第七十五話


 ――もう晴明(せいめい)のところへ行ってはいけない。

 セイラにはそう言われたが、ナギの足は止まらなかった。

 このまま引き下がるわけにはいかない。

 危険な相手だとわかっていても、ひとこと言ってやらなければ気がおさまらなかった。

 屋敷の前で立ち止まり、怒りに燃えた目を上げて乗り込もうとした時――

「死にたいのか、おまえ!」

 声の主(ぬし)にむんずと腕をつかまれ、一足(いっそく)飛びにナギは小路(こうじ)に連れ込まれた。

「離せよ!誰だ、おまえ……あっ!」

 そこにいたのはグェン――嵯峨宮(さがのみや)だった。

 縹(はなだ=青)色が透(す)けて見える白の直衣(のうし)を着て、烏帽子(えぼし)をかぶっている。

 敵意をむき出しにするナギに、グェンは冷たい視線を送って、


「私はもうセイラさまの敵ではない。ナギ…と言ったな。あの屋敷になんの用がある?」

 ナギはなおも警戒(けいかい)心をほどかず、グェンをにらみつけた。

「オレは……晴明にだまされていた!阿黒王(あくろおう)に乗り移られて、セイラさまや都のみんなを苦しめ……クッ、あいつに利用されていたんだ!そんな晴明をオレは許さない!」

 握(にぎ)りしめたこぶしがぶるぶる震えているのを、グェンは無言で見つめた。

「晴明は屋敷にいない。ついさっき出ていった。あそこにいるのは、留守(るす)を任(まか)された式神(しきがみ)どもばかり……そんなに殺気(さっき)立って門をくぐったら、式神どもの餌(えさ)になっていたところだぞ」

「オッ…オレだって強い!式神くらい倒してみせる!」

「ほう。両の手にあまる数の式神を、おまえひとりでか?これは見ものだ」

 冷笑されると、ナギはカッと頬(ほほ)を赤らめた。

「式神に用があるわけではないだろう。出直(でなお)してくるんだな。あの晴明に、おまえの愚痴(ぐち)を聞く気があればの話だが……気がすんだら帰れ。おまえに気をとられたせいで時間を使いすぎた。早く追わなくては……」

「オレも、オレも一緒に行く!」

「おまえが……?」

 グェンは眉(まゆ)をしかめ、突き放した目でナギを見つめた。

「行ってどうする?」

「あいつの尻尾(しっぽ)をつかんでやる!オレにだってできることはある!」

 敵(かな)わない相手と知りながら、なおも食い下がろうとするナギの激しい目に、グェンは自分を見た思いがした。

「フッ。おまえ、似てるな」

「似てる?誰に……?」

 グェンは答えず、上空に小さな光球を飛ばした。

「晴明は牛車で出かけた。今ごろはかなり先まで行っているはずだ。急がなくては……おまえ、飛べるか?」

「飛ぶ?いや、オレは……あああ!」

 あっという間に、ナギはグェンに手を引かれ、空に浮かぶ防護膜(ぼうごまく)の中に納(おさ)まっていた。

「これ、セイラさまが乗せてくれたのと同じだ」

 驚いて目を見張(みは)るナギに、グェンはふんと鼻を鳴らした。

「アストリアの能力者なら誰でもできる。初歩中の初歩だ」

「こんな明るい昼のうちに飛ばしていいのか?みんなに見られたら騒ぎになるんじゃ……」

「聞かなかったのか?これには光学迷彩(こうがくめいさい)をほどこすことができる。人の目に触(ふ)れることはない」

 言うなり、グェンは防護膜を急発進させた。

 晴明の牛車(ぎっしゃ)は、まもなく見つかった。

 碁盤(ごばん)の目のように、整然と区画(くかく)された都の六条大路を、東へと向かっている。

「都から出てしまう。どこへ行く気だ?」

 ナギの疑問は、じきに明らかになった。

「東山……?」

 着いた先は、紅葉で彩(いろど)られた東山連峰の主峰(しゅほう)如意ヶ嶽(にょいがたけ)の登り口だった。

 晴明はそこで牛車を降り、すたすたと山を登っていく。

 その姿は、樹々の葉に隠れすぐに見えなくなってしまった。

 それを見届けると、牛車は主(あるじ)を待たずに帰っていく。

「オレたちも追いかけよう!」

 先を急ごうとするナギの横で、グェンは迷(まよ)っていた。

 ――こんなところになんの用が……?

 追跡(ついせき)されていることを知ったザフの罠(わな)かもしれない――そう思うと、うかつに飛び込んではいけないような気がした。

「なにを企(たくら)んでいる……?」

「そんなこと、行ってみればわかる!グズグズしてたらあいつを見失ってしまう、嵯峨宮!」

 それを聞くと、グェンはむっとして、

「グェン…私の本当の名はグェンだ!」

 だが、防護膜は前進してすぐに止まった。

 なにか目に見えない障害物にぶつかったような感じだ。

 まわりこんで山に入れるところを探そうとするが、上空はもとより入り口はどこにも見つからなかった。

 とてつもなく大がかりな結界(けっかい)が張られていることは確かだった。

 あきらめて、元の場所に戻ってきたグェンとナギは防護膜を出た。

「どうなってるんだ、これ!なんでオレたち、山へ入れないんだ!?」

 苛立(いらだ)ちをぶつけてくるナギに、グェンも不機嫌な声で応じた。

「結界が張られている。しかもかなり広範囲にわたって……」

「ケッカイ…って、なんだ?」

「山へ入れないようにしてある見えない壁(かべ)のことだ。気になるなら、前に出て触(ふ)れてみるんだな」

 言われたとおり前に出ていくと、いきなりなにかに顔をぶつけた。

 玻璃(はり=ガラス)のように透(す)けて硬質(こうしつ)な手触(てざわ)りで、山の景色ははっきり見えているのに、叩(たた)いてもびくともしない。

「これがケッカイ……」

 途方(とほう)にくれるナギの後ろから、その時大きな声がした。

「そこをどいてろ!」

 振り返ると、両の手にまぶしいほどの気を充満(じゅうまん)させたグェンがいた。

「以前は傷ひとつつけられなかったが、これだけ大きなものなら強度も弱くなっているはず……」

 グェンの手から、立て続けに閃光弾(せんこうだん)が放たれる。

 それは結界をわずかにたわませただけで、あえなく消滅(しょうめつ)した。

「まだだ!これなら――っ!」

 両腕いっぱいの特大火球が、結界に向かっていく。

 ドォーンという炸裂(さくれつ)音と地響(じひび)き、もうもうと立ち上る煙(けむり)――

 だが、結界は依然(いぜん)としてそこにあった。

「あんたでも、駄目(だめ)なのか……」

「クッ!」

 歯ぎしりして悔(くや)しがるグェン。

 その姿が、ナギに闘志(とうし)を与えた。

「なら、オレがやる!」

 胸の前で両手を合わせ、精神を集中させていくナギのまわりに気が集まり、光の繭(まゆ)を形づくる。

「森よ…森の精霊よ!わが求めに応じて大いなる力を示せ――!」

 大地が鳴動(めいどう)し、ざわざわと樹々が揺(ゆ)れ動く。

 閉じた目をカッと見開いて、ナギは命令を下(くだ)した。

「ケッカイを壊(こわ)せ!」

 すると、森の樹々が目に見える速さで成長をはじめた。

 それは天に向かい、左右に枝をのばして結界を埋(う)め尽(つ)くしていく。

 その力に、グェンは目を見張った。

「なぜ、結界の中の木が……?」

 見ると、ナギの足元一帯の地面が細かく波打っている。

「そうか!その手があったか!」

 樹々は内側から徐々に、しかし確実に結界に圧力を加え続け、やがて――

 一本の太い枝が、結界の壁(かべ)を差し貫(つらぬ)いた。

 そのとたん――

 樹々が一斉(いっせい)に背伸びをはじめ、折れ曲がっていた枝を広げていく。

「結界が解(と)けたぞ!」

 歓喜の声を上げるグェンに、ナギは誇(ほこ)らかに笑ってみせた。

「考えたな。地面の下を通って結界の中に気を送るとは……まさか内側から壊されるとは、晴明も思っていなかったろう」

「森は土から生まれ、土に還(かえ)る。森は土でつながっている。祖父(じい)さんがよく言ってた」

 ナギの笑顔は、しかしすぐに凍(こお)りついた。

 結界が解けた森の入り口に、ひとりの男が立っていた。

「晴明――っ!!」

 近づいてくる晴明を睨(にら)みつけて、ナギは手を合わせた。

「森の精霊よ――!」

 たちまち、樹々の枝が紐(ひも)のようにのびてきて、晴明の身体をぐるぐる巻きに縛(しば)り上げる。

 かと思われた瞬間――

 晴明の手から放たれた火炎で、枝はすべて焼き払われてしまった。

「やれやれ、炎はあまり使いたくないのです。新しい狩衣(かりぎぬ)に火の粉が飛んだら大変ですからね」

 晴明は着ていた狩衣を隅々(すみずみ)まで見まわすと、顔を上げてグェンに目をとめた。

「友は選ばないといけませんよ、ナギ。そんなヨルギア人といるから、乱暴なまねをするようになるのです」

「こっ、こいつは友なんかじゃない!たまたま一緒になっただけだ!」

 ナギは顔を赤らめて反論し、晴明に怒りの目を向けた。

「でもあんたよりはましだ。こいつはこいつなりに、セイラさまとの約束を守ろうとしているけど、あんたは話を聞く振りをして、オレをだました!」

「術者(じゅつしゃ)は孤独なもの――私はそう言いませんでしたか?人の言葉を簡単に信じないように、私は試練(しれん)を与えたつもりだったのですが……」

「クッ…試練てなんだ!オレは都を焼き、多くの人を殺した!おまえは、阿黒王がオレの力になってくれるって言った。でも本当は、オレの方が阿黒王に利用されていただけだった。おまえは……全部知っていたんだ!阿黒王がどんなやつか、なにをやろうとしてたか……」

 晴明は戯れ言(ざれごと=冗談)を聞いていたかのように、カラカラと笑った。

「そんな泣き言を言いに、わざわざここまできたんですか?無口なあなたにしては、よくしゃべりましたね。気がすんだならもうお帰りなさい。私もなにかと忙しい身……これから先、あなたの出番はありませんよ」

「な……」

 背筋(せすじ)が凍るような冷酷(れいこく)な視線に射(い)すくめられて、ナギは言葉を失った。

 晴明の右手が上がり、照準(しょうじゅん)が定められる。

 その時でさえ、なにが起ころうとしているのかナギには理解できていなかった。



   


「危ない――!」

 叫ぶより先に、グェンの身体(からだ)が動いていた。

 ナギの頭部を狙(ねら)った閃光(せんこう)が、グェンの頬(ほほ)をかすめる。

 危(あや)ういところを助けられたナギは、ハッとして我に返った。

「おまえ、血が……」

「かすり傷だ。すぐ治(なお)る」

 言葉の通り、グェンが頬に手を当てると傷はすぐに消えた。

 ナギを抱(かか)えて大木の幹(みき)に身を隠したグェンは、相手の出方をうかがいながら、

「ぼさっとしているひまはない。これがあいつの正体だ。愚痴(ぐち)を言えば、あやまってもらえるとでも思っていたか?」

 ナギは返す言葉もなく、唇(くちびる)をかみしめた。

「オレは、ただ……」

 ――こいつについて、こんなところまできて……オレは、なにをしたかったんだろう。

「自分がしたことを、誰かのせいにしたかったか?」

 言いながら、グェンは大木が晴明の閃光(せんこう)にあとどれくらい耐(た)えられるだろうと考えていた。

「阿黒王(あくろおう)に、晴明にだまされていた。だから自分は悪くないと……」

「セイラさまはそう言ってくれた」

 ――だから、晴明に仕返(しかえ)ししてやろうと思った。オレがこんなに苦しいのは……。

「でもそうじゃない。そうじゃないんだ!オレが弱かったから……弱いくせに、誰かの力を借りて強くなろうとしたから……だから、罰(ばち)が当たったんだ!」

 うなだれて肩を震(ふる)わせているナギの心の痛みが、グェンには手に取るようにわかった。

 どれだけ後悔(こうかい)しても、過ぎた時間は戻らない。

 叶(かな)うことなら――

「だったら、弱い自分になにができるかを考えるんだな。今しなければならないことは、やつの攻撃をかわして無事に邸(やしき)まで帰ることだ。いくぞ!」

 ナギを小脇(こわき)に抱えたまま、グェンが大きく跳躍(ちょうやく)したその時――

 大木が倒れ、閃光が雨あられと降り注(そそ)いできた。

「いつまでも逃げ隠れしてないで出てきたらどうです、ヨルギア人。あなたとの決着もまだついていませんでしたね。いい機会ですから、ここで葬(ほうむ)ってあげましょう」

 晴明の挑発(ちょうはつ)を聞くと、グェンは樹上から下りてナギから手を離した。

「ここにいろ。死にたくなければ……」

「あいつに、勝てるのか?」

 心配そうなナギの顔を見つめ、グェンは無言で歩き出した。

 勝てるのか――と言われれば、自信はない。

 ここに来たのは闘(たたか)うためでなく、晴明の動きを探(さぐ)るためだった。

 冷静に考えれば、結界(けっかい)が張られているとわかった時点で引き返すべきだったろう。

 力づくで結界を解こうとしなければ、晴明に気づかれることもなかった。

 だがこうなってしまった以上、ナギを無事に帰すことがなにより優先される。

 そのためなら――

「よろしい。覚悟はできましたか?」

 林の中から現れたグェンを見て、安倍晴明は目を細めた。

「その前に聞いておくことがある。ここでなにをしていた?」

「それをあなたに言う必要がありますか?」

 晴明はくすくすと笑って、

「まあ、いいでしょう。特別に教えてあげますよ。実は、ある方を紅葉狩りの宴(うたげ)に招待したのです。如意ヶ嶽(にょいがたけ)の紅葉は、今が一番美しい時期ですからね。今日は、宴席を設(もう)ける場所の下見にきたというわけです。おわかりいただけましたか?」

「それが本当なら、なぜ結界を張る必要がある?」

「仕事の邪魔(じゃま)をされたくないからですよ。私は、途中(とちゅう)で仕事の邪魔をされるのがなにより嫌いなんです。あなたのような輩(やから)にね」

 手のひらから浮き上がった円盤(えんばん)が、青白い光を放つ。

 身体を麻痺(まひ)させてしまうその光を予期(よき)していたかのように、グェンはやすやすとかわした。

「同じ手が何度も通用するものか!」

「なら、これはどうです?」

 晴明は呪文を唱(とな)え、おびただしい数の呪符(じゅふ)を飛ばした。

 グェンは身をかわしながら、次々にそれを焼き払っていく。

 ――が、一枚の呪符が足の上に落ちると、グェンの動きが止まった。

「クッ!」

 呪符に気をとられた、その時――

 グェンの身体は、またたく間に襲来(しゅうらい)する呪符に覆(おお)われてしまった。

 身動きできなくなったグェンの内側で、急速に気が高まっていく。

 次の瞬間、全身から噴(ふ)き出した炎が呪符をことごとく焼き払った。

 ――この距離では不利。

 そう判断したグェンは、接近戦に持ちこもうとした。

 一挙(いっきょ)に相手の懐(ふところ)に飛び込んでみぞおちをえぐり、体勢を崩(くず)したところで頸椎(けいつい)に蹴(け)りを入れる。

 そのもくろみは、あと一歩のところでシールドに撥(は)ね返されてしまった。

 すかさず放った閃光が、左右から放物線を描いて晴明を狙(ねら)う。

 上空に逃れた晴明を、追尾(ついび)する閃光。

 だが、左右にわかれていた閃光が一体となったことが、晴明の攻撃を容易(ようい)にさせた。

 呪文を唱(とな)え、裂(れっ)ぱくの気合とともに手を打ち合わせる。

「破(は)っ――!」

 爆音(ばくおん)がとどろき、もうもうと立ち上る煙が視界を遮(さえぎ)った。

 その一瞬の隙(すき)をついて、グェンは晴明に迫(せま)り顎下(がっか=あごの下)にこぶしを打ち込んだ。

 血反吐(ちへど)を吐(は)いてのけぞり、宙を舞うように落ちていく晴明を、矢つぎ早に真空波が襲(おそ)う。

 切り刻(きざ)まれる晴明の姿を予想(よそう)して、グェンは笑みを浮かべた。が――

「手ごたえがない、だと……?」

 その時、薄れゆく煙の向こうから青白い光がグェンを照らした。

「うっ、これは――!」

 身動きもできず落ちていくグェンの目に、中空で嘲笑(あざわら)う晴明が映(うつ)った。

 地面が急速に近づいてくる。

「グェ――ン!」

 すぐ近くで、ナギの声が聞こえた。

 ――あいつ、来るなと言ったのに……。

 麻痺(まひ)を解こうと焦(あせ)るグェンの身体がふいに持ち上がり、赤や茶色の分厚い落ち葉の上に乗った。

 ふぞろいな楕円(だえん)の形をしたそれは、ナギが風の精霊を呼び出して作った、空飛ぶ落ち葉の敷物(しきもの)とでも呼べるものだった。

「間に合った!ここから逃げるぞ。風よ、オレたちをお邸まで運べ!急げ!」

「な、ぜ……」

 その声に振り返ったナギは、はじめてグェンの異常に気づいた。

「どうしたんだ、おまえ?身体が……動かない、のか?」

「ああ……」

「あいつにやられたんだな。だったらそこでじっとしていろ。オレがあいつを振り切ってやる!」

 だが、晴明はそれ以上追ってこなかった。

「ナギ、もう…いい。この辺で……降りよう」

 鴨川(かもがわ)に差しかかった頃、麻痺の解けはじめたグェンが身を起こしながら言った。

「都の中では……これは、目立ちすぎる」

「……わかった」

 ナギは、人気のない鴨川のほとりに落ち葉の敷物を下ろした。

 まわりの落ち葉に溶け込んで敷物はさほど違和感を感じさせず、並んで座っていると、二人はのどかに紅葉を楽しんでいる都人のように見えた。

「身体は、もう動かせるのか?」

「ああ。心配はいらない」

 グェンはそう言って、さっきまでの闘(たたか)いを思い出し、膝(ひざ)の上のこぶしをグッと握(にぎ)りしめた。

「私は動くなと言ったはずだ。どうして出てきた?」

「ふん。セイラさまならともかく、なぜオレがおまえの言うことを聞かなければならないんだ?」

 ナギはそっぽを向いて、チラッとグェンを見た。

「おまえが……落ちてくるのを見たら、とっさに風の精霊を呼んでた。考える間もなかった」

 その言葉に、グェンは胸を衝(つ)かれた思いがして川面(かわも)に視線を移した。

「助かったよ。あのまま闘っていたら私は……」

 一瞬浮かんだ怯(おび)えの色を拭(ぬぐ)い去って、グェンは考えを巡(めぐ)らせた。

「晴明は……ザフはあそこでなにかを企(たくら)んでいた。なにか、人に見られては困るようなものを山の中に仕掛(しか)けようとしていた……でなければ、わざわざ結界を張る必要もない。だとしたらその相手は……」

「当然、セイラさまだろ?」

 グェンはうなずいて、勢いよく立ち上がった。

「邸に急ぐぞ!」


       
    


 オルフェウスが時空間航路の異常を知らせてきたのは、その日セイラが参内(さんだい)から戻ってすぐのことだった。

「先ほど時空遡行(じくうそこう)機の警告音が鳴りました。時空間航路が変容(へんよう)をきたしはじめています」

 青ざめたオルフェウスの顔が、事の重大さをなにより物語っていた。

「航路が変容?……どういうことだ?」

「航路に歪(ひず)みが生じているのです。理由として、ある時間軸から検知(けんち)された微量な重力が、長期にわたって航路に影響を及ぼし続けたことがあげられています。今のところそれほど大きな変容ではありませんが、歪みが広がっていけば航路そのものが使えなくなる可能性があります」

 航路が使えなくなる――それはセイラやオルフェウス、グェンが元の世界に帰れなくなることを意味していた。

 大きく見開かれたセイラの目が、やがて半眼に閉じられ冷静さを取り戻していく。

「微量(びりょう)な重力……変だな。その時間軸(じかんじく)の正確な地点は……?」

「現在の時間軸から三年前、場所はこの都です」

「三年前……ザフがやってきた頃か。その頃なにが……」

 瞬間、セイラの脳裏(のうり)に閃(ひらめ)くものがあった。

「安倍晴明だ!ザフは、晴明も時空間航路に隠していたんだ!」


  
次回へ続く・・・・・・  第七十六話へ   TOPへ