第五十六話
「なにかあったのか?」
「実は、夕べわたくしの庵(いおり)を嵯峨宮(さがのみや)という方が訪(たず)ねてこられ――」
「嵯峨…宮……」
聞き覚(おぼ)えのあるその声に、篁(たかむら)はハッとした。
「セイラ!気がついたのか!?」
「ここは……?」
起き上がろうとするセイラに手を貸してやりながら、篁はこれまでのことを話した。
「それで、なにか思い出せたことあるのか?」
心配そうに尋(たず)ねる篁に、セイラは力なく首を振った。
覚(おぼ)えているのは散乱(さんらん)する羽と剣、それだけ――
それにどんな意味があるのか、果たしてそれが自分の記憶だったのかさえ定(さだ)かではない。
セイラは額(ひたい)から手をはずして、尼(あま)に向きなおった。
「久しぶりだね、高倉(たかくら)……いや、今は浄信尼(じょうしんに)だった」
「お久しぶりでございます、セイラさま。お加減(かげん)はもうよろしいのですか?」
「大丈夫だ。それより、さっきの話の続きを聞かせてくれないか?」
「ええ……その方は、ある不思議な邑(むら)に行ってきたとおっしゃっていました――」
『先日大峰山(おおみねさん)の奥山に突然現れた邑があると聞いて、話の種に行ってみたのですが、酔狂(すいきょう)はするものではありませんね。大変な目にあいました』
『突然現れた?まあ、ほほ……それは難儀(なんぎ)なことでした。それで、わたくしにご用とは……』
『難儀どころの話ではありません。なにしろ、人が歩いて行けるようなところではないんです。大地震の後のような地割(じわ)れやら土砂崩(どしゃくず)れやらで……』
『はあ……』
『それでも苦労した甲斐(かい)があって、どうにか邑にたどり着くことができました。そこで、邑長(むらおさ)からいろいろおもしろい話を聞かせてもらいましてね……それから追捕使(ついぶし)軍の船に乗せてもらって、ようやくあなたを捜しあてることができたというわけです』
『あの……わたくしに一体どんなご用が?』
『あなたというより、あなたと一緒に島にやってきた…ここの漁師は僧侶だと言っていましたが…その人の居場所を教えていただきたいのです。とても珍しい物をお持ちだと聞いたので、ぜひ一度拝見してみたいと思いまして……』
『あなた…さまは、理空(りくう)さまのことを……』
『理空――というのですか。ああ、そんなに怖い顔をしなくても名まえに興味はありません。その僧がどんな人かも、私にとってはどうでもいいこと……ただ、その人が持っているという石を見せていただければ、それでいいのです』
「――なにからなにまで、わからないことだらけでした。突然現れた邑だなんて……もしそんな邑が本当にあったとして、わたくしたちがここにいることがどうしてわかったのでしょう。それに、理空さまがそんな貴重な物をお持ちだなんて……」
不可解(ふかかい)な訪問客への疑いが、次から次へ浄信尼の口をついて出た。
聞いていたセイラはうなだれて、こぶしを握(にぎ)りしめた。
そのこぶしが、細かく震(ふる)えている。
「それでも、わたくしはここの庵のことを教えて差し上げることにしました。その方にとって、興味がおありなのは理空さまではなく、理空さまがお持ちになっておられる物。それ以上の詮索(せんさく)をされたくもありませんでしたし……でも――」
『ああ、そうそう。できればその石を拝借(はいしゃく)したいと思っているのですが、それができない時は、理空殿に嵯峨野(さがの)までおつきあいいただくことになるかもしれません。後(のち)の方にもよろしくお伝えください』
「そう言われたことが気になって、今朝ここを訪ねてみましたら、しばらく留守にするという書き置きがあるだけで理空さまはいらっしゃいませんでした。なにがどうなっているのか……わたくしは、取り返しのつかないことをしてしまったのでしょうか……」
取り乱すまいと気丈(きじょう)に振舞(ふるま)っていた浄信尼の目から、はらはらと涙がこぼれた。
篁はそっと視線をそらして、なにか言いたそうにしているナギを手で遮(さえぎ)った。
「後の方ってぼくたちのことだね。浄信尼を捜しにくることを見越(みこ)していたんだ。嵯峨宮、追捕使船に紛(まぎ)れこんでいたなんて……」
「少将さまは、あの方をご存知でしたの?」
「顔を見たことはないけど、知ってるよ。できれば、二度とかかわりあいたくないと思っていたのに……」
がっくりと肩を落とした篁は、次の瞬間――
ドン!!――と床を叩(たた)く音で飛び上がった。
「私のせいだ!」
セイラは、床に叩きつけたこぶしをもう一度叩きつけた。
「私が島にきたせいで、あの男を呼び寄せてしまったんだ!くっ……捜し場所はここだと教えてやったようなものだ!」
再び叩きつけようとするこぶしを、篁は力ずくで止めた。
「ぼくたちだって、浄信尼や理空殿がどこにいるか知らなかったんだ。これから捜そうとしていた矢先で……まさかこんな近くにいたなんて、嵯峨宮にとっては運がよかったと言うしか……」
言いながら、篁はひとつの疑問に行きあたった。
「でもなぜ、嵯峨宮が神剣を……?」
「もう待てなくなった――というところかな」
セイラは伏(ふ)し目がちに、鬱々(うつうつ)として言った。
「記憶が戻るまで、待っていてくれる保証はなかった。嵯峨野で最後の決着をつけようというんだろう。あの男にとって、神剣は私をおびき出すための道具にすぎない」
そう言うと、目をうるませている浄信尼に笑いかけた。
「だから、理空殿に手出しはしないはずだ」
「セイラさま……」
「右近衛少将殿、その嵯峨宮というのはなに者なんです?」
それまで沈黙を守っていた渡辺薫(わたなべのかおる)が、我慢(がまん)しきれなくなったように口を開いた。
「それが……ぼくたちにもよくわからないんだ。ただセイラの命を狙(ねら)ってる危険なやつとしか……」
「セイラ殿のお命を――!?うむ……」
「だったら、わたしが守ってあげる!」
恐れを知らない真っ直ぐな目をした真純(ますみ)に先を越されて、ナギも黙ってはいなかった。
「バカ言え!おまえなんか足手まといだ。セイラさまはオレが守るんだ!」
「そんなことない!わたしだって白鬼さんを守れる!」
「セイラさまを鬼って言うな!」
たわいのない言い争いを、目を細めて聞いていた浄信尼は、ふいに袖口で涙をぬぐい誰にともなく言った。
「理空さまはなぜ、お探しの物をあの方に差し上げてしまわなかったのでしょう。ご自身が危ない目に合うとわかっていて、なぜ……」
「私も、それが知りたい」
セイラはつぶやいて、尹の宮を見送った最後の夜のことを思い出していた。
――私を助けたことを、いつか後悔(こうかい)する日がくるでしょう。あなたが私を殺しにくる時まで、この命はお預(あず)かりしておきます。
あの時、尹の宮はそう言った。
もしあの夜、尹の宮を助けていなければ、神剣は亡骸(なきがら)とともに焼け跡(あと)から見つかったのだろうか。
最後まで神剣を隠(かく)し通したのは、楊(よう)姫に殉(じゅん)じて死に損(そこ)ねた尹の宮の報復(ほうふく)か――?
だとしても、そんなことは嵯峨宮に神剣を渡すことを拒(こば)んだ理由にはならない。
今は僧となった理空が、なおも神剣にこだわるのはなぜか――
セイラは、ひとつ大きく息を吐(は)いて立ち上がった。
「やはり、本人に直接会って確かめるしかない」
「セイラ、それじゃ――」
「ああ。嵯峨野(さがの)へ行く!」
12.嵯峨野の死闘
難波(なにわ)の港は、追捕使(ついぶし)軍の凱旋(がいせん)に沸(わ)きかえった。
何か月、もしくはそれ以上かかると思われていた海賊軍の討伐(とうばつ)を、わずか五日間でなし遂(と)げてしまったセイラへの声望(せいぼう)はいやが上にも高まり、難波の港に集まった者の数は、同じ港で追捕使軍を送り出した時をはるかにうわまわっていた。
だが、晴れやかな笑顔のその人だかりの中に、セイラの姿はなかった。
「お待ちください、右近衛(うこんえの)少将殿――!」
景季(かげすえ)ら海賊を役人に引き渡し船を下りた篁を、船上から渡辺薫が呼び止めた。
摂津(せっつ)へ帰る手配(てはい)をすませ、小走りに船を下りてきた渡辺薫は、そこにいた篁とナギ、真純の顔を名残(なご)り惜(お)しそうに見つめた。
「なにか、まだ夢のような気がしてなりません」
「夢……?」
「ええ。このたびの遠征(えんせい)で起きたことはどれも信じがたいことばかりで、夢を見ているようでした」
篁は破顔(はがん)して、
「セイラの側にいると、ぼくも時々そう思うことがあります」
「セイラ殿は……」
そう言って、渡辺薫はあたりをきょろきょろと見まわした。
「もう、行ってしまわれたのですね」
「嵯峨野へ行く前に、急いで今回の報告書を作らなければならないそうです」
「そうですか。これでお別れかと思うと、残念でなりません。真純(ますみ)にも振られてしまったし……」
帰りの船の中で、渡辺薫は真純を養子にしたいと申し出ていた。
だが真純の答えは、『白鬼さんのところで、おじさんが迎(むか)えにくるのを待ってる』だった。
いくら待っても、景季(かげすえ)はもう迎えにこない――とは、誰も言えなかった。
「私でお役に立てることがあれば、いつでも呼んでくださいとセイラ殿にお伝えください」
「必ず――!」
最後に、渡辺薫は篁のとなりにいるつぶらな瞳にやさしい眼差(まなざ)しを注(そそ)いだ。
「真純、元気で暮らせよ。ナギ、真純のことを頼む」
そう言うと、すがすがしい笑顔を残して渡辺薫は去っていった。
「篁!ナギ!おかえり――!姉さんもここにいるよ――!」
遠くで、真尋(まひろ)が両手を振り大声で叫んでいた。
その頃、清涼殿(せいりょうでん)では帝(みかど)と蔵人(くろうど)の頭(とう)、藤原俊賢(としかた)が内談(ないだん)をしていた。
「そなたが昇進(しょうしん)して参議(さんぎ)になるのは私としても喜ばしいことだが、後任(こうにん)の者も決めておかなくては……誰か推薦(すいせん)したい者はいるか、俊賢(としかた)?」
「はい。まだ時期尚早(じきしょうそう)かとも思っておりましたが、このたび追捕使(ついぶし)のお役目を見事に果たされ、中将への昇進も決まっているあの方ならば、次の蔵人(くろうど)の頭(とう)になんの不足もないと存じます」
「だが、あの者が素直(すなお)に受けるだろうか?」
「そこは主上(おかみ)のご説得(せっとく)次第(しだい)かと……」
「うむ……」
出世への近道であり、官僚(かんりょう)の花形とも言える次の蔵人の頭(=帝の秘書長)には誰がなるのか――
追捕使軍の凱旋(がいせん)に沸(わ)いた殿上人(てんじょうびと)の興味は、早くも次の話題(わだい)に移っていた。
そしてその最有力候補と目(もく)されるセイラは、報告書を書き上げた翌日、見送りの返礼(へんれい)をかねて中務卿(なかつかさきょう)の宮の邸(やしき)にいた。
「まあ、それがお兄さまから賜(たまわ)ったという夕星(ゆうづつ)ですの?」
セイラは苦笑して、御簾(みす)の内に目を向けた。
「帝(みかど)をお兄さまと呼べるのは、佐保(さほ)姫くらいでしょうね」
佐保姫はくすくすっと笑って、
「お父さまには内緒(ないしょ)ですわよ、セイラさま。叱(しか)られてしまいますもの。それより、早く音色(ねいろ)をお聞かせくださいませ」
「おやすいご用です」
セイラは即興(そっきょう)で、軽やかな調(しら)べを奏(そう)した。
庭には撫子(なでしこ)が咲き、遠くで蝉(せみ)が夏の終わりを惜(お)しむように鳴いている。
曲が終わっても、佐保姫はまだ夢心地(ゆめごこち)のままでいた。
ゆったりと流れる時の中で、音色の余韻(よいん)に浸(ひた)りながら――
「あの、セイラさま……また、いらしていただけますか?」
「ええ。またいつか……」
うわさは、風にのって都に届けられた。
――追捕使軍(ついぶしぐん)の者が、誰にも抜けなかったあの柄岩(つかいわ)島の柄石(つかいし)を抜いて持ち去ったらしい。
――天まで届くほどの光の柱が立ったと言うぞ。
――追捕使軍の中で、そんなことができるのは……。
思いあたる人物は誰しも同じだったが、当の本人が黙(もく)したままでは確かめようもなく、真相(しんそう)は闇の中だった。
それはここ、清涼殿(せいりょうでん)でも例外ではなかった。
「巷(ちまた)では、だいぶうわさになっているそうだな。どんな剛(ごう)の者にも抜けなかった石を、そなたが抜いてみせたと……報告書には、なにも書かれていなかったようだが……」
「うわさはうわさでしかありません」
セイラは、タラリと冷や汗を流した。
「そのような事実がなかったので、報告しなかっただけのこと。そう言えば、島の者がなにやら騒いでおりました。光を見たという者もおりましたが、それを調べるのはわたくしの任(にん)ではありません。どうか、そのような風評(ふうひょう)に惑(まど)わされることのなきよう」
セイラがしらばくれても、帝はさほど機嫌(きげん)を損(そこ)ねたようすもなかった。
「ふん、まあよい。ところで、藤原真純(ふじわらのまさずみ)は見つからなかったということだが……」
「はい。藤原真純という首領(しゅりょう)はおりませんでした。他の海賊を集めるために、景季(かげすえ)がそう騙(かた)っていたようです」
「姑息(こそく)なまねを……そなたの報告書には、景季にも同情すべきところがあるように書かれてあったが……?」
「はい。一定の税を納(おさ)めれば、国司(こくし)の思うままに領地や領民を支配できる今の制度に、いささか問題があるように思われます」
「それはわかっている。わかっているのだ……」
御簾(みす)の向こう側で黙り込んだ帝の苦悩が、セイラにも察(さっ)せられた。
言うは易(やす)いが、それを実行するとなると――
「そのためにも、そなたには早く昇進(しょうしん)してもらわねばならぬ。今回のことでそなたの実力は証明された。この短期間で反乱軍を一掃(いっそう)できたこと、みなも驚いていたぞ」
「天候(てんこう)が味方してくれたのです。わたくしの力ではありません。奇襲(きしゅう)が成功したのも、ナギのおかげです」
帝はくすっと忍び笑いを漏(も)らした。
「そなたがいくら謙遜(けんそん)しようと、右近衛(うこんえの)少将ともども中将への昇格(しょうかく)が決まっている。他に望みがなければ、私からそなたにもうひとつ――」
「望みはございます」
居(い)ずまいを正してセイラが告(つ)げたとんでもない《望み》に、帝は青ざめ言葉を失っていた。
清涼殿(せいりょうでん)から出てきたセイラを、権中将(ごんのちゅうじょう)が待ち受けていた。
「追捕使軍のご活躍、お見事でした。セイラ殿に抜(ぬ)かりはあるまいと思っておりましたが、見送りの涙も乾(かわ)かぬうちに凱旋(がいせん)されるとは……いやはや、あなたという方にはかないませんね」
苦笑まじりのため息をつきながら、権中将は目に称賛(しょうさん)の色を湛(たた)えていた。
「私はなにもしていませんよ。渡辺党をはじめ、それぞれの水軍が奮闘(ふんとう)してくれたおかげです。天候(てんこう)にも助けられました」
「あっはっはっは……」
権中将は、突然笑い出した。
「さて、どちらの話が本当やら。セイラ殿はまさに軍神。竜巻(たつまき)を自在(じざい)に操(あやつ)って賊軍を敗走(はいそう)させ、氷龍をも従(したが)えている――と、帰ってきた兵たちがうわさしておりましたが……」
「ははっ、まさか……」
セイラの引きつった顔は、並んで歩いている権中将には見えなかった。
そんなことを言いふらされては、バケモノ扱(あつか)いに拍車(はくしゃ)がかかってしまう――とでも言いたげな顔だ。
「それはそれで、うわさの真偽(しんぎ)を確かめてみたい気もしますが……」
立ち止まったセイラの顔を見て、権中将は控(ひか)えめな笑い声をあげた。
「クックック……まあ、それはともかく今やあなたは注目の的。私がお待ちしていたのも、例の話を受けられたかどうか、それをお聞きしたかったからなのですが……」
「例の話……?なんのことです?」
権中将は、つくづくとため息をついた。
「左近衛中将(さこんえのちゅうじょう)藤原俊賢(としかた)殿が、次の後継者(こうけいしゃ)にあなたを推薦(すいせん)した件ですよ。セイラ殿は今上から夕星を賜(たまわ)っているのですから、名まえがあがるのは当然といえば当然なのですが……」
「俊賢殿……蔵人の頭の……?後継者に、私を――!?」
「今上より、お話いただかなかったのですか?」
「そう言えば、なにか話そうとされていたようでしたが……」
セイラは考え込んで、くすくすと笑い出した。
「私がもっと大それた望みを申し上げてしまったので、黙(だま)り込んでしまいました」
「なっ、なにを申し上げたのです!?」
「それは言えません……権中将殿」
セイラは真顔(まがお)になって、ゆっくりと歩き出した。
「夕星(ゆうづつ)を賜(たまわ)るということは、それほど重大な意味があるのですか?こんなことを聞くのは今さらという気もしますが……薄々(うすうす)わかっていたつもりでも、帝はどこまで私を買っておられるのか……蔵人の頭の候補(こうほ)なら私よりも篁(たかむら)や、他にも大勢――」
「蔵人の頭など、手はじめにすぎません。セイラ殿も、そろそろご自身のお立場を知っておかれるべきでしょうね」
権中将は多少の優越感(ゆうえつかん)に浸(ひた)りながら、わがことのように誇(ほこ)らしげに言った。
「夕星を賜った者は、将来今上の右腕となる地位を約束されたということです」
「今上の右腕……?だったらなおさら、私よりも摂関(せっかん)家の家柄(いえがら)である篁の方が……」
「あなたでなくては駄目(だめ)なのです!」
そう言うと、権中将は周囲に目を配(くば)って声をひそめた。
「その摂関家の藤原氏に牛耳(ぎゅうじ)られている政(まつりごと)を、今上(きんじょう)はご自身の手に取り戻したいと考えておられる。今の右大臣殿は温厚(おんこう)な方ですが、大納言(だいなごん)や参議のほとんどは藤原北家で占(し)められています。近い将来、麗景殿(れいけいでん)さまにお子が生まれれば、東宮(とうぐう)のお立場もどうなることやら……」
「――――っ!!」
「今上は聡明(そうめい)なお方ですが、身近に信頼のおける者がいない現状(げんじょう)では、その手腕(しゅわん)を発揮(はっき)することもかないますまい。尹(いん)の宮殿が亡くなられて、今上(きんじょう)が誰よりも気落ちなさったはずです。片腕をもがれたようなものですからね……」
宮中の事情に精通(せいつう)している権中将がもたらした情報は、セイラに衝撃(しょうげき)を与えた。
はじめて帝に会った時、『閑職(かんしょく)に甘(あま)んじている身』と言った本当の意味がわかったような気がした。
眠(ねむ)らずの無茶な賭(か)けを、セイラに強要(きょうよう)した理由(わけ)も……。
だが――
突然、勢(いきお)いよくぶつかってきたなにかに撥(は)ね飛ばされて、セイラの思考は途切(とぎ)れた。
「痛(つ)――っ!」
「とんだご無礼を――!訳(わけ)あって急いでおりましたもので……おけがはございませんでしたか、セイラさま!」
そう言って、倒れたセイラに手を差しのべたのは、陰陽師(おんみょうじ)安倍晴明(あべのせいめい)だった。
そこは紫宸殿(ししんでん)の前庭にさしかかったところで、植(う)えられてある橘(たちばな)の木に邪魔され、一瞬お互いの姿が見えなくなる死角になっていた。
「いや、私の方こそ考えごとをしていて……」
権中将(ごんのちゅうじょう)にささえられて立ち上がったセイラの目に、陰陽師の首から下がっている赤い勾玉(まがたま)が映(うつ)った。
血の色をしたその勾玉は、まるで脈動(みゃくどう)しているようにせわしなく明滅(めいめつ)をくり返している。
「おや、なにか落とされましたよ」
陰陽師はかがんで、セイラの足元に転がっている黒い石を拾い上げた。
その瞬間――
勾玉が、煌々(こうこう)とした緋色(ひいろ)の輝きを放った!
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