第五話
あの声は……篁(たかむら)だわ!
ついさっきまで、手がつけられないほどむくれていた篁が、あんなに楽しそうな笑い声を上げるなんて、一体なにがあったっていうの?
そういえば、篁をなだめてくると言っていたセイラも、かれこれ一時(二時間)近くたつというのに、姿が見えなかった。
あたしの知らないうちに、あの二人になにがあったっていうんだろう?
あたしは、猛烈な好奇心にかられて、急いでさっきの部屋に向かった。
「……で、木の上から降りられなくなった綺羅(きら)さんを、ぼくと真尋(まひろ)が助けようとしたのですが、なにしろ綺羅さんはかなり上まで登っていて、それを見上げただけで真尋は怖くなって泣き出してしまうし、ぼくといえば、半分くらいまで登ったところで、足をすべらせて池に落ちてしまったんです。おかげで足は折らずにすんだのですが、ずぶぬれになってしまって……」
どうやら篁は、あたしたちが子供の頃の話をしているようだった。
あたしが、部屋の中をのぞいているのに気づくと、篁は上機嫌で声をかけてきた。
「あっ、綺羅さん!さっきは怒鳴ったりしてごめんよ。このとおり、あやまるよ。ぼくね、セイラ殿の友人になることにしたんだよ」
「えっ!」
あたしはあっけにとられた。
あれほどセイラにやきもちを焼いていた篁の、手のひらを返したような、このなごやかな態度はなんなのよ。
口もきけないくらい驚いているあたしを見て、セイラは満足そうににこっと笑った。
さては、セイラが言っていた、国に残してきた婚約者とやらの話がきいたのかしら……?
「綺羅さん、ぼくかん違いしてたよ。セイラ殿はとてもゆかしい方だね。穏やかで洗練されたお人柄で、ぼくなんかびっくりするくらい聡明な見識をお持ちなのに、それをひけらかすようなところが全然なくってさ。綺羅さんが、セイラ殿に親身になるのもわかる気がしたよ。ぼくも話をしてみて、いっぺんでセイラ殿に好感が持てたんだ」
「そ、そうなの…ははっ、よかったわね」
この篁のセイラへの心酔(しんすい)ぶりは、あたしにとってなによりも意外だった。
セイラも、ここまで篁にほめあげられるとは思っていなかったようで、心もち頬を染めながら、気恥ずかしそうにしていた。
「右近衛(うこんえの)少将殿、そのように過分におほめいただいては、かえって身のすくむ思いがします。それに、私はこの国ではなんの身分もありません。どうか、セイラと呼んでいただけませんか」
「いや!そういうわけにはいきません。記憶をなくされておられるとはいえ、セイラ殿は、お国ではさぞかし名のある方とお見受けしました。そのような方を粗略(そりゃく)にあつかっては……」
どうやら篁も、あたしと同じことをセイラから感じ取ったらしい。
自分のことをなにも覚えていなくても、セイラには内側からあふれでてくる気品ていうのか、貴公子然としたところがあるのよねぇ。
「では、友人としてお願いすると言ったら?」
「――わかりました。友人としてとおっしゃるのでしたら、ぼくのことも篁と呼んでください。もちろん都に着いたら、このぼくにも、記憶の手がかりを探す手伝いをさせていただけますね」
二人とも、あたしをそっちのけにして、やたらと話が盛りあがってる。
まあったく!あたしが今まで、誰の心配してあげてたと思ってるのよ!!
それからの帰りじたくは、なんとも手早いものだった。
あたしと桔梗(ききょう)のささやかな身のまわりの物を、篁の連れてきた従者や雑仕(ぞうし)があっという間に荷車に積み込むと、あたしたちを乗せた網代車(あじろぐるま)は、あわただしく吉野を後にした。
帰りの車の中で、セイラはさまざまなことを篁に質問した。
やはり、これからいく都のことが気になっているのだろう。都についての情報を、少しでも多く手にいれようとしているようだった。
セイラと篁は、都につくまでの間、ずっとそんな調子で話し続け、車があたしの実家の東四条邸(邸が左京四条にあったことからそう呼ばれていた)に着く頃には、二人ともすっかり打ちとけて、まるで何年も昔からの親友のように見えた。
男の子同士という気安さもあるんだろうか、あたしは、ちょっぴりうらやましく思った。
それにしても、つい二日前会ったばかりで、しかも警戒心がちがちだった篁をこうまで手なずけてしまうなんて、あたしは、セイラの人をひきつける魅力に、今さらながら驚かされる思いだった。
そろそろ日も暮れかかろうとする頃になって、車はようやく邸の門をくぐった。
車宿(くるまやどり)のところまで来て、あたしたちが車を降りると、篁はセイラと別れるのが名残(なごり)惜しそうに、前簾(まえすだれ)をはねあげて顔をのぞかせた。
「じゃあセイラ、落ち着いた頃に迎えに来るよ。都の道案内は、綺羅さんには無理だからね」
「ああ、よろしく頼むよ」
「その後で、ぼくの邸にも寄ってくれる約束だよ。セイラのこと、家の者にもぜひ紹介したいからさ。忘れないでくれよ。きっとだよ!それじゃ、綺羅さんも元気で!」
あたしへのあいさつを、一言だけ言いそえると、篁を乗せた車は、あたしが口をひらく間もなく走り出していた。
ムーッとしたままのあたしを見て、セイラはおかしさをこらえきれないようにクスクス笑っている。
冗談じゃないわ!ほんとにもう、篁のあの変わり身の速さはなんなのよ!
あたしだけがのけ者にされたような気分で、むしゃくしゃしながら邸内に入ると、そこにはそこで、驚愕(きょうがく)の嵐が待っていた。
あたしがセイラを引き合わせると、父さまはとたんにひっくり返って頭を打ってしまうし、母さまは貧血を起こして寝込んでしまうし、あげくの果てに、真尋までもがゆでだこのように真っ赤になって熱を出してしまった。
仕方がないので、あたしもセイラも長旅で疲れていたせいもあって、その日は早々に寝ることにした。
眠りにつく前に、あたしは、
――セイラは今夜も、あの暗い夜空をながめているのかしら。
なんて考えていた……。
次の日、少し気分が落ち着いた父さまに、あたしは、セイラが異国の人間だということ、倒れていたところを看病してあげたこと、セイラは記憶を失っていることなどを、こんこんと説明して聞かせた。
さすがに、実はセイラは空から舞い降りて来たの、とは言えなかった。
そんなことを言ったら、腰を抜かすどころの騒ぎじゃすまなくなるに決まってるもの。
父さまは、セイラが異国の人間だと聞いて、昨日のあわてぶりはどこへやら、珍しい宝物を手に入れたようにホクホクと顔をほころばせた。
「そうかそうか、セイラ殿は異国の方であったか。どおりでわしらと目や髪の色が違うはずじゃわい。いやー、わしは昨日、セイラ殿はてっきり妖(あや)かしのたぐいか、吉野の山霊が綺羅についてきたのかと思ってしまったよ、あっははは……。いや、そうとわかれば、珍しい異国からの客人は歓待せねばならん。わが家の誉(ほま)れにもなることじゃ」
そう言って、セイラの手を握りしめ、大きく何度も振り回しながら、
「セイラ殿。まったく、この容色で姫ではないというのが、なんともはや惜しい気もするが…。あいや、わしの一人言じゃ、気にせんでくだされ。東北の対屋(たいのや)があいているから、そこをお使いになるがいいじゃろう。自分の邸だと思って、記憶が戻られるまで、気がねなくいつまでなりとおられるがよい。おお、そうじゃ!さっそく今夜にでも、内輪だけの歓迎の宴を設けるとしよう」
なんだかうきうきしながらそう話した。
父さまったら、よほど興奮しているみたい。
まあ、セイラみたいな人間を見るのははじめてだろうから、無理もないけど――
その夜、あたしの快気祝いとセイラの歓迎の宴を、ごく内輪だけでひらいた。
おなじ邸に住んでいるといっても、貴族の邸の中はけっこう広くて、父さまは母屋にあたる寝殿に、母さまやあたしたち子供はそれぞれ別の対屋(たいのや)に住んでいるといったように、家族でありながら、独立した生活をいとなんでいて、お互いのことをあまりよく知らないことの方が多い。
だからこうして、家族がそろって顔を合わせるということもめったにないことで、あたしは一応神妙に御簾の中におさまっていたけど、昨日顔を真っ赤にしてもじもじしていた真尋などは、セイラが一つ年上の男の子だとわかって安心したのか、やたらとなついていた。
「いやあ、セイラが男だって聞いてびっくりしたよ。ぼくなんか、セイラはてっきり竹取物語に出てくるかぐや姫かと思っちゃったくらいさ」
なんて酒にうかれて、一人でべらべらしゃべってる。
セイラはお酒が苦手なのか、盃をちびちびなめながら、楽しそうにそれを聞いていた。
多少のごたごたはあったものの、思いのほか、すんなりとセイラがわが家に迎えられたことに、あたしは正直言ってほっとしていた。
でも、セイラをめぐっての本当の騒動は、これから始まるのだということを、その時のあたしはまだ知らなかった。
二日後、篁がやって来て、セイラに都の市を見せるんだと言って、真尋と三人で出かけた。
その出かける前がまたひと騒動だった。
篁は、セイラの身なりが目立ちすぎるというので、着ていた異国風の衣を取りかえて、真尋の藤色の狩衣(かりぎぬ)を着せた。
銀色の長い髪の毛も全部まるめて烏帽子(えぼし)の中に押しこみ、瞳の色を隠すために扇まで持たせた。
そうした狩衣姿のセイラもなかなかすてきで、あたしは思わずほーっとため息がでてしまったほどだった。
同じ狩衣でも、真尋と違ってセイラが身につけると、そこいら辺の公達(きんだち)なんかよりも、ずっと品があって立派に見えてしまう。
髪を上げた細い首筋のあたりなんかは、女のあたしから見ても、ゾクッとするような艶っぽさを感じさせた。
押し込めなかった後ろ髪が、まだ少し見えていたけど、なんとかあまり目立たないようになったところで、三人は車に乗りこみ、さっさと出かけてしまった。
このあたしを置き去りにしてよ!
そりゃあ、権大納言家の姫君たるもの、あまり軽々しく出歩いたりなどしないものだけどさ、なんか一人だけ仲間はずれにされた気がするじゃない。
――あーあ、女の子ってなんてつまんないんだろう。
夕刻もせまった頃になって、ようやく三人は四条邸に戻ってきた。
「ほんとに、あの時はえらくあわててしまったよ」
渡殿(わたどの)のあたりからはずんだ真尋の声がして、三人はカラカラと笑いながら、あたしのところにやって来た。
「綺羅姫、ただいま!市はけっこうおもしろかったよ」
戸口に顔をのぞかせたセイラの明るい声が、真っ先に部屋に飛び込んできた。
「ただいま、じゃないわよ!ずいぶん遅かったじゃない。ずっと帰りを待ってたのよ!待ちすぎちゃって、もう待ちくたびれてしまったわ」
「仕方なかったんだよ、姉さん。いろいろ大変だったんだから……」
真尋の話によると、はじめのうちは誰もセイラに気づいたようすもなく、三人であれこれ市を物色していたのだと言う。
そのうち、ある質素な牛車が通りかかって、うろうろしていた真尋に危うくぶつかりそうになったところを、かたわらにいたセイラがかばって転んでしまったものだから、その後が大変だったのだそうだ。
転んだ拍子に、烏帽子につめ込んでいた長い髪がはみだして、銀糸の滝のようにパア―ッと肩口をすべり落ち、手にしていた扇もどこかへいってしまって、人目をひく美貌と紫の瞳を見られてしまったものだから、市中の人間がもの珍しそうにセイラのまわりに集まってきた。
そこへセイラが、
「やあ、みなさん。ごきげんよう」
と、花のようにあでやかな微笑みをふりまいたものだから、集まった人々の間から、おおーっ!!とどよめきの声が上がって、それからが大騒ぎになってしまったということだった。
「おい、見ろよ。弁天さまがあらわれなさったぞ!」
「いいや、あの紫の目は妖(あや)かしの目だ。こいつはきっと、人の心をまどわして魂をすいとるという水仙女にちがいない」
「なに言ってんだ!あのきらびやかなお顔をよーく見てみろ。このお方は、御仏がわしらのためにつかわされた弁天さまに決まってる!」
市中が、騒然とした異様な雰囲気につつまれ、人だかりはますます増える一方で、二重三重の人垣の輪の中にセイラが取り囲まれてしまいそうになった。
それを見た篁と真尋が青くなって、あわててセイラのそばに駆け寄り、両脇から抱えこむようにして助け起こすと、人ごみを必死のおもいでかきわけ、大急ぎでその場から逃げ去ったらしい。
そのようすは、さながら道なき道を切り開いて、戦場を突き進む猛将のようだったそうだ。(ずいぶん大げさね!)
その場に集まっていた人々が、
「わしらの弁天さまをかえせー!」
と言って、後を追いかけてきたものだから、あせった篁と真尋は、通りに並べてあったくだもの籠はひっくり返すし、鶏(にわとり)の群れは蹴ちらすし、積み上げてあった青菜の真ん中を突っ切って水がめを蹴とばし、九死に一生の思いで市場を駆け抜けたのだと言う。
その間、セイラは手を引かれながらずっと笑いこけたままで、なかなかおもうように追っ手を振り切れず、ようやく人気のない場所でほっと一息ついた時には、とんでもない都のはずれまで来ていたんだそうだ。
当然のように、従者ともはぐれてしまい、そこからまた車の置いてある市まで戻るわけにもいかないので、三人は仕方なく、歩いて帰ってくるしかなかったのだと真尋は言った。
もちろん、篁がひろっておいた烏帽子の中に、セイラの髪をもう一度きっちり詰め込んで。
「ぼくらが必死で走ってるっていうのに、セイラなんかとなりでケラケラ笑っちゃってるしさあ」
「だってあの時の、篁と真尋のあわてぶりときたら、クックックックッ……」
セイラはまだ笑いがおさまらないといったように、口元を押さえてしきりに笑いをかみ殺している。
「もとはといえば真尋、あんたがトロいからそういうことになったんでしょうが!」
「ちぇっ、姉さんはすぐそれだ」
「でも綺羅さん、セイラはほんとに目立ちすぎるよ。これじゃ、まわりの人間がほっとかない。セイラがいくら騒がれたくないと思っていても、ぼくたちだけじゃ、とうていかばいきれないよ」
篁の心底弱りきった顔に、
「いっそのこと、髪を黒く染めてしまおうか……」
さすがのセイラも、うれい顔をしてフゥーッとため息をついた。
篁の言ったことは、果たして現実になった。
父さまは、この国の人間と毛色の違うセイラを誰かれとなく見せびらかしたがって、連日の宴をもよおし、親しい公卿や公達を入れかわり立ちかわり招待した。体調が回復した母さまは母さまで、あちこちに文を書きまくってはセイラのことを自慢した。
噂は青嵐(せいらん)のように洛中を駆け抜け、あまり騒がれることなくセイラに記憶の手がかりを探させてやろうとしたあたしたちのおもわくは、もろくも崩れ去った。
セイラは、なかばあきらめ顔だった。
噂を聞きつけた貴族たちは、父さまのご機嫌をうかがって、連日わが邸に押しかけた。おかげで父さまの宮廷での株は急上昇したらしい。
セイラは厭な顔もみせずに、そんな貴族たちの相手をした。
セイラにしてみれば、騒がれるのは本意でなかったとしても、記憶の手がかりをつかむために、いろんな情報が聞けるということで満足するしかなかったのだろう。
宴の客は、セイラのまばゆいばかりの美貌と気品のある態度や物腰、才知にあふれた話しぶりに、みな満足して帰っていった。
セイラは普段、あたしたちには気軽な親しみをこめた態度で接するけど、その気になれば宮廷人も顔負けの、堂々たる社交家ぶりを発揮した。
まるでずっと以前から人に注目されることに慣れているような、そんな印象さえ受けるほどだった。
人の心をとらえて離さないたくみな話術。物怖じしない毅然(きぜん)とした態度。それでいて、気取らない親しみをこめたあの優雅な微笑み……あたしまで、やっぱりセイラってすてきだわーって、あらためてほれなおしてしまいそうなくらい。
これで篁とおなじ十七歳だなんて、とても思えない。
――そう、セイラがどこの誰であったにしろ、ただの十七歳の若者でありえないことだけは確かだった!
そんなある日、篁が四条邸にやって来た。
いつもなら必ずあたしのところへ顔を出すのに、まっすぐセイラのいる対屋に向かったと聞いて、なにかあると思ったあたしは、先触れの女房もやらずに、こっそりとセイラの部屋へ向かった。
篁は、いつになく情けなさそうな顔をして、円座(わろうだ)に腰をおろし、黙りこくっていた。
そんな篁を気づかってか、セイラが心配そうに声をかける。
「どうしたんだい、篁?さっきから浮かない顔をして」
「うん……実は今日、ぼくは父上の代理として来たんだ」
「右大臣さまの!?」
突然の声に驚いて、二人は部屋の戸口に立っていたあたしをぱっと振り返った。
あたしは、かまわず二人のそばへ寄っていった。
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