第四十五話


「おそらく、神奈備(かむなび)に……」

 金緑色の光に照(て)らされたセイラの横顔は、唐金(からかね=青銅)の像(ぞう)のような、静謐(せいひつ)な美しさがあった。

 その静けさの中で、確信に満ちた目だけが燃えるような光彩(こうさい)を放っていた。

「セイラ、まさかそのことを知っててこの洞穴(どうけつ)に……?」

「知っていたわけじゃない。でもこういう抜(ぬ)け道があることはわかっていた。安倍(あべ)殿の話を聞いた時から……だから、もしかしたらって思ったんだ」

「安倍殿の話……?」


「なんだ。せっかく話してやったのに、もう忘れてしまったのかい?」

 唐金(からかね)の像がくしゃっと崩(くず)れて、かわりに白い歯がのぞいた。

「安倍殿は、母親が神奈備の出身だと言っていた。ということは、神奈備で生まれて今はもうそこにいないということだ。邑(むら)の者以外は、中に入ることさえ難(むずか)しいとも……結界(けっかい)が張られているはずなのに、その中に出入りできる者がいるということは、どこかに秘密の抜け道があると考えるのが当然だろ?たとえば、この洞穴のような……」

「そうか!なるほど……じゃ、この先に神奈備が……」

 セイラはにっと笑ってうなずいた。

「そろそろ綺羅(きら)姫も目が覚(さ)めるころだ。少し先を急ごう」

 希望がわいたのもつかの間、ぼくたちの足は、それからすぐに止まってしまった。

 光の回廊(かいろう)が突然断(た)ち切られ、大岩や土砂(どしゃ)で埋(う)め尽(つ)くされてしまっていたからだ。

「これも、チカクヘンドウ……っていうやつかな。セイラの力で、どうにかならないの?」

 セイラは大岩をにらみつけて、首を振った。

「たとえこの岩をどかしたとしても、支(ささ)えているものがなくなればその上からまた岩が降ってくるだけだ。その量がどれほどのものか、見当もつかないよ」

 そう言って、セイラはさっと踵(きびす)を返した。

「戻ろう、篁(たかむら)。綺羅姫のところへ」

「う、うん……」

 さっきまで目と鼻の先に思えていた神奈備が、とても遠くに感じられた。

 山歩きをしていた時は、まだ一歩一歩近づいてる気がしていたのに、今はどこをどう探せばいいのか、手がかりさえつかめずにいる。

 ぼくの体力にも、そろそろ限界が……。

 出口の薄明(うすあ)かりが見えてきた。

 あと、もう少し……。

 グラッときた次の瞬間――セイラの手がぼくの身体(からだ)をささえていた。

「篁!しっかりするんだ!」

 大丈夫だよ、セイラ。ぼくはまだ、歩………。


 
           


 ――身体がどんどん軽くなっていく。

 覚(おぼ)えのあるいい香(かお)り……その中をふわふわ飛んでる。

 まるで羽が生(は)えたような、天にも昇(のぼ)る心地(ここち)だ――!

 誰かが、ぼくに口づけしてる…のか?

 長い…銀色の髪。

 ああ、そうか。これは夢なんだ。夢なら……。

「セイラ……ぼくは――」

「気がついたかい、篁!急に倒(たお)れたから心配したよ!」

 夢……じゃ、ないのか。

 えっ!ええ――っ!!

 洞穴の壁(かべ)にもたれていたぼくは、勢(いきお)いよく立ち上がろうとして足を滑(すべ)らせ、頭の後ろを思いっきり壁にぶつけた。

「あたたっ……」

 セイラはくすくす笑いながら、

「いきなり立ち上がろうとするからだよ。どうしたんだい、急に……?」

「どっ、どう…どうって!今、くっ、口づけ……!」

 顔から火が出るなんてもんじゃない。

 頭のてっぺんが噴火(ふんか)しそうだ!

「ああ、そのことか」

 セイラはなおもおかしさをこらえながら、

「手を当てるより、直接気を送りこむ方が回復が早いんだよ。それで疲れはとれたかい?」

「あ、ああ…そう言えば……」

 足の痛みがすっかり消えていた。

 重い荷物(にもつ)を下ろした後みたいに、身体が軽くなった気がする。

「なんだか、山歩きをはじめる前より調子がいいくらいだ」

「よかった。おまえが元気になってくれないと、私が背負(せお)っていかなきゃならないところだった」

 セイラ…た、頼(たの)むから、そんな顔でこっちを見ないでくれ!

 意識するまいと思っても、お前の唇(くちびる)に目がいって、ぼくは……!

「篁?顔が赤いけど熱でもあるのか?おかしいな、さっきまでは……」

 額(ひたい)にのびてきたセイラの手を、ぼくは乱暴(らんぼう)に振り払(はら)った。

「なっ、なんでもないよ!早く戻ろう!」

 そこはもう洞穴の入口で、目の前には滝が見えていた。

 二、三歩歩きかけて、ぼくはたまらずに後ろを振り返った。

 セイラの手を振り払ったことを、後悔(こうかい)していた。

「あの…ごめん、セイラ。おまえだって疲(つか)れてないはずないのに、その…気をわけてくれたこと……感謝してる」

 そのセイラが見ていたのはぼくではなく、ぼくの後ろにあるなにかだった。

「篁、ゆっくり後ろを向いてごらん。なにが見える?」

「なにって……」

 あらためて聞かれるまでもない。

 ぼくの後ろにあるのは、ごうごうと音を立てて流れる……滝の水……。

「変だな、音が聞こえない……」

 もっと近づこうとした時、なにかが頬(ほほ)にあたった。

「水滴(すいてき)……?」

 よく見ると、まわりには丸い形をしたものや細長い形をした水の粒(つぶ)がいっぱい浮かんでいる。

「セイラ……ここでは、水滴も浮くのかな?」

 もしかしたら、ぼくはまだ夢を見ているのかもしれない――そんな気さえしていた。

「水滴は勝手に浮かないよ、篁。それにこれは浮いてるんじゃない、静止しているだけだ。なにかの力が、水滴の動きを止めたんだ!」

 さっきまでとは打って変わった怖(こわ)い顔で、セイラは滝の側に寄って行った。

「水滴は滝から飛んできた。ごらん、滝の水もすべて止まっている」

 もし万物(ばんぶつ)の一瞬を切り取る道具があったら、世界はこんな風に見えるんだろうか。

 今にも音を立てて流れていきそうなのに、静まり返ったままの滝。

 滝壺(たきつぼ)から飛び上がった水飛沫(みずしぶき)は水晶(すいしょう)玉のようで、形を変えることもなければ水に戻ることもない。

 それは本当に奇妙(きみょう)な、目を疑(うたが)わずにはいられなくなる光景だった。

「まるで、時が止まってしまったみたいだ……まさかこれも……!」

「誰かの仕業(しわざ)か、それともこの森のせいか……とにかく、途方(とほう)もない力が働いていることは確かだ」

「セイラ、綺羅さんは――っ!?」

「急いで戻った方がいい!」

 滝の裏側から戻ると、森のようすが一変(いっぺん)していた。

 季節を間違(まち)えたんじゃないかと思えるほど、木々が一斉(いっせい)に緑の葉を落として、暮(く)れかかる空が見えていた。

 覆(おお)っていた枝葉(えだは)がなくなって全容(ぜんよう)を現(あらわ)した滝は、ぼくが考えていたよりもずっと高くて、落差(らくさ)は五十間(=約九十一メートル)以上あるだろうか。

 その滝の上空を目指(めざ)して、落葉や下草、森中のありとあらゆるものから、胞子状(ほうしじょう)の光が立ちのぼっていく。

「とんでもないことになってるのは、滝だけじゃなかったんだ!」

 異変(いへん)は森全体に起こっていた。

 この異変に綺羅さんが巻き込まれていなければいいが……。

「綺羅さん――っ!」

 祈(いの)るような思いで駆け戻ると、綺羅さんは黒角(くろつの)につき添(そ)われて、なにも知らずに眠っていた。

「よかった!おまえが綺羅さんの側(そば)にいてくれて助かったよ、黒角。だけど、この森はどうなってしまったんだ?」

「……篁、黒角のようすがおかしい」

 言われてみると、黒角の身体(からだ)にも無数の胞子状の光がまとわりついている。

 ようすがおかしいのは、あの光のせいだろうか?

 ぼくたちのことなど目に入っていないみたいに、あらぬ方を見ている。

「――黒角、私の声が聞こえるか?」

 セイラの呼びかけに、黒角はわずかに反応して首を向けた。

「教えてくれ、なにがあった?」

『――時は満ちた。かの地は解(と)き放たれん――』


 
           


 黒角が厳(おごそ)かにそう告(つ)げると、大地が鳴動(めいどう)した。

「じっ、地震だ!!」

 立っていられないほどの震動(しんどう)が、足元からつき上げてくる。

 それを合図のように、黒角の身体(からだ)から光の胞子(ほうし)が離れていった。

 がっくりとひざ折(お)れる黒角――

 揺(ゆ)れはすぐにはおさまりそうになかった。

 それどころか、どんどん強くなってくる!

「セイラ!こっ、これはただの地震じゃない!このままここにいたら、ぼくたちも危険だ!」

「私もそう思う。ひとまず上空に避難(ひなん)しよう!」

 セイラは、黒角とぼくたちのまわりに防護膜(ぼうごまく)を張(は)った。

 この最悪のタイミングで、綺羅さんが目を覚(さ)ました。

「んん……なに、なにが起きてるの?え……地震っ!?」

 バネ仕掛(じか)けのように飛び起きた綺羅さんの肩を、ぼくはあわてて押さえつけた。

「立っちゃだめだ!いいかい綺羅さん、よく聞いてくれ!揺れがどんどんひどくなってきてる。ここにいたらぼくたちも危ない。だから上空に避難する!」

「上空に……?」

「そうだよ。ぼくたちは今、セイラが張ってくれた防護膜の透明な球体の中にいる。これから上昇するけど、怖がることはないよ。この中にいれば安心だから、綺羅さんはもう少し休んでいた方がいい」

 そう言っている間にも、ぼくたちを乗せた球体はゆっくりと地面を離れていった。

 しだいに足元に広がっていくなにもない空間をのぞき見て、ぼくは思わず目をつぶった。

 綺羅さんにはああ言ったけど、一度経験しているとはいえこの感覚には慣(な)れそうもない。

 それなのに綺羅さんは、怖がりもせずもぞもぞとセイラの側(そば)まで這(は)っていって、黒角の頭を撫(な)でている。

「篁の言うとおりだよ、綺羅姫。まだ横になっていた方が――」

「あたしは大丈夫。それより、黒角どうかしたの?」

「なに者かに意識を乗っ取られていたようだ。精霊の黒角には、負担(ふたん)がかかり過ぎたんだろう……」

『……あれは、狐(きつね)の森の主(ぬし)だったのかもしれません』

「黒角!気がついたのね!」

「なぜ、そう思う?」

『はっきりとはしないのですが……あなた方が森に入ってきて、結界(けっかい)が解(と)けはじめた。神奈備(かむなび)が、姿を現(あらわ)そうとしている……そんなことを言っている声が、聞こえました』

「神奈備が姿を現す……これが、その兆(きざ)しだというのか……」

 地震はまだ続いていた。

 地面は波のようにうねって切り裂(さ)かれ、片側の土塊(つちくれ)が小山ほどに盛り上がっていく。

 木々が倒(たお)れ、斜面は崩(くず)れ落ち、そこはもうぼくたちが歩いてきた森ではなくなっていた。

 そして滝が――

「セイラ!滝が縮(ちぢ)んでる!」

 地震が起きる前までは五十間(けん)以上あった落差(らくさ)が、今は半分ほどしかなくなっていた。

「縮んでるんじゃない!山が地中に沈みこんでいるんだ!」

 山が沈む……?

 そんなことが本当にあるなんて――

 滝の上の空が、だんだん広がっていく。

 その空には、逆(さか)さになった不思議な虹が浮かんでいた。

「思い出した……あたし、あれと同じものを夢の中で見たわ。その下に、セイラより髪が長くて羽のあるセイラそっくりの人がいて、滝の向こうを指さしてるの……」

「滝の向こう?……そうか!神奈備は山の上にあるんだ、セイラ!」

「そして誰も近づけないように、周(まわ)りを狐の森が取り囲(かこ)んでいた、ということか……」

「行ってみましょう!あそこへ――」

 綺羅さんが滝の上を指さして、目を輝かせる。

 ぼくたちに異存(いぞん)があるはずはなかった。

「行ってみよう!」


 
           


 季節は夏だというのに、滝の水が凍(こお)りついていた。

 セイラの説明によれば、滝が縮(ちぢ)んだことで静止していた水が圧縮(あっしゅく)されると、そうなるんだそうだ。

 落差はまた縮まって、今は十間(=約十八メートル)ほどだろうか。

 地鳴(じな)りはまだ続いている。

 ぼくたちは、地震で砕(くだ)けた氷の破片(はへん)を見下ろしながら、滝の上に向かいその奥へと進んだ。

 逆(さか)さの虹は、もう消えていた。

 遠く山の端(は)に、日が落ちようとしている。

 このあたりも、もうすぐ闇につつまれるだろう。月明かりもない暗闇に――

「綺羅さんが、夢の中で見たっていうセイラそっくりの人は、やっぱり口伝書(くでんしょ)に出てきた神……だったのかな……」

「わからないわ。背中に大きな羽があったからセイラじゃないことはわかったけど……でも、あたしはそう信じてるわ。あれは神さまのお告げだったって……」

 その時、すっとセイラが立ち上がった。

「明かりが見えた!」

 ぼくたちを乗せた球体が、速度を増して近づくと、木々の間から夕映(ゆうば)えに染まった邑(むら)の家々が見えてきた。

「ここが、神奈備――!」

「あたしたち、とうとう着いたのね!」

 邑の中心には大きな広場があって、四隅(よすみ)には篝火(かがりび)が焚(た)かれていた。

 地震の影響は、ここにはないんだろうか。

 篝火は倒れもせずに燃えている。

 そのまわりには人が大勢集まっている気配(けはい)があって、ざわざわした話し声まで聞こえてくるようだ。

「どうやら邑(むら)の方でも、私たちを迎える準備をしてくれていたらしい」

 セイラは広場の真上までくると、ゆっくりと球体を降下(こうか)させていった。

 地上に着く直前で、球体ははじけるように消えて、ぼくと綺羅さんは中から転がり出た。

 その瞬間を狙(ねら)って、上空にとどまっていた光の胞子が、一斉(いっせい)にセイラに襲(おそ)いかかった!

 目もくらむばかりの光につつまれたセイラの、髪がするすると伸びて、足元に渦(うず)を巻いていく。

 背中には、光の胞子でかたどった大きな翼まであった。

「夢の中に出てきた、神さま……」

 綺羅さんがつぶやくのを聞いて、ぼくはぞっとした。

 そこにいたのは、確かに人とは違う圧倒的な存在感を持つ者だった。

 あたりには凛(りん)とした空気が漂(ただよ)い、近くにいるだけで皮膚がビリビリするような波動(はどう)を感じる。

 これが、口伝書の神……?

 それとも、黒角の時と同じように、セイラが意識を操(あやつ)られているだけなのか?

「あ…あなたは誰だ!?セッ、セイラをどうした!?」

 ぼくは、全身の勇気をふりしぼって声を出した。

 突き刺すような炯炯(けいけい)とした眼光が、ぼくを一瞥(いちべつ)する。

 やっぱり、これはセイラじゃない――!!

『ついに、時が……』

 神はつぶやいて、広場のまわりに集(つど)いひれ伏している邑人(むらびと)を見まわした。

 気がつけば、地鳴りの音が止んでいた。

『――邑長(むらおさ)はどこに?』

「は、はあ……ここに控(ひか)えております」

 五十歳くらいの、髪を後ろで束(たば)ね麻の上衣を着た男が、広場に進み出てひれ伏した。

『私は、おまえたちに詫(わ)びねばならない。あれから、人の身にすればあまりに長い歳月が経(た)ってしまった。これほどの長きにわたって、おまえたちを世の流れから孤立(こりつ)させるつもりではなかった。幾世代を重ねてなお戻らぬ私を、おまえたちはさぞ呪(のろ)ったことだろう』


「めっ…滅相(めっそう)もございません。神がお授(さず)けくださった知恵のおかげで、われらは今日まで命をつないでまいりました。麓(ふもと)の暮らしに戻りたいと願ったのは、はるか昔のこと……われらは、この地で安らかに暮らしていくことこそ、なによりと思っております」

『ほう……ならば、私は酷(こく)なことをしてしまったかもしれぬ。この地を解放したことによって、おまえたちはいやでも現世の厳しさにさらされるだろう。それとも、もう誰かに教えられたか?結界内に閉じ込められていたにしては、現世の言葉使いが流暢(りゅうちょう)だな、邑長』

 背筋(せすじ)が寒くなるような冷笑に、邑長は震(ふる)え上がって身をのけぞらせた。

「いっ、いえ……これはあの、たまたま迷いこんだ旅の者から言葉を教わっただけで……む、邑の外へなど、決して……」

 うっすらと笑った神の顔に、セイラの面影(おもかげ)が重なって見える。

『一万年も経(た)てば、どんな結界にも綻(ほころ)びが生じる。おまえを責めているのではない』

「一万年っ!?」

 綺羅さんはあわてて口をふさいだが、遅かった。

 神の視線が、さっと綺羅さんに振り向けられる。


  
次回へ続く・・・・・  第四十六話へ   TOPへ