第四十六話
神の視線(しせん)が、さっと綺羅(きら)さんに振(ふ)り向けられる。
『そう。一万年……おまえたちには気の遠くなるような歳月だろう。私には刹那(せつな)だが、それでも多少の時を浪費(ろうひ)してしまったことに変わりはない』
憂(うれ)いに沈(しず)んだ横顔が、またしてもセイラのそれと重(かさ)なる。
『あの時……セイラという名の私が邑(むら)の結界(けっかい)を解(と)くと予見(よけん)した時、なにかがおかしいと気づくべきだった。それが、オーブに侵入(しんにゅう)したアズライールに襲撃(しゅうげき)され、生まれ変わった私だったとは……』
「セイラが、生まれ変わり――!?」
やはり――という思いが、ぼくの胸をよぎった。
でなければ、あの口伝書(くでんしょ)にセイラの名まえが出てくる説明がつかない。
でも、それを一万年前に予見していたなんて……この神の力は、なんて底知れない……。
『正しくは、私が生まれ変わるための入れ物というべきだろう。この私は、結界の中に残っていた残留思念(ざんりゅうしねん)にすぎない。私が真に復活するためには、この邑にあずけた物が必要だ。邑長(むらおさ)――』
「は、はあ……」
『私があずけた物を、今こそ返してもらおう』
「かっ、神の石は、祠(ほこら)に安置(あんち)してあります。こんな時がくるとは夢にも思わず……い、いえ……長年大切にお守りしてまいりました。ただいまお持ちします」
邑長が石を持ってくる前に、ぼくにはどうしても確かめておきたいことがあった。
「あの…あなたが石を手にして復活(ふっかつ)したら、セイラは……セイラはどうなるの!?」
一瞬早く、綺羅さんが口を開いた。
地べたに座ったまま、衣(ころも)が汚れることを気にもせず、必死な目をして……。
『おまえたちが石と呼んでいる物には、私の膨大(ぼうだい)な記憶が詰(つ)めこまれている。一万年が一億年でも、刹那(せつな)と思えるほどの……この者の思念も、その記憶の中に飲みこまれるだろう。やむ無きこととはいえ、大河に投じられた一雫(ひとしずく)は、あって無きに等(ひと)しい』
「それって、セイラがいなくなってしまう…っていうこと?」
「そんなこと――!いくら神でも許されるもんかっ!!」
ぼくは、言いようのない怒りに駆(か)られて立ち上がった。
「セイラは、今だって記憶を失くしてる。ここへ来たのは、その記憶を取り戻すためだ!神に身体(からだ)を乗っ取られるためじゃない!」
『それが、この者の宿命(さだめ)だ』
夜空を映(うつ)したような濃(こ)い紫色の目が、ぼくに注(そそ)がれる。
膝(ひざ)がガクガクするような威圧(いあつ)感――
どうすればいい、どうすればいい……このままじゃセイラが……。
――と、その時、神の表情が苦しそうにゆがんだ。
腕を宙にのばし、振りまわして光の胞子(ほうし)を払(はら)おうとしている。
片翼がとれて、それを形作っていた胞子があたりに散らばる。
『この期(ご)におよんで……なにを……』
「セイラだわ!篁(たかむら)、セイラがあの中で戦ってるのよ!」
広場のまわりに集まっている邑人(むらびと)も、神のようすがおかしいことに気づいて騒ぎはじめた。
そうだ!今ならまだ、セイラにも勝機(しょうき)があるかもしれない!
「綺羅さん、ぼくに考えがある。こっちに来て!」
ぼくと綺羅さんは、邑長が出ていった広場の入り口に、神の注意をひかないよう少しづつ慎重(しんちょう)に移動していった。
邑人の好奇(こうき)の目が、ぼくたちに向けられる。
でも今は、そんなことにかまっていられない。
「綺羅さん、神が石を手にしたら、もうセイラを取り戻すことはできなくなる。でも今なら、あの光の胞子さえ振り払ってしまえば、セイラは元に戻れるかもしれない。だから邑長が石を持ってきたら、神に渡す前に、隙(すき)を見てぼくが奪(うば)い取る!」
「わかったわ!あたしはなにをすればいい?」
「綺羅さんは……祈(いの)っててくれ。ぼくとセイラがうまくいくように……」
うなずいた綺羅さんの目には、怯(おび)えもあきらめもなく、強い意志の煌(きら)めきだけがあった。
「あたし信じてるわ。だから、お願いよ篁!」
ぼくは、ちょっとだけ切なくなった。
綺羅さんは心からセイラを想(おも)ってる。
セイラが神の生まれ変わりとわかっても、なお……。
ダメだダメだ!今はこんなこと考えてる場合じゃない!
ぼくたちがひそひそ話している間に、神は自分の両腕のひじを、交差(こうさ)した手で胸元に押さえこんでしまっていた。
一度はバラバラになった片翼が、元に戻っていく。
セイラ、やっぱりダメなのか!?
『……私に…翼はいらない!』
動きの止まった神の口から、誰にともなく言葉が漏(も)れた。
『ナーガには、ナーガの誇(ほこ)りがある……あなたは、そんなことも忘れてしまったのか!?それとも翼を受け入れ、心までカルラになり果てたか!ルシファ――!!』
――その瞬間、神の両腕がパッとほどけた。
『フフフッ…ハハハハ………』
突然の笑声に驚いて、誰もが呆然(ぼうぜん)と神を見守った。
『翼が気に入らないか、セイラ。私もだ。だが――』
その時、祠(ほこら)から戻ってきた邑長が、布に包(つつ)まれた物を捧(ささ)げ持って広場に進み出た。
――しまった!出遅(でおく)れた!
なぜもっと早く、邑長が戻ってきたことに気づかなかったのか……。
頼む!間にあってくれ――!!
突進(とっしん)するぼくの前を行く邑長の足が止まり、包(つつ)みを高々と捧(ささ)げた。
ダメだ!間にあわない!!
一か八か、あらんかぎりの力をふりしぼって、ぼくは跳(と)んだ――!
あと少しで包みに手が届きそうになった時、ぼくは、膝(ひざ)を折(お)って身をかがめた邑長の頭上を飛び越えていた。
もんどりうって倒れこんだぼくに驚いた邑長の手から、包みがこぼれ落ち、中身が転がり出た。
細長い石のような……これが――
『それは、オリハルコンではない――!!』
神の大音声(だいおんじょう)が響きわたったとたん――
光の胞子が、急速に輝きを失って消えていった。
「セイラ――っ!」
倒れているセイラのもとへ、ぼくと綺羅さんが駆け寄る。
「かっ、神は……どうしたのですか?」
邑長は、なにが起きたかも理解できずに震(ふる)えていた。
「セイラは、神じゃないよ。神は消えた。たぶん、その石が本物じゃなかったんだ」
「そ、そんな――!邑の者で、神の石に触(ふ)れるような者は誰も……」
「邑の者でなければ、迷いこんできたという旅の者がすり替(か)えたのかもしれない。どこの誰かは知らないけど、ぼくはその人に感謝するよ。でなければ、セイラは今ごろ……」
「よかった、セイラ……」
緊張(きんちょう)の糸がほどけたのか、綺羅さんはぽろぽろと涙をこぼした。
――綺羅さん、ぼくはどうしたらいいんだ……。
あの雪の日、ぼくたちが見つけた天女が、ただの人間じゃないことくらいわかっていた。
だけど、こんな――!!
記憶をなくす前のセイラが、おそらくはすべてを承知(しょうち)の上で探(さが)していたのは、この邑の石に間違いない。
そして、それを手にしたらセイラは――
「……なにを、泣いてるの?」
意識を取り戻したセイラが、綺羅さんの頬(ほほ)に手を差しのべた。
「セイラ……グスッ、グスッ」
「綺羅さんはね、乗り物から降りたセイラが転倒(てんとう)して頭を打ったから、死んじゃったんじゃないかって心配していたんだ。実際、ずいぶん長い間気を失っていたんだよ。もう大丈夫かい、セイラ?なにか覚(おぼ)えていることは……?」
「……い、いや。頭が朦朧(もうろう)としていて……なにも、思い出せない。広場に降りようとしていたところまでは、覚えているんだけど……」
セイラは上体を起こして、ふらつく頭を押さえながら言った。
「そうか、無理もないよ。セイラは気を使いすぎて疲れていたんだ」
ぼくは、ほっと胸をなでおろした。
セイラには悪いけど、この分なら――
「あ、あの……」
綺羅さんが、不思議そうな顔でぼくを見ている。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
「綺羅さん、もう心配いらないよ。セイラには、なにも変わったところはないみたいだ」
「そ、そう……」
頼む、綺羅(きら)さん。ぼくに話を合わせてくれ!
神のことも、石がすり替(か)えられていたことも、全部なかったことにしてしまうんだ!
そうすれば、セイラはもう石を探す必要がなくなる――
「それは……?」
セイラは、包(つつ)みからこぼれた石を見つけて言った。
「ああ、それが口伝書(くでんしょ)にあった石だよ。邑長(むらおさ)が用意してくれていたんだけど、セイラが転倒(てんとう)してそれどころじゃなくなって……邑長、セイラに石を見せてやってくれ」
ぽかんとして話を聞いていた邑長は、呼ばれてはっとしたように布の上に石を戻し、セイラに差し出した。
その石を手に取ることを、セイラは躊躇(ちゅうちょ)した。
そのためらいがどこからくるのか、今のぼくにはよくわかる。
記憶がなくても、石に触(ふ)れるということがどういうことなのか、心の奥底でセイラにはわかっているんだ。
「これが、口伝書にあった……」
セイラはおそるおそる石を手にした。
「これは……ただの石だ。玉(ぎょく=美しい石)には違いないが、なんの力も感じられない」
そうだよ、セイラ……その石は本物じゃないんだ。
「がっかりすることないよ、セイラ。また別の、記憶を取り戻す手がかりを探そう」
「そうじゃなくて、この石は違うと――」
セイラの鋭敏(えいびん)な感性(かんせい)が真実を言いあてようとした時、ググーッと綺羅さんのおなかが鳴った。
「やだ!あたしったら……安心したら、なんだか急におなかが……」
顔を赤らめた綺羅さんを見て、邑長の顔がほころんだ。
「お話の途中ですが、みなさまお疲れになられたでしょう。ささやかではありますが、わが家に夕餉(ゆうげ)の支度(したく)ができております。お話の続きは、それをすませてからにされてはいかがです?」
ぼくたちは、元気を取り戻した黒角(くろつの)を解放してやった後、広場にほど近い邑長の家に案内された。
外観(がいかん)は暗くてよくわからなかったが、かなり大きな建物でちょっとした貴族の邸(やしき)ほどの広さがある。
「ここは邑の集会所も兼(か)ねておりまして、左側が集会所、右側が私どもの住まいになっております。わが家というよりは、まあ…代々の邑長が住んでいる公舎(こうしゃ)のようなものですが……さ、どうぞお入りください」
ぼくはセイラと綺羅さんを先にやって、小声で邑長に念を押した。
「神が現れたことは、セイラには黙っていてくれ。いいね!」
邑長は責めるような目でぼくを見ていたが、なにも言わずにうなずいてくれた。
ぼくの嘘がどこまでセイラに通用するか……。
だけど、やるしかない――!
長い廊下(ろうか)を渡って部屋に通されると、いきなり強烈な光がぼくたちを襲った。
頭上にあるなにかが、部屋中を真昼のように照らし出している。
「邑長!この光は――」
思わず顔をおおったぼくを見て、邑長は布を取り出した。
「びぃーどの火が強すぎましたか。どうも出力が安定しなくて……これで、少しは和らぐでしょう」
そう言って、天井から吊(つ)るしてある光のもとを布で包み込んだ。
「びぃーどの火?これが……」
「灯台(とうだい)よりずっと明るいわね。へえー、どうして光ってるのか不思議……」
ぼくたちが座についても、綺羅さんは布を取り除いてみたくてうずうずしている。
好奇心だけは人一倍だ。
おまけに、それがいつも厄介(やっかい)ごとを引き起こすことに気づいてない。
「ダメだよ、綺羅さん。まともに見たら目がつぶれるよ!」
「お客人は、この火のことをご存じでしたか?」
「知っている…というか、ある人が持っていた口伝の覚書(おぼえがき)というものに書いてあったんだ」
「そんなはずは……」
邑長はつぶやいて、記憶の糸をたぐるような遠い目をした。
「ひょっとして、それはフサさまが書いたものでは……」
「フサ…?どういうことだ?くわしく話してくれ!」
それまで静かだったセイラが急(せ)き込んで尋(たず)ねると、邑長は畏(おそ)れをなしてひれ伏した。
「私は神じゃないよ、邑長。そんなにかしこまらなくていい。ただの客人として扱(あつか)ってくれないか」
セイラは、蒼白な顔で眉(まゆ)を曇(くも)らせた。
「はあ。ですがセイラさまは、か……」
顔を上げてなにかを言いかけた邑長が、ぼくを見て急に言葉を詰(つ)まらせた。
「……あいや、フサさまのことでしたな」
ぼくには、邑長がなにを言おうとしたかわかる気がした。
そして、それを言わずにいてくれた邑長に感謝した。
「フサさまはとてもおうつくしく、聡明(そうめい)な方だったそうです。それが――」
運ばれてきた蜜湯(みつゆ=はちみつをお湯に溶かしたもの)を一口飲んで、邑長は先を続けた。
それによると、今から四十数年前、邑長がまだ子どものころに、先先代の邑長の娘フサが突然姿を消すという事件があったそうだ。
結界(けっかい)で閉じられている邑の中をくまなく探しても、フサは見つからなかった。
結局、森の精霊にさらわれたのだろうと、あきらめるしかなかったという――
「フサさまは、五人の語り部(べ)のうちのおひとりでもありました」
「語り部――?」
「はあ…セイラの神の口伝は、この邑の選ばれた者によって語り継(つ)がれてきました。それが語り部と呼ばれる者たちです。毎朝日が昇ると同時に、五人の語り部が祠(ほこら)で口伝を朗詠(ろうえい)いたします。一言の間違いもないように……それはこの邑の大切な儀式のようなもので、都のお人が知るはずもありません。ですが、もしフサさまが生きて邑から出られて、都に行ったのなら……」
「覚書を書き記(しる)すことはできる――」
「はあ、その通りで……」
邑長は、またしても深々と平伏(へいふく)した。
でも当のセイラは、もうそんなことを気にしていなかった。
「そういうことだったのか……それですべて納得(なっとく)がいく」
「あっ、あたしは納得してないわ!ちゃんとわかるように説明してよ、セイラ!」
「つまりこういうことさ。四十数年前、偶然にも邑を抜け出すことができたフサは、吉野あたりにやってきていた貴族に見初(みそ)められ、都に連れていかれた。のちに女御となる赤子を生み、その女御は帝の御子を生んだ。口伝書は子から孫へと受けつがれ、八歳の時に、御子は陰謀に巻き込まれて東宮の地位を追われた……」
「じゃあ、フサは尹の宮のおばあさま――!」
「もちろん、これは私の推測でしかないが、尹の宮が口伝書を持っていたことの説明はつく」
「でも、どうやって邑を抜け出せたの?」
「あっ、まさかあの洞穴(どうけつ)から……!?」
セイラはぼくにうなずいて、滝の裏にあった洞穴のことを綺羅さんに話した。
「洞穴は途中、大岩にふさがれていた。だから私たちはそれ以上進むことはできなかったけど、あの大岩が落ちてくる前、洞穴はこの邑のどこかにつながっていたはずだ。でもその入り口を捜すとなると……森の中にあるさほど大きくもない穴だとしたら、今も昔も見つけるのはむずかしいだろうね」
「森の中にそんなところが……では、三十年ほど前に行方がわからなくなった姉のクズハも……」
「おそらくその穴に落ちたんだろう。三十年前……そうか、もしかしたら安倍殿の母親は、邑長の姉だったのかもしれない」
「クズハに子が……うむむ……」
邑長がうなっているところへ、夕餉(ゆうげ)が運ばれてきた。
食べ物の香(こう)ばしい匂(にお)いがしてくると、ぼくはいまさらのように空腹だったことに気づいた。
大きな木の皿の上には、さまざまな食べ物が盛られている。
獣の肉や川魚、野菜などが串(くし)に刺して焼いてあった。
「へえー、どれも小さく切って串に刺してあるのね」
「われらは山の民。こうしておけば、仕事をしながら片手で食べることができます。それがいつの頃からか、家で食べる時もそうするようになりまして……はあ、遠い昔のことです。このような物がお口に合いますかどうか……まずは、お召(め)し上がりください」
綺羅さんは、さっそく一本の串にかぶりついた。
次回へ続く・・・・・ 第四十七話へ TOPへ