第七話
次の日、いつもの明るい笑顔を取り戻したセイラが、あたしのところへやって来た。
座に着くなり、珍しくセイラが人払いの合図を送ってきたので、ピンときたあたしは、そばにいた女房の桔梗(ききょう)を退がらせた。
桔梗は、久しぶりに会うセイラともっと話がしたそうにしていたけど、あたしににらまれて不承不承(ふしょうぶしょう)引き下がった。
桔梗には悪いけど、あたしにだって、いくら腹心の女房とはいえ聞かれたくないことだってあるもんね。
御簾(みす)をはさんで二人だけになると、セイラは、コホンと一つせきばらいをした。
「おとといの夜はずいぶん世話になったね、綺羅(きら)姫。おかげであの夜はぐっすり眠れたよ。ありがとう」
思ったとおり、セイラはそのことを口にした。
涼やかな声音で、セイラに『――ありがとう』なんて言われて、あたしはなんだかこそばゆかった。
「フフッ。セイラの寝顔、かわいかったわよ」
そう言うと、セイラの頬にポッと赤みがさした。なんだか照れてるみたい。
「あ、あの時は、もう五日ほど…いや六日だったかな、眠ってなかったものだから、私もそろそろ神経がまいりかけていて……」
「六日も――!?」
あたしは、開いた口がふさがらなかった。
いくら怖い夢を見たくないからといって、そんなに眠らずにいられるものかしら?
神経がまいるどころの話じゃないわ。身体がどこかおかしくならなかったほうが不思議なくらいよ。
「どうしてもっと早く言ってくれなかったの、セイラ!?そんな無茶なことして、身体をこわしてたかもしれないのよ!」
六日前というと、ちょうど右大臣邸の宴にセイラが招かれた頃だわ。
翌朝帰ってきたセイラは、確かに顔色が悪そうだったけど、あたしはてっきり、二日酔いのせいだとばかり思ってた。
そういえば、その頃だわ。セイラが宴を遠慮したいと言い出したのは……。
あれは、お酒に酔って眠ってしまうのが怖かったからなのね。
「まさかそんなことになってるなんて知らなくて、あたしは、眠れないっていっても二、三日くらいだろうって……」
セイラはきまり悪そうに苦笑した。
「それくらいなら、いつものことだから、どうってことはないんだけど……」
「いつものこと――?」
「うん。それで、綺羅姫にもみっともないところを見せてしまったね」
気恥ずかしそうな顔をして、そっぽを向いているセイラを見るのも、珍しいことだった。
あたしは、セイラとの距離が、あの夜のことで少しだけ縮まって、以前よりもっと飾らない素顔を見せてくれているような気がして、なんとなくうれしかった。
「気にすることないわよ、セイラ。記憶の手がかりを探す手伝いができなくて、あたしも気に病んでいたとこだったの。だから、少しでもセイラの役に立つことができて、あたしもうれしかったわ」
それを聞くと、セイラは心のつかえが取れたように、晴れ晴れとした笑顔を見せた。
紫色の瞳が、日の光を浴びて、キラキラと明るく輝いている。
「よかった!それで、そのお礼というわけじゃないんだけど、綺羅姫もずっと邸の中にばかりいて退屈そうだったから、たまには外へ連れ出してあげたいと思ってね。今日、清水寺の縁日だって聞いたんだけど……」
「清水寺の縁日――!?連れてってくれるの?もちろん行くわ!」
御簾の中からたまらずに飛び出してきたあたしを見て、セイラはクスクスと笑った。
「そう言うと思ったよ。それで問題は、綺羅姫の参詣(さんけい)のお許しを頂くことだけど……私から権大納言殿か北の方に申し上げて――」
「その必要はないわ!」
あたしは即座に言い切った。
「父さまや母さまなんかに話したら、やれおしたくがどうのこうのって始まって、見てるこっちが恥ずかしくなるくらい大がかりになってしまうに決まってるもの。それよりも、あたしが邸を抜け出す方が簡単よ。時折、歌のご指導をしていただいている式部卿の宮の祐(すけ)姫さまのところに歌合せに出かけるって言えば、誰にも怪しまれずに邸を抜け出せるわ。それでなくたって母さまは、日頃から口癖のように、やれもっとお歌の勉強をしなさいだの、筝(そう)のお琴の練習をしなさいだのってうるさいんだから」
あたしは、なにがなんでも行くって決めていた。
セイラと二人で縁日に行けるなんて、こんなチャンスはめったにないもの。
誰がなんて言ったって、絶対行ってやるわ!
「じゃあ、それで決まりだね」
セイラは、早口でまくしたてるあたしを見て、吹きだしそうになるのをこらえながら肩を震わせた。
「綺羅姫は邸を出たら、車を裏手の目立たないところにとめて置いてくれないか。私と真尋はその後から行くから」
「えっ、まひろ?」
あたしはきょとんと目を丸くした。
「ああ、ほんとは篁(たかむら)も誘いたかったんだけど、篁は今日、宮中でどうしてもはずせない用事があるらしくてね」
「そう……」
急に元気をなくしたあたしを見て、セイラは篁が来られないせいだと思ったみたい。
「まあ、篁にはそのうち、二人だけでどこかに連れて行ってもらうんだね」
そう言ってにこにこ笑っているセイラが、あたしは少しうらめしかった。
セイラって、人に対する気配りはすごく細やかなのに、こと女の子の気持ちに関しては、まるっきり鈍感なのよね。ふうっ……。
セイラが部屋を出て行くと、あたしは桔梗(ききょう)を呼んで、さっそく車の用意をさせた。
表向きは、式部卿の宮邸まで歌合せにでかけるとよそおいつつ、それでもひとりでに頬がゆるんでくるのを無理やりこらえながら、邸の門を出た後、裏手にある大きな欅(けやき)の木陰に車をとめた。
しばらくすると、人が近づいてくる気配がして、車の前簾(まえすだれ)がぱっとめくれあがった。
「あっ、やっぱりいたね、姉さん。姉さんならきっと来ると思ってたよ」
現れたのは、わが愚弟の真尋だった。
相変わらず、にへらっとしまりがない顔をしている。
「セイラは?」
「ああ、セイラはね……」
真尋は思い出したように、クスッと鼻で笑った。
「また例によって烏帽子の中に髪の毛がおさまりきらなくってさあ、手間取ってたようだけど、もう少ししたら来ると思うよ」
「そう。だったらちょうどいいわ。真尋、あんたに話があるの。清水寺に着いたらね、あんたは急に腹痛を起こすのよ。それで、先に一人で帰ってくるの。いいわね」
「えーっ!なんでだよぉ。ぼくだって、縁日に行くの楽しみにしてたんだよ!」
真尋は不服そうに頬をふくらませて、唇を突き出した。
「あんたはお邪魔虫なの!それくらいわかるでしょ。少しは気を利かせなさいよ。それに、セイラとしょっちゅう出かけてるんだから、今日くらい遠慮したってバチはあたらないわ!」
あたしはビシッと言ってやった後で、ツンと横を向いた。
真尋なんかについて来られたりしたら、せっかくのセイラとの、二人だけのいい雰囲気が台無しにされてしまうじゃない。
真尋は、あたしの頭ごなしの態度が気に入らなかったのか、ムッとした顔でにらんで、とんでもないことを言い出した。
「――セイラは、姉さんのことを好きにはならないよ!」
「なっ……!?」
なにをバカなこと言い出すのよ――って言おうとして、あたしはそれを飲み込んだ。
真尋の哀れむような目が、じっとあたしを見つめていた。
「セイラはね、篁ともすごく仲がいいんだよ。普段、ぼくたちみたいな公達(きんだち)は、身分の似通った者としか付きあったりしないものだけどさ。まあ、セイラの場合は特別だけどね。ただ者じゃないって感じだしさ……。でも、あの二人はえらく馬が合うっていうのか、いつも一緒なんだ。そりゃあ、セイラを助けたのが、篁と姉さんだってこともあるかもしれないけど……。姉さんは、その篁の一応婚約者なわけだしさ。だから、セイラが姉さんを好きになるなんてありえないよ。仲のいい篁を裏切るようなこと、あのセイラがするわけないもの」
「わ、わかってるわよ!そんなこと――!」
まさか愚弟の真尋に、ここまで言われるとは思わなくて、あたしは、自分でも思ってもみなかった大声で怒鳴っていた。
「あっ、あたしはただ……そう、縁日の参詣がてら、久しぶりにセイラと二人でゆっくり話がしたいなあって思っただけよ。あんたが一緒だと、落ち着いて話もできないんだもの……で、どうなの、真尋?もし嫌だって言うんなら――」
あたしはニッと笑って、反撃を開始した。
「あんたの憧れの薫(ゆき)姫さまや祐(すけ)姫さまに、あたしからあんたのこと言いふらしてあげたって……」
「わかったよ!姉さんの言う通りにするよ。ちぇっ!」
真尋は、あたしに脅されてしぶしぶ承知した。
薫姫さまというのは高階(たかしな)大納言の二の姫で、あたしは二、三年前まで筝の琴を習っていた。
その頃、熱を出して寝込んだあたしを見舞ってくださった薫姫さまを、真尋が偶然見かけて、それ以来ずっと憧れ続けている。
祐姫さまは、当代一、ニの歌才と謳(うた)われる、才媛として名高い式部卿の宮の大姫(一の姫)で、あたしのお歌の先生でもあった。
お二方とも妙齢の(未亡人でいらっしゃるけど、御齢まだ二十歳を二つか三つぐらいしか過ぎていないはずだわ)、都きっての美人と評判の方々で、年下の、官位もまだ五位の侍従の真尋なんぞには、まず手の届くはずのない方々だった。
真尋にしたって、摂関家の流れをくむ名門の家柄で、権大納言家の嫡男なんだから、家柄という点では不足はないんだけど、こういうのって家柄だけじゃどうしようもない、釣り合いっていうものがあるのよね。
本人も本気で結ばれるとは思ってなくて、半分以上あきらめてるから、心の中でひそかに憧れてるだけなんだけど、そのことを知られるのはやっぱり気がひけるみたい。
要するに、真尋の完璧な片思いだった。
脅したのは、ちょっとかわいそうだったかなって気もするけど、この際、そんな甘いことは言ってられないもんね。
それにしても、男ってどうして一度に何人もの女を好きになったりできるのかしら。
今の世の中、それが当たり前だなんて父さまは言うけど、あたしだったら絶対我慢できないわ。光源氏はしょせん、女の敵よ!
好きな人には、自分だけを見ていてほしいって、女の子だったら誰だって思うわ。
そう、たとえ最初(はな)っから叶わない想いだって、わかってたとしても……。
真尋もあたしも妙に押し黙ってしまって、車の中に、なんとなく気まずい雰囲気がただよいはじめた頃、ようやくセイラが姿を現した。
「遅くなってごめん。扇を探すのに手間取ってしまって……あれ?二人とも黙り込んでどうしたの?」
あたりがパッと明るくなるような、華やかな笑顔を急に向けられて、あたしは、その場を取りつくろうためにあわてて言い訳をした。
「なんでもないのよ。ただ、真尋がちょっと、お腹の具合がよくないっていうもんだから、心配してたとこなの」
「へえー、真尋が?さっきまではそんなこと言ってなかったのに、急に痛み出したの?大丈夫かい?」
真尋は、あたしの方を恨みがましそうに見ながらも、どうにか話を合わせてくれた。
「うん。大丈夫……だと思うよ。もう少しの間はね」
「もう少しの間?」
扇ごしの真尋のつぶやきを聞いたセイラは、怪訝(けげん)そうな顔をしていた。
車が清水寺に通じる石段の前に着くやいなや、それまでおとなしくしていた真尋が、お腹をおさえて大仰な声をあげはじめた。
「あいたたた……、痛――!」
「どうした、真尋!?」
突然騒ぎだした真尋に驚いて、セイラは血相を変えた。
「お腹が……ううう……痛い!痛いよう!」
あたしは見ていてはらはらした。
これじゃ、大根役者もいいとこだわ。わざとらしいのが見え見えじゃない。
「まあー!真尋、どうしたの?さっき具合がよくないっていってたとこが、また痛み出したのね?それじゃ、参詣なんてとても無理だわ。急いで邸に帰った方がいいわね。あたしたちのことは気にしなくていいのよ。後で迎えの車をよこしてくれればいいから」
真尋の下手な演技が、セイラにばれないことを祈りながら、あたしは懸命に言いつくろった。
真尋は、なおも身体を二つに折ってひっくり返ると、大げさに足をバタつかせている。
「そんなに痛むの、真尋?だったら、とても一人で帰すわけにはいかないよ。綺羅姫、悪いけど縁日は次の機会ということでいいかな?真尋のようすが心配だ。誰かついていてあげないと……」
どうやら、セイラは本気で真尋のことを心配してるみたい。
こんな下手な演技を本気にするなんて、セイラって案外だまされやすいタイプなのかしら?
それにしても、真尋のバカ!大げさにやり過ぎよ!
これで本当に三人とも帰る羽目になったら、どうしてくれるのよ!
あたしはセイラの見ていないところで、真尋の脛(すね)を思いっきりつねってやった。
「ギャア――!!」
「真尋、大丈夫か!?しっかりしろ!すぐに邸に連れ帰って、薬師を呼んでやるからな」
「あっ、いや、違うんだセイラ。それほどでもないよ」
真尋は涙を浮かべながら、必死で弁解した。
「それほどでもない?……なに言ってるんだ!こんなに痛がってるじゃないか」
「そうじゃないよ。急に姉……いや、なんとなく差し込みがしたような気がしたもんだから……」
「急に、なんとなく……?」
セイラは、わけがわからないといった顔をしている。
あたしは、扇の陰で思わず目をつぶった。
もう、真尋ったら!言ってることが滅茶苦茶じゃない!
「でも、もう落ち着いてきたから大丈夫だよ、セイラ。邸には一人で戻れるよ」
「あの、セイラ。真尋もそう言ってることだし、一人でも大丈夫よ、きっと。だから、また痛みださないうちに、早く真尋を帰してあげましょうよ。ねっ」
「う、うん……」
納得のいかない顔をしながらも、やっとのことでセイラは車を降りた。
「ほんとに、真尋一人で大丈夫かい?」
車を降りた後も、まだ気になるのか、セイラは前簾をはねあげて中のようすをうかがっている。
「うん。ぼくは大丈夫だからさ、二人で楽しんで来てよ。姉さんを頼むよ、セイラ」
「ああ、わかった」
真尋を乗せた網代(あじろ)車は、からころと冴えない音を立てて遠ざかって行った。
――真尋、ごめんね。あんたってやっぱり、姉おもいのいい弟だわ。
振り向くと、石段の上の方からは、あたしたちを誘うようなにぎやかな音が、盛んに聞こえていた。
◇ ◇ ◇
セイラと綺羅姫の姿が、縁日でにぎわう境内の人ごみにまぎれていった後、見覚えのある一輛(りょう)の質素な牛車が、石段の前に止まった。
その車から立ち現れた人影は、口元にうっすらと笑みを浮かべて、二人の去って行った方を興味深げに眺めていた。
広い寺の境内には、庶民に入りまじって貴族や地下(じげ)人、はてはどこかのお邸づとめの女房風といった、さまざまな階層の参詣人が大勢つめかけていた。
その参詣人を目当てに、あちらこちらに露店が立ち並び、境内は結構なにぎわいをみせている。
「セイラ!ねえ、セイラってば!」
綺羅姫は、セイラの狩衣の袖口をつかんでは、さっきからしきりに引っ張っていた。
その日のセイラの装束は、権大納言の北の方からぜひにと贈られた、菫重(すみれかさね)のすっきりとした狩衣姿だった。
綺羅姫はといえば、歩きやすいように小袿(こうちぎ)をはしょってからげる壺装束の格好で、市女(いちめ)笠にむしの垂衣(たれぎぬ)をかけて顔を隠している。
邸を出る時にはなかったそれらの物は、どうやら前もって桔梗が車の中に用意してあった物らしい。
もの珍しそうにあたりを見回していたセイラは、何度も呼ばれて、ようやく後ろを振り返った。
「えっ、なんだい?綺羅姫」
綺羅姫は、あたりをはばかるような小声でセイラに耳打ちした。
「扇よ!顔を隠すの、忘れてるわよ」
「あっ、そっか!」
セイラは、手にしていた扇に目をやった。
それを開きかけては、考え直したように、またパチンと閉じてしまった。
「やっぱりいいよ。こんなところで顔を隠している方がずっと不自然だよ。瞳の色までじろじろ覗き込んで見る人なんか、そうそういないさ。大丈夫、誰も気づきっこないよ」
「それが、そうでもないみたいよ」
綺羅姫は、まわりの視線が、さっきから自分たちに向けられていることに気づいていた。
自分たち、というよりも、それはどちらかというと、セイラ一人に向けられていた。
――やっぱりね……。
綺羅姫は、フーッとため息をついた。
――たとえ、瞳の色に気づかなかったとしても、セイラって人目を引きすぎるのよ。まるで、これぞ美形―!っていう理想をのみで刻んだような顔立ちをしてるもの。これで目立たないわけがないわよね。セイラは、そういうことにはまるっきり無頓着で気づいてないから、それがよけいに困りものだわ。
「あたしは、篁や真尋みたいに、セイラの手を引っ張って駆けっこなんてできないわよ」
「ははは…。あれは篁と真尋が走って逃げ出したりしたからさ。逃げる者は、誰だって追いかけたくなるものだろ?それに、殺気だった連中が多い市と違って、ここはお寺の境内だよ。ここに来ている人は、みな善男善女ばかりさ」
その時、和やかな縁日の雰囲気を打ち壊すような癇声(かんせい)が、先の方であがった。
「盗っ人――!だっ、誰かその男を捕まえておくれ!誰か――っ!」
その声に追われるように、セイラと綺羅姫のいる方に向かって、一人の男が猛然と駆け出してきた。
その後ろからは、露店の商(あきな)いをしていたらしい年老いた媼(おうな)がよろよろと追いかけてくる。
「善男善女ばかりぃ?」
思わずそうつぶやいた綺羅姫は、突進してきた男を避けようとしてセイラにしがみついた。
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