第六十八話


    14.呪われた都 


 肝心(かんじん)なことは、なにひとつ解決していない。

 嵯峨宮(さがのみや)から理空(りくう)を奪ったのは誰かもわかっていないし、その理空と神剣の居場所もつかめてはいなかった。

 柄岩(つかいわ)島の神剣は、今回なんの反応も示さなかったからだ。

 さらに今日、阿黒王(あくろおう)という得体(えたい)のしれない者にナギを連れ去られてしまった――

 気が滅入(めい)って当然のはずなのに、セイラの心は、かりそめの平穏(へいおん)に包(つつ)まれていた。

 護純(もりすみ)がいて、オルフェウスがいて、綺羅(きら)姫がいる。

 なによりも、自身が冷酷(れいこく)な殺戮(さつりく)者でなかったことに、セイラはほっとしていた。

 記憶がないということは、自分という存在を不確(ふたし)かなものにしてしまう。

 なに者でもない自分に、自信など持てるはずもなかった。

 オルフェウスの話を聞くまでは――

「でも驚いたな。
あの阿黒王が現れるなんて……」

 酒がまわって気分もほぐれてきた頃、篁(たかむら)が言った。

 セイラは、さほど中身が減(へ)っていない杯(さかずき)をおいて、

「知っているのか、篁?」

「ああ。うわさで誰かが話しているのを聞いたことがある。昔、東国で都ほども栄(さか)えていた邦(くに)があったそうだ。戦になって、最後には朝廷の討伐(とうばつ)軍に滅(ほろ)ぼされたらしいけど、その邦を治めていたのが阿黒王……千人の敵を斬(き)り殺したと言われる強者(つわもの)だったが、討伐軍の焼き討(う)ちにあって焼死したそうだ。もしその時阿黒王が死んでいなかったら、滅ぼされていたのは討伐軍の方だったろうって……」

「その阿黒王が、なぜ今ごろなって……」

「さあ、それはわからないけど……都を滅ぼすと言っていた阿黒王の気持ちは、なんとなくわかるんだ」

 篁は、杯(さかずき)で唇(くちびる)を湿(しめ)らせて、ふうっと吐息(といき)をついた。

「そのうわさをしていた時、口をはさんできた者がいて……聞いたことのある声だと思ったら、権(ごんの)中将でさ。あの人は、どこからそんな話を仕入れてくるのかな。焼き討ちは、実は和平を持ちかけて阿黒王を油断させ、その前夜に強行されただまし討ちだったって……」

「そんなことがあったのか……」

「だからと言って、都が滅ぼされるのを黙って見ているわけにはいかない。怨霊(おんりょう)となった阿黒王に、どう立ち向かえばいいのかわからないけど……やはりこれは、今上(きんじょう)にご報告申し上げるべきかな」

「できれば帝のお心を悩ませたくない。阿黒王の目が、私に向けられているうちは大丈夫だろうけど……問題は
あの男だよ。その男が、阿黒王を利用しようとしているのだとしたら……」

 ――ことは単純な話ではなくなる……。

 セイラは、力を求めたナギの心情(しんじょう)を思った。

 その思いの強さが、阿黒王を呼び寄せてしまったことに胸が締(し)めつけられる思いがして、一気に杯をかたむけた。

 その頃――

 宴(うたげ)に出なかった綺羅姫は、東の対屋(たいのや)で夕餉(ゆうげ)をすませ、一緒に連れてきた桔梗(ききょう)の愚痴(ぐち)を際限(さいげん)なく聞かされていた。

「姫さま!わたくし、あの楷(かい)という家令(かれい)には我慢なりませんわ!わたくしが女房部屋はどちらですの?と尋ねると、そんなものはないから、使用人の部屋で寝起きするように――と、こうですのよ!他にも、廊下を歩くときは真ん中がすり減らないように端(はし)を歩けとか、灯台(とうだい)の油は注(つ)ぎたすなとか夜は早く寝ろとか……わたくし、もう気が変になりそうでしたわ。それなのに――」

 延々(えんえん)と続く桔梗の話を、綺羅姫はもう聞いていなかった。

「だったら、女房部屋はあたしの部屋のとなりにするように、後で楷に言っておくから」

「まあ、姫さま!後からでは遅すぎます!それではわたくしは、今夜使用人の部屋で休むことになりますわ!」

 それだけは絶対耐(た)えられないとばかり、桔梗はすがるように綺羅姫を見た。

「わかったわよ。そんなに言うんなら、これから話してくるから」

 綺羅姫は渋々(しぶしぶ)重い腰を上げた。

 実のところ、綺羅姫にもあの楷(かい)を説得する自信はなかった。

「えーと、楷はどこかしら?」

 簀子縁(すのこえん)に出て、あたりを見回すと、母屋(おもや)の方から宴のざわめきが聞こえてくる。

 その時、母屋から外に出る階(きざはし)の上に人影を見つけた。

「中に入って、みんなと一緒にお酒を飲まないの?オルフェウス」

 綺羅姫が、簀子縁を庭伝いにまわりこんで声をかける。

 オルフェウスは振り向きもせず、

「私の役目は、いついかなる時もセイラさまをお守りすること。酒を飲んでいては、役目がおろそかになる」

 冷淡(れいたん)にあしらわれても、綺羅姫は気にしなかった。

 オルフェウスの目がやさしくなるのは、セイラと話す時だけと気づいていたからだ。

 綺羅姫は、かまわず近づいていって、

「ひとつ聞いてもいいかしら。セイラは、レギオン皇子って呼ばれていたんでしょ?なのに、どうしてセイラっていう名まえの方を思い出したのかしら?オルフェウスにはわかる?」

「……皇子は、お父上からレギオンという名を、お母上からセイラという名をいただいたと聞いている。幼(おさな)い時はお母上と暮らしておられ、セイラと呼ばれていたと……現在の記憶を失くされても、幼い頃の記憶は残っていたのかも……」

「へえー、お母上からもらった名まえだったんだ。ねっ、どんな意味があるの?」

「それを、おまえが聞いてどうする?」

 オルフェウスの目が、冷たく光った。

 綺羅姫は一瞬たじろいで、再び話しかけた。

「あたしね、セイラが好きよ。何度もあきらめようとしたけど、でもやっぱり好きなの。もう、こうなったら仕方ないわよね。だから、今日からこの邸(やしき)で暮らすことにしたの。もちろん、セイラが別の世界の人だって知ってる。神剣を取り戻したら、お別れしなくちゃならないってことも……それまでの間、一緒にいるだけなんだけどね。へへ……」

 いつかやってくる別れのつらさを、綺羅姫は笑いに紛(まぎ)らせた。

「神剣を取り戻す……?皇子がこの時代にきた理由を話したのか?おまえ、なにを知っている!?」

 オルフェウスは語気(ごき)を荒げて、綺羅姫に詰(つ)め寄った。

「えっ。知ってたんじゃ…ないの?」

「『王家』の最重要機密とだけ……皇子はあの儀式(ぎしき)の後、五歳の頃からそれを探してこられた。私が知っているのはそれだけだ!」

 セイラが長年にわたって追い求めてきたもの――それがなんなのかわからないもどかしさに、オルフェウスは顔をしかめた。

 綺羅姫は、夢の中でオルフェウスがなにも聞かされていなかったことに思い当たった。

 同時に、セイラが神剣を持ち帰るには、オルフェウスの手が必要だと気づいた。

「いいわ、話してあげる!」

 綺羅姫は、口伝(くでん)の書を頼りに神奈備(かむなび)の邑(むら)を探しあてたこと、そこに現れた神奈備の神によって明かされた神剣の真実、神剣はいまだに尹(いん)の宮から理空と名をあらためた僧(そう)の手にあることなどを話して聞かせた。

「セイラにも、自分が探しているものがどんなものなのか、わかっていなかったのよ。知っていたら、たぶんあたしたちに黙ってひとりで行ったと思うわ。そして今ごろは、セイラじゃなくなっていたはず……でも神剣はにせ物だった。あたしは尹の宮に…理空に感謝してるわ。セイラの身体に神がのり移った時の恐ろしさは、今でも忘れられないもの」

「そ、んな……!では、皇子が探しておられるのは――」

 呆然(ぼうぜん)とするオルフェウスに、綺羅姫は懇願(こんがん)した。

「セイラにとってはなによりも危険なものよ。もし見つけたとしても、セイラには絶対渡さないで!」

「ならば、強烈な光を放ったあの剣(つるぎ)は……」

「あれは、西国の柄岩(つかいわ)島っていうところから持ってきたものだそうよ。篁がさっき話してくれたの。セイラが大岩から抜いたとたん、天まで届くような光の柱が立ったって……ナギが、セイラが探している神剣とそっくりだって言うから、大昔に神さまと戦った相手の剣じゃないかって……」

「神と戦った、相手の剣……」

 オルフェウスは、はっとして青ざめた。

「私は、『王家』のとんでもない秘密を知ってしまったのかもしれない……いや、それより皇子はどんな思いで、そのご命令を……」

「あたしも、あなたたちの陛下(へいか)はひどいと思うわ。セイラは嫌われてるって思ってるみたいだし……でも、あなたがきてくれてよかった。神剣を取り戻せたとしても、あなたにあずけることができるから」

 願うなら、そんな日がこなければいいと綺羅姫は思った。

 母屋(おもや)の中から、ほろ酔(よ)い加減(かげん)になった楷の声が漏(も)れてくる。

 目を覚(さ)ました真純(ますみ)と護純(もりすみ)が、庭に出て月を眺(なが)めている。

 ――この穏(おだ)やかな暮らしが、いつまでも続いてくれればいい。

 そう願う心の一方で、神剣を取り戻さない限り戦いはこれからも続いていくのだということも、綺羅姫にはわかっていた。


  


 秋の吉日を選んで臨時(りんじ)の除目(じもく)が発表され、篁は正式に右近衛中将に、セイラは左近衛中将に任命(にんめい)された。

 加えて、セイラは蔵人の頭(くろうどのとう)を兼(か)ねることになった。

 この昇進(しょうしん)は、海賊討伐の功績(こうせき)からして誰もが認める当然の結果だったが、それよりも世間の耳目(じもく)を集めたのは、そのセイラの邸に押しかけていった摂関(せっかん)家の姫のことだった。

 真偽(しんぎ)のほどを確かめようとセイラを呼び出した帝(みかど)は、苦虫(にがむし)をかみつぶしたような顔をしていた。

「あの姫のことだ。なにがあろうとも多少のことでは驚かないつもりだったが、よりによってこの時機(じき)に――!うむむ……」

 ひとしきりうなった後、帝はつっと目を上げた。

「権大納言(ごんのだいなごん)家の体面(たいめん)もある。佐保(さほ)姫を正妻とするなら綺羅姫がいてもかまわないと、中務卿(なかつかさきょう)の宮が申していたが……」

「お気づかいいただき、感謝いたします。ですが、妻はひとりだけと決めておりますので……綺羅姫に恥(はじ)をかかせるわけにもまいりません。やはり、佐保姫とは縁がなかったのでしょう」

 セイラはやんわりと断(ことわ)りをいれた。

「うむ……」

 帝はあごを沈(しず)めて、しばらく黙考(もっこう)した。

「そなたが妻をめとる気になったのはよいことだが……らしくないではないか。右近衛少将と、なにかあったのか?」

 セイラは、あははと笑って、

「そう言えば先日、篁にこっぴどく殴(なぐ)られてしまいました」

 その言葉を、帝がどう受け取ったかは明らかだった。

 一方、世間の注目を集めている綺羅姫のもとに、ある日一通の文が届いた。

 桔梗(ききょう)が運んできた文を、綺羅姫は不思議そうに眺(なが)めて、

「佐保(さほ)姫から……?佐保姫って、あの佐保姫よね。どうしてあたしに……」

 料紙(りょうし)を受け取り、読んでいく綺羅姫の顔色がみるみる変わって、頭から湯気が噴(ふ)き出てきた。



   


『突然、文(ふみ)を差し上げるご無礼(ぶれい)をお許しくださいませ。綺羅(きら)さまとはお会いしたことはございませんが、わたくしよく存じ上げておりますわ。なんでも、巷(ちまた)では変わり者の姫と評判だとか……でもいくら変わり者だからといって、ご自分から押しかけていっては、セイラさまにご迷惑(めいわく)というものではございません?綺羅さまの評判も悪くなるばかりですわ。どうか今からでもお考え直(なお)しになって、お邸(やしき)に戻られてはいかがかしら?』

 返書――

『ご心配にはおよびませんわ。セイラはちっとも迷惑だなんて思ってませんから。それに、あたしも佐保(さほ)姫のことはよく存じ上げてます。でも、いくら帝(みかど)のいとこだからって、帝に頼んで強引に結婚しようとするのは、やり方が卑怯(ひきょう)じゃありません?佐保姫はしとやかな姫だって聞いてましたけど、ほんと!世間のうわさなんてあてにならないものですわね』

 返書――

『セイラさまは、近々わたくしと結婚するはずでしたのよ!当然セイラさまもそのおつもりでした。あなたが泥棒猫みたいに、横から割って入ったりしなければ……そのはしたない振(ふ)る舞(ま)い、とても摂関(せっかん)家のお家柄(いえがら)とも思えませんわ!セイラさまは憐(あわ)れんでおられるだけだということが、あなたにはおわかりになりませんの!』

 返書――

『バーカ!バーカ!おまえの母ちゃんでべそ〜。おとといきやがれ!』

 返書――

『わたくしだって、セイラさまが好きだったのに……あなたなんかいなくなればいい!』

 返書――

『ごめんね、佐保姫』

 綺羅姫はそう綴(つづ)って筆(ふで)をおいた。

 心の中に、佐保姫の切なさが流れこんでくる。

 身に覚(おぼ)えがあるその気持ちに、かける言葉は見つからなかった。


  


『そうだ、これをおまえにやるよ』

 時空遡行(じくうそこう)する直前、レギオンから渡されたものにオルフェウスはとまどった。

 短剣――と言っても、ただの短剣ではない。

 見た目は宝剣のようにきらびやかだが、使用者の気に応(おう)じて刀身(とうしん)が長くも短くもなる、能力者用に開発された特殊な剣だった。

 鞘(さや)には、王家の守護聖龍グリュフォーンが描かれている。

『これは、皇子の剣――!お持ちにならないのですか?』

『向こうでなくしたら大変だから……おまえが持っていてくれ』

 そう言った時の、いつになく真剣なレギオンの目を、オルフェウスは今も覚えていた。

 綺羅姫の言うことが本当だとしたら、あれは、自分の意思が神にとってかわられることを知っていたレギオンの、形見(かたみ)のつもりだったのだろうか?

 オルフェウスは、耐(た)え難(がた)い痛みをこらえるように顔をしかめて、その短剣を握(にぎ)りしめた。

 ――もし見つけたとしても、セイラには絶対渡さないで!

 必死な目で訴(うった)える、綺羅姫の言葉が思い出された。

「言われずとも――!」

 オルフェウスはつぶやいて、短剣を腰に差(さ)し、セイラのいる母屋(おも)へ向かった。

「セイラさま、お伝えしたいことが……」

 部屋の入り口に腰を下ろして、オルフェウスが中に声をかける。

「ちょうどよかった!私もおまえに話があったんだ」

 長々と続く楷(かい)の収支報告にうんざりしていたセイラは、ほっとしたように顔を向けた。

 未練(みれん)たらたらに引き下がっていく楷と入れ替(か)わって、オルフェウスが座に着くとセイラは苦笑して、

「部屋に水干(すいかん)を用意していたはずだけど……」

「この方が、私には動きやすいのです」

「でもそれじゃ、目立ちすぎるよ」

 セイラは、黒ずくめの着衣(ちゃくい)を見まわして吐息(といき)をついた。

「人前に姿をさらすような、無様(ぶざま)はいたしません。お話というのは……?」

「楷の報告を終わらせたかっただけだよ。それで、おまえが伝えたいことというのは……?」

「その前に、お尋(たず)ねしておきたいことがあります」

 オルフェウスは、深く息を吸いこんで吐き出した。

「綺羅姫からこれまでの話を聞きました。セイラさまがここへきた目的も……私は聞くべきではなかったのかもしれません。皇子が…セイラさまが話そうとしなかったことを、知ってしまったのですから……でも聞いてよかった、今はそう思います。セイラさまは、記憶を失くした今でも、陛下のご命令を遂行(すいこう)なさるおつもりですか?」

 オルフェウスは暗(あん)に、記憶を失くした時点で、命令の遂行は不可能になっていると言っていた。

 このまま王宮に戻ったとしても、誰にも責められることではない――と。

「記憶がなくても、私がなにをすべきか知ってしまったんだ。それに……私がここへきたのは、そのためだからね」

 貼(は)りつけたような笑顔を向けられて、オルフェウスは胸が締(し)めつけられた。

 そのため――得体(えたい)のしれないものに身体(からだ)を乗っ取られ、自我を失(な)くすことが、本当に皇子の望みなのか!?

「それは、ドゥラ・クワが奪(うば)われたという剣を取り戻さない限り、元の世界には帰れないということですか?」

「そうだよ」

 凛(りん)としたセイラの返答に、オルフェウスは覚悟を決めるしかなかった。

「わかりました。ここより北の方角に小高い丘があります。ドゥラ・クワを追いかけた時、その丘の中腹に結界(けっかい)が張られている場所がありました。襲った敵をドゥラ・クワが追っていたのだとすれば、奪われたものはおそらく……」

「結界――!?そうか、もうひとつの神剣が反応しなかったわけだ。オルフェウス、私をそこへ案内してくれ!」


  


 九年前――

 ワーレンの首都バルドの迎賓館(げいひんかん)前は、黒山のような人だかりだった。

 その迎賓館へと続く、歓迎と祝賀の旗(はた)に彩(いろど)られた街に兄妹は降り立った。

「お兄ちゃん、早く早く!」

「そんなに急がなくても、皇子さまは逃げないよ。サーナ」

 六歳になる妹に急(せ)かされて、十一歳のグェンは少しだけ足を速めた。

「お兄ちゃん、こっちこっち!」

 民族衣装を着ておめかししたサーナは、迎賓館前に集まった群衆の最後列に並び、瞳を輝かせて、

「皇子さまってどんな人だろう。ねっ、お兄ちゃん。どんな人だと思う?」

「どんなって、『王家』の皇子さまで、能力者で……名まえは確か……」

「もう!そんなんじゃなくて――」

 その時歓声があがって、迎賓館三階の露台(ろだい=バルコニー)に人影が見えた。

 姿を見せたのは、ワーレンの国王と八歳になったばかりのレギオン皇子。

 グリュプスの親善使節(しんぜんしせつ)として、ヨルギアの主要都市を訪(おとず)れていた。

「これじゃ皇子さまが見えない。もう!お兄ちゃんがのんびりしてるからよ」

 人ごみをかきわけて前に出ようとするが、サーナの力では大人(おとな)ひとりをどかすこともできない。

「サーナ、こっちへおいで」

 グェンは妹を呼んで抱き上げ、上半身が群衆の頭から抜け出す高さまで上昇した。

「皇子さまが見えるよ、お兄ちゃん!銀色の髪でやさしそうなお顔。こっちに手を振ってるわ!」

「そうだね。サーナも手を振ってあげるといい」

「うん。皇子さま――!」

 その時、思いがけない出来事が起こった。

 レギオンが、抱(かか)えていた花束を――国王から贈(おく)られたものだったが――空に放(ほう)った。

 花束は、その重さからは考えられない大きな放物線を描いて、最後尾にいたサーナのもとに届いた。

 沸(わ)きあがる歓声と拍手―― 

「お兄ちゃん、これ……」

「よかったね、サーナ。皇子さまからの贈り物だよ」

 国王の演説(えんぜつ)が終わって、迎賓館を後にするサーナの腕には、花束が誇(ほこ)らしげに抱(かか)えられていた。

「サーナ、皇子さまとお話してみたい!お兄ちゃん、皇子さまとお友だちになってよ」

「えーっ!無理だよ、サーナ。皇子と話ができるようになるには、側近(そっきん)にならなきゃ……」

「じゃあ、お兄ちゃんがそっきんになってよ!」

「無茶を言うなよ。側近になるには、一流の能力者じゃなきゃダメなんだ」

「お兄ちゃんだって能力者じゃない。だったら一流になればいいんでしょ?」

「それは……」

 足を止めて言葉を詰(つ)まらせるグェンに、サーナは首を振って駄々(だだ)をこねた。

「いやいやっ!お兄ちゃんがそっきんになるの!あっ……!」

 突然歩道に倒れたサーナを、グェンはあわてて助け起こした。

「大丈夫か、サーナ!」

 贈られた花束が路上(ろじょう)に投げ出され、無残(むざん)に散乱(さんらん)している。

「くすん、くすん……皇子さまのお花が……」

「それよりおまえ、足は……?」

 グェンは往来(おうらい)の人目もはばからず、サーナの民族衣装の裾(すそ)をめくりあげた。

 現れたのは、精巧(せいこう)な精密機械のような二本の義足。

 その上を、透明な人工皮膚がおおっている。

「関節部がずれてるな。技師に見てもらわなきゃ。サーナ、負(お)ぶってやるから肩につかまって」

「お兄ちゃん、ごめんね。サーナがわがまま言ったから、罰(ばち)があたっちゃった」

 背中で泣きべそをかいている妹を、グェンは励(はげ)ましてやりたかった。

「おまえは悪くないよ、サーナ。なってやるから……側近に」

「ほんと!お兄ちゃん!」

「うん。約束だ」

「じゃあ、サーナもがんばる!」

「おまえが、なにをがんばるんだ?」

「ふふふ…お兄ちゃんの応援!」


  


 船岡(ふなおか)山――

 茂(しげ)みの中で、いつの間にかまどろんでいた嵯峨宮(さがのみや)は、はっとして目を覚(さ)ました。

 前方に見えているのはなんの変哲(へんてつ)もない雑木(ぞうき)林だが、その空間には結界が張られていて、中のようすをうかがい知ることはできない。

 近づいてくる者の気配(けはい)は、今のところなかった。

「……夢か」

 ずいぶんなつかしい夢を見たものだ、と嵯峨宮は思った。

 なつかしい、それでいて忘れることのできない大切な思い出――

 と、視界の隅(すみ)で、雑木林がガサッと動いた。



  次回へ続く・・・・・・  第六十九話へ   TOPへ