第六十三話
絶望的なその結末(けつまつ)を、綺羅(きら)姫は声もなく見つめていた。
誰かの悲鳴(ひめい)が聞こえた。
それが自分の声だと気づいたのは、男が綺羅姫を振り向いたからだった。
――こ…この人が、セイラを殺した。でも、なんて悲しそうな目……。
受け入れがたい現実から逃(のが)れるように、意識が徐々(じょじょ)に遠ざかっていく。
――こんなことに、なるなら……あたし、もっと素直(すなお)に、セイラに……。
ドサッと、綺羅姫の上体がくずおれる。
「お、まえ――っ!!」
篁(たかむら)は、圧倒的な怒りに駆(か)られて小太刀(こだち)を抜(ぬ)いた。
「なにも知らない振(ふ)りをして、やっぱりセイラを殺すのが目的だったんだな!」
小太刀を正面に構(かま)え、握(にぎ)る手に力をこめる。
「セイラが以前、なにをしたかは知らない。でもなにがあったにしても、セイラにはセイラなりの理由があったはずだ!それがどんな結果だったとしても……くっ!たとえ責められるべきだとしても、ぼくたちにとって、セイラはかけがえのない友だ。それをおまえは――っ!!」
男が、いともたやすく身体(からだ)の自由を奪(うば)ってしまえる能力者だということも忘れていた。
篁の心には、燃えさかる憎悪だけがあった。
「――許さないっ!」
小太刀を水平に構えなおし、突進(とっしん)しようとした。
その時――
「皇子を、頼む」
そう言い残して、男は姿を消した。
――えっ……。
篁には、言葉の意味が理解できなかった。
――頼むってなんだよ。セイラを殺しておいて、今さらなにを――!
小太刀を投げ捨(す)て、やりきれない思いで倒れているセイラを見つめる。
夜具(やぐ)の上に散り乱れる銀色の髪。
白蝋(はくろう=白いろうそく)のように血の気のない頬(ほほ)。
言いようのない悲しみに胸がしめつけられ、こぼれ落ちる涙をそのままに、篁はその場にへたり込んだ。
「おまえが死ぬなんて、信じられないよ。だってそうだろう?……おまえと一緒なら、ぼくはなんだってできる気がしてた。これからだって……クッ!それが、こんなことに……」
「篁さま――!」
セイラの胸に、耳を押し当てていたナギが叫んだ。
涙で視界(しかい)が滲(にじ)んでいるせいか、顔が笑っているように見える。
「セイラさまは生きています!」
篁はナギに言われるまま、倒れているセイラの胸に耳を当てた。
ドクン、ドクンという鼓動(こどう)が聞こえると、篁は泣き笑い顔で涙をぬぐった。
「セイラ、よかった……」
「かなり深く、眠らされてるみたいです」
「ああ……」
篁は念のため、他に傷がないことを確かめると、あわただしく小太刀を鞘(さや)に納(おさ)めた。
「ナギ、真純(ますみ)、セイラと綺羅さんを頼む。ぼくは外のようすを見てくる」
そう言って、篁は走り出した。
もしかしたら、まだあの男が近くにいるかもしれない。
セイラを殺すつもりじゃなかったなら、なぜあんなことをしたのか聞いてみたかった。
ひょっとすると――
寺の境内(けいだい)を走り抜け、参道(さんどう)を一気に駆(か)け降りる。
さほど広くない道に出ると、篁は左右を見まわした。
左は化野(あだしの)に通じる道、右は嵐山(あらしやま)に通じている。
篁は迷(まよ)った末(すえ)に、右の道を選んだ。
精気(せいき)を吸い取るなら、人が多く行きかう道を選ぶだろうと思った。
大勢(おおぜい)の人目にさらされる危険はあっても、そんなことにかまっていられないほど、嵯峨宮(さがのみや)は追いつめられていたはずだ。
「ここだ!」
篁が駆けつけた時、倒れていたほとんどの者が意識を取り戻していた。
中には起き上がって、ふらふらした足取りで立ち去ろうとする者もいる。
「おい、なにがあった!?」
篁は、荷(に)を背負(せお)って歩いてくるひとりの男を捕(つか)まえて、聞いてみた。
「はあ、なにと言われましても……わしは市へ行った帰りですが、後ろから誰かに首のあたりをつかまれたと思ったら、急に気が遠くなって……気がついたら道に倒れていました。こんな妙なことははじめてで、はあ……鬼に襲(おそ)われたと言う者もいましたが、わしにはなんのことやら……」
男は篁の上等な身なりを警戒(けいかい)しながら、面倒(めんどう)に巻き込まれるのはごめんとばかり、そわそわと落ち着かないようすで言った。
「そうか。今しがた、変な衣(ころも)をまとった髪の長い男を見なかったか?」
「いえ、あの……先を急ぎますので、わしはこれで……」
他にも何人かに話を聞いてみたが、男を見たと言う者はいなかった。
だが、篁は確信(かくしん)していた。
あの男はここへ来たはずだ、と――
そして、自分の気を倒れている者にわけ与えた。
でなければ、精気を吸い取られた者たちがこんなに早く意識を取り戻すはずがない。
そう考えると、ふいをついてセイラを眠らせた理由も納得(なっとく)がいく。
もしセイラがここへきていたら……。
篁は空を見上げて、男に感謝の言葉をつぶやいた。
死んだように眠っているセイラを牛車に乗せて、篁たちはその日のうちに洛中(らくちゅう)へ戻ってきた。
このまま嵯峨野(さがの)にいたら、また誰かに襲(おそ)われそうで気が気ではなかったからだ。
意識が戻った綺羅(きら)姫は、セイラが生きていると聞かされると、横たわるセイラにしがみついて号泣(ごうきゅう)した。
その時の声が、今も篁の耳に残っている。
――綺羅さんもぼくも、あんな思いは二度とごめんだ!
そう心に決めて、セイラの邸(やしき)に泊(と)まりこもうとした篁をナギが拒(こば)んだ。
「セイラさまはオレが守ってみせる。篁さまは休んでください。目の下にクマができてますよ」
そこまで言われると、篁もおとなしく引き下がるしかなかった。
実のところ、宿直(とのい)とセイラのつきそいで二晩ろくに寝ておらず、腕も足も丸太ん棒のように重く感じていた。
「そうだな。疲れをとって、いざという時に動けるようにしておかないと……」
その日の夜――
セイラが寝ている部屋の外で見張(みは)りをしていたナギは、なにかの気配(けはい)を感じてうたた寝から目覚(めざ)めた。
「誰だ!」
立ち上がって、真っ暗な庭を凝視(ぎょうし)する。
「あんたか……」
ナギがつぶやくと、暗闇(くらやみ)の奥からオルフェウスが進み出た。
月明りに照(て)らされたその姿は、さながら恐ろしい力を内に秘め、孤独の衣(ころも)をまとった冥府(めいふ)の番人とも思える凄味(すごみ)があった。
「篁さまから話は聞いた。あんた、セイラさまの身体を気づかってあんなことしたんだってな。ひとこと、言ってくれればよかったのに……」
ナギは恨(うら)めしそうに言って、オルフェウスがここにきた理由に思いを馳(は)せた。
「セイラさまはぐっすり眠っている。顔だけでも見ていくか?」
ナギの言葉に、オルフェウスははっとして顔を上げた。
「いいのか……?」
「あんたはセイラさまを殺さなかった。殺そうと思えば殺せたのに……今だって、セイラさまに会いたければオレを眠らせてしまえばいい。なのに、あんたはそうしなかった。まだあんたを信用したわけじゃないけど、あんたは敵じゃない。精霊がそう言ってる」
「そうか……」
オルフェウスの目元が、わずかにゆるんだ。
眠っているセイラの枕元(まくらもと)に腰を下ろしたオルフェウスは、灯台(とうだい)の明かりが照らす寝顔を無言で見つめた。
「う、うう……うう……」
唇(くちびる)から苦しそうなうめき声が漏(も)れてくると、オルフェウスの眉(まゆ)が曇(くも)る。
「セイラさま、昨夜もひどくうなされてた。セイラさまが《ワクセイ》を滅(ほろ)ぼしたって……数えきれない人が死んだって、嵯峨宮(さがのみや)が言ったから……それを教えてくれたのが、あんただって……」
「惑星?……ヨルギアのことか?」
「うん、確かそんな名まえだった」
「そうか。おかげで少しわかってきた」
――あんた、ほんとにそんなこと言ったのか?
そう聞いてみたくてうずうずしているナギをしり目に、オルフェウスは長い沈黙を続けた。
やがて、となりにいるナギを振り返って、
「皇子の傷を癒(いや)してさしあげたい。かまわないだろうか?」
「傷を……?本当にそれだけか?」
「ああ……」
ナギはためらった。
もしセイラの身になにかあったら、自分は生きていられない。
だいいち、篁や綺羅姫になんと言えばいいのか……。
だが、オルフェウスは尋(たず)ねてくれた。
ナギの不安や恐れを見透(みす)かしたように……。
「わかった。頼む」
オルフェウスは夜具(やぐ)をはがし、小袖(こそで)の上からセイラの胸に手を当てた。
手がおかれたところから、柔らかな光が広がって、全身を包(つつ)みこんでいく。
セイラの頬(ほほ)にほんのりと赤みが差し、きつく結ばれていた口元が徐々にほぐれていった。
「これで、朝には目を覚(さ)まされるだろう。傷も癒(い)えているはずだ」
「すごいな、あんた!」
ナギは、目の前で見せつけられたオルフェウスの力に感嘆(かんたん)して、
「傷が治(なお)ったって知ったら、セイラさまもあんたのこと信じてくれるよ」
「どうかな……」
オルフェウスは、苦悶(くもん)に満ちた顔でセイラの寝顔を見つめた。
「私に向けられた疑(うたが)いは、それほど簡単なものじゃない」
「じゃあ、これからどうするんだ?」
「……皇子(おうじ)の信頼を、取り戻しに行く」
「嵯峨宮(さがのみや)を捜(さが)しに行くのか?だったらオレもついていく!」
その言葉が聞こえなかったかのように、オルフェウスは立ち上がって踵(きびす)を返した。
「待てよ!オレもセイラさまの役に立ちたいんだ!オレは守られてばかりで、だから……!」
ナギは懸命(けんめい)に食い下がった。
「あんた、嵯峨宮(さがのみや)の顔知らないだろ?邸(やしき)がどのあたりにあるかも……オレなら――」
「おまえでは、足手まといだ」
はっとして口をつぐんだナギを、オルフェウスはようやく振り返った。
「きつい言い方をしてすまなかった。だが、おまえの役目は皇子をお守りすることではないのか?今の私にはかなわないことだ……だから皇子を頼む」
そう言うと、オルフェウスは部屋を出て、夜の闇(やみ)に紛(まぎ)れていった。
残されたナギは自分の力のなさを恥(は)じ、唇(くちびる)をかみしめた。
――オレがもっと強かったら、あんなこと言わせないのに……。
――あいつはセイラさまとずっと一緒にいられる。強くなれば、オレだって……。
強くなりたい――心の底からそう願った時、ナギの前にそれは現れた!
翌朝、目覚(めざ)めたセイラは、部屋の外で見張りをしていたナギからこれまでのことを聞いた。
「そうか。オルフェウスが私の傷を……」
「オレ、あいつはセイラさまを裏切ってないと思います」
「そうだね。いつかオルフェウスが戻ってきて、なにもかも話してくれる時を待とう。ところでナギ、その黒い勾玉(まがたま)は……?」
「あっ、これは……」
ナギは、首から紐(ひも)でつるしている勾玉を急いで衣(ころも)の下にしまいこんだ。
「人からもらったんです。これをつけていると、気の力が強くなるって……」
「人から……?」
「あっ!セイラさま、起きてる――!」
その時、真純(ますみ)が部屋に駆(か)け込んできて、セイラの思考(しこう)はとぎれた。
抱きついてきた真純を引き離(はな)すのは、至難(しなん)の業(わざ)だったからだ。
見ると、ナギの姿はもう消えていた。
いつもなら、真純を叱(しか)り飛ばして大騒ぎするはずなのに……。
寝(ね)ずの番をしたせいで、きっと疲れているんだろう――セイラはそう思っていた。
数日後、参内(さんだい=内裏に参上すること)したセイラは清涼殿(せいりょうでん)に渡(わた)った。
「けがの具合(ぐあい)はもうよいのか、セイラ?権侍医(ごんのじい)の話では、治(なお)るまでにひと月はかかるだろうということだったが……」
「わたくしは、人よりも特別治りが早いようです。晒(さら)しもとれて、もう痛みもありません」
さすがに、傷痕(きずあと)も残っていない――とは言えなかった。
「これもひとえに帝(みかど)のご配慮(はいりょ)のおかげ……心より感謝申し上げます」
「それはよかった、が……」
御簾(みす)の向こう側で頭を下げるセイラに、帝は表情を曇(くも)らせて、
「あそこでなにがあった?右近衛(うこんえの)少将は、なにも答えてくれなかったが……」
「それは、宮家(みやけ)の体面(たいめん)を思ってのことでしょう」
セイラは、慎重(しんちょう)に言葉を選んで話しはじめた。
嘘(うそ)ではなく、だが真実でもない、うわべの事実だけを――
「わたくしは宮家のさる方に命を狙(ねら)われ、嵯峨野(さがの)に呼び出されました」
「……なぜ、そなたが命を狙われる?」
「それは、わたくしには……今まで一度もお会いしたことがない方でした。恨(うら)まれるような憶(おぼ)えはなにも……」
「うーむ。宮家の者ならば、春の管弦(かんげん)の宴(うたげ)に来ていたはずだ。宴には、宮家はみな招待されることになっている。その宮の名は?」
「――嵯峨宮(さがのみや)」
「嵯峨宮…?はて……」
帝はしばらく考え込んで、
「思い出した。色白でひ弱そうな、影の薄い男だったが……あの者が、そなたにあれほどの傷を負(お)わせたというのか!?」
「妖(あやかし)に取り憑(つ)かれているのかもしれません。見たこともない術で、あっという間に切り刻(きざ)まれてしまいました。助かったのは、篁(たかむら)…右近衛少将やナギが駆(か)けつけてくれたおかげです」
嵯峨宮の名を出したのは、もし帝が嵯峨宮を捕(と)らえようとしても、検非違使(けびいし)などには決して捕(つか)まらないだろうという目算(もくさん)があってのことだった。
――でも、こんなでたらめを綺羅姫や篁が聞いたら、開いた口が塞(ふさ)がらないだろうな。
そう思うと、セイラの唇からひとりでに笑い声がこぼれた。
「笑いごとではない、セイラ!そなたは命を狙(ねら)われたのだぞ。しかもこの大事な時に……嵯峨宮はまた、そなたを狙ってくると思うか?」
「これであきらめてくれればと思いますが……もしまた襲(おそ)ってきたとしても、わたくしには秘策(ひさく)がございます。そうやすやすとやられたりはしません。それよりも、嵯峨宮の術は人の手にあまるもの、下手に追いつめない方が賢明(けんめい)かと……」
「そうはいかない。このことは、検非違使の別当(べっとう=長官)に報告しておく。そなたの言うように、嵯峨宮が妖(あやかし)に取り憑(つ)かれているとしたら、安倍晴明(あべのせいめい)の力も借(か)りなければならぬかもしれん。あの者は強力な術者だと聞く」
「安倍殿の力を……?ええ、そうですね」
セイラは、言いようのない不安を覚えた。
安倍晴明は、確かに常人(じょうじん)ではない。
だが、その力がどれほどのものかは、セイラにも計(はか)り知れないところがあった。
「ところで、先日言っていたそなたの望みだが、右大臣とも諮(はか)って叶(かな)えてやれそうだ」
「まことに――!?」
輝くばかりの笑みを浮かべるセイラを、帝は満足そうに見つめて、
「その代償(だいしょう)として、そなたには蔵人(くろうど)の頭(とう=帝の秘書長)の役目を受けてもらう。これまでよりも多忙(たぼう)になると思うが、なに心配することはない。そなたの結婚相手も、私が見つけておいた。もう向こうの承諾(しょうだく)もとってある。相手はいとこの佐保(さほ)姫だ。どうかな?断(ことわ)る理由はないと思うが……?」
「そ、れは……」
進退(しんたい)きわまるとは、まさにこのことだった。
相手は帝のいとこ。
しかも、先方の承諾もとってあるとなれば、下手な言い訳(わけ)は通用しない。
佐保姫に、不満があるわけではなかった。
だが会ったのはほんの数度で、恋愛の対象や結婚相手として考えたこともなかった。
ましてやセイラは、この時代の人間ではない。
神剣(しんけん)を手に入れたら、元の世界に帰らなければならない身だった。
――これ以上、人とかかわるべきではないというのに……。
苦悩(くのう)するセイラのこめかみを、たらりと冷や汗が伝う。
「わたくしのことより、憂慮(ゆうりょ)すべきは後宮が寂(さび)しすぎることかと……東宮(とうぐう)がおられるとはいえ、万が一のことがあれば帝の後継者(こうけいしゃ)は絶(た)えてしまいます。そのようなことにならぬよう、早急(さっきゅう)に新たな女御(にょうご)を迎(むか)えて、後宮(こうきゅう)を華(はな)やげることが肝要(かんよう)かと……」
「確かにそれもあるが……」
帝はそこでにやりとして、
「今はそなたのことについて話している。佐保(さほ)姫では気に入らないのか?それとも他に――」
「とっ、とんでもございません!」
話のすり替(か)えがうまくいかず、焦(あせ)りまくるセイラの頬(ほほ)を、たらたらと汗が滴(したた)り落ちる。
「わたくしは、帝を心よりお慕(した)い申し上げております。ですが、姫をめとるなどまだまだ……」
「ほう、それはうれしい限りだ。では――」
バサッと御簾(みす)が上がって、セイラの目の前に帝の顔があった。
呆然(ぼうぜん)とするセイラの顎(あご)を、帝が上向(うわむ)かせる。
「そなたが後宮に入るか?」
「お、お戯(たわむ)れを……」
「戯(たわむ)れではない。後宮がだめだというなら、結婚の話は進めておくぞ」
翌日、見舞いにやってきた篁は、セイラが昨日から参内(さんだい)していると聞いて目を丸くした。
「傷は、もう治(なお)ったのか?」
「ああ。ナギの話だと、あの夜オルフェウスがやってきて、傷を癒(い)やしてくれたらしい」
「あいつが……そうか」
篁は妙(みょう)に納得(なっとく)してしまった。
自分がどう思われているかわかっていても、セイラの受けた傷が気になって仕方なかったのだろう。
「そのナギのようすが、最近おかしいんだ」
脇息(きょうそく)に肘(ひじ)をついて、セイラは大きく吐息をついた。
「おかしいって、どんな風に……?」
「ここ数日、夜になると出かけていって、朝まで帰ってこなかったりする」
「それは……」
これがもし安積(あさか=右大臣家の家令)だったら、好きな女でもできたんだろうと放っておくところだが、セイラにしか懐(なつ)こうとしないナギとなると話は違ってくる。
「確かに変だね」
「うん。心配になって一度後をつけてみたら、安倍晴明(あべのせいめい)の屋敷(やしき)に入っていった。あそこは式神(しきがみ)だらけだから、それ以上中へは入れなかったけど……」
「だったら、安倍殿に術(じゅつ)の手ほどきでも受けてるんじゃないのか?」
「真夜中に……?確かに安倍殿も忙(いそが)しい身で時間がないのかもしれないけど……それにしてもナギは、いつの間に安倍殿と知り合ったんだろう?」
「聞いてみればいいじゃないか」
篁がそう言うと、セイラは首を振って、
「なにも答えてくれないんだ。ただ、今度こそ役に立ってみせるとしか……」
「この間の嵯峨宮(さがのみや)との戦いで、なにもできなかったことを悔(く)やんでるのかな。だとしたら、そう心配することはないんじゃないか?ナギは強くなろうとしてるだけなんだから」
「そうは言っても、式神を使う安倍殿の術と、自分の身体(からだ)を依代(よりしろ)とするナギの術は、まったく別物のはずなんだ……」
納得がいかずいつまでも考え込むセイラに、篁は今日やってきた本当の用件を切り出した。
「なあセイラ、これから西の市に行ってみないか?景季(かげすえ)の首が……晒(さら)されているらしい」
篁は、沈痛(ちんつう)な面持(おもも)ちでうつむいた。
「おまえの傷が痛むようだったら、ぼくだけでも行こうと思ってた。もちろん、真純(ますみ)には口が裂(さ)けても言えない。景季とはその、奇縁(きえん)を感じるというか……おまえだってそう思うだろ?せめて、最後だけでも見届けてやりたいって……」
「その必要はないよ」
「セイラ――!?」
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