第七十話


 ――私が皇子(おうじ)にほどこした記憶の封印(ふういん)は、それほど長続きするものではなかったんですよ。

 セイラの頭の中を、その言葉だけが幾度も繰り返し巡(めぐ)っていた。

 安倍晴明(あべのせいめい)――ザフの言うことが本当だとしたら、なぜいまだに記憶が戻らないのだろう?

 それとも、他にもっと別の理由があるのか……?

 母屋(おもや)から前庭に出る階(きざはし=階段)に座って、セイラはひとり頭を抱(かか)えこんだ。

 その時――

「いいお月さまね、セイラ」

「綺羅(きら)姫……」

 突然声をかけられて驚くセイラに、綺羅姫はペロッと舌を出して、

「勝手にきちゃってごめんなさい。でも桔梗(ききょう)が、今夜は十三夜だっていうもんだから、簀子縁(すのこえん)に出てお月見してたの。そしたら、セイラの姿が見えて……」

「かまわないよ。少し考え事をしてただけだから」

 それを聞くと、綺羅姫はセイラのとなりに腰を下ろした。

「十三夜ってね、『後(のち)の名月』って言うんですって。中秋の月の次にきれいなお月さまだからですって。言われなければ気にもしなかったけど、こうして見るとほんとにきれいね。吸いこまれそうなくらい……」

「綺羅姫、そろそろ言おうと思っていたことがある」

 思いつめた表情でセイラにそう切り出されると、綺羅姫はビクッとした。

「こ…こうしていると、吉野のお山に二人でいた時のことを思い出すわね」

 なにか言わなければ……。

 このイヤな空気を打ち消すような、なにか楽しいこと……。

「あの頃は、いつも一緒で……毎日が楽しくて、驚くことばかりで……あれからいろんなことがあったけど、あたしね、今が一番幸せよ!きっと、セイラの側にいるからだと思うわ。長くはないから……わかってるから……こうして過ごす一日一日が、とても大切に思えてくるの。ご飯だって、いつもよりずっとおいしいわ」

「綺羅姫、もう邸に戻った方がいい」

「いやよ――!」

 綺羅姫は即答(そくとう)した。

 その目にこみあげてくる涙を見ていられず、セイラは顔をそむけた。

「私は……綺羅姫にずいぶん残酷(ざんこく)な仕打(しう)ちをしてしまった。綺羅姫の…気持ちをわかっていながら、それを利用したんだ。悲しい思いをさせることはわかっていたのに……自分の目的のために……どうか許してほしい。そしてもう、綺羅姫が本当にいるべき場所へ――」

「あたしがここへきたのは、自分がそうしたいと思ったからよ!セイラに言われたからじゃないわ。そう言ったでしょ。あたしたち結婚するんだから……ここがあたしの居場所よ。他に帰る場所なんてないわ!」

 綺羅姫は立ち上がって、一気にまくし立てた。

「セイラが、あたしのこと嫌いになったんなら、そう言って。その時は、ここを出て尼(あま)になるわ。尼になって……尼になって……毎日呪(のろ)ってやるんだから……」

 消え入りそうな声で言う綺羅姫の肩が震(ふる)えている。

 それを見ると、セイラは激しい後悔に襲(おそ)われた。

 立ち上がって、思わず綺羅姫の肩を抱きしめる。

 とたんに、気づかない振りをして、胸の奥に押しこめていた想いが溢(あふ)れ出してきた。

「ごめん、綺羅姫。篁(たかむら)にもあれだけ言われていたのに……私は二人を失うのが怖くて、綺羅姫の気持ちにも自分の気持ちにも向き合おうとしていなかった。今、それがわかったよ」

「セイラ……」

「もう、帰れとは言わない。ここにいてくれ、綺羅姫」

 風が吹いて、セイラの髪が綺羅姫の顔を覆(おお)い隠(かく)すように舞い上がる。

 二人の顔が重なり合い、唇(くちびる)が触(ふ)れそうになった時――

「セイラさま――!お団喜(だんぎ)食べよっ!」

 真純(ますみ)の声に、二人ははっとして振り向いた。

 団喜をのせた衝重ね(ついがさね=供物をのせる台)を持った真純が、無邪気に笑いながら簀子縁を駆(か)けてくる。

「お月さまにお供(そな)えしたら、真純も食べていいって!セイラさまも一緒に食べよっ!」

 その笑顔につりこまれて、セイラの顔にも笑みが広がっていく。

「私はいいから、綺羅姫と食べなさい。桔梗(ききょう)も呼んでおいで」

「はーい!」

 衝重(ついがさ)ねをおいて、駆けだそうとした真純がふと足を止めて、

「あれ、綺羅姫さま……なんか怒ってる?」

「怒ってないわよ!早く桔梗を呼んできなさいよ!」

「う、うん……」

 真純が駆けていくと、綺羅姫は気をとりなおして笑いかけた。

「あのね、セイラ……」

「セイラ殿、こんなところにおられたか!」

 母屋の廂(ひさし)の間と、階(きざはし)の上の簀子縁を仕切(しき)る御簾(みす)がめくれ上がって、護純(もりすみ)が顔をのぞかせた。

「月見と言えばこれこれ……なにはなくとも、これがなくてははじまりませんぞ!」

 両手には瓶子(へいし=酒を入れて注ぐ器)と土器(かわらけ=盃)を携(たずさ)えている。

 のしのしと大股(おおまた)で簀子縁を横切って、護純はあっという間にセイラの横に座を占(し)めた。

「まずはセイラ殿から、一献(いっこん)」

 土器をセイラに差し出して、有無を言わさず酒を注(そそ)ごうとした時――

「護純殿!少しは控(ひか)えていただかなくては困ります!お供(そな)えもせずにいただいては、バチが当たりますよ!」

 楷(かい)の小言が、後を追いかけてきた。

「家令(かれい)殿、固いこと言わずにあんたも一緒に飲もうや」

「いいえ、私は結構(けっこう)です!セイラさま、こちらでよろしければ、廂(ひさし)の間からお供え物をお持ちしますが……」

「ああ……そうだね」

 セイラは月を見上げて、綺羅姫に微笑(ほほえ)みかけた。

「ここの方が 月がよく見える」

「そうと決まったら一献まいりましょうぞ、セイラ殿」

 土器をセイラにおしつけて、護純が酒を注いでいると、突然綺羅姫が衣(ころも)のすそをひるがえした。

「あたし、部屋に戻るわ!」

「なんだ、姫さんはおかんむりか?まあ、二人でいるとこを邪魔したのは悪かったと思うが……」

「そっ、そんなんじゃ!」

 綺羅姫はカーッと頬(ほほ)を赤くした。

 ――み、見すかされてる……。

「せっかくの月見だ。ここはみんなで一緒に楽しもうや。なあ!」

 護純にそうなだめられても、綺羅姫は意地になっていた。

 ――だって……だってセイラが悪いのよ。女心ってもんをぜんっ!ぜん!わかってないんだから……。あたしのこの、中途半端なトキメキをどうしてくれんのよ!

 と、その時――

「おいで、綺羅姫」

 差しのべられたセイラの手に、綺羅姫は心ならずも引き寄せられていった。

 握(にぎ)られた手のぬくもりが、ささくれだった心を和(やわ)らげていく。

 ――あたしってば、バカみたい。少しでもセイラに触(ふ)れていたいなんて……。

「おっ、あれは真純と女房(にょうぼう)殿か?」

 東の対屋(たいのや)から簀子縁を伝ってくる二人の姿を、護純が目ざとく見つけた。

「セイラさま――!桔梗のお姉さん、連れてきたよ!」

 栗(くり)や豆などのお供え物が並べられ、釣(つ)り灯籠(どうろう)の下、邸の者だけでのささやかな月見の宴が催(もよお)された。

 気心の知れた者同士のなごやかな時が流れていき、月が高く昇りはじめた頃、

「ナギ、早く帰ってこないかな……」
 
 団喜を食べながら真純がつぶやいた言葉に、セイラも綺羅姫もハッとした。

「なっ、なあに……そのうちひょっこり帰ってくるさ」

 護純は真純に、ナギは山へ術の修行にいったと話していた。

 セイラから聞かされた話では、ナギは真純の力の暴走(ぼうそう)を抑(おさ)えようとして、阿黒(あくろ)王を呼び出してしまったらしい。

 その阿黒王に身体(からだ)を乗っ取られたとは、さすがに言えなかった。

 阿黒王は、あれ以来姿を見せていない。

 神剣の光を浴びて消滅(しょうめつ)したとは考えにくかった。

 ナギが帰ってこないことが、なによりそれを証明している。

「そう言えば、オルフェウス殿の姿が見えないが……」

 きょろきょろとあたりを見まわす護純に、セイラはぽつりとつぶやいた。

「オルフェウスには、あることをさぐってもらっている」

「それって、危ないこと?」

 綺羅姫が眉(まゆ)を曇(くも)らせると、セイラはにこりとした。

「オルフェウスに、危ないことなんてないさ」


   


 六道寺(ろくどうじ)――

 都の墓所(ぼしょ)、鳥辺野(とりべの)に至(いた)る道筋にあるこの寺には、不思議な曰(いわ)くがあった。

 寺の裏庭にある井戸が、冥界(めいかい)に通じているというものだった。

 いつしか井戸は使われなくなり、水が干上(ひあ)がった井戸には大石が積まれ、しめ縄(なわ)が張られている。

 夜半(やはん)過ぎ、その古井戸の前にたたずむ人影があった。

 と――

 突然しめ縄がちぎれ、大石が浮き上がって周囲に落下した。

 空(うつ)ろになった井戸の奥底に、人影は威丈高(いたけだか)に呼ばわった。

「吾(われ)は東国の阿黒王、都に復讐せんとする者。吾に従い、都を滅(ほろ)ぼさんとする者は出でよ!」

 その声に応(おう)じて、幾十いや幾百もの幽鬼(ゆうき)が、井戸の底から飛び出してきた。

「これで、兵はそろった」

 阿黒王は、見る者がぞっとするような陰惨(いんさん)な笑みを浮かべ、号令(ごうれい)を下した。

「時はきた!今宵(こよい)こそ昔年(せきねん)の恨(うら)みを晴らそうぞ!」



   
  


 寝静まった都の上空に、濃密(のうみつ)な妖気(ようき)が流れ込む。

 雲のように分厚いその妖気は、よく見ると幽鬼(ゆうき)の群(む)れでできていた。

 その上に仁王立(におうだ)ちになっているのは阿黒王(あくろおう)。

 傲然(ごうぜん)と眼下(がんか)を睥睨(へいげい)している。

 やがて朱雀大路(すざくおおじ)までくると、妖気の雲は、巨大な怪鳥(かいちょう)のように急降下を開始した!

「あれは――っ!」

 最初に気づいたのはオルフェウスだった。

 安倍晴明(あべのせいめい)の動向(どうこう)を探(さぐ)るため、屋根の上から人の出入りをうかがっていた時、ただならぬ気配を感じて夜空を見上げた。

 そこに、幽鬼の群れが迫(せま)っていた!

 防御壁(ぼうぎょへき=シールド)を張る間もなくたちどころに取り囲まれ、獲物(えもの)にありつこうとする幽鬼の群れに、オルフェウスはなす術(すべ)もなく埋(うず)もれていった――

 嫌な予感に駆(か)られて、セイラは飛び起きた。

 部屋の中は真っ暗で、物音ひとつ、虫の音(ね)ひとつしない。

 静かすぎる――と、セイラは思った。

 嫌な予感はつのる一方だったが、なにかあった時には、オルフェウスが知らせてくることになっていた。

 そのオルフェウスからの連絡はまだない。

「まさか、オルフェウスに限って……」

 外に出て、邸のまわりを見渡してみる。

 月は西に傾(かたむ)いているが、夜の闇はまだ深い。

 その時、都の南側から生臭(なまぐさ)い風が運ばれてきた。

 風には、禍々(まがまが)しい妖気さえ漂(ただよ)っている。

「いったい、なにが起こっている……?」

 はやる気持ちをおさえきれずに、飛んでいこうとした時――

「お待ちください、セイラさま!」

 闇を切り裂(さ)いて下り立ったのは、オルフェウスだった。

 長い黒髪が乱れて、息が荒くなっている。

「オルフェウス!無事だったのか……なにがあった?」

「阿黒王が現れました。おびただしい数の幽鬼を扇動(せんどう)して、人々を襲(おそ)っています。私も不覚(ふかく)をとりましたが、ご心配にはおよびません」

「おまえが――!?そうか……はじまってしまったか」

「襲われた者は身体(からだ)を乗っ取られ、阿黒王のもとに集結しています。今のところその数は二百人ほどですが、これからもっと増えると思われます」

「都人(みやこびと)を人質に……ナギの時と同じか。クッ!それでは、下手(へた)に手が出せない!」

「幽鬼が襲っているのは都の南側に集中していますが、身体を手に入れ阿黒王のもとに集った者は、みな異様(いよう)な目をして北へ向かっています。もうすぐここにもやってくるでしょう。今のうちに、お邸(やしき)に結界(けっかい)を張っておくべきかと……」

「邸に…?いや、結界を張るのは別の場所だ。北へ向かっているということは……」

 セイラは手早く着がえをすませると、急いで護純(もりすみ)に事情を話し、オルフェウスを伴(ともな)って南へ飛んだ。

 上空から都を見渡すと、立ち上る妖気が霞(かすみ)のように見える。

 中でも、人々が寄り集まっている六条(ろくじょう)朱雀大路(すざくおおじ)のあたりに妖気(ようき)が密集していた。

「あれが、幽鬼が乗り移った阿黒王の軍勢(ぐんぜい)というわけか。数が――!?」

「はい。あれからさほど時がたっていないのに、百人ほどは増えているでしょうか」

「急がなくては……まだ幽鬼が入りこんでいないのは――」

 セイラは、妖気が立ち上りはじめている五条をあきらめ、四条から北側の都全体を覆(おお)う大規模(だいきぼ)な結界を張り巡(めぐ)らした。

「おまえはこのことを篁(たかむら)に知らせてくれ。篁には、私のかわりに帝にご報告申し上げるように……やつらは光に弱い。内裏(だいり)に厳重(げんじゅう)な警戒(けいかい)をしき、幽鬼を見つけたら倒(たお)せないまでも火で追い払うよう伝えてくれ」

「わかりました。セイラさまはどうなさいますか?」

 セイラは懐(ふところ)から神剣を取り出し、朱雀大路に群(む)れている人々を刀身(とうしん)で指し示した。

「阿黒王ひとりを倒せたとしても、あの幽鬼の群れは厄介(やっかい)だ。私は、あそこにいる都人を元に戻す!」

 オルフェウスが北に向かうと、セイラは南に目を向け、目から燐光(りんこう)を発している人々の前に下り立った。

 突然、行く手に現れた圧倒的な波動(はどう)を前にして、群衆が一斉(いっせい)に後ずさる。

 その群衆の手には、斧(おの)やナタなど物騒(ぶっそう)な得物(えもの=武器)が握(にぎ)られていた。

「穏(おだ)やかじゃないね、そんな物を持って……内裏を襲うつもりでいるなら、ここから先へは進ませないよ!幽鬼は幽鬼らしく、根の国(ねのくに=死者の国)へ帰るがいい!」

 セイラが神剣を掲(かか)げると、刀身は空に向かってのびていき、真昼のような光があたりを照らした。

 燦燦(さんさん)と降り注(そそ)ぐ光に、いち早く身の危険を感じた幽鬼が、蜘蛛(くも)の子を散らすように逃げ去る。

 が、後方にいた幽鬼には、その寸刻(すんこく)すら与えられなかった。

 前方の幽鬼が四散(しさん)して目の前が開け、唐突(とうとつ)に降り注がれた強烈な光に逃げることもかなわず、次々と浄化(じょうか)され消滅(しょうめつ)していった。

 幽鬼から解放された人々が道端に倒れ、朱雀大路を埋(う)め尽(つ)くしていく。

「半分は、逃げられたか……」

 セイラは落胆(らくたん)して、神剣を元の長さに戻した。

 それから四方を見渡して、

「……変だな、阿黒王の気配(けはい)がない。おとなしく引き下がったとも思えないが……」

 胸にわだかまる嫌な予感を、セイラは無理やり振り払った。

「なら、逃げたやつらが戻ってくる前に……」

 倒れている人々のところへ歩み寄って、セイラは左手から柔(やわ)らかな光を放出した。

 光を浴(あ)びた人々の顔に生気(せいき)が戻り、意識を取り戻していく。

「ううっ…わしは、どうしてこんなところに……」

「オレ、夢を見てるのかな?それにしては、この土の感触(かんしょく)……」

「あなた方は、幽鬼に取り憑(つ)かれていたんです」

 困惑(こんわく)する人々に、セイラはありのままを告(つ)げた。

「幽鬼…って、もののけ…のようなものか?」

 恐る恐る尋(たず)ねる男に、セイラはうなずいて、

「幽鬼は浄化されましたが、このあたりには、あなた方の身体に入りこもうとしている幽鬼がうようよしています。再び取り憑かれたくなければ、四条より北へ行きなさい!」

 セイラが四条と五条の境目(さかいめ)に張り巡(めぐ)らした結界は、人ならざる者に反応するようしかけられていた。

 したがって、人が往来(おうらい)する分には、結界の存在はまったくと言っていいほど感じられなかった。

「おい、北へ行けってよ」

「あれ、セイラさまだろ?すげぇ美人だな!オレ、はじめて見た」

「うん……」

 話しかけられた男は、心もち頬(ほほ)を赤らめ、

「そっ!そんなことより、今は逃げる方が先だ!」

 人々は、先を争って駆(か)けだした。

 ひとりが駆け出すと、つられて他の者が、次から次へと駆け出していく。

 走るほどに、幽鬼に追いつかれそうになる恐怖に駆られて、誰もがひたすらに先を急いだ。

「あっ!」

 勢(いきお)いよく走ってきた大男の肩にぶつかって、セイラは神剣を取り落した。

 神剣から光が消え、群衆(ぐんしゅう)の足に蹴(け)られて、すべるように小路(こうじ)に転がっていく。

「くっ!」

 セイラは群衆の頭を飛び越えて、神剣を追った。

 そこに、九条邸で牛飼い童(うしかいわらわ)をしている乙矢(おとや)が立っていた。

「乙矢!こんなところでなにしてるんだ?鳶丸(とびまる)は……?一緒じゃないのか?」

 乙矢は答えず、じりじりと引き下がるだけだった。

「乙矢……?」

 セイラはそれを、大路の異様(いよう)な雰囲気(ふんいき)に怯(おび)えているのだろうと思った。

「怖がらなくても大丈夫だよ。乙矢も、あの人たちと一緒に北へ行きなさい。そこなら安全だ。私は落とし物を探してるんだが……ここに細長い石が転がってこなかったかい?とても大切なものなんだ」

 乙矢は無言のまま、手を後ろにまわしてなおも引き下がっていく。

 セイラは、離されないように少しずつ歩を進めながら、

「乙矢…?後ろになにか隠しているなら見せてくれないか?どうして逃げようとするんだ?」

『これはわしのものじゃ!わしが拾(ひろ)ったんじゃからな。この光る剣を欲しがっていたやつのところへ持っていけば、わしの無念(むねん)を晴らしてもらえる!』

 声は乙矢だが、口調(くちょう)は年老いた老人のものだった。

 月明りもない小路の暗闇(くらやみ)で気づかなかったが、よく見ると目にかすかな燐光(りんこう)を灯(とも)している。

「フッ、しくじったな幽鬼(ゆうき)!黙っていれば、もう少し気づかれずにいたものを……そういうことなら遠慮(えんりょ)はしない。乙矢、少し痛いが我慢(がまん)しろ!」

 逃げようとする幽鬼の前方にまわりこんで、セイラの放った気弾(きだん)が炸裂(さくれつ)した。

 乙矢の身体が吹き飛ばされ、持っていた神剣が後方に転がる。

 倒れた乙矢から抜け出した幽鬼に、セイラは両手のひらを向け強烈な光を浴(あ)びせた。

 一瞬にして、跡形(あとかた)もなく消滅(しょうめつ)した幽鬼の向こう側に――なにかがいた!

 闇に溶(と)けこんだ肢体(したい)――

 だが、光る金色の目は、瞬(またた)きもせずセイラを見すえている。

 その生き物の口が、神剣をくわえた。

 次の瞬間、黒い疾風(しっぷう)となって走り去る。

 セイラはすばやく乙矢の息を確かめ、生き物の後を追った。

 大路は、北へ向かおうとする人々で溢(あふ)れていた。

 その人々の流れに逆らって、生き物は南へ疾走(しっそう)していく。

 走って追いつける速さではない。

 セイラは短い瞬間移動を繰り返しながら、生き物を追った。

 淡い月明りを頼(たよ)りにセイラが見たのは、とがった耳と美しい灰色の毛並み――狼だった!


  
次回へ続く・・・・・・  第七十一話へ   TOPへ