煙が上がる雲仙を観ながら、長崎へ行った。しかし長崎市は道が大変混雑し駐車場が見つからないので、予定している長崎見物を諦めて西海橋へ行くことにした。処で、長崎では「長崎さるく博」を開催中で(さるく=長崎弁でぶらぶら歩く)翌日はゆっくり歩いて見ようと計画していたが大変残念だった。そこで、長崎の北にある4月にオ−プンしたばかりの外海(そとめと読む道の駅)へ寄り、晴れていれば五島列島が見えるはずの海岸線をひたすら走り西海橋へ
19 5月23日(火) 西海橋を通り、佐世保にあるセイル・タワ−と呼ぶ「海上自衛隊史料館」へ行った。その後、有田と伊万里で工房を訪ねたり、まとめて陶器を買ったりしたが、どちらの店も落ち着きの中に沢山の陶器が並べられて生き生きとした町に見えた。特に、訪ねた伊万里市役所では熱心に伊万里焼のレクチャ−をしてくれたが、町を活性化する意気込みを感じた。その後、唐津の東松浦半島の突端にある道の駅で宿泊した。
長崎県
佐賀県

佐世保市役所へ行くと「海上自衛隊史料館」を教えてくれたので行って見たが、7階建ての其のセイルタワ−の一階で記帳を済ませると、エレベ−タ−で最上階の展望台へ上がり、晴れていれば九十九島が見えるこの階から順次降りながら展示物を見る様になっていた。又、此処では5階で見た海軍最初の連合艦隊の全てのミニチュアを展示していた事と、東郷平八郎や山本五十六達の生き様に(今まで知らない事が多かっただけに)深く感銘した。そして、有田では長崎ちゃんぽんを食べに入ったラ−メン屋の親父に有田の事を聞き、卸団地を教えて貰ったり、伊万里では市役所で大川内山にある鍋島藩窯跡を紹介され行って見たが、通りの両側が全て陶器店である有田とは対照的な(川を挟んで細い坂道の両側に平屋の民家を集めた)伊万里の陶器店の方に風情を感じた。
20 5月24日(水) この日は、玄海灘沿いの道を博多方面に走り、博多へは寄らずに大宰府天満宮と、九州国立博物館へ行った。その後、大宰府インタ−から九州道と大分道を通って、杷木にある原鶴に行ったが、杷木の名前が何か聞き覚えが有ると思いきや、何と沖縄から戻り九州の旅を始めた時に最初に泊まった道の駅(浮羽)と同じインタ-チェンジであったが、杷木に着くまで其の事に気付かなかった。原鶴は温泉に入る為に選んだのだが、何と近い事か。
佐賀県
福岡県
太宰府天満宮で孫にお守りを買い、隣接して昨年造られたばかりの「九州国立博物館」を見学した。この博物館は、天満宮の境内の途中を少しそれて長いエスカレ−タ−を乗り継いで進むと、天満宮よりかなりの高台に建物があった。そして、丁度琉球展を特別展示していたので、首里城で観たものと共通する琉球王朝の遺産を観る事が出来た。そして、常設展では、日本の古代から現代までの文化や歴史を時代別に展示していたが、特別展の方に多くの時間を掛けて観て回った。そして、九州で最後の宿泊地となる原鶴(福岡県)は何と最初に泊まった浮羽と同じ杷木にあり、それぞれ左右に分かれて道の駅はある事を現地で初めて気が付いた。そこで、原鶴温泉に入りゆっくり休んだ。
21 5月25日(木) 九州の旅の最後は、筑豊にある飯塚と直方、そして小倉と決めていたが、筑豊の炭鉱の事を此れ程知る事が出来たのがこの日の最大の収穫だった。特に、直方市役所で教えて貰った「石炭記念館」では、館長から筑豊炭坑の歴史と現状の話を聞く事が出来た。石炭記念館を見てから、小倉へ向かったが、小倉は想像以上に通りが整備され道幅も広く近代的な町並みは、かえって私には居心地が悪かった。それに、此れで九州旅行を終える数日前から、どうも胃の調子が悪くムカムカして食事を作る気力も無い状態が続いている体調不良も居心地の悪い原因を作っているのかも知れない。そこで、小倉で九州の旅を完成させて、下関で泊まる計画を中止し、今日は少し無理をしても尾道まで走る事に決めた。
福岡県
山口県
広島県

飯塚へ行く前に浮羽に立ち寄って見たが、実は浮羽の印象が記憶に無く、寄って見たのだが歩道橋から写真を撮った事などの記憶が戻り寄って正解であった。そして、次に行った飯塚市では「飯塚歴史資料館」で、山上億良の辞世の歌碑を知り、この辺りも遺跡が集中している事や、学芸員の女性から九州北部の未開発の遺跡について話を聞く事が出来た。そして、直方ではこの石炭記念館は、かつて筑豊炭坑の技術レベル向上の訓練施設跡であり1,000人以上の技術者が此処で教育訓練され各々の炭坑へ出向いた事や石炭の枯渇で三池坑より早く閉山された事も関係してこの記念館への地元の理解が少なく、当時使用された蒸気機関車や坑内運搬用の空圧式機動車などが雨曝しの状態であること。広報活動が少なく大牟田にある三池坑より全国的に知名度が低く、筑豊が筑前の国(博多)と豊前の国(大分)から筑豊の名が付いたこと。筑豊は多くの経営者が夫々の山を開発したが、中でも三人(麻生、貝島、安川)が大きく財を残したこと。其の中で、麻生大吉の孫が現在の麻生太郎外務大臣であり、安川敬一郎は安川電機の中興の祖で、貝島太助のみが一代で事業を終えたこと。しかし、貝島が筑豊炭坑の発展に一番尽くしたとのこと。昔は女性の鉱夫も居た事などを話してくれた。
22 5月26日(金) この日は、しまなみ海道を渡り四国側の瀬戸内の海沿いの道を通って屋島で壇ノ浦の古戦場を観てから、鳴門大橋を通り淡路島で宿泊する事に決めたが、岩国の錦帯橋や広島の原爆ド−ムと呉の町、そして福山にある鞆ノ浦と徳島にある祖谷のかずら橋等の観光を取り止めたのは残念であるが、健康第一なので、体調を優先させる事にした
広島県
愛媛県
香川県
兵庫県
しまなみ海道は幾つもの島に橋を掛けて島をひと続きにした総延長が約54kmの連絡橋であるが、島々には必ず展望台が有り通って来た橋と此れから渡る橋を観る事が出来る素敵な海道であった。其の点、鳴門大橋は途中の駐停車が禁止されており、折角の渦潮をゆっくり観る事が出来ず残念であった。又、屋島は頂上まで車で登れる有料道路があり、登って見ると源平の古戦場である壇ノ浦がすぐ真近に見えて、手摺に説明の看板が掛かっていたのでそれを読みながら暫くの時間を過ごした。そして、高松道で鳴門まで行き、淡路島の東浦にある道の駅で今回最後の夜を過ごした。
23 5月27日(土) 今日はかなりの長距離を走る為、早起きをして近くのコンビニで消化の良いおじやを買って食べてから、明石海峡大橋を通り須磨から高速道を通り、途中で何度も休みながら一気に韮崎までを走った(この日の走行距離が480kmであった)
兵庫県
京都府
滋賀県
岐阜県
長野県
この日も胃がシクシク痛かったが、我慢をして走った。其の中で、明石海峡大橋はフェリ−でこの橋の下を通過した旅の始まりの想い出と、一ヶ月前に大阪に住む姪の船上の結婚式で、神戸港からやはりこの橋の下をクル−ジングした素敵な橋であるが、なんとも橋を渡る際の感激は何にも無くただアッと言う間に通り過ぎた実感の無いものであった。渡る前に何となくそうでは無いか(?)とも思ったが、予想通りの無感激の走行であった。この様にして、熊野古道と飛騨の高山そして安房峠から上高地を抜けて山梨へ帰る寄り道の旅が実現出来なかったけれど、九州は計画通りに実現出来たので、これで良しとしようと思っている。

3)全走行距離:4,390km〔レンタカ−(沖縄)の距離数(251Km)を含めて〕

4)旅の感想
* 沖縄で想い出として印象に残っていること

@摩文仁の丘では24万人の沖縄戦で亡くなった全ての犠牲者(島民、県外、そして外国人)を「平和の礎(いしじ)」として刻銘碑に刻んで
 あることと、県立平和祈念資料館で、沖縄戦の悲しい事実に触れたこと
A美ら(ちゅら)海水族館の大きな甚平ザメとサンゴの中を泳ぎまわる無数の熱帯魚たち。そして、多くの子供達が目を輝かせて楽しそうに
 観ていたこと
B恩納村にある琉球村のアトラクションは、さながら琉球の民族文化を一堂に観ることが出来て楽しかったこと
Cイノ−と沖縄では呼ばれる島全体を珊瑚礁で縁取りされたエメラルドグリ−ン色の鮮やかな海を飛行機から観たこと
D首里城の正殿や城郭を観て歩けたことと、翌日からの2日間はレンタカ−で島の北と南をしっかり観る事が出来たこと

* 屋久島で想い出として印象に残っていること

@何と言っても、樹齢3,000年の屋久島杉を観たこと(紀元杉と弥生杉)
Aトロッコ道を途中で折れて、標高1,000mに近い辻峠への本格登山をやり、低血糖にもならずやり遂げたこと
B高速水中翼船(トッピ−)で屋久島へ行けたこと 

* 九州全般で想い出として印象に残っていること

@鹿屋、知覧、出水、佐世保で旧日本軍に関わる様々な事実と、若き特攻隊員達の純粋で悲しく短い人生を改めて詳しく知る事が出来た
 こと。三菱重工の技術支援を得て復元された「ゼロ戦」と、川崎重工 により復元された「飛燕」に触る事が出来たこと
A初めて鹿児島入りし、錦江湾を一周出来たことと、かつての同僚と再会して旨い焼酎と地鶏の刺身をご馳走になったこと
B西都原古墳群で300以上の古墳と竪穴式墓等を見れた事と、吉野ヶ里遺跡では広大な遺跡全体を歩く事が出来たこと
C水俣病資料館で水俣病の此れまで知らなかった事実が分かったこと
D有田や伊万里そして唐津などのこの地の陶器の総称を「伊万里焼」と呼び、それは伊万里港から船積みした事から港の名前で呼ぶ様
 になった事を知ったこと(古伊万里は有っても、古有田 が無いナゾが解けて、目からウロコだった)
E耶馬溪、国東半島、高千穂峡、都井岬、飫肥城、日南海岸など、今迄余り知らなかった所が大変気に入り、新しい発見が幾つも有った
 こと

* 今回の旅のまとめ

@フェリ−で大阪〜門司までと、根占〜山川、そして桜島フェリ−にも乗れたことは、其の分疲労防止に大いに役立ったこと
A旅の途中で雨の日もあったけれど、まあまあ天候に恵まれて旅を終える事が出来たこと
B今回は、危険な目に遭うことも無く、無事に帰ってくることが出来たこと
C九州からの帰り道に、2ヶ所の橋を通って、四国へ渡り淡路島へも行けたこと
D帰り道に岩国の錦帯橋や祖谷のかずら橋や、熊野古道そして飛騨の高山などを予定していたが、生憎胃を悪くして、取り止めたのは
 残念であるが、念願であった九州一周を果たし、四国へも行けた事を良しとしたいと思う。

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5)ぶらり旅の編集後記〔H18年(九州&沖縄&屋久島)〕
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                                                                  H18年10月
* ぶらり旅から戻り、旅先で書き込んだ日々のメモを少しずつ整理をしたり、リニュ−アルの準備を開始して約3ヶ月で一通りの作業が終わったが、季節は既に夏を過ぎ秋口に差し掛かっている。そして、5月の末に山梨に戻ると間もなく沖縄と九州南部が梅雨入りをして、特に鹿児島の垂水では土石流で大きな被害が出たり、出水市では川の氾濫で町中が水浸しになったりひと月前に通って来た町の災害に懐かしさと何とも辛い気持ちが入り混じり、テレビを見ていた。


* 今回の旅は、都道府県の中でまだ行っていない九州の2県(大分、鹿児島)と沖縄へ行く事が出来たが、それぞれの土地で思わぬ貴重な経験(体験)をした。特に鹿児島は日程の関係で一番長く滞在した関係もあり、錦江湾をひと周り出来た事が大変良かったと思っている。そして昔の友のご馳走で鹿児島産地鶏の刺身や美味しい焼酎をご馳走になったことも大切な思い出である。

* 太平洋側の九州南部に、西都原古墳群があることや 勿論、佐賀に在る吉野ヶ里遺跡の存在を知っていたが、しかし実際に其の地で実物を見るとそのスケ−ルの大きさもさることながら時空が数千年遡った様な実感がして来て、やはり「百聞は一見にしかず」の其の言葉通りである事が判り充実した時を過ごすことが出来た。


* 沖縄と屋久島は、計画の当初は折角九州まで行くのでそのついでに行って見ようと言う、どちらかと言えば軽い気持ちで計画に入ったが何と何と、実行して大正解であった。特に屋久島は島が小さい事もあり、行けば何とかなるだろうと言う軽い気持ちが大間違いでそう言えば沖縄にしても、レンタカ−の予約はしてあるものの見学場所を調べた訳ではなく、空港で出発までの余裕のあった時間にガイドブックを買い、其れを読むことで「美ら海水族館」や「琉球村」を知る事が出来たが、しかし摩文仁の丘などへは是非行って見たいと前々から考えていたのでそうしたことが実現したことが何よりも嬉しい今回の旅であった。


* 鹿屋と知覧そして出水と佐世保で太平洋戦争の記録をこの目でしっかり観ることが出来たことと、日本の陸軍・海軍についてあの様にキチンとした形で見ることが出来るとは思ってはいなかったので、それらは予想外の収穫であった。

* しかし、何と言っても旅の後半に胃痛になり九州を出てから計画していた予定地へは行けなかったことは残念であるけれど、此れからは長期間の旅ではなく短期間でしかもポイントを絞って個別に行って見たいと思っている。


* それにしても、飛行機から見えたイノ−(沖縄の言葉で珊瑚礁の意味)のコバルトブル−のあの色合いや屋久島の沢山の屋久杉そして、九州の隠れた名所旧跡など今回も「ぶらり旅」の想い出が沢山増えたが、今の所は長期間の旅は此れで最後にしようと思っている。しかし、また何時かそれこそブラッと出掛けてしまうかも知れない。


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