第三十九話


 尹(いん)の宮の顔から、すっと笑みが消えた。

「天井から梁(はり)が焼け落ちて、左大将を押しつぶしたのです」

「――――!!」

「私は包(つつ)みを拾(ひろ)い上げて、命からがら逃げ出しました……左大将を殺すつもりはなかった。邸(やしき)から持ち出した証文(しょうもん)を奪(うば)い取るだけのつもりでした」

 ガシャン!と音を立てて、セイラの手から太刀(たち)がすべり落ちた。

「なんてことだ……では楊(よう)姫は……」


「直接手を下(くだ)さずとも、私が火を放って殺したことにかわりはありません。恨(うら)まれて当然ですが……命まで絶たなければならなかった理由は他にあります。楊姫は、神殺しの大罪を犯(おか)してしまったと思ったのです」

「神殺し――!?」

「あなたのことです、月の君…いえ、聖羅(せいら)の神」

 尹の宮は、セイラが着ている直衣(のうし)の裾(すそ)を持ちあげて、唇を押しあてた。

「ずっとあなたをお待ちしていました。もう長い間ずっと……いつ現れるかもわからない、現れるはずがないと思いながら、それでも待ち焦(こ)がれて……子どもだった私と楊姫は、あなたが現れる日を信じて待っていた。それが、よりによってこんな時に……こんな形で……」

「待っていた……私を?」

 セイラは打ちのめされたような顔で、よろよろと後(あと)ずさった。

「なにを言っている……そんな戯言(ざれごと)を信じるとでも――」

「お疑いでしたら、これを差し上げましょう」

 尹の宮は、懐(ふところ)から古い草紙(そうし)を取り出した。

「ああ、それからこれも……」

 思い出したように、折(お)り畳(たた)まれた料紙(りょうし)を取り出して、草紙とともに差し出した。

「どちらも、私にはもう用のない物です」

 セイラは、足がすくんで動けなかった。

 捜(さが)し求めていた手がかりが目の前にあるのに、それを手にするのが怖かった。

 だが――今はためらっている時ではない。

 おずおずと手を伸ばし、草紙を受け取る。

「これは……」

「亡くなった母が持っていたものです。幼い頃、子守唄がわりによく読んでくれました」

 表紙に目を落とすと、いくつかの文字が読み取れた。

「聖……伝の……」

「文字がかすれてしまっていますが、『聖羅神昔語(せいらのかみむかしがたり) 口伝(くでんの)覚書(おぼえがき)』と書かれています。古(いにしえ)より口伝(くちづた)えで語り継(つ)がれてきたものを、誰かが書きとめておいたのでしょう。まだ文字さえなかった時代、何百年もしかしたら何千年も前からその物語は存在し、決して忘れることのないようにと語り継がれてきた――その人たちにとって、その物語はそれほど大切なものなのでしょう。母は祖母から譲り受けたと聞きました……ともあれそれをお読みになれば、あなたが知りたがっておられたことがおわかりになるはずです」

 尹の宮は、しだいに迫(せま)ってくる炎も目に入らないかのように、陶然(とうぜん)とした表情で話し続けた。

「尼寺で、私はよく楊姫にそれを読んで聞かせました。小さかった楊姫は、話の中に出てくる神さまが好きでした。私がこれは本当にあったことだ言うと、その神さまはいつ戻ってくるのかと、目を輝かせて尋(たず)ねたものです」

「まさか……まさか……」

 セイラは、尼寺で聞いた庵主(あんじゅ)の話を思い出した。

『――その神さまがもし現れてくだされたなら、この尼も姫さまもみなが幸せに暮らせるように、きっとお願いするのだと……』

 その願いが叶(かな)うことはもうない。

 楊姫はなにも語ることなく、自(みずか)らの命を絶ってしまった――

「あなたが現れた時、楊姫はどれほど驚いたでしょう。その目も髪も、遠い昔に聞いた物語の中から抜け出してきたような姿で、あなたは私たちの前に現れた。楊姫には、あなたが約束の神だとすぐにわかったはず。どれほど駆け寄って、声をかけたかったことか……私はあなたを遠くから拝見するだけで、まるで恋をしているように胸がどきどきしていました。そのあなたを、心ならずも私の企(くわだ)てに巻き込んでしまった。左大臣はあなたを亡(な)き者にしようとし、そして楊姫は……」

 尹の宮は憎悪のこもった目で、横たわる左大臣を見た。

「自分の文が、あなたをおびきだす道具に使われたことに気づいた――」

「そんな……!」

「神の力を持つあなたが簡単に死ぬはずがない――とは、楊姫には思えなかったのでしょう。鴨(かも)川に落ちて行方(ゆくえ)がわからなくなったあなたを、誰もが助からないものと思っていました。知らぬ間に神殺しに加担(かたん)してしまったと気づいた楊姫は、どれほど苦しんだでしょう。自らの命をささげて償(つぐな)わなければと思うほどに追いつめられ、川に身を投じた――」

「なんてことだ、なんてことだ……」

 セイラは虚(うつ)ろにつぶやいた。

『お会いできて、これほどうれしかったことはございませんわ』

 そう言って微笑(ほほえ)んでいる楊姫の面影(おもかげ)が、目に浮かんだ。

 女御(にょうご)という人もうらやむ身分でありながら、決して幸せそうではなかった楊姫――

 もしセイラが現れなければ、こんなふうに命を落とすこともなかったのだろうか。

 それとも、少納言が文を失くさなければ……。

 もし……もし……。

 取り戻せるはずもない過ぎた時の破片(かけら)が、セイラの胸をえぐり責め苛(さいな)んだ。

「楊姫は、あなたが幸せにしてやらなければならなかったんだ。何年かかろうとも……あなたがしなければならないことは、楊姫をささえてやることだった。復讐(ふくしゅう)なんかじゃない!それが……」

 セイラはぎゅっと目をつぶった。

 楊姫の死に直接かかわりがなかったとしても、尹の宮が、復讐のために多くの人を巻き込み苦しめたことにかわりはない。

 そんなことさえしなければ……。

「どうしてわからなかったんだ――!!」

 尹の宮は微動(びどう)だにしなかった。

 白蝋(はくろう=白いろうそく)よりも蒼(あお)ざめた顔で、瞬(まばた)きもせず――

 ――その時、母屋(おもや)の外で篁(たかむら)の声がした。

「セイラ、どこにいる――!セイラ――!」

 声はしだいに近づいてきて、蔀(しとみ)が吹き飛ばされた跡(あと)に篁が現れた。

 部屋の周囲に巡(めぐ)らされている蔀は今や炎の壁(かべ)と化し、火勢(かせい)は天井まで達している。

「セイラ!なにしてるんだ!そんなところでぐずぐずしてたら――」

 中に踏(ふ)み込もうとした篁は、そこにいる思いがけない人物を見て足が止まった。

「――尹の宮!」

 その瞬間――

 燃えて脆(もろ)くなった天井の一部が、篁の目の前にバリバリと音を立てて崩(くず)れてきた!

 もうもうと煙が舞いあがり、焼け焦(こ)げた天井板や梁(はり)の残骸(ざんがい)がうずたかく積もって火の粉が乱舞(らんぶ)する。

「篁!?篁――っ!!」

 全身の血が凍(こお)りつくような恐怖を味わいながら、駆け寄ろうとするセイラの後ろで、グサッと鈍(にぶ)い音がした。

 背中にかかる人の重みを感じて振り返ると、意識を取り戻した左大臣が、恐ろしい形相(ぎょうそう)で太刀(たち)を握(にぎ)りしめているのが見えた。

 セイラが床に落とした太刀を、左大臣が拾ったのだろう。

 その太刀の先には、胸を貫(つらぬ)かれ血を流している尹の宮の姿が――!

「尹の宮!私をかばって……」

 くずおれる尹の宮を抱(かか)えて、緋色(ひいろ)に染まっていく衣(ころも)をセイラは茫然(ぼうぜん)とながめた。

「化物(ばけもの)め、まだ生きておったか!今度こそわしの手で葬(ほうむ)ってやる!!」

 左大臣は、再び太刀を振りかざしてつめ寄った。

 その時、なにが起こったのか――

 セイラの体内に、突然未知(みち)の力が流れ込んできた。

 それは、敵を退(しりぞ)けようとする思念(しねん)に感応(かんのう)して烈風(れっぷう)となり、燃えさかる邸内に吹き荒れた。

 左大臣の身体はあっという間に部屋の奥へ吹き飛ばされ、火焔(かえん)は牙(きば)をむき出して猛(たけ)り狂った。

 荒れ狂う風の中で、尹の宮はうっすらと目を開けた。

「……これが、神の力……」

「違う!私の力じゃない!もっとなにか別の――」

 セイラははっとして、血に染まった衣を握りしめている自分の手を凝視(ぎょうし)した。

 そこから、目もくらむばかりの膨大(ぼうだい)な量の情報とエネルギーがなだれ込んでくる。

 猛烈(もうれつ)な吐き気と眩暈(めまい)に襲われながら、セイラはとっさに尹の宮をつき放した。

「尹の宮!懐(ふところ)になにを隠している!!」



      


「……なにも……」

 尹の宮は、荒(あら)く短い息を繰(く)り返した。

「……ただの、護身(ごしん)用の……懐剣(かいけん)ですよ」

「では、その懐剣を懐から出してもらおうか」

 尹の宮は倒(たお)れたまま、言われた通りに懐剣を取り出そうとした。

 すでに風は止んでいた。

 ――が、火の手は思った以上に迫っていて、尹の宮が床を滑(すべ)らせた懐剣は、すぐに炎の向こう側(がわ)に消えて見えなくなってしまった。

「こうした方が……よりご安心なさるでしょう」

 セイラは尹の宮に近づいて、目をのぞきこんだ。

「この期(ご)におよんでなにを隠(かく)そうとしている、尹の宮。あれはただの懐剣なんかじゃない!この私の――」

 人格を乗っ取ろうとした――そう言いかけて、ふいに視線をそらした。

 そんなはずはない……そんなことは、馬鹿げている――!

「もし……お確かめになりたければ、火事がおさまった後……捜(さが)して、お調べになればよい。それよりも……早く、ここから――」

 そこへ、再び外からの声がした。

「セイラ――!セイラ――!聞こえたら返事をしてくれ――!!」

「篁(たかむら)っ!!無事だったのか――!?」

 迫(せま)りくる猛火(もうか)の向こう側に、セイラは声を限りに叫んだ。

「ぼくは大丈夫だ――!」

 天井が崩(くず)れ落ちた時、とっさに簀子縁(すのこえん)から庭に飛び降りて、篁は危(あや)うく難(なん)を逃(のが)れていた。

「けど、火の勢(いきお)いが強すぎてそっちへ行けそうにない!まわり中囲(かこ)まれてしまってる!セイラ、どうすればいい――!?」

「わかった、私がなんとかする!篁はそこから離れていてくれ!」

 セイラは、左大臣が落として炎に飲み込まれそうになっている太刀(たち)を拾いあげ、空(くう)を切り裂(さ)いて一閃(いっせん)させた。

 それから、横たわる尹の宮の直衣(のうし)を脱(ぬ)がせ、傷口を見て、

「失血(しっけつ)はひどいが、傷はそれほど深くない。手当てをしている時間はないので、このままあなたを担(かつ)いでここを出ます。痛みますが、少しの間我慢(がまん)してください」

 尹の宮は苦しそうにあえぎながら、抱き起こそうとするセイラの手を拒(こば)んだ。

「私はここに残ります。はじめから…そのつもりでした。復讐(ふくしゅう)がすめば、この世に未練はない……楊(よう)姫が待っている……」

「ふざけるなっ!!」

 雷火(らいか)と見まがう峻烈(しゅんれつ)な眼光(がんこう)に射(い)すくめられ、尹の宮は息を飲んだ。

「私をかばって傷を負(お)ったあなたを、おいていけると思っているのか!あなたを救ってくれと、私に頭を下げる者だっているんだ!自分ひとりの命だと思わないでいただきたい――!!確かに、あなたはやり過ぎた。犯(おか)した罪を償(つぐな)って、尹の宮はここで死ぬべきかもしれない。でもあなたが……素鵞(すが)の宮(みや)明理(あきまさ)が、楊姫の死に少しでも責任を感じるなら、あなたには楊姫が生きたかった分まで生きる務(つと)めがあるはずだ――!!」

「……楊姫が、生きたかった分……」

「楊姫は償(つぐな)いのために死を選んだ。この私に、そんな価値はないのに……クッ!本当に死を望んでいたわけじゃない。悪いことが重なりすぎたと、あなたは言った。今度のようなことさえなければ、楊姫はもっと生きたかったはずだ!」

 苦渋(くじゅう)に満ちたセイラの横顔を、尹の宮は食い入るように見つめた。

「あなたが、責任をお感じになられることはない」

 肩口(かたぐち)をすべり落ちる銀色の髪にそっと触(ふ)れて、その手をセイラに差しのべる。

「これも宿命(さだめ)なのでしょう」


      


 篁はハラハラしながら、セイラが出てくるはずの母屋(おもや)を見守っていた。

 わからないことは、山ほどあった。

 セイラはどうやって、あの濁流(だくりゅう)から助かったのか――

 誰が邸(やしき)に火を放ったのか――

 尹の宮が、なぜここにいたのか――

 地に伏(ふ)していなければ、身体(からだ)ごと持っていかれそうだったさっきの突風(とっぷう)は――?

 なによりも、あの火焔(かえん)の中からどうやって脱出できる――?

 左大臣が権勢(けんせい)を誇(ほこ)った壮麗(そうれい)な寝殿(しんでん)は、今や完全に炎の支配下にあった。

 その東西に連(つら)なる対屋(たいのや)も渡殿(わたどの)も庭木も、すでに火の海と化していた。

 四方から熱風が襲(おそ)ってきて、篁の喉(のど)は焼けつき息もできなくなる。

 このままいたら、たとえ火に巻かれなくても熱気で焼け死んでしまいそうだった。

 それでも、篁は動かなかった。

 ――なんとかするって、セイラは言ったんだ。だから、ぼくはセイラを待つ!

 篁の胸には、あの夜セイラをひとりで行かせてしまったことへの後悔(こうかい)がくすぶっていた。

 ――必ず……生きてもう一度セイラに会う!それまでここを離れるもんか!

 そんな決意(けつい)を嘲笑(あざわら)うように、南庭(なんてい)に突き出ていた釣殿(つりどの)がついに崩壊(ほうかい)をはじめた。

 それをきっかけに、ひと連(つら)なりの渡殿(わたどの)が次々と炎にひれ伏(ふ)していく。

 その時――

 母屋の屋根から床下にかけて一直線に亀裂(きれつ)が生じ、白い光が走った。

 光は巨大な鎌(かま)の形をして、こちらに向かってくる――!

 見る間に篁の側(そば)を通り過ぎ、直後に爆音(ばくおん)が轟(とどろ)いて、池から大量の水煙(みずけむり)が上がった。

 びしょ濡(ぬ)れになったことも気づかず、篁は自分の目がまだ信じられずにいた。

 ――母屋(おもや)ごと炎を真っ二つに切り裂(さ)いた……!?

 まさに、そうとしか思えない光景がくり広げられつつあった。

 亀裂(きれつ)から黒い影が飛び出してきた次の瞬間――均衡(きんこう)を失った母屋は自(みずか)ら膝(ひざ)を屈(くっ)するように、音を立てて内側に崩(くず)れていった。

 地獄の業火(ごうか)とも思える光景のただ中に、立ち上がったひとつの影――

「セイラ――っ!!」

 篁はその名を叫んでかけ寄った。

「危ないところだった……」

 振り向いた顔になつかしい笑みが広がっていくのを見ると、涙があふれそうになる。

 言いたいことがいっぱいあったはずなのに、言葉にならない。

「よかった!!」

 万感(ばんかん)の思いを込めて言うと、篁はセイラの肩を抱きしめた。

「安心するのはまだ早い、篁。けが人がいる」

 見ると、血まみれの小袖(こそで)を着た男が、足もとに横たえられていた。

「尹の宮!……気を失っているのか」

「血を流し過ぎたんだろう。私をかばって、左大臣に斬(き)られた」

「かばった!?尹の宮が……それで、左大臣は……?」

 セイラは首を振って、

「これは返しておくよ」

 太刀を篁に渡し、炎上(えんじょう)する母屋に目をやった。

「ここも危ない。早く逃げないと……」

「でも、まわりはすべて火に囲(かこ)まれてる。逃げると言っても……」

「飛ぶしかない!」

 セイラは、手のひらの上に小さな光球(こうきゅう)を出現させた。

 それは見る見る膨張(ぼうちょう)して、篁とセイラの身体を中に閉じ込めた。

 膨張した球体は透明で、内側からはほとんど見わけがつかなかったが、外側から見るとかすかな光を放っている。

「今のは……?」

「外気(がいき)を遮断(しゃだん)する防護膜(ぼうごまく)を張った。上空は高温で強い上昇気流が発生している。生身(なまみ)の身体で飛ぶのは危険だ」

 そう言いながら、セイラは尹の宮の身体を抱(かか)え上げ、

「いいかい篁、なにがあってもしっかり私につかまっていてくれ。怖かったら目を閉じてもかまわない。この力が持ってくれればいいが……行くよ!」

 その言葉が終らないうちに、三人を包(つつ)んだ球体はするすると重力に逆(さか)らって上昇し、燃えさかる炎と闇にまぎれていった。



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