第三十七話
「おかえり、セイラ」
「根の国(ねのくに=あの世)に行きかけたよ。戻ってこれたのが不思議なくらいだ。こうして、また二人に会えてよかった」
やさしい眼差(まなざ)しが注(そそ)がれている。
吸い込まれそうな、青い紫の瞳(ひとみ)――
ふいに、綺羅(きら)姫はカーッと頬(ほほ)が熱くなった。
真尋(まひろ)に、あんな打ち明け話をしてしまったせいかもしれない。
意識するまいと思うほどに身体(からだ)がこわばり、ますます顔が火照(ほて)ってくる。
それを気づかれまいとして、綺羅姫はそっぽを向き、わざとぶっきら棒(ぼう)に言った。
「みんな心配したのよ、とってもね!そこにいる誰かさんをのぞいて……」
「そうだ!牛車(ぎっしゃ)にセイラの着がえを用意してあったんだ。ぼく、取ってくる」
風向きが変わった綺羅姫に恐れをなした真尋は、そそくさと逃げるように牛車に戻って行った。
セイラは側にあった草履(ぞうり)を引っかけて立ち上がった。
「心配かけたこと、怒ってる?」
とまどいがちに尋(たず)ねるセイラに、綺羅姫は力いっぱい首を振って、
「怒ってるわけないでしょ!」
自分でも知らないうちに駆(か)け寄って、セイラの胸に飛びついていた。
「信じてたから……きっと、生きてるって……信じてたから……」
「ありがとう、綺羅姫。大好きだよ……もう、泣かないで……」
最後の夕日が、重(かさ)なりあった二人の影を長くのばしていく。
ちょうどその頃、行商人(ぎょうしょうにん)の家の前を一輌(いちりょう)の牛車が通った。
牛車は、ぎしぎしと憂鬱(ゆううつ)な音を響かせて、円覚寺(えんかくじ)に続く橋を渡って行った。
「セイラ……」
綺羅姫は、忙(いそが)しく涙を拭(ふ)きながら、
「熱はもう下がったの?けがの具合(ぐあい)は……?」
「よく知ってるね、綺羅姫。大丈夫、もうすっかりよくなったよ。けがの痕(あと)も残ってないくらいだ」
「痕も……?」
綺羅姫は驚いたが、大げさに言っているだけだろうと思った。
「そう、ならよかった。ねえ、あの夜セイラを襲(おそ)ったのは、やっぱり左大臣なの?」
「ああ……あの時、私は高熱で気を失ってしまったんだ。その後、濁流(だくりゅう)にのまれた私を誰かが助けてくれた……気がついた時は、目の前に直衣(のうし)姿の男がいた。はじめは宮中の貴族かと思ったけど……そんな風には見えなかったな。私は、その男にずっと看病(かんびょう)してもらっていたんだ」
「その人は、どうやって濁流の中からセイラを助けたの?」
「わからない……」
「じゃあ、ここへはどうやって……?ここは九条で、セイラが襲われた場所とは目と鼻の先よ。助けられたのはもっと下流でしょ?」
セイラは、力なく首を振った。
「それも、わからない……」
その時、暗い部屋の奥から明かりが近づいてきた。
「セイラさま、もう日もすっかり暮れてしまいました。病(や)み上がりのお身体に夜風はよくありません。ささ、中へお入りください」
行商人に言われて、セイラと綺羅姫は部屋に入った。
円座(わろうだ)と灯台(とうだい)が置いてあるだけの、調度品(ちょうどひん)もない板敷(いたじき)の部屋だ。
真尋が持ってきた直衣(のうし)と指貫(さしぬき)にセイラが着がえ終えると、行商人は昨夜のことを話しはじめた。
それによると、昨夜遅くに、この家の戸口を何度もたたく音がしたという。
誰か――?と尋(たず)ねると、音は止んで静かになった。
薄気味(うすきみ)が悪くてすぐには表に出られず、しばらくしてから戸を開けると、小袖(こそで)を着ただけのセイラが戸口にぐったりと寄りかかっていた――ということだった。
「今朝の午(ひる)近くになって目を覚(さ)まされた時は、ほっといたしました。なにしろセイラさまのお名まえとお姿は、都中で知らぬ者はないくらいですから、そのセイラさまにわが家でなにかあってはと、それはもう……」
「おかげで体力を回復できました。ありがとう」
「とんでもございません。私などなにも……」
「じゃあ、あなたはセイラを運んできた人を見てないの?」
「はい。家のまわりには、影もかたちも……」
「変ねえ。助けておきながら、どうしてその人はセイラをこんなところに置き去りにしたのかしら?」
「きっとさ、とても奥ゆかしい人で自分の名まえを出したくなかったんだよ」
「そんなのおかしいわ!セイラを助けてくれたんなら、こそこそする必要ないでしょ」
「いや、真尋の言う通りかもしれない。奥ゆかしいかどうかはわからないけど、敵…だと言っていた」
「敵――!じゃあ、左大臣とつながりのある者ってこと!?」
「違う。なにか、もっと別の……」
綺羅姫はぞくっと背筋(せすじ)が寒くなった。
左大臣に命を狙(ねら)われていた時でさえ、これほど深刻(しんこく)な顔のセイラを見たことがなかった。
敵だと言いながら助けてくれた男の、得体(えたい)の知れない不気味(ぶきみ)さを、セイラも感じているのだろう。
できることなら、もう二度とその男に会わない方がいい――綺羅姫の直感は、そう告げていた。
「いいわ。その話は九条の邸に戻ってからにしましょ。セイラが生きてたこと、早く篁(たかむら)にも教えてあげたいし……」
そこへ、せわしなく表の戸をたたく音と、鳶丸(とびまる)の声がした。
「姫さま――!若さま――!早く来てください、女の人のようすが――!」
行商人の家を飛び出して橋のたもとまで来ると、鳶丸の言った通り、女が橋の中ほどにたたずんでいた。
あたりはもう真っ暗で、こんな時刻に女がひとりで出歩くだけでもただ事ではない。
「あの人、あんなところでなにしてるのかしら?」
しだいに輝きを増す月の下で、女房風の身なりをしたその女は、手を合わせて一心になにかをつぶやいている。
すると突然、女は高欄(こうらん=橋の欄干)に身を乗り出して、川に飛び込もうとした!
――ダメ!落ちる!!
一瞬目をつぶった綺羅姫が次の瞬間見たのは、気を失った女を抱(かか)えて、橋の上にトンと着地したセイラの姿だった。
「すごいや、セイラ!天狗(てんぐ)みたいに宙を飛んだよ!」
綺羅姫は、思わず後ろを振り返った。
当然、そこにいたはずのセイラの姿はない。
――いつの間に!?
が、今はそんなことにこだわっている場合ではなかった。
急いでセイラのもとに駆(か)けつけ、そこに寝かされている女の顔を見るなり――
「少納言(しょうなごん)――!!」
綺羅姫は叫んだ。
「どうしてこんなことを――!?」
それは、右大臣邸に文(ふみ)を届けに来た登花殿女御(とうかでんのにょうご)の女房、少納言にまぎれもなかった。
「う…、うう……」
その少納言が、意識を取り戻した。
「……綺羅、姫…さま……?」
「あたしだけじゃないわ。セイラもいるのよ」
それを聞くなり、少納言はガバッと跳(は)ね起きた。
「セイラさま!生きておられたのですね!?ああ、なんということ……」
ガックリとうなだれる少納言に、セイラはとまどいと不安をつのらせながら、
「どうした?なにがあった?」
「女御(にょうご)さまが…楊(よう)姫さまが、川に身を投げて、お亡くなりに―――っ!!」
泣き崩(くず)れる少納言を前に、セイラは茫然(ぼうぜん)とした。
「女御さまが、なぜ……?」
「少納言!まさかおまえ、あの文(ふみ)のこと……」
言葉をつまらせる綺羅姫に、少納言は消え入るような声で、
「言うつもりは…なかったんです。でも言わなければ、女御さまは…納得(なっとく)してくださいませんでした。それが…こんなことになるなんて!……あたくし、どうしたら……うっうっう」
「そうだったの……」
「あの文って?セイラが受け取ったにせ文のこと?」
「にせ文…?真尋、なんのことだ?」
「にせ文じゃないわ。セイラが受け取ったのは、正真正銘(しょうしんしょうめい)女御さまが筆(ふで)を取られたものよ」
綺羅姫は、肩を震(ふる)わせて嗚咽(おえつ)を堪(こら)えている少納言を悲しげに見つめた。
「でも、その文(ふみ)を途中で少納言が失(な)くしてしまったの。文はたぶん誰かに拾(ひろ)われて、左大臣の手に渡った。左大臣はその文を、セイラをおびき出す道具に使ったのよ。セイラが出かけてしまった後、もう一度文を届けにきた少納言に、篁(たかむら)は女御さまには内密(ないみつ)にするように言ったんだけど……」
「女御(にょうご)さまはきっと、ご自分のせいでセイラさまが亡(な)くなられたとお思いに……あたくしは、女御さまの後を追っておわび申しあげるしか…もう、それしか……うっうっ」
「もういいわ、少納言(しょうなごん)。もういいのよ」
綺羅(きら)姫は、涙に泣き濡(ぬ)れる少納言を抱きしめた。
「おまえだけのせいじゃない。どうしようもなかったのよ。誰も責められないわ」
そんな言葉が、気休めにしかならないことはわかっていた。
だが今はたとえ気休めであっても、許しを与えてくれる誰かが少納言には必要だった。
「綺羅姫さま――っ!」
少納言は綺羅姫にしがみつき、小さな子どものように声をあげて泣いた。
「そんなに自分を責めないで……それでなくとも女御さまは、お父上を亡くしてずいぶんと気落ちしてらしたでしょうし……」
「左大将が、亡くなった――!?」
綺羅姫は、愕然(がくぜん)とするセイラを見上げて、
「ええ。セイラが知らないのも無理はないわ。あの夜セイラが出かけた後、邸が放火されて左大将が焼死(しょうし)したって、篁が……」
「まさか、そこまでやるとは……」
よろけて高欄(こうらん)にもたれるセイラを、真尋(まひろ)がささえた。
「大丈夫かい、セイラ。もしかして犯人を知ってるの?」
「ああ、知ってる……」
ぎょっとする三人の視線を集めて、セイラは苦々(にがにが)しさを噛(か)みしめるように言った。
「少納言、女御さまは私の生死に責任を感じて入水(じゅすい)なさったりしないよ」
「セイラさま……」
「おまえをなぐさめようとして言ってるんじゃない。私は女御さまに、たった一度お会いしただけだ。その私のために、女御さまがそこまで責任をお感じになられる理由がない」
「ですが、女御さまは――」
「女御さまには、おまえの知らない事情があったんだ。残酷で忌(い)まわしい因縁(いんねん)が……私はそれを止められなかった。だから……っ!!」
「いっ、痛いよ!セイラ」
真尋の肩においた手に、いつの間にか力が入り、セイラは思いきり握(にぎ)りしめていた。
「あっ、すまない真尋……」
セイラは、つかんでいた肩をパッと手放した。
その手を、高欄にピシャリと叩(たた)きつける。
自分の非力(ひりき)さに、腹が立ってしようがなかった。
「セイラ、知ってるなら教えて!犯人は……」
綺羅姫が尋(たず)ねようとした、その時――
「あれっ、牛車(ぎっしゃ)がやってくる」
真尋の言葉に振り向くと、松明(たいまつ)の炎も振り切れんばかりの勢いで飛ばしてきた牛車が、橋のたもとで急停車するのが見えた。
降りてきたのは女で、少納言の名を叫びながらこちらに向かって駆(か)けてくる。
その女の足が、途中でピタッと止まった。
「セイラさま、生きて……」
ゆっくりと歩み寄る女の顔が、月明かりで判別(はんべつ)できるようになると、セイラの目に緊張が走った。
「――高倉(たかくら)!」
「よもや、こうしてまたお会いできるとは思いませんでしたわ。お久しぶりでございます、セイラさま。先日は大変お見苦しいところをお目にかけまして、失礼をいたしました」
深々と頭を下げた高倉は、少納言を見てほっとしたように微笑(ほほえ)んだ。
「見れば、少納言のあやういところを助けていただいたようで……感謝いたします」
「高倉さま!なぜここへ……」
高倉は、橋の上に座り込んだままの少納言の手を取り、
「慈恵寺(じけいじ)の庵主(あんじゅ)がお倒れになって、今夜急遽(きゅうきょ)、こちらの円覚寺(えんかくじ)で通夜(つや)がとりおこなわれると知らせに行った時――」
「庵主が倒れた――!?」
「はい。女御さまの突然の訃報(ふほう)に、庵主のお心は耐えられなかったのでしょう。でも、ご心配にはおよびませんわ。意識はじきに戻られたそうですから」
高倉は少し意外な顔をしたが、神妙(しんみょう)なようすでセイラに答えた。
それからまた少納言に向き直(なお)り、
「その時のおまえのようすがおかしかったから、気になって後を追って来たのよ。今の私は東宮御所に仕(つか)える身、通夜の席に連(つら)なることはできないけれど……間にあって本当によかった……」
「あたくし、通夜の場に居たたまれず飛び出してきたんです。おめおめと生き長らえている自分がどうしても許せなくて、女御さまの後を追っておわび申し上げるべきだと……うっうっ」
「自分が許せないのは私の方よ、少納言。私は女御さまが苦しんでおられるのを知りながら、お側にいて差し上げることもできなかった……」
「その言葉が嘘(うそ)ではないなら、なぜ東宮御所へ行った?」
高倉は立ち上がって、ゆっくりとセイラを振り返った。
「なにもかもお話しいたしますわ、セイラさま。お察しの通り、私は左大将さまのご命令で、東宮御所に物の怪(もののけ)騒ぎを起こしにまいりました。東宮さまに有力な後見人(こうけんにん)がいなくなれば、主上(おかみ)も女御さまに目を向けてくださるだろうとおっしゃって……」
「えーっ、物の怪の仕業(しわざ)じゃなかったの!?」
「真尋は黙ってて!」
その声にはっとして、高倉は二つの黒い影に視線を飛ばした。
「そちらのお二人は……?」
警戒心(けいかいしん)をむき出しにする高倉の前に、綺羅姫は一歩足を踏み出して、月明かりに姿をさらした。
「あたしは権大納言(ごんのだいなごん)の娘、綺羅よ。こっちは弟の真尋。安心してちょうだい、あたしたち口は軽い方じゃないから。真尋も、いいわね!」
「う…うん」
真尋がうなずくと、高倉の表情から険(けわ)しさが薄(うす)れていった。
だが少納言にとって、この事実は到底(とうてい)受け入れがたいことだった。
「高倉さまが、あの騒ぎを……」
動揺(どうよう)し脅(おび)えた目で見上げる少納言から、高倉は寂しそうに顔をそむけて、
「これはおまえにも言えなかったことよ、少納言。私は女御さまに誰よりもお幸せになってほしかった。そのためなら、どんなことでも……命婦(みょうぶ)さまは、私のしていることをうすうす感づいておられたわ。でも、なにもおっしゃらなかった。騒ぎが起きて左大臣さまが東宮坊大夫(とうぐうぼうのたいふ)を降り、すべてがうまくいくはずだった……」
「ところが、左大臣はすぐに入内(じゅだい)話を持ち出した」
「はい……私のしたことは、逆に女御さまの競争相手を増やす結果になってしまいました」
「左大将は、焦(あせ)っただろうね」
「そればかりか、左大臣さまが私を疑(うたが)っているようだと、命婦さまが……。私は桐壺(きりつぼ)の御所の局(つぼね=女房の部屋)に籠(こも)り、身を隠(かく)すことにしました」
「それは、命婦(みょうぶ)の指示で……?」
すべてを見すかしているようなセイラの言葉に、高倉は抵抗するようすも見せずうなずいた。
「命婦さまは私に、とてもよくしてくださいましたわ。でも、こんなことになるなんて……」
「局(つぼね)から出てきたのは、左大将が亡くなった次の日だね?」
「……はい。それどころではなくなってしまいましたので……でも、なぜそんなことまで……」
セイラの洞察力(どうさつりょく)に、高倉は畏怖(いふ)の念(ねん)さえ覚えながら、
「お教えください、セイラさま!一体なにをごぞんじなのですか!?」
セイラは夜空をあおぎ、鬱々(うつうつ)としてつぶやいた。
「おまえは、命婦に操(あやつ)られていたんだよ」
「命婦さまが……操る、私を…?ありえませんわ」
笑い飛ばそうとする意志とは裏腹(うらはら)に、高倉の目は不安におののいた。
「十七年前のことは、聞いているかい?」
「存じております。源(みなもと)の左大臣さまが謀反(むほん)を起こそうとしたことがわかって、ご令孫(れいそん)の尹の宮さまは東宮の位(くらい)を剥奪(はくだつ)され、ご一族は都を追われたと――」
「十七年前、そんなことが……でもそれと……」
綺羅姫が言いかけると、高倉はすかさず言葉をつないで、
「この話にはまだ続きがございますのよ、綺羅さま。実はその謀反は、二の宮を東宮にしようとした当時の右大臣さまがしくんだものではないかといううわさがございました。しかもそれには、ご子息の左大臣さまと左大将さまもかかわっていたのではないかと……なにひとつ証拠があるわけではございませんが……女御さまはそのことで、大層(たいそう)胸を痛めておられました」
「だとしたら、尹の宮は二人のことをさぞ恨(うら)んでいるでしょうね……」
「命婦は、その尹(いん)の宮とつながっている」
「尹の宮さまと――?」
セイラは高倉に目を落とした。
その眼光が、炯炯(けいけい)とした光を放ちはじめる。
「これは尹の宮の復讐(ふくしゅう)だよ―――
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