第四十二話
10.神奈備へ
一念発起(いちねんほっき)して、家内の安全と繁栄、真尋(まひろ)の昇進と嫁探し、さらには桔梗(ききょう)の知恵歯(ちえば=親知らず)が痛まないよう熊野(くまの)で祈願(きがん)したいと言い出した綺羅(きら)姫に、権大納言(ごんのだいなごん)も北の方も目を丸くした。
「そんなことをしなくても、わしはおまえが早く婿(むこ)をむかえてくれる方がずっとうれしいぞ、綺羅や。このところ右近衛(うこんえの)少将殿も顔を見せないし……このままでは行かず後家(ごけ)になってしまうのではないかと、心配で心配で……」
「そうですよ。なにも熊野まで行かなくても、手近(てぢか)なところですませればいいじゃありませんか」
「そんなんじゃダメよ!せっかくお参(まい)りに行くんだから、どうせなら御仏(みほとけ)の本場で力のある阿弥陀(あみだ)さまや観音さまにお祈りしてこなくちゃ、いい御利益(ごりやく)も授(さず)からないわ。それとも父さまは、桔梗がうんうんうなっていつまでも床に臥(ふ)せってればいいって思ってるの!?」
まるで、知恵歯の痛みを癒(い)やすためだけに熊野まで行くとでも言いたげな勢(いきお)いだった。
「それは……信頼のおける女房(にょうぼう)が臥(ふ)せったままでは、おまえもなにかと不自由だろうが……」
「じゃあ、いいのね!」
綺羅姫は勝手に決め込んで、
「ああ、それから……供(とも)まわりの者はいらないわ。なにかあった時のために、篁(たかむら)とセイラがついていってくれることになってるから」
これには、権(ごんの)大納言もあんぐりと口を開けた。
結婚前の娘が、従者(じゅうしゃ)もつけずに殿方(とのがた)二人を連れて熊野詣(くまのもうで)などとんでもない。
悪いうわさが立ってしまっては、他の男が寄りつかなくなるではないか。
――と、ここで権大納言は閃(ひらめ)いた。
篁とセイラ……その二人ならば、どちらにしてもこれ以上ない婿がね(むこがね=婿候補)。
むしろ悪いうわさが立ってくれた方が、あとあと押しつけやすいというもの。
篁と婚約しているとはいえ、これ以上見込みがなければそれがセイラに変わったとしても、権大納言にはなんの異存(いぞん)もなかった。
「そうかそうか。おまえにしてはなかなかの人選……いやいや、いずれ劣(おと)らぬ頼(たの)もしき殿方ばかりじゃ。それなら心配はいらんだろう。そうじゃ!あのあたりには温泉も多い。熊野へ詣(もう)でたついでに、温泉にでも入ってゆっくりしてくるがよいぞ」
一転して、ほくほく顔の権大納言を綺羅姫はかえって怪(あや)しんだが、熊野行きのお許しが出てしまえば、親の思惑(おもわく)などどうでもよかった。
心を悩ませる問題は、他にあった。
一方、セイラと篁の熊野行きは、思ったよりすんなりと許可(きょか)が下りた。
死にかけたセイラの身を案じ、ゆっくり休養をとらせたいという帝のはからいによるものだった。
その日、セイラは左大臣邸の焼け跡(あと)に足を運んだ。
広々とした敷地(しきち)には、燃え残りの板戸や衣(きぬ)の切れ端(はし)が散乱(さんらん)し、ところどころに黒焦げになった柱や梁(はり)が虚(むな)しく空に突き出ている。
セイラは、母屋(おもや)の自分たちがいたあたりに見当をつけて、しばらく残骸(ざんがい)をかきわけていたが、目当ての物は見つからなかった。
「あのう。セイラさま……でいらっしゃいますね?」
声をかけてきた小柄(こがら)な男は、亡き左大臣に仕(つか)えていた者で、人数を集めては焼け跡の片づけにやってきているのだという。
言われて周囲を見まわしてみると、広い敷地内のあちらこちらに動いている人影があった。
「懐剣(かいけん)を捜(さが)しているんだ。亡き尹(いん)の宮殿の持ち物で、その…形見(かたみ)に欲しがっている人がいてね」
「懐剣……はて?」
男の話によると、焼け跡から見つかった価値のありそうな物は、北の方(=左大臣の正妻)とそのお子たちがいる五条の別邸(べってい)に届けているが、懐剣は見つかっていないということだった。
「そうか……」
セイラは深々とため息をついた。
さほど期待していたわけではなかったが、見つからないとなると、あの懐剣のことが妙に気にかかった。
あれは断じて、ただの懐剣ではない。
だとしたら、なぜあの時尹の宮は懐剣を手放したのだろう?
そもそも、あんな得体(えたい)の知れない物を、尹の宮はどこから手に入れたのか?
血まみれの衣(ころも)の上から握(にぎ)りしめた時の、膨大(ぼうだい)なエネルギーがなだれ込んでくる感覚が、今もセイラの手に残っていた。
それは力の解放を求めて、媒体(ばいたい)となったセイラの自我さえ喰(く)いつくそうとした――!
「ああ、これはもう使い物になりませんね。以前は持ち主に大切にされていた物でしょうが……」
男は床の下からなにかを拾(ひろ)い上げ、しんみりとして言った。
それは、焼けて下半分だけになってしまった檜扇(ひおおぎ=ヒノキの薄片を糸でつづりくみあわせたもの)だった。
それを見て、セイラは尹の宮が扇(おおぎ)を持っていたことを思い出した。
この時、セイラの中にある疑惑(ぎわく)が生じた。
もしその扇が尹の宮の物だったとしたら――
◆ ◆ ◆
「わあ、あたし式神(しきがみ)って見るの初めて!もっと恐ろしいものかと思ってたけど、こうして見ると禊ぎ祓え(みそぎはらえ=桃の節句)の時に流す紙人形みたいね」
そう言いながら、綺羅(きら)さんはぼくとセイラの間に割って入り、牛車(ぎっしゃ)の前簾(まえすだれ)にへばりついて隙間(すきま)から外を眺(なが)めている。
熊野詣(くまのもうで)と言っても、実際に熊野まで行くつもりはない。
吉野(よしの)から少し先に足をのばす程度(ていど)のつもりで、綺羅さんはいつもの袿(うちぎ)姿、ぼくとセイラは狩装束(かりしょうぞく)といった軽装(けいそう)で車に乗り込んだ。
予定外だったのは、御者(ぎょしゃ)台に安積(あさか)がいることだ。
セイラの行方(ゆくえ)を捜しまわったあの夜から、安積はどういうわけか綺羅さんがすっかり気にいってしまったようで、ぜひ自分も護衛(ごえい)に加えてほしいと言ってきた。
ぼくの身も心配だと言ったのは、どう見てもつけたしだった気がする。
人が増えることにセイラは抵抗があったようだけど、断(ことわ)る理由も見つからず、旅で見聞きしたことは一切(いっさい)他言無用の誓(ちか)いを立てさせて同行(どうこう)を許した。
察(さっ)しのいい安積は、それだけでこの旅がただの熊野詣ではないことに気づいたかもしれない。
「どうして浮いていられるのか不思議だけど……ふふっ。でもなんだかかわいい!」
いつまでたっても綺羅さんはそこを動く気がなさそうなので、しかたなくぼくとセイラは後ろの席に移った。
「見た目で判断すべきじゃないよ、綺羅さん。くわしくは知らないけど、式神はふだん紙の人形でも陰陽師(おんみょうじ)が術法(じゅほう)を唱(とな)えると、異形(いぎょう)の者に変化(へんげ)するそうだ」
安倍(あべ)殿が神奈備(かむなび)への案内役につけてくれたという式神は、ぼくたちを乗せた網代車(あじろぐるま=牛車)が出立(しゅったつ)して間もなくすると、どこからともなく現れて牛の前方に浮かんでいた。
あらかじめ話を聞かされていた安積はさすがに落ち着いていたけど、なにも知らない牛飼(うしか)い童の鳶丸(とびまる)と乙矢(おとや)は、手をのばせば届きそうな式神を捕まえようと飛んだり跳ねたりしている。
「あんたたち、紙人形を取っちゃダメよ!その紙人形は、あたしたちが行こうとしている所へ案内してくれるんだから!」
簾(すだれ)ごしに、綺羅さんが大声で叫ぶ。
往来(おうらい)で、人目に立つことなんか気にかけてもいない。
綺羅さんらしいと言えばそうだけど、こんな風にはしゃいでいる理由はわからなくもない。
不安でしようがないからだ。
ぼくたちは、セイラが記憶を取り戻すためなら、どんなことでも協力するつもりでいた。
でもいざ記憶が戻るかもしれないとなると、素直(すなお)にそれを喜べずにいる自分に、ぼくも綺羅さんも気づいていた。
あの草紙(そうし)に書いてあったように、神剣(しんけん)を手にしたセイラが、記憶を取り戻して空に帰ってしまうんじゃないか――
この旅が、セイラとの別れになるかもしれない。
それがセイラのためだとしても、いつかはそんな日がくると思っていても、身を斬(き)られるようにつらい。
ダメだ、こんなことじゃ。しっかりしろ!
旅ははじまったばかりなのに、弱音(よわね)を吐(は)いてどうする!
「セイラ、それなんだい?」
「ああ、これは……」
セイラは、持っていた物をぱらぱらと広げて、
「燃え残っていた扇(おおぎ)だよ。左大臣邸の焼け跡(あと)から拾ってきたんだ」
「わざわざ……?」
「うん。本当は懐剣(かいけん)を捜していたんだけど、見つからなくて……かわりにこれが見つかった。尹の宮は不思議な懐剣を持っていた。衣の上から触(さわ)っただけなのに、私はそれに取り込まれそうになった。あんな物をどこから手に入れたのか……」
「取り込まれそうになったぁ?」
ぼくはたまらずに吹き出していた。
真面目(まじめ)な顔で、なにを言い出すかと思えば……。
「セイラが?懐剣に……?くっくっく…なにかの思い違いじゃないのか?」
セイラはぼくをにらんで、
「篁(たかむら)のようなカチカチ頭じゃ、理解できないことだってあるんだ!」
「ふふっ、こうしていると思いだすわね。セイラを連れて都に戻ってきた日のこと……あれっ、あの人こっち見てる。もしかして……」
あいかわらず簾(すだれ)にへばりついている綺羅(きら)さんに言われて、のぞき窓をのぞくと、都の出入り口にあたる羅城門(らじょうもん)の側(そば)に狩衣(かりぎぬ)姿の男が立っていた。
ぼくたちを乗せた網代車(あじろぐるま)が前を通りかかると、笑みを浮かべて深々と頭を下げる。
「安倍(あべ)殿!わざわざ見送りにきてくださったのか」
「あの人が、安倍晴明(あべのせいめい)……」
ようやくこっちに向き直(なお)った綺羅さんは、悪い夢でも見たような怖い顔をしていた。
「どうしたの、綺羅さん?顔色が悪いよ」
「あっ…あの人、尻尾(しっぽ)があったわ!ちらっとだけど、衣(ころも)の中に隠(かく)れるところをこの目で見たのよ!」
ギョッとしたのはぼくだけで、セイラはくすくす笑っていた。
「尻尾があったなら、本人じゃなくて化(ば)けるのが得意な獣の式神(しきがみ)だろうね。狐(きつね)とか狸(たぬき)とか……私たちが通りかかるまで、あそこで待っているように言いつかったんだろう。主(あるじ)の代役までさせられるなんて、式神も楽じゃない」
「あれも式神だっていうの……」
安倍殿の術にショックを受けたのか、綺羅さんはそれっきり黙ってしまった。
「驚くのも無理はないよ。ぼくだってすっかりだまされたんだから。綺羅さんに言われなければ、最後までわからなかったと思うし……安倍殿はやっぱりすごい人だ」
確かにすごいとは思うけど、なぜわざわざ式神を使ってまでぼくたちにこんないたずらをしかけたのか、安倍殿の真意(しんい)がわからなかった。
「そう、式神でからかわれているうちはまだいい……」
まだいい――とは?
セイラには、安倍殿の考えていることがなにか見えているんだろうか?
半眼に閉じられた目は深い物思いに沈んでいるようで、ぼくは声をかけることができなかった。
熊野(くまの)へ詣(もう)でるには、摂津(せっつ=大阪)まで淀川(よどがわ)を舟で下って、四天王寺・住吉(すみよし)大社などをめぐり和泉(いずみ=大阪南部)に入る。
そこから紀伊(きい=和歌山)へ南下(なんか)するのが、一般的な参詣路(さんけいろ)になっている。
でも式神は、奈良へ向かう道を選んだ。
やはり吉野へ行くつもりだ。
季節は皐月(さつき=今の六月)。
じめじめとしたこの時期にふさわしい雨雲が、空を覆(おお)っている。
「セイラ、ひとつ聞いてもいいかな?」
「なんだい篁(たかむら)、あらたまって」
「神奈備(かむなび)が吉野と熊野の間にあるって、どうしてわかったの?」
「ああ、そのことか……」
「それ、あたしも聞きたいわ!口伝書(くでんしょ)には、場所がわかるようなこと書かれてなかったわよ」
さっそく綺羅さんが話に飛びついてくる。
セイラは目に柔(やわ)らかな光をともして、
「別にたいした確信があったわけじゃない。ただ…本当に私の目的が、神剣(しんけん)を取り戻すことにあったのだとしたら、邑(むら)の近くに降り立とうとしたはずだと思ったんだ。だから、私が気を失って吉野に現れたということは――」
「邑は、きっとその近くにある」
セイラはうなずいて、眉(まゆ)を曇(くも)らせた。
「問題は、なぜ私が気を失っていたのかだけど……やはり、その時なにかが起きたと考えるべきだろうね。突発(とっぱつ)的な事故か、あるいはなに者かに襲(おそ)われたか……」
「だとしたら、セイラの記憶も……」
「ああ。その時に失くしたのかもしれない」
「記憶を消すなんて……」
綺羅さんは、両腕を抱(かか)え込んで身震(みぶる)いした。
脅(おび)えるのは当然だ。
ぼくたちは、セイラが不思議な力を持っていることを知っている。
そのセイラから記憶を消してしまえるほどの相手なら、ぼくたちに立ち向かえるはずもない。
「なにも襲われたとは限らないよ、綺羅さん。セイラも言っただろ、事故の可能性だって……」
「――許せないわっ!」
えっ……。
「事故ならともかく、人の記憶をいじくりまわすなんて最低よ!卑怯だわ!そいつがどんな強いやつか知らないけど、今度現れたらあたしたち三人でとっちめてやりましょ!」
呆気(あっけ)にとられるぼくの横で、セイラは盛大(せいだい)に吹き出していた。
「笑いごとじゃないわ!あたしは本気よ、セイラ!」
「そうだね。借りはいつか返さなくてはね……」
「もう!セイラはいつもそうやって、笑ってはぐらかすんだから。もっとキリッとしなさいよ、キリッと!」
綺羅さんを見るセイラの目は、とてもやさしい。
見ているぼくの方が切なくなるほど……。
セイラ、おまえはそれでいいのか――?
「篁、来るぞ!」
突然、セイラの声の調子が変わった。
「来るって、なにが……?」
セイラは答えるのももどかしげに、ぼくの袖(そで)を引っ張った。
「太刀(たち)を持って外へ出るんだ。安積(あさか)、牛車(ぎっしゃ)を止めてくれ!」
前簾(まえすだれ)を上げて外に出ると、安積が青ざめた顔で前方の林を指差していた。
そこから現れた賊(ぞく)の数は十五、六人といったところか……。
「通りすがりの牛車一輌(りょう)を襲うにしては、ずいぶんな人数だね」
「まさか……待ち伏(ぶ)せされていたっていうのか?」
「捕まえて、聞いてみればわかるよ」
「よし!セイラはここにいて綺羅さんを守ってくれ。ぼくと安積は、太刀でやつらを追い払ってくる。安積、来い!」
ところが、ぼくのこの作戦は完全に裏目(うらめ)に出てしまった。
たかが盗賊(とうぞく)とあなどっていたぼくは、やつらがぼくたちには目もくれず牛車に殺到(さっとう)するのを見て、愕然(がくぜん)とした。
「しまった!!セイラ――っ!綺羅さん――っ!」
状況を見ていたセイラの行動は素早(すばや)かった。
牛車を反転させ、来た道を戻る方に向けて、
「鳶丸(とびまる)、乙矢(おとや)!御者(ぎょしゃ)台に飛び乗って牛車を走らせるんだ!早く――!」
叫んで、短刀や鎌(かま)を振りかざし追いかけようとする賊(ぞく)の前に立ちはだかった。
「ここから先は通さないよ」
まるで見えない壁(かべ)かなにかにぶつかったように、賊の足が止まった。
踏(ふ)み出そうとしても、足がすくんで前に進まないとでもいうように。
でも、それもつかの間――
「ほー、これがうわさに聞く銀色の髪の天女さまか。なるほどべっぴんだ」
「ついでに、こいつもいただいていくっていうのはどうだい?多羅丸(たらまる)」
「バカ言え!こいつは帝のお気に入りだ。都中の検非違使(けびいし)に追いかけられたいのか?」
相手がひとりと見て、賊はにやにや笑いながらセイラを取り囲もうとしている。
「口が聞けるのはひとりでいい。他の者は静かにしてもらおうか」
――その直後、引き返してきたぼくと安積は、セイラの凄(すご)さをまざまざと見せつけられることになる。
あっという間に三、四人を手刀(しゅとう)で気絶させたかと思うと、残りの五、六人の腕(うで)を次々にねじ曲げていった。
「ひぃー!オレの腕が…折れてる!」
痛みに悲鳴を上げて転(ころ)げまわる賊の群(む)れに、セイラは冷ややかな視線を浴(あ)びせた。
「関節をはずしてねじっただけだ。かなり痛いが、はめれば元どおりになる」
その時――
林の奥から、セイラの眉間(みけん)を目がけて一条の光が走った!
「危ない!セイラさま――!」
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