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屋久島への旅
屋久島へ行く前日の14日の朝にバッテリ−トラブルがあり、出発しようとしたがエンジンが掛からず、指宿の道の駅の人にブースタ−ケ−ブルをつなぎエンジンを掛けさせて貰った。そこでその日はエンジンを極力切らずに走り幸いにして一日でバッテリ−が回復し翌日の朝エンジンが掛かった時は嬉しかった。そこで、早々に指宿港へ行き港で朝食を作り屋久島への最終確認と乗船券を手に入れて8時半の出航を待った。

処で、港で銅像を見掛けたが「濱崎太平次正房」と言い明治の指宿の豪商(貿易商)で川崎重工の創業者(川崎正蔵)が日本で初めて鉄鋼船を造った時に支援・薫陶をした人物で、今から乗るトッピ−はその川崎重工製の水中翼船なのだが
指宿港は船を待つ多くの熟年者達で満ち溢れていた。

全てが満席のトッピ−bP(赤色の船体)は8時半に指宿港を出航し、1時間15分で屋久島の宮之浦港に無事に到着した。
しかし、船内はこの春に鯨と衝突(?)し多数の怪我人が出た関係で、常時シ−トベルトの着用をアナウンスし、船員が何度も船内を見回っていたのが印象的だった。
宮之浦港に着き観光案内所を訪ねると、対応してくれた女性が大変親切に色々と教えてくれたが、何と言っても縄文杉は山の上に1本だけ有り往復に10時間は掛かるとのこと。
そこで、どうしても2泊しないと縄文杉を含めた観光は無理だと言う。

であればと思い午前中は港より北(志戸子)に在るガジュマル園(イチジク科の植物で根や幹同士が複雑に絡み合う珍しい木が沢山ある)へバスで行った時のそのガジュマルの木々が右の画像である。、

ガジュマル園を観てから一時間後の折り返しのバスで今度は港を通り過ぎ安房(あんぼう)迄行きそこでバスを乗り換えて紀元杉を観に行ったがそのバスを待つ1時間に指宿で買ったコンビニ弁当を食べ、その容器を近くにいた小母さんに処分を頼むと快く引き受けてくれた。

そして、バスを待つ間に散策していると林野庁の管理事務所が近くに在り訪ねて見ると、此処でも縄文杉へ行くには無理があると教えてくれた。そこで明日は縄文杉へ行くのを諦め、別ルートに縄文杉へ行くトロッコ道の途中にある「楠川分れ」から辻峠を登りその先にある白谷雲水峡へのコースを教えて貰った。その方が帰りのバスの便数が多く白谷雲水峡には樹齢3000年の「弥生杉」があることも教えてくれた。
紀元杉行きのバスに乗り換え標高1230mに有る推定樹齢3000年の紀元杉へ行って見たが、さすがにこの屋久杉は見応えが有った。そして、巨木の周りを鉄柵でひと回り観れる歩道が有り降りて見ると、この杉の幹の周りに色々な異なる小さな植物が根付いていて珍らしかった。でも、恐らく数百年以上前にこの屋久杉は上部が折れ、その後に杉自身が再生し他の木々達が寄り添いながら樹齢を重ねて来たのだろうと思う。

紀元杉を見た帰りのバスで運転手が道路脇にバスを停めて「あそこにいるのが屋久島の鹿」と教えてくれたり(私には2頭いると言う鹿の内の1頭しか見る事が出来なかったが)往復の屋久島交通のバスのその運転手が実に話し上手で、途中の観光ガイド役をしっかり引き受けてくれた。しかし、何しろ島で自活しなければならない生活からも納得の行く話しであり、さすがに運賃は割高だが紀元杉を観ることが出来て納得した

それから、再びバスに乗り換え屋久島空港の傍にあるホテルで一泊した。

  紀元杉の詳細(傍にある掲示板より)

  1.樹 高:19.5m
  2.胸高周囲:8.1m
  3.着生植物:ツガ、ヒノキなど15種類

空港発5時半の荒川登山口へのバスでホテルを出発したがそのバスの運転手は若い女性だった。そして雨の中を登山口へ着き、レインコ−トを着て出発すると右の様ななだらかなトロッコ道が続く。そして、この画像にもレ−ルの先に鉄橋が少し見えているがレ−ルとレ−ルの間に板が敷かれてはいるけれど深い谷が目に入ると思わず足がすくんでしまい思わずスリ足で渡る場面が結構多かった。そして、このトロッコ道はかつて屋久杉を運び出した軌道跡だがレ−ルゲ−ジを計ると670mmだった。しかし、1993年に世界自然遺産に登録される前からこの軌道は使われなくなったようである。

処で、荒川登山口の近くの道の脇に乗用車が多数駐車していたが恐らくレンタカ−を前日に借りて此処に車を置きその日は縄文杉の近くの山小屋に一泊してから翌日の船の時間に合わせ戻ってくるのだろう。何せ、帰りのバスは夕方の5時しかないのだから往復10時間掛かるとなると当然帰りが夕方になりその日の船には間に合わない計算になる。なるほど、土地の人達が普通の計画では日帰りは出来ないと言う訳だ。

途中今は廃校になった学校跡と小杉谷部落跡(右の画像)を見たりトロッコ道の鉄橋(木橋)では怖い思いをしたり最初は楠川分れを通り過ぎ3代杉まで行き、ガイドに聞いて戻ったりと色々と有ったが、「楠川分れ」で血糖値を計ると低くホテルで用意して貰ったおにぎりを早目に1個食べてレインコ−トの上も着て装備を整えて「辻峠」へ向けて出発した。

処で、この画像はかつて山深い此処に部落があり小中学校の分校があった小杉谷集落跡で、小屋の中にはこの部落の詳細が書かれた資料が掲示されていた。この様な所に人が定住していたとは驚きである。

「楠川分れ」を通り過ぎてその先にある三代杉まで行ったが、この杉は一代目が枯れてその上に2代目が生え、そして3代目も育ち親子孫三代が此の一本の杉として生きている珍しい屋久杉で、杉の近くに絵入りの説明看板が有った。

そして、この杉を観て更に其の先迄行こうかと思ったが次の杉迄がかなり先とガイドが教えてくれたので、再び楠川分れ迄引き返した。

処で、屋久島では多いところは年間一万ミリの雨が降る様で前日は晴れていたがやはりこの日の山中は雨がかなり降り続いてた。


此処が一度通り過ぎて三代杉から再び戻った「楠川分れ」の場所だが、前日「楠川分れ」から辻峠迄は険しい山道であることを聞いてはいたが、本格的な登山を始める前に血糖値だけは計り、2個目のおにぎりを早目に食べて辻峠を目指した

その辻峠(標高約950m)までの山道はご覧の通りの険しい登山道で、倒木が有ったり大きな一枚岩の下をくぐり抜けたりと連続した険しい山道が続いた。そして、何よりも心細かったのは誰一人とも行き会う人が居ない登山道で2度程道に迷い掛けながら、その時は方角と沢を流れる水音を確かめながら冷静に判断して登った。

しかし、そうした中で途中の湧水を見付けて思いっ切り飲んだ時はさすがに美味しくて、コ−ヒ−の空き缶に清水をためて何度も飲んだ。

処で、この道は江戸時代に整備されたもので、母親と子供達だけで屋久杉の薄い板(屋根の下材として当時使われた)を背負い町まで通った道で薩摩藩への年貢として収めた事が記されていた。

どうりで歩き易い様に石を敷き詰めた石段が所々に有ったが長い年月を掛けて整備されていったのだろう。

此処が標高950mの辻峠で観光案内所で貰った山道の所要時間より20分早くこの峠に到着した時はさすがに嬉しかった

しかし、30年以上も登山をしていない私はさすがに少し無謀だったかなあ・・・と感じた。

そして、頑張って辻峠まで登ったのは良かったが、白谷小屋迄の下り道で屋久杉の根っこにつまずいたりして、左の膝を悪くしたのには情けなかった。
此処はコンクリ−ト造りの白谷小屋(山小屋)から白谷雲水峡へ下る途中にあるくぐり杉で人一人が通れる不思議な屋久杉だった。そして、ここでもくぐり杉の向こうに絡み合う杉の根が見えているが、こうした根の上を歩くと良く滑って転び掛けたが案の定下りの方で膝を痛めてしまった。

そして、白谷雲水峡と言い降った雨が岩の間を勢い良く流れ落ちる景勝地で、そのバス乗り場へ11時に着き一休みして痛い足をかばいながら弥生杉を観に再び山登りを開始した。
この弥生杉は、白谷雲水峡から斜め後方を20分ほど登ったところに有ったが、結構な坂道で足が言う事を利かなず断念仕掛けたが、何としても観たいと思い歯を食いしばって登り、やっとの思いで樹齢3000年の大きな杉に出合う事が出来たそこで居合わせた女性にシャッタ−を押して貰ったが、足を我慢して登ったにしては明るい表情で撮れていた。

そして、其れからの下りも足をかばいながら歩き前日調べたバスより2便早いバスで宮之浦港に1時には着くことが出来たしかし、帰りの船は4時半なので遅い昼食を食べたり、屋久島の焼酎や屋久島杉の敷き板を買うなどして体を休めながら出発を待った。
(今も我家の玄関には、此の敷き板の上に有田で買った置き物の猫が私を出迎えてくれる)
 
弥生杉の紹介

    樹高:26メ−トル
    胸囲:8.1メ−トル
    標高:710メ−トル
帰りのトッピーは黄色(bR)の船だったが、乗船券は何故か赤色(bP)だったが、この船は種子島経由で指宿へ行く便で2時間も掛かってしまったが、運よく船上から種子島を見る事が出来、しかも船が島を出航した直後にたまたますれ違ったトッピ−bSが青色の船であることも分かった。

処で、この画像はトッピ−の2階の船内を撮ったものだが、
トッピ−は一階が153名で2階が107名の定員が260名の船だった。

トッピ−の紹介

・トッピ−とは→ 鹿児島地方の方言で「飛魚」のこと
・製造メ−カ−→ 川崎重工(神戸)
・定   員   → 260名〔153(1F)+107(2F)〕
・航行速度   → 80 km/h(MAX)
・構  造→ 海水をジェット噴射(ジェットフォイル)し推進する
        全没型水中翼船(bP〜bS)
            但しbQは鯨と衝突(?)し、現在修理中
今回の屋久島への旅は、出発前日のバッテリ−トラブルに
始まり、調査不足から縄文杉へは行けなかったこと。
そして、本格的な登山で低血糖に細心の注意をして(注意のし過ぎは無いと何度も血糖値を計った)慎重に行動したが、結果として現地では途方に暮れずに済んだことは良かったと思っている。

しかし、本来であれば旅行に出る前からキチンと調べて置くべきであって、この点が無計画過ぎたことを帰りの船の中で反省した。

更に、屋久島の山中に持って行ったビニール袋にしまっ資料などの一部が雨に濡れてしまい、今もビッショリ濡れて縮んでしまったノ−トなどが残るなどの失敗もあったけれどその時々をキチンと事前確認をしながら無事に終えることが出来た事を嬉しく思っている。

右は再び指宿に戻った時の画像だが、帰りの船は種子島で10人ほどの人が降りたけれど、満席ではなく私の隣も空席だった。

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