第八話


「善男善女ばかりぃ?」

 思わずそうつぶやいた綺羅(きら)姫は、突進してきた男を避(さ)けようとしてセイラにしがみついた。

 男は、その横をまたたく間にすり抜けていく。

 セイラは素早く小石を拾い上げると、逃げていく男に向かって投げつけた。

 小石は、目にもとまらぬ速さで男の背中に命中した。

 ビシッという音がしたと思うと、男はまるで鋭い矢に射抜かれでもしたように、

「グホッ!」

 と声をあげてのけぞった。

 その衝撃のすさまじさは、男の体が一瞬宙に浮いたかと思われるほどで、背中を奇妙な逆くの字に曲げたまま、男は前のめるように倒れた。

 地べたに這いつくばった後も、苦しくて息ができないのか、口をパクパクさせてもがいている。

 セイラは倒れた男のところへ走っていくと、手にしていた小袋を取り上げた。

 まわりにいた人々は、一体なにが起きたのかわからないといったようすで、遠巻きにそれを見ている。

 だが綺羅姫だけは、目の前で起きた出来事に、信じられないものを見た思いだった。

 たった小石一つで、大の男を倒してしまう――そんなことが普通の人間にできるものだろうか……?

 綺羅姫が茫然と見守っている間に、セイラは取り戻した小袋を、追いかけてきた媼(おうな)に返してやっていた。

 小袋の中には、どうやらその日の商いの売上銭が入っていたらしい。

 盗賊はいつの間に起き上がったのか、もうどこかへ消えていた。

「どちらのお方かは存じませぬが、ありがとうございました」

 媼は何度も頭を下げて、感謝の気持ちをあらわした。

「お礼と申しても大したことはできませぬが、このようなものでよろしければ、どうぞ召し上がってくだされ」

 そう言って、媼は大きな蒸団喜(むしだんぎ)を四つ五つ、笹の葉に包んできてセイラに手渡した。

「やあ、これはうまそうだな。ありがたくいただきますよ」

「こちらの市女(いちめ)笠の娘さんにも、お一つどうぞ」

 媼は、綺羅姫にも蒸団喜を手渡すと、何度も何度も腰をかがめて礼を述べては立ち去っていった。

「あのお婆さん、目が悪かったみたいね。セイラのこと、最後まで気づかずに行っちゃったわ」

 綺羅姫がクスッと笑うと、

「でも、これで真尋(まひろ)へのお土産ができたね」

 意味ありげに片目をつぶってみせたセイラに、綺羅姫はギクッとした。

「あっ、あら、真尋はお腹をこわしてるから、お団喜なんて食べられないと思うわ」

 セイラはほがらかな笑い声をたてた。

「あはははっ。あれは仮病だろ?それくらいわかるさ」

「知ってたの、セイラ!だって、本気で心配してたんじゃない?」

「はじめのうちはね、半信半疑だったさ。もし本当に病気だったりしたら大変だからね。でも真尋は嘘をつくのがあまり上手い方じゃないし、言ってることもどうもおかしかったから、すぐにわかったよ。ただ、あれほど縁日に来るのを楽しみにしてたのに、どうして仮病なんか使うのか、その理由がわからなかったから、お芝居に付きあってたのさ。大方、綺羅姫が真尋になんか言ったんだろ?」

 綺羅姫のこめかみのあたりを、たらーっと一筋冷や汗が流れた。

 やはりセイラはあなどれないと思いながら、ふと横を見ると、五、六歳くらいの童と、それよりもう少し年かさの女の子が、セイラの手もとをじっと見上げていた。

 セイラも、すぐに二人に気づいてその場にしゃがみ込んだ。

「これが欲しいのかい?」

 女の子がコクンとうなずいた。

 セイラはにっこり微笑むと、持っていた蒸団喜を二人に分けてやった。

 二人の童は、うれしそうな顔をして走り去った。

「真尋へのお土産、なくなっちゃったわね」

「うん。それもあるけど、ちょうど私もお腹がすいていたとこだったんだ」

 セイラは、綺羅姫の持っている蒸団喜をチラッとのぞいた。

 そのしょんぼりした情けなさそうな顔がなんとも言えず、綺羅姫はつい声を上げて笑ってしまった。

 蒸団喜を半分に分けあって食べながら、綺羅姫は、童心に返ったように楽しそうなセイラの横顔を見つめていた。

 こんなに陽気でくったくのないセイラを、見たことがないと思った。

 そこかしこで珍しい物を見つけては、くるくると移り変わる感情を素直に映しだす瞳を見ていると、これが、記憶をなくす前の本当のセイラなのかもしれないという気がした。

「こうやって外で歩きながら食べるのって、ちょっとお行儀悪いけど、家で食べるよりずっとおいしいわね」

「ああ。私も一度、こんなことをしてみたかったんだ」

 そう言って、最後の一かけらをポーンと口の中に放り込んだ。

「そういえば、桔梗(ききょう)と仲のいいセイラ付きの女房の小菊(こぎく)が心配していたそうよ。セイラの食が細すぎるのは、この国の食べ物が口に合わないからじゃないかって」

「そんなことはないよ。充分おいしくいただいてるよ。小菊(こぎく)が心配性なだけさ」

 他愛のない話をしながら、セイラはいつになく上機嫌だった。

 それを見つめる綺羅姫の胸も、幸せな気分で満ち足りていた。

「でも、お酒は苦手なんでしょ?」

「あれはね、飲みすぎると目がまわって気分が悪くなるんだ」

「ねえ、他にセイラの苦手なものってあるの?」

「うーん。吉野の山荘で飲まされた薬湯かな」

「まあ。お薬が嫌いだなんて、セイラって案外子供っぽいのね。フフッ」

「そういえば、小さい頃、熱を出して寝込んだとき、薬を飲まないで全部捨ててしまって、後でひどく叱られたことがあったっけ」

 はっとして、綺羅姫はセイラを見上げた。

 今、セイラは自分の記憶を話している!

 だが、当のセイラは、そのことにまったく気づいているようすがない。

 ――セイラの記憶が戻ったのかしら!?

 綺羅姫は、つとめてさり気ないふうをよそおって尋ねてみた。

「へえー。叱られたって、誰に?」

「それはもちろん、ユ……!?」

 突然、セイラの声が途切れた。

 瞳が大きく見開かれて、唇がわなわなと震えている。

 なにかを言おうとするのだけれど、次の言葉がどうしても出てこない――そんなふうに見えた。

 硬直したようにその場に立ち尽くすセイラの表情が、次第に苦痛にゆがんできて、うっとうめき声をあげると、両手で頭を抱え込んだ。

 途端に、足元がよろよろっとよろめく。

「セイラ、しっかりして!」

 綺羅姫はとっさにセイラの肩を支えて、そのまま近くの木陰まで連れていった。

 ――やっぱり、セイラは記憶を取り戻したわけじゃなかったんだわ。

 木の幹にもたせかけるようにしてセイラを座らせながら、綺羅姫は、せっかくの楽しい雰囲気をぶち壊してしまったことを、心の中で激しく後悔した。

「頭痛がひどいのね?待ってて。今、お水をもらってくるわ」

 止めようとする間もなく、慌ただしく綺羅姫が駆け出していくと、セイラは力尽きたようにぐったりとうなだれてしまった。

 しばらくそうしていると、目の前に、誰か人の立つ気配がした。

「ずいぶんとお加減が悪そうだ。これをお使いなさい」

 うつむいて、額に手を当てているセイラの目の前に、水で濡らしてある小布(こぎれ)が差し出された。

「これは、助かります」

 顔をあげる気力もないセイラは、相手をよく確かめもせずにそれを受け取った。

 冷たい小布を額にあてると、心なしか痛みがすーっとひいていくような気がした。

「ご気分はいかがかな?」

 声の調子から察すると、まだ年若い貴族と思われる男が、セイラを気づかって心配してくれているようすが、それとなく伝わってきた。

「ええ、おかげでだいぶ楽になりました」

「そうですか。それはよかった」

 男の声には、とても他人事とは思えないような、心からの安堵の響きがあった。

 それから間もなくして、綺羅姫が小走りに駆けてくる足音が聞こえた。

 大きく息を弾ませながら走ってきた綺羅姫は、一杯の椀を両手で大事そうに抱えていた。

「ちょうどよかったわ。すぐ近くに岩清水が湧いていたの。さあセイラ、冷たくて気持ちいいわよ」

「ありがとう。綺羅姫」

 セイラは弱々しく微笑んで、差し出された椀を受け取り、岩清水を一口含んだ。

「あら、その小布はどうしたの?セイラ」

 セイラは、握りしめていた小布に目を落とした。

「ああ、これかい?これはこちらの方がご親切に……」

 そう言って顔をあげた先には、誰の姿もなかった。

「そんな!さっきまで、確かに人の気配があったのに……」

 セイラは狐につままれたような思いで、あたりをキョロキョロと見まわした。

「とにかく、その方が貸して下さったんだよ。私は気分が悪くてずっと下を向いてたから、名前も顔もわからずじまいだったけど……。どうやらこれ、返しそびれてしまったみたいだな」

 綺羅姫は、小布をセイラから受け取って、まじまじと見つめた。

「これは生絹(すずし)じゃない!結構身分のある人がつかう、上等な代物よ」

「うん。そんな感じだったな。でも、この人込みからじゃ、その方を探しようがないね」

 セイラはあきらめ顔で、広い境内の雑踏を眺めやった。

「そんなことよりセイラ、気分はどう?」

「ああ、だいぶよくなったよ。この小布と岩清水のおかげかな。頭痛もおさまってきたみたいだ」

「そう。よかった……」

 ほっと一息ついた綺羅姫は、気になっていたことを、思い切って口にしてみた。

「あのね、セイラ……さっき、なにか思い出しかけたんじゃないの?」

「うん……」

 うなずいて、セイラはひどく思いつめた顔をした。

「あの時、なにか言いかけたのは確かなんだ……誰かの、名前を……」

 放心したように虚空を見つめていたセイラは、不意に、苛立ちをあらわにして激しく首を振った。

「だめだ!やっぱり思い出せない!」

「セイラ……」

 がっくりと肩を落としてふさぎこんでしまったセイラを、綺羅姫は悲しい目で見つめた。

 そこにいるのは、もうさっきまでの陽気なセイラではなく、記憶を失った異邦人という現実に引き戻されたセイラだった。

「でも、お薬は昔から苦手だったって、それだけでもわかったじゃない。そうやって少しずつ思い出していけば、そのうちきっとなにもかも思い出せるようになるわよ。ねっ、セイラ」

 セイラは、片頬に寂しそうな笑みを刻んだ。

「そうだね……」

「あのねっ、さっき岩清水を汲みにいった時、向こうの方でお猿が芸をしてたのよ。面白そうだったから、これから見にいってみましょうよ」

 綺羅姫は強引にセイラの腕をとると、瞳を覗き込むようにして笑いかけた。

 その笑みにつられて、セイラの瞳にも、少しだけ生気が戻った。

「よし、行ってみよう」

 猿回しは、たいていは正月の縁起物として各地を回っていたが、時々は、こういう縁日などのような人の大勢集まる場所でも催されることがあった。

 滑稽な猿のしぐさやとんぼ返りは、見物人の笑いを誘い、上々の人気を呼んで、周囲にはかなり大きな人垣ができていた。

 その一番外側から見物していたセイラと綺羅姫は、その時、頭上からかすかに聞こえる童の泣き声に気づいた。

 二人が振り仰いだ視線の先には、先ほどの女の子が、高い松の木の枝にしがみついて泣きじゃくっていた。

 泣きながら、それでも鞠(まり)を大事そうに抱えているところを見ると、どうやら鞠遊びをしていて、その鞠が、松の枝に引っかかってしまったのを取り戻そうとしてよじ登ったものらしい。

 猿回しに興じていた人々も、二人三人と泣き声に気づいて上を見上げはじめた。

「あれ、あんなところに女の子がいるぞ!」

「一体どうやって、あそこまでよじ登ったんだ?」

 あたりがざわざわと騒ぎはじめた頃、一人の商人(あきんど)烏帽子をかぶった男が、血相を変えて松の幹に取りつき、よじ登ろうとした。

 おそらくは、女の子の父親だろうと思われた。

「すず――っ、今助けてやる!動かないで、そこでじっとしていなさい!」

 だが、下枝をきれいに切り落とされた松の幹には取りつくような枝もなく、五、六歩よじ登っては、すぐに滑り落ちてくるばかりだった。

 気を利かせた誰かが梯子(はしご)を持ってきてやったが、女の子がいる枝まではとうてい届きそうにない。

 本当に、どうやってそこまでよじ登ったものか、女の子がしがみついている枝は、お堂の屋根よりも高いところにあった。

 固唾(かたず)を飲んで見守っていた者の間からも、かわりによじ登って助けてやろうと言い出す者もなく、徐々にあきらめの雰囲気がただよいはじめ、万策尽きた商人が頭を抱えてしまったのを見て、綺羅姫は矢も盾もたまらず、セイラにつめ寄った。

「セイラ!あの女の子はセイラがお団喜をあげた子でしょ?なんとかして、助けてあげられないの?」

 それまで成り行きを見守っていたセイラは、視線を綺羅姫に引き戻すと、フーッとため息を漏らした。

「それは、助けてあげられることはあげられるけど……」

「えっ、ほんと!セイラ」

 綺羅姫の顔が、パッと明るく輝いた。

「だけど、私が目立っちゃいけないって言ったのは、綺羅姫じゃなかったっけ?」

 紫色の目に、冷やかすようないたずらっぽい光が躍っている。

「なに言ってるの!このままじゃ、あの子は枝から落ちて死んじゃうかもしれないのよ。そんなこと言ってる場合じゃないわ!」

 むきになって言いつのる綺羅姫を見て、セイラはクスクスと笑いだした。

「それにしてもあの子は、大人でも登れないのに、よくあそこまで登ったものだ。まるで、綺羅姫を小さくしたようなお転婆だね」

 セイラにからかわれているとわかって、綺羅姫は真っ赤になった。

 知らず知らずに、声が大きくなってくる。

「セイラ!助けてあげるの、あげないの!?」

 セイラは、ひょいと肩をすくめた。

「やれやれ、今日は人助けの多い日だ」

 そう言って、体をほんの少しかがめると、軽く地面を蹴った――そう、綺羅姫には見えた。

 次の瞬間、頭上を振り仰いだ綺羅姫の目に映ったのは、宙を舞うように斜めに横切って、女の子のしがみついている枝にトン、と腰をおろしたセイラの姿だった。

 松の枝が、セイラの重みで、わずかにたわんで揺れている。

 まわりで見ていた者の間から、一斉に、

「オオ――ッ!!」

 という驚きの声があがった。

 いきなり現れたセイラにびっくりして、泣き声も止んでしまった女の子に、セイラはやさしく話しかけた。

「私を覚えているかい?」

 女の子はぽかんと口を開けたまま、素直にうなずいた。

「それはよかった。じゃあ小さな綺羅姫、下におろしてあげるから、しっかり私につかまっているんだよ」

 にこやかなセイラの笑顔に、女の子の気持ちもほぐれたのか、もう一度うなずくかわりに小さな口をとがらせた。

「あたし、きらひめじゃないわ。すずっていうのよ」

 セイラはカラカラと笑った。

「ごめんごめん。それではすず姫、どうぞ私にしっかりとおつかまりください」

「きんだちのおめめ、とってもきれいね」

「それはどうも」       

 にこっとほほえんで女の子を抱えたセイラは、松の枝からフワアッと宙に身を投げ出した。

 その瞬間、見守っていた人々の口から、きゃー!ともうわあー!ともいえない悲鳴が上がった。

 あの高さから飛び降りたのでは、二人とも地べたに叩きつけられたに違いないと、誰もが想像した。

 だが、人々が目をおおっている間に、セイラはいとも軽やかに地上に舞い降りていた。

 その一部始終を見ていた者は、すぐには声もなく、ただ息を呑むばかりだった。

 次の瞬間には、激しい好奇の目がセイラに向けられた。

 まるで奇跡のような跳躍力を見た者にしてみれば、セイラは神仙の類と見えたかもしれない。

 菫(すみれ)色の狩衣(かりぎぬ)を涼しげに身にまとい、遠目からでもはっきりそれとわかる秀麗な容貌のこの貴公子は、一体どこのなに者なのか――誰もがそれを知りたくてうずうずしているような目つきだった。

 助けられた女の子は、

「今度からは、こんな無茶しちゃいけないよ」

 と、セイラに頭を撫でてもらうと、父親のもとに一目散に駆け出していった。

 セイラはなに事もなかったかのように、綺羅姫のところに戻って来た。

 だが、人々の視線が、前にも増して痛いほどセイラに集中しているのがわかると、綺羅姫は小声でひそひそとささやいた。

「セイラ、やっぱりまずい雰囲気よ。囲まれそうにならないうちに、人目をさけて裏道を通って行きましょう」

「ああ。このようすじゃ、参詣(さんけい)するのはもう無理のようだしね」

 セイラはぐるりと周りを見まわすと、深々とため息をついた。


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