第四話
「セイラ……!」
あたしは、小袖の上に手早く袿(うちぎ)をはおると、かたわらのぞうりをひっかけて、人影の方に歩み寄っていった。
セイラは、身じろぎもせず、じっと立ちつくしていた。
まるで、月からのお迎えがくるのを、今や遅しと待っているように、あたしが近づいていったのも気づかないほど、熱心に夜空を見上げている。
「月からのお迎えを待ってるの?セイラ」
「綺羅(きら)姫……」
ようやく気がついたセイラが、こちらを振り向いた。
「いいお月さまね。セイラって、もしかしたら月の国の皇子さまだったかもしれないわね」
そう言ってしまった後で、なんだか無性に照れくさくなったあたしは、ペロッと小さく舌を出した。
「今夜は満月じゃないから、お迎えはちょっと無理かもね。でも、たとえお迎えが来なかったとしても、あんまり熱心に夜空を見上げているから、そのうち羽でも生えてきて、自分から月に飛んでいこうとしてるのかと思ったわ」
セイラは、うっすらと微笑んだようだった。
「私が見ていたのは月じゃないよ、綺羅姫」
そう言って、セイラは夜空の一方を指差した。
「ほら、見てごらん。こんなにも星々が満天をうめ尽くしているのに、あの一角だけ、なにも見えないところがあるだろ?私はあそこを知っている……私は、あそこにいたような気がするんだ」
「えっ!?」
あたしは一瞬、自分の耳をうたがった。セイラは、今なんて言ったの……?
「変だと思うかい?でも、幾夜もこうして星の見えないあの暗闇を見上げていると、なぜかなつかしささえ感じてくるんだ。あの闇の中に、私はいつも、たった一人でいた……そんな気がしてならない。真っ暗で、なにも見えない、なにも聞こえない、凍えそうな空間につつまれて、私は……」
「セイラ、やめて!そんな恐ろしいこと言わないでっ!」
あたしは怖くなって、夢中でセイラにしがみついた。
セイラは、急に夢から覚めたように、茫然とした目であたしを見ていた。
あたしは、身体中の震えが止まらなかった。
セイラが、なにか、とても恐ろしいことを言っているような気がした。
セイラは遠い国なんかじゃなく、ほんとにあの空の果てからやって来たっていうの?
いつか、記憶を取り戻した時、また、空の果てに還っていくとでも……?
――そんなのイヤよ!!
「セイラ、どこへも行かないで!この山荘に、二人でずっといよう!セイラがどこの誰でもかまわないから、なにも思い出せなくてもいいから……ずっとずっとここにいよう!都になんか行かなくてもいいじゃない!セイラが苦労するだけよ。セイラは、ここの暮らしが嫌になったの……?」
あたしはセイラの胸で泣きじゃくった。
後で思い返してみると、恥ずかしさで卒倒(そっとう)しそうになるけど、あたしはこの時、大胆にも、セイラに恋の告白をしているようなものだった。
セイラはあたしの髪を、何度も何度も、やさしくなでてくれた。
それから、心にしみ入るようなおだやかな声で、あたしの耳元に語りかけた。
「綺羅姫が、友だちになってあげるって言ってくれた時、とてもうれしかった……。私は、いつも一人だったような気がしていたから、だから……とてもうれしかったんだ。その綺羅姫をおいて、どこにも行ったりしないよ。綺羅姫の気がすむまで、私もここにいることにするから。だから、もう泣かないで……」
「セイラ……」
顔をあげたあたしの目にうつったセイラは、月明かりに照らされて、静かに微笑んでいた。
ううん……それは、微笑みと呼ぶにはあまりにも切なく、限りない悲哀に満ちていて、手を触れればこわれそうなほどはかなくもろいものに見えた。
あたしは、急に激しい後悔におそわれた。
声にならないセイラの心の悲鳴が、ここまで聞こえてきそうな気がした。
あたしは今まで、セイラのなにを見ていたんだろう……。
いつまでも記憶が戻らない不安におびやかされながら、セイラはずっと、それに耐え続けていたんだわ。
あたしたちに心配をかけまいとして、そぶりにもださず、自分の中だけでずっと……。
あたしがセイラを山荘にひきとどめておこうとする限り、セイラはもっともっと、自分の中の得体のしれない暗闇に追いつめられて、傷ついていってしまうにちがいない。
あたしのしようとしていることは、いたずらにセイラを苦しめることになるだけなんだわ。
――あたしには、そんな資格なんてない!
あたしは、つかんでいたセイラの衣をパッと手放した。
「あ、あたし……怖かったの。都に行ったら、セイラがあたしから離れていってしまいそうで……。でも、あたしが間違ってたわ。友だちなら、セイラの気持ちをもっと考えてあげなくちゃいけなかったのに……。あたしは、友だち失格ね」
セイラは、黙って首を横に振った。
やさしげな眼差しが、じっとあたしに注がれているのがわかった。
その眼差しにはげまされるようにして、あたしは思い切ってセイラを見上げた。
「セイラ……都に帰ろう!明日、文を書いて、篁(たかむら)に迎えに来てもらうわ。そしたら、あたしとセイラと篁と三人で都に帰ろう。帰って、セイラの記憶を取り戻す手がかりを一緒に探そう!」
セイラはその時、大輪の花びらがほころびるように、艶然(えんぜん)と微笑んだ。
あたしは、瞬(またた)きも忘れて見とれていた。
――この笑顔よ。人をとりこにする笑顔だわ……。
セイラはずっと孤独だったみたいだから、自分の魅力に全然気づいてないけど、こんな笑顔を見せられて、セイラに惹(ひ)かれない人間なんているわけがない。
セイラって、ほんとに罪な奴だわ……。
次の日、あたしは、父さまと篁に文を書いた。
父さまには、これから帰りますけど、お客さまを一人連れていきますからよろしくって。
篁には、(実はあれから、あたしは一度も文を書いてなかったのよね。篁からは二、三度届いてはいたんだけど……。たぶん、ものすごーく怒ってるだろうな)あたしたちが見つけた天女さまを一緒に都に連れていくから、迎えにきてほしいって。それと、セイラの名まえだけは教えてあげたけど、男だってことはわざと伏せておいた。
ふふふ…。篁が迎えにきたときが見ものだった。
それからしばらくして、篁が迎えに来てくれた。
実家の右大臣家では、あたしとの結婚に反対してるので、なんとか行き先をごまかして来てくれたらしい。
篁は、セイラが銀色の髪だってことは知ってたけど、セイラと会って、はじめてその澄んだ紫色の瞳を見た時は、さすがに驚いていた。
「右近衛(うこんえの)少将殿ですね。お目にかかれて光栄です。セイラと申します。私は、お二人に助けていただいたそうですね。なんとお礼を申し上げてよいものやら、お二人には、言葉ではいい表せないくらい感謝しています。綺羅姫には、その後もずっとお世話になってしまって……大変心苦しく思っていました」
涼やかな声で流暢(りゅうちょう)にそう挨拶されて、篁は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「あっ、いや、別にそんな……」
おろおろしながら二言三言、ことばを返したかと思うと、篁は、はっとしたようにあたしを振り返った。
「き、綺羅さん……!?」
セイラとあたしを交互に見つめながら、しきりになにかもの問いたげな表情をしている。
篁が言いたいことは、すぐにわかった。
「そういえば、篁にはまだ言ってなかったわね。セイラは、この国の言葉がちゃんと話せるのよ。ねっ!」
篁のうろたえぶりがおかしくて、あたしはセイラと目を合わせながらニヤニヤした。
「私は最初、天女に間違われたそうですね」
セイラは、篁にむかってにっこりと微笑んだ。
篁の頬が、ポーッと赤く染まっていくのがわかって、あたしはクスクス笑ってしまった。セイラににっこりなんてされたら、たいていの男はこういう反応するわよね。
篁は、ますます慌てふためいたようすで、陸にあがった魚みたいに口をパクパクさせている。
「まっ、まっ、間違われた……って綺羅さん、それじゃ、この方は……?」
またしても篁は、あたしに助けを求めた。
あたしは、セイラをチラッと横目で見やりながらにんまりとした。
「つまりね、セイラは天女じゃなかったってことよ」
「そっ、それは、ひょっとして……」
篁の目が、飛び出しそうなほど大きく見開かれている。
「そっ!セイラはあんたとおなじ十七歳のオ・ト・コだったの!」
目の前の絶世の美女が男だと聞かされて、篁の神経は、ついにぷつんと切れてしまった。
「うーん!」
と、うなったきり、そのまま倒れてしまったものだから、今度はあたしたちが、あわてて扇で風をおくったり、冷たい布で頭を冷やしてやったりしなくちゃならなかった。
しばらくして気がついた篁に、あたしは、セイラが名まえと年令以外、なにも憶えていないことを告げた。
「なにも憶えていないって、それじゃセイラ…殿は、記憶をなくしてるっていうのかい?」
「そうなのよ。それでね、セイラが言うには(セイラはどう見たってこの国の人間じゃなさそうだし)、自分がこの国に来たのにはなにか理由があるはずだって。都に行けば、その理由が思い出せるかもしれないって言うんだけど……。だからあたし、セイラをあたしの邸で預かろうと思うの。ちょうど同じぐらいの年の真尋(まひろ)もいることだし、なによりあたしには、ずっと面倒をみてきた責任があるしね。セイラには、見知らぬ土地で、他に頼る人なんか誰もいないんだもの」
「……ずいぶん、面倒見がいいんだね。綺羅さん」
篁はすねたように、プイッと横を向いた。
「どおりで、文もあれから一度もくれなかったわけだ。セイラ…殿が男だってわかったから、預かる気になったんじゃないの?」
このガキは――っ!!
あたしは猛烈に腹がたってきた。
「篁!バカなやきもち妬いてる場合じゃないのよ!いいこと!セイラはね、必死なのよ。自分がどこの誰ともわからない不安な気持ちをかかえて、どうして自分がここにいるのか、一生懸命思い出そうとしてるのよ。セイラの眼中には、あたしのことなんてはいっちゃいないわ……それどころじゃないのよ。……あたしはね、セイラの友だちになるって約束したの。篁も友だちになってくれるはずだって、あたしは言ったわ。セイラはとても喜んでくれたのよ……その友だちを、途中で放りだすような真似なんか、あたしにはできないわ!もし、篁にその気がないっていうんなら、それでもいいわ。もうあんたとは口をきいてあげない!婚約したのだって、どうせあんたの実家からは反対されてるんだしね!」
あたしは一気にまくしたてた。
篁の目尻が、すーっとつり上がった。
「ああ、そうかい!綺羅さんは、セイラ殿とは仲良く友だちになって、ぼくとは婚約を取り消したいって、そう言うんだね!」
「あんたって子は――!!」
あたしは、とうとう堪忍袋(かんにんぶくろ)の緒が切れてしまった。篁がこんなにやきもち焼きで、分からず屋だとは思わなかった。
「もういいわ。あんたに、セイラのことをわかってもらおうとしたのが間違いだったわ!」
あたしはパッと部屋を飛びだした。
どかどかと足を踏み鳴らして簀子縁(すのこえん)の端まできて、ふと庭を見ると、二、三本だけ植えてある桜の木のかたわらに、セイラが立っていた。
花びらがほとんど散りしかれた後の、若葉の緑がぽつぽつ見えはじめている木の下で、セイラは、最後の花びらに取り巻かれるように吹かれていた。
それを見ていたら、頭に血がのぼっていたあたしも、少しずつ落ち着きを取り戻してきた。
思わず、いつ見ても絵になるやつよねえ……って感心してしまう。篁が焼いちゃうのも無理ないかもしれない。
セイラは、あたしの気配に気づいて、こちらを振り返った。
「だいぶ大きな声がしてたようだけど、綺羅姫、右近衛少将殿との話はもう終わったの?」
「ダメよ!あのバカ!セイラにやきもち焼いちゃって、話にもなにもなりゃしないわ。同い年っていっても、セイラとはしょせん、人間の出来が違うのよ!」
「綺羅姫にそこまで言われたら、右近衛少将殿がかわいそうだよ。私は、少将殿が気に入ったけどな」
ほがらかな笑みを浮かべて、セイラはあたしのそばに歩み寄った。
「あんなやつのどこが、セイラは気に入ったっていうの?」
「フフフッ、綺羅姫のことを、けなげに心配しているところかな。綺羅姫は幸せ者だね、あんなに想われて……」
セイラにそう言ってからかわれると、あたしは顔中が真っ赤になった。
「あ、あたしは嫌いよ!あんなわからず屋!」
にこやかなセイラの笑顔が、なんとなく憎らしくなって、あたしはふいと顔をそむけた。
「そんなこと言っちゃいけないよ、綺羅姫。右近衛少将殿の気持ちも、少しは考えてあげないと……。私は、やっぱり一人で山を降りることにするよ」
「それはダメよ!」
あたしは即座に、セイラの言葉をはねつけた。
「都にはね、いろんな人間がいるのよ。セイラみたいに、右も左もわからないきれいな子が、たった一人で都に出て行ったりしたら、すぐに悪い奴らにつかまって、どこか遠いところに売りとばされるに決まってるんだから。そうなったら、記憶を取り戻す手がかりを探すどころじゃなくなるのよ!あたしは絶対、セイラをそんな目にあわせるわけにはいかないからね!」
あたしの意志が固いことを見て取ったセイラは、大きく息を吐いて、やれやれというふうに首を振った。
「……じゃあ、今度は私がいって、少将殿を安心させてこよう」
「無理よ。いくらセイラだって、あんなにへそを曲げてる篁を、どうやってなだめるっていうの?」
セイラは、唇の端に、自嘲(じちょう)めいた苦い笑みを刻んだ。
「本当のことを言うのさ。私も、自分の国に婚約者を残して来ているのかもしれないと思うと、少将殿がうらやましいってね」
その言葉に、あたしは雷に打たれたようなショックを受けた。
そうなんだわ……いつかセイラは、記憶を取り戻して、自分の国に帰っていく。その国には……!!
そのことに、まるで気づいていなかったと言えば、嘘になる。
でも、あたしは、なるべく考えないようにしていた。
それを考えることは、たまらなく、胸を苦しくすることだったから……。
数日前の夜、セイラはあたしに、星の見えない暗闇の中に、自分は一人っきりでいたような気がするって言ってたけど、あれはやっぱり、記憶をなくして、心細い思いをしていたセイラが見た、悪い夢だったんだわ。
そんな信じがたいようなことが、現実にあるはずないって、セイラにだってちゃんとわかっていたのよ……。
「そう……」
あたしはさっとその場を離れた。
自分の顔色が変わったのを、セイラに見られたくなかった。
――だって、あたしは今、きっとひどい顔をしてる!
見たこともないセイラの婚約者に嫉妬して、セイラの記憶がずっと戻らなければいいと、一瞬でも思ってしまった自分が、情けなくて恥ずかしかった。
セイラは、こんなあたしの気持ちを知ったら、きっと困った顔をするだろう。
そんな顔をするセイラも、あたしは見たくなかった。
◇ ◇ ◇
綺羅姫が不意にその場を立ち去った後、その後ろ姿をじっと見送っていたセイラは、悩ましげに眉をひそめ、しばらくの間、もの思いにふけっていた。
やがて、今はその時ではないと思い直したように、顔をあげると、足早に篁のいる部屋へ向かった。
「失礼!」
軽く会釈をしながら、部屋の中にはいっていくと、セイラは、脇息(きょうそく)に頬づえをついて座っている篁の正面に腰をおろした。
「少し、右近衛少将殿にお話をうかがいたいのですが、おつきあい願えますか?この国のことを、なるべくよく知っておきたいのです。帝がおられるのは、ここから北の、京という都だそうですね。その都には、どれほどの異国人が住んでいるのか、外の国との交易はどれぐらいあるのか、少将殿は、そのことをご存知ですか?」
セイラの意外な質問に、それまで機嫌をそこねていた篁も、意表をつかれて、きょとんとした顔をした。
「あ、えっと、それは……」
◇ ◇ ◇
あたしは、自分の部屋に戻ってくるなり、そばにあった脇息をひっくり返して、それを枕がわりに、思いっきり手足をのばして寝転んだ。
もう、なにをするのも物憂いような気がしていた。
桔梗が、心配そうにようすをのぞきに来たけど、あたしは眠ったふりをしてごまかした。
こんなことになるならって、今さらのように思わずにはいられなかった。
こんなことになるなら、やっぱりセイラと二人で、このままずっとここにいればよかったのよ。
そりゃあ、セイラは一日も早く、記憶を取り戻したいと思ってるでしょうけど、なにも都に行ったからって、思い出せるとは限らないわ。
不安で、じっとしていられない気持ちもわかるけどさ。
あーあ、せっかくセイラが、ずっとここにいるよって言ってくれた時、どうしてあたしは、あんなこと言っちゃったんだろう?
でも、あんな切ない表情のセイラを見ていたら、
『それでもここにいて――!』
なんて、とても言えなかったな……。
あたしは、セイラにしがみついて泣いてしまった夜のことを、もう一度思い出していた。
それから、はじめてセイラとお花見にいった時のこと。それから……。
あれやこれやと、この山荘で過ごしたセイラとの思い出が、あたしの頭の中を、ぐるぐると駆け巡った。
そのときの笑い声までもが、リアルに聞こえてくるようだった。
「ハハハハ……」
ん?なんか、少しリアルすぎない……?
次の瞬間、あたしはガバッと飛び起きた。
今のはあたしの思い過ごしなんかじゃないわ。本物の笑い声よ!
人がこんなに落ち込んでるっていう時に、のん気に馬鹿笑いなんかしてるのは、どこの誰よ!?
「ハッハッハッハ……」
笑い声はもう一度聞こえてきた。
あの声は……篁だわ!
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