道の駅(平成17年)            
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5月に旅をした山陰で唯一、一度だけ道の駅に泊まったのですが、実は泊まったのは「ゆうひパーク浜田」で、この画像は浜田より出雲にひとつ近い「キララ多岐」のものなのです。

浜田で初めて道の駅に泊まり、道の駅を撮る余裕も無いままに走り、山梨へ戻ってからチェックをすると浜田での画像が無く、仕方なく多岐のものを載せました。(ごめんなさい)
処で、浜田ではムーンルーフを開けていた所、鴎の大群が上空を飛び交い慌てて閉めた事や、宍道湖のシジミをシジミ汁にして食べた事(とっても美味しかった)などが想い出となりました。しかし残念ながら、山陰での夕陽は見えず仕舞いでした。
此処からが、7月に行った東北〜北陸へのぶらり旅のものですが、此処が1日目の沼田市(群馬)に有る「白沢」と言う道の駅です。

その白沢は「しらさわ」と読む事を知りましたが、此の地が尾瀬ヶ原の起点となる事や赤木山の麓にあり、今回予定している金精峠の入口にあることなどを地図上では判っていたのですが、実際に行って見ると何と無くいっそのこと尾瀬を回って行こうかな(?)と誘惑に駆られてしまいそうな色々な所へ行ける絶好のポイントに在ることが分りました。しかし、「初心貫徹」を心に決めて、金精峠を目指し翌日からの行動を開始しました。
同じく白沢ですが、旅の始まりのお祝いに白沢で温泉に入り、レストランで夕食をとりました(左の画像の正面に見えるのがそのレストランとその奥にある温泉の建物です)

 処で、桐生にいる82歳の母方の叔父に此処へ来る前にお会いしましたが初対面にも係わらず、お逢いすると顔付きのそこ此処がそっくりで、叔父上のご苦労話を伺うなどとっても貴重なひと時を過ごしました。

そして叔父上ご夫妻との楽しいひと時がこれから先の旅の無事を願う私に幸運をもたらしてくれそうで、そんな仲睦まじいご夫妻の長寿を願いながら、旅の初日をグッスリ眠りました。
此処が2日目に泊まった「田島」と言う道の駅です。
田島は、あと少しで会津若松に至る奥会津の入口に在りますが、たまたまこの道の駅が栃木との県境いに近い関係で、翌朝田島の街を抜けて会津へ入るのに40分以上も走り、漸く会津へ着きました。
そして、この道の駅は山合にあり静かでしたが、テレビ放送が全く入らず、しかし騒がしかった日光の後だけに、かえってゆっくり休む事が出来ました。
此処が、3日目の「高畠」と言う道の駅です。計画では田沢に泊まる予定でしたが、駐車場が狭くトイレが駐車場内に独立していなので次の道の駅に変更しました。

その点、高畠は駐車場が広くゆっくり泊まれましたが、沢山の牛蛙の鳴き声と、しつこいハエが車内に入って来るのには参りました。
同じく高畠ですが、ここは近くに古墳が多く「まほろばの里高畠」と紹介されていました。

何しろ、かつては社用で米沢へは幾度も行きましたが、山形県入りを果たし懐かしい米沢を通って天童に近いこの地に来たのは今回が初めてなので、新鮮な気持ちで道の駅の周囲を歩きました。そして、明日は山寺へ向かいます。
4日目の「三本木」と言う道の駅ですが、国道沿いにあり交通量の多いのには驚きました。
昔、近くのアルミサッシメーカーに社用で何度も行きましたが、見違える様な大変身の三本木には隔世の感があります。(東北編の「三本木」をお読み頂くと、この町の事が良くお分かり頂けます)
5日目の「石鳥谷」です。平泉を一日ゆっくり観光し、花巻(水沢)で休むつもりでしたが、駐車場が狭く石鳥谷に変更しました。

処が、変更して大正解。と言うのは、石鳥谷が南部杜氏の里で、伝承館や民族資料館などが良く整備されこの町が南部杜氏の伝統を大切に守っていることが良く判りました。そこで、翌日盛岡へ向かう前に伝承館と民族資料館を見学しましたが、益々石鳥谷が気に入りました。
6日目の「遠野」と言う道の駅です。この駅はどこかで書いた通り、此処迄の道の駅で最も設備が行き届いており、「風の丘・遠野」のキャッチフレ−ズで紹介されていましたが、今回の旅の中で想い出に残る駅のひとつです。
此処が、7日目の「野田」と言う道の駅です。此の道の駅は、三陸鉄道北リアス線の駅舎と共用されていましたが、この日に観た北山崎の絶景が忘れられず、気分が高揚していた事を良く覚えています。
8日目の「三沢」の道の駅です。今まで宿泊した中で、一番小さな道の駅でしたが、小川原湖にあるオートキャンプ場が人影も無く物騒だったので(こちらの駐車場が狭いのですが)急遽此処に変更したのです。
そして、この駅ではミニバンで旅をする中年夫婦の姿を見掛けましたが、私が朝食の支度をしている間にお二人が出掛けてしまい、話しをするチャンスを無くしました。
此処が、9日目に泊まった「ゆうさ浅虫」と言う道の駅です。

此処も国道に面しており賑やかな道の駅でしたが、其の上駐車場が狭く沢山の車がぎっしり止まっているので(駐車場で食事を作る雰囲気ではなく)翌朝はコンビニ弁当で済ませました。しかし、此処では最上階に温泉があり夜の8時に到着し、8時半に温泉に出掛けると9時までの営業との案内が有り急いで入浴しましたが、白沢、平泉に続いて3度目のこの温泉が、此処が青森市の少し北にあり周囲には温泉旅館やホテルが建ち並ぶ有名な「浅虫温泉」である事が良く判りました。
10日目の「十三湖」と言う道の駅です。道の駅は湖より少し小高い場所にありますが、適当な画像が無かったので湖の画像を使用しました。

此処は、津軽半島のかなり先端近くに有る道の駅で、あと20〜30kmも走ると竜飛岬に至る距離に在ります。ここでは有名なシジミを食べましたが、宍道湖のシジミの方が美味しかった様に思いました。
此処が11日目に東北道のSAに泊まった「花輪サービスエリア」です。

白神山地と十和田湖の天候が悪く、かなり疲れたので鹿角(かずの)と言う道の駅をやめて、夕食がとれるこのサービスエリアに変更しました。

処で、秋田では鹿の字のしを省略して、か(又はが)と呼ぶ事に気付きました。それは、鹿角を「かずの」と呼ぶ事や、男鹿半島を「おが」と呼ぶなどですが、秋田地方の特色なのかも知れません。
此処が、12日目の「阿仁」と言う道の駅です。此処阿仁町は秋田県の内陸部に在り(H17年3月に北秋田市に合併されましたが)、一輌だけの秋田内陸縦貫鉄道が道の駅の近くを一目散に走り抜ける自然が一杯のロケ−ションでした。

そして、此処から近い「打当温泉」へ行き、4度目の温泉に入りました。
此処は、13日目に泊まった八郎潟に近い「琴丘」と言う道の駅です。
この日、秋田市役所の観光課で八郎潟の干拓についての資料を貰いましたが、教えてくれた寒風山から見た八郎潟のそのスケールの大きかった事を忘れません。

そして、結局八郎潟を横切って「琴丘」へ行ったことを次の日になって知りました。
此処が、14日目の「象潟」の道の駅ですが、秋田県の最南端の町にあります。
此処でも温泉に入りましたが、象潟から見る日本海は格別で、此処が江戸時代に起きたこの辺りの大地震までは九十九島が点在する名所であったと言う事を案内文で初めて知りました。
それに、奥の細道で芭蕉が詠んだ「象潟や 雨に西施が ねぶの花」の意味も分りました。
俳句の意味は、「こうして、象潟の雨に濡れる合歓の木の花を見ていると、遠く中国(春秋時代)の絶世の美女の西施もきっとこんなにも美しかったのであろうかと思われる」と言う意味なのだそうです。
此処が、15日目の北陸編最初の宿泊地である「豊栄」と言う道の駅です。
そして、この道の駅が日本で最初の道の駅であることが記されていました。しかも、此処で無料の無線RANが出来たので、パソコンで早速ネットとメ−ルを送受信しました。

しかも、この道の駅は最初に出来た事もあり設備そのものがしっかり出来ていましたが、道の駅制度を立ち上げる当時の国の意気込みが判る様な気がしました。
此処が、16日目に泊まった「能生」と言う道の駅ですが、私は此処へ来るまで「のう」と読むことが出来ませんでした。
ここは、すぐ近くに能生漁港が有り取れた魚を売る店が20軒以上はあったと思います。

また、後から分ったのですが、この道の駅で車の側面に傷を付けられていた事を其の時に気付かなかったのが残念です。
17日目の「氷見」と言う道の駅です。
本当は、富山へ社用で行った時に良く泊まった民宿が生地にありそこへ宿泊したかったのですが、宿の都合で実現せず氷見に泊まる事にしました。
そして、北陸は東北より蒸し暑くその日も汗を沢山かいていたので、氷見でも近くの温泉に入りました。

また、氷見も漁港に隣接して道の駅があり、その中にある観光物産館は大勢の観光客で賑わっていました。
18日目の「山中温泉」の道の駅です。今春(H17年)出来たばかりで新しい駅でしたが、台風がこちらに近づいている時でも有りあまり落ち着けなかった事を覚えています。

当然温泉地ですから最後の温泉(7度目)でゆっくり体を温めることが出来ました。
同じく山中温泉の道の駅ですが、真新しい建物で、しかし土地の人達が大勢この温泉を利用しに車で来ていました。
500円で旅館と同じ温泉に入れる事が地元の人達に受けているのかも知れません。
19日目は翌日の万博に備えて、名神高速の「尾張一宮SA」に泊りましたが、此処での画像が有りませんので、万博を観ての帰りの20日目(最後)に泊まった「志野・織部」と言う道の駅を紹介します。
此処は、中央道の土岐インターから10分程の高台に有る道の駅で、交通量も多くはなく静かな駅でした。

以上で、東北〜北陸へのぶらり旅の紹介を終わらせて頂きますが、平成5年に出来た道の駅制度により、全国津々浦々に道の駅が出来ている事を有り難く思っています。そして、道の駅が大形トラック運転手達の生活の一部になっていたり、車で旅をする人達の休憩場所として十分機能している事を確かめることが出来ました。
                  
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     愛地球博 (平成17年開催)  
               
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ご覧の様に、7月に行った時は、グロ−バル・ル−プ(歩道)の上方から霧状の水を吹き出させて歩く人にわずかの涼しさをサービスしていた。しかし、どの位の時間の間隔で吹き出ているのかまでは覚えていません。
同じく、垂直ポ−ルからも吹き出ていた。
長久手消防署の救急車が病人を搬送している所を4回中2度見掛けましたが、いずれも患者は高齢者でした。
さすがに瀬戸物の町らしく、カラフルなデザインの水飲場があちらこちらに有りました。
名古屋空港駐車場に押し寄せた入場者の波。
当日(9月17日)は、名古屋空港始まって以来の人数だとか。しかし、殆どの車が尾張小牧であったり、愛知や岐阜ナンバーで近くの人達の独占場に使われていたのには遠距離利用者としては、やや不満でした。

何しろ、全期間入場券で数十回も来ている地元リピ−タ−が駐車場を占拠するのですぐに満車になってしまう。
しかし、かく言う私も 17,500円で全期間入場券を買い、4度の万博を楽しみました。
シャトルバスで東ゲ−トへ向かったが、高台から見るとご覧の通りの長い行列がバス発着場まで続いていたので、リニモで隣駅(一つ先)の北ゲートに向かったが結果は正解だった。

しかし、それでも、手荷物検査までに1時間半以上待たされた。(9/17日)
同じく、リニモに初めて乗りあっと言う間に隣駅の北ゲートに着いたが、着いて見ると結果的には北ゲ-トに移動して正解だった。と言うのは、北ゲ−トの方がゲ−ト数が多く並ぶ人の数がリニモの乗客だけで少なかった様に思う。(この日は此れ迄のバスの数に比べて70台に増発していたが、とにかく多かった。)
此処が長久手日本館。
巨大な竹篭の中に建物があるが、外観からはまさしく建物全体が竹篭の様に見えた。
処で、4度目の万博はこの長久手日本館の「地球の部屋」を観る事が目的で、今まで並んだ事のない私が今回だけは我慢をして長蛇の列に並んだのである。
それが、並んで見るとその待ち時間は長く、トヨタなどの企業パビリオンは6時間以上待ちだそうで、さぞかし子供達やお年寄りには大変なことだろうと、我が身に置き換えて気の毒に思えた。
長い行列が出来ていて、ここでは210分待ちと出ているが、並び始めた頃は220分待ちとのことだった。とにかく並んで少しずつ歩くしかないので他にやる事が無く結局、4回目の万博画像が一番多い。
並ぶ場所には上方にヨシズや竹などで日除けが設けられていたが、それも途中からで並び初めの頃はそれこそ炎天下だった。
ご覧の通り、丁度昼時になってしまい交替で売店から食べ物を買って来ては立ち食いをしている光景を良く見掛けたが、そう言う私も並ぶ前にお結びと海苔巻き寿司と生ビールを
買い、立ち食いをしながら並び順番を待った。
竹篭(?)の正体は、この様にひとつひとつが正確に竹で編み込まれていて、建物の外側を建物と距離を置いて竹篭(?)で建物を覆い尽くしているのだが、天井の方まで竹篭で出来ているので一体全体どれ程の竹を使ってこの篭全体が出来ているのか、知りたいと思った。とにかく大変な物量と労作であることには間違いはない。
外側の竹篭を支える支柱にも竹を何本も組み合わせて柱状にしていたが、恐らく上部の方は木材かスチール材で強度と剛性を保っているのではないかと思う。
所々に太い竹を束ねて荷重を受ける支柱を何箇所も見掛けた。とにかく、日本政府も日本の威信を掛けてこの巨大な構造物を作ったのだと思うが、これをつくる為に何本の竹を切り落としたか、自然環境保護をテーマとする万博の趣旨から少しクエスションの部分も感じられる。

そう言えば、グローバル・ループに張られた板材(数千万枚?)も万博終了後は何かに役立てる様に考えられているのだろうが、資源を無駄にして欲しく無いものである。
会場から北ゲートへの帰り道で、グローバル・ループ下の坂道に大勢の人達が並ぶ姿を見掛けたので写したが、何かのパビリオンの整理券配布待ちであろうか。5時半過ぎの夕方であるのに、一向に空いて来た様子は見られなかった。

この様にして、4回の愛・地球博ではすっかり会場内の事に詳しくなったけれど、万博が終わると壊され元の原野に戻るのだろうか。しかし自然環境にはそれが大切な事と思う。そして、愛・地球博が2005年に半年間愛知県で開かれ、成功裡の内に終了する事を此処に集った多くの人達と同じ様に(良き想い出として)大切にしたいと思っている。
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