第三十四話
◇ ◇ ◇
尹(いん)の宮にとっての誤算(ごさん)は、左大臣が桐壺(きりつぼ)の東宮御所で、再び物の怪(もののけ)騒ぎを起こしてしまったことだった。
露見(ろけん)すればただではすまない愚挙(ぐきょ)に、左大臣を駆(か)り立てたのは誰か、明らかだった。
しかも、賊(ぞく)はセイラに捕(と)らえられたという。
相手の罠(わな)に、まんまとはめられてしまった左大臣の間抜けぶりに、尹の宮は歯ぎしりした。
夜が明けて、賊が靫負庁(ゆげいのちょう)に引き渡されれば、左大臣の失脚(しっきゃく)はまぬがれないだろう。
だがそんなことより、過去に彼らが犯(おか)した重大な罪が、闇に葬(ほうむ)り去られてしまうことの方が問題だった。
高倉(たかくら)が姿を消したことで、追いつめられた左大将が、奥の手を使うもう少しのところまできていたというのに……。
ここで左大将に疑いを持たれては、彼が握(にぎ)っているはずの、謀反(むほん)の真相を暴(あば)く証拠を手に入れる計画が、すべて無駄(むだ)になってしまう。
焦(あせ)りをつのらせた尹の宮は、ある重大な覚悟を持って、朱雀門(すざくもん=大内裏の外門)の下でセイラを待ちうけた。
ところが、その日セイラは現れなかった。
そればかりか、賊を靫負庁に引き渡したようすもない。
――なにを考えているのか……。
沈黙するセイラに不気味な恐ろしさを感じつつも、この一日を無駄にはできなかった。
都合(つごう)のよいことに、左大将の方から、桐壺(きりつぼ)の騒ぎについて心当たりはないかと尋(たず)ねてきた。
「そのことでしたら、後でお邸(やしき)にうかがいましょう」
決行は、今夜――!
火の手は、同時に邸の北側と西側から上がった。
明け方からの雷雨で、湿気(しっけ)をふくんだ壁は大量の煙を噴(ふ)き出し、たちまち建物中に充満(じゅうまん)した。
邸の者は煙に巻かれて逃げまどい、他をかえりみるよゆうもなく、手近にある物を抱(かか)えて外へ飛び出した。
やがて人声の絶(た)えた邸内で、パチパチと乾(かわ)いた木のはぜる音がすると、それまで遠慮(えんりょ)がちに舌先をのばしていた火の手は、一気に火勢(かせい)を強めた。
一切を焼きつくす紅蓮(ぐれん)の炎は荘厳(そうごん)で美しく、不動明王(ふどうみょうおう)の怒りそのもののように恐ろしかった。
篁(たかむら)が到着した時、炎はすでに屋根まで達していた。
ガラガラと音を立てて床や天井が焼け落ち、火の粉が燦々(さんさん)と飛び散るさまを、篁は茫然(ぼうぜん)として眺(なが)めた。
が、それもつかの間、我に返ると人ごみの中から左大将の姿を捜(さが)した。
その時――
視界の端(はし)を、すーっと横切る直衣(のうし)姿の人影があった。
――あれは、尹の宮殿……。
急いで後を追おうとした時、後ろから誰かにガシッと肩をつかまれた。
ぎょっとして振り向いて、篁は唖然(あぜん)とした。
「権(ごんの)中将殿――!」
「奇遇(きぐう)ですね。あなたも火事見物ですか、右近衛(うこんえの)少将殿?」
権中将は、にこやかに笑っていた。
「いや、ぼくは……」
返事もそこそこに、尹の宮がいたあたりをもう一度振り返ってみたが、もうどこにも見当たらなかった。
「おや?どなたかをお捜(さが)しでしたか」
「いえ、いいんです。ただ……ちょっと顔見知りを見かけたものですから。権中将殿こそ、どうしてここへ……?」
「ですから、火事見物ですよ」
「あ…ああ、そっ、そうでしたね」
動揺(どうよう)する篁を見て、権中将はくすくすと笑った。
「もっとも、そればかりでもありませんが……セイラ殿が抜けた宴(うたげ)の席は、退屈(たいくつ)でしてね。一向に戻られるようすもないし、それに最近、セイラ殿はなにかを調べておられるようでした。そこへこの火事騒ぎ……しかも、燃えているのは左大将殿の邸とくれば、なにかあったと思うのは当然でしょう。来てみたら、予想にたがわずあなたをお見かけしたというわけですよ」
そう言って、権中将はきょろきょろとあたりを見まわした。
「それで、セイラ殿はどちらに……?」
「セイラは――」
さっと顔色を変えた篁に、権中将はただならぬ空気を感じ取った。
「当てが外(はず)れてしまいましたか。なにやら事情がおありのようですが、無理には聞かないでおきましょう。ところで、少将殿はこの火事の原因をご存知でしたか?」
「い…いえ。ぼくも、実はそれを知りたくて……」
権中将は、ふいに声をひそめて、
「放火ですよ。西と北の対屋(たいのや)に、同じころ松明(たいまつ)が投げ込まれたそうです」
「松明が――!?なんて乱暴な!誰がそんなことを……」
「左大将殿に恨(うら)みを持っている者でしょうね。そう言っては切りがありませんが……少将殿に、心当たりは……?」
篁は、少し考えて首を振った。
尹の宮が、左大臣と左大将との仲を険悪にしようとしているとしても、そのことと放火が関係あるとは思えなかった。
なにより左大臣は今夜、九条にセイラをおびき出しているし、尹の宮は………。
篁の脳裏(のうり)を、今しがた見かけた尹の宮の姿がよぎった。
「……まさか」
「なにか?」
「いえ、なんでもありません。ぼくの思い違いです」
二人を喧嘩(けんか)させるためなら、方法はいくらでもある。
そんなことで、邸に火をつける必要がどこにある――?
「そうですか。セイラ殿なら、あるいはなにか知っているかもしれませんが……仕方ありませんね。明日お会いした時にでも、聞いてみることにしましょう」
そう言って立ち去ろうとする権中将に、篁は急に後ろめたさを感じた。
「お待ちください、権中将殿――!」
思わず呼びとめてしまったものの、篁はすぐに後悔した。
左大臣がセイラを亡き者にしようとしている、確かな証拠はどこにもない。
ましてやにせ文のことは……。
――だめだ!やっぱり、今はなにも言えない!
「まだ、なにか……?」
「あ、いえ…その、左大将殿はどちらか、ご存じありませんか?」
権中将は、燃えさかる炎の中を指差した。
「左大将殿なら、あそこですよ」
「まさか、逃げ遅れて――!?」
「だとしても、私には少しの憐憫(れんびん)の情もわきませんが……あの者には大問題でしょうね。頼りにしていた主(あるじ)を亡くして、出世の道が閉ざされてしまったのですから」
権中将は指をまわして、懸命(けんめい)にあちこちの人ごみをかきわけている男を指(さ)した。
ひしゃげた烏帽子(えぼし)をかぶり、ところどころ焼け焦(こ)げた狩衣(かりぎぬ)を着ている三十歳くらいの男だ。
「あの男は……?」
「左大将殿から最も信頼を受けていた家令(かれい)ですよ。あきらめがつかず、ああやってまだ左大将殿を捜しまわっているのです。先ほど、私のところにも来ましてね」
「なにか話しましたか?」
「ええ。邸には今夜、尹の宮殿がまいっておられたそうです」
「尹の宮殿が……そうでしたか」
さっき見かけたのも、それで納得がいく――と、篁は思った。
「松明(たいまつ)が投げ込まれたのは、それからしばらく後のことだったとか……火が出てすぐに、あの者は主に報告して、外へ逃げるように言ったそうです。その後、邸の者に持てるだけの家財道具を持たせて、避難(ひなん)させるのに手間取ったらしいのですが……当然、真っ先に避難しているものとばかり思っていた左大将殿の姿が、どこを捜しても見当たらないと……」
「そんな時に、左大将殿はなにを……」
「最後に見かけた尹の宮殿の話によると、なにかの証文のような物を捜していたそうです。よほど大事な証文だったのでしょう。私としては、そっちの方がよほど気になりますね。もっとも、その証文も一緒に燃えてしまったのでしょうが……どうです、なかなか興味深い話だと思いませんか?」
「証文を捜して……」
頭の片隅(かたすみ)のどこかで、篁はまだ尹の宮を疑っていた。
もしかしたらこれも、左大臣がしたことに見せかけた尹の宮の仕業(しわざ)なのではないか、と……。
だが、火事の狙(ねら)いが証文を焼くことだったとしたら――犯人は別にいるのかもしれない。
――セイラ、おまえならどう思う?
飛び散った火の粉が前庭の松に飛び移り、次々と燃え上っていく。
どよめき後(あと)ずさる人々も目に入らないかのように、篁の心は内に向かっていた。
――おまえは、ぼくの知らないなにかを知っていたのか?尼寺(あまでら)に行って、どんな話を聞いてきたんだ……?
その時、ふと篁は思い出した。
尼寺から帰ってきたセイラが、部屋に籠(こも)りきりでなにかをしていたことを。
ひょっとしたら、なにか手がかりを残してくれているかもしれない!
一瞬浮き立った心は、しかしまたたく間に暗転(あんてん)した。
――セイラ、必ず生きていてくれ!!
◇ ◇ ◇
鳶丸(とびまる)たちの話を聞いた時、あたしは、吉野(よしの)の山で真夜中にセイラを見た時のことを思い出した。
ささやかな月明かりの下でも、セイラの姿だけがくっきりと浮き上がって見えたのを憶(おぼ)えている。
まるで水墨画(すいぼくが)の中に、ぽつんと本物の人間が紛(まぎ)れこんだような違和感(いわかん)……そんな感じだった。
鳶丸たちが見たという人魂(ひとだま)のようなものは、セイラに違いない――あたしはそう直感した。
しかも大勢の人と戦ってるっていうんなら、間違いないわ!
二人の案内で暗い松並木を牛車(ぎっしゃ)でゆられながら、胸の震(ふる)えが止まらなかった。
悪い予感ばかりが頭をよぎって、怖くてたまらない……。
となりにいる讃良(さら)姫も同じ気持ちなのか、あたしの手をぎゅっと握(にぎ)りしめてくる。
長い長い夜になりそうだった。
――と、突然牛車が止まって、物見(ものみ)の窓から松明(たいまつ)を持った安積(あさか)の顔が見えた。
「姫さま方。これからなにがあっても、決して外に出てはなりません。いいですね!」
あたしと讃良姫は、ぎょっとして顔を見合わせた。
安積の声は落ち着いていたけど、ただ事じゃない緊張感があった。
まさか、こんな時に追いはぎ――!?
前方に移動する松明を追って、あたしはもぞもぞと身体を動かして車の前簾(まえすだれ)に顔を近づけ、すき間から外に目を凝(こ)らした。
「待て!命が惜(お)しければ、その牛車おいて行け!」
道をふさいでいたのは、侍(さむらい)風の男が四人。
どの侍も手傷(てきず)を負(お)っているみたいで、顔や衣にべっとりと血のりがついている。
ひとりはよほどの重傷なのか、仲間の肩に担(かつ)がれていた。
もしかして、この連中――!?
「おまえたちの身なりからして、ただの追いはぎではあるまい。ならば言っておくが、これは右大臣家の牛車。乗っているのは若君、右近衛少将(うこんえのしょうしょう)さまだ。それを承知(しょうち)でなおも道をふさぐつもりか――!?」
「なに、右大臣家の……!!」
侍たちは、あからさまに驚いていた。
安積もなかなかやるじゃない。
若くして右大臣家の家令(かれい)を務(つと)めるだけあって、いざとなると度胸(どきょう)がすわってる。
篁(たかむら)が乗ってると思わせて強気(つよき)に出るなんて、ちょっと見なおしたわ。
これで侍たちがひるんで、おとなしく立ち去ってくれればいいけど……。
でも、事はそう簡単には運ばなかった。
「右近衛少将だと…?おもしろい、このおれが手合わせ…してやる」
肩に担(かつ)がれていた侍が、よろよろと松明の前に進み出た。
どんな斬(き)り合いをしたらそうなるのか、左肩から右腰にかけてざっくりと衣(ころも)が断ち切られ、血が流れ出ている。
「貞時(さだとき)殿!その傷では――」
「ええい、かまうな――!!」
仲間を振り払ったはずみに、侍は激しく血を吐(は)いてうずくまった。
「その身体で、若君に立ち向かうつもりとは笑止(しょうし)!おまえの相手は、この私で十分だ!」
安積は、松明を乙矢(おとや)に渡して太刀(たち)を抜いた。
すかさず、三人の侍が間に割って入って、安積を取りかこむ。
「その前に、我らの相手をしてもらおうか」
数の上では、圧倒的に安積の不利――
でも侍たちの方も、五体満足な者はひとりもいなかった。
安積、お願い!なんとかして――!
「その傷、セイラさまにつけられたものだろう。多勢(たぜい)を頼んでそのざまか、卑怯(ひきょう)者どもめ!セイラさまはどこにいる!?」
「そっ、そんなやつは知らん!」
安積は、斬(き)りかかってきた一人目の太刀を撥(は)ね飛ばした。
間をおかず斬りつけてきた二人目の太刀を受け止めて、互いに押しあったまま足が止まった。
「ご自慢の少将さまはどうした?中で震(ふる)えているのか?従者が囲まれているのに顔も出さないとは、よほどの臆病者とみえる」
「くっ……!」
仲間の言葉になにかを察(さっ)した後の二人が、牛車の両側に駆け込んでくる。
まっ、まずいわ!どうしよう!
考える間もなく後ろ簾(すだれ)がバサッとめくれ上がり、黒い影が立ちはだかった。
「これはこれは……かわいらしい少将さまだ」
夜目がきくのか衣に薫(た)きしめてある練(ね)り香のせいか、侍は瞬時に、あたしたちが男じゃないと見破った。
あたしは讃良姫を後ろにかばって、懐剣(かいけん)を握りしめた。
こうなったら、自分の身は自分で守るしかないわ!
そう思ったとたん、抜き身の刃(やいば)が目の前に突き出てきた。
――もうダメ!!
「変な気をおこすなよ。おとなしくそこから出てきてもらおうか」
侍は太刀を引いて、一歩脇(わき)にどいた。
その瞬間――
あたしは、声を限りに叫んだ。
「ここに賊(ぞく)がいるわ――!はやく来て捕まえてぇ――!賊がいるのよ――!速く速く!急い……っ!!」
「静かにしないかっ!!」
あたしの鼻先一寸のところに、もう一度刃がのびてきた。
讃良姫がキャッ!と叫んで、しがみついてくる。
胸元を、すうっと嫌(いや)な汗が流れた。
「気でもふれたか!いくら騒いだところで、こんな夜ふけに誰も助けに来るものか!」
「あ…あら、そうかしら?」
「おい、あれを見ろ!」
もうひとりの侍が気づいて、あたしたちがやってきた方を指差した。
真っ暗な折れ曲がった松並木の向こうから、松明(たいまつ)の群れがぞくぞくと現れてこっちに向かっていた。
「あの明かりは、あんたたちを捕まえにきた検非違使(けびいし)よ。セイラを九条におびき出して命を狙(ねら)おうとしたことくらい、あたしたちにはお見通しなんだから!」
「くそ――っ!そういうことか!」
侍たちはすぐ、仲間のもとへ知らせに走った。
「も…もう大丈夫よ、讃良姫」
なんだか、今ごろになって心の臓がドキドキしてる。
おまけに牛車がぐらぐらゆれて……あれっ?これって、あたしの目がまわってるの?
「綺羅(きら)姫さま、どこかおけがでも……?息が荒いですわ」
「なんでもないわ。ちょ、ちょっと緊張しすぎたみたい……でも、もう平気よ。安積はどうしたかしら?」
話しているちょうどそこへ、安積が息を切らして駆けてきた。
「綺羅姫!讃良姫!ご無事でしたか!?」
「ええ。刃(やいば)を向けられたけど、どうってことないわ。侍たちは……?」
「逃げて行きました。ひとりだけでも捕まえてセイラさまのことを聞こうとしたのですが、とり逃がしてしまって……それより、あの松明の群れは一体……?」
「篁が話していた検非違使(けびいし)だと思うわ。九条までセイラを捜しにきてくれたのよ」
「それは心強い!おや、鳶丸(とびまる)が戻ってきたようです」
おーい!おーい!という声が、だんだん近づいて大きくなってきた。
暗闇でも平気な鳶丸は、ひとりでずっと先の方まで行って、自分たちが見た場所を探していた。
「見つけたよ――!こっちだよ、こっち!もう少し行った先の、坂道を下りた川岸だよ――!」
まるで、夢でも見ているようだった。
闇夜に咲いたいくつもの紅い花が、ゆらゆらと宙をただよっている――そんな夢。
夢だったらよかった……。
でも、ゴーッという鴨川の水音が、ここは四条の邸じゃないと教えていた。
「これは……どういうことだ?」
牛車を下りたあたしと讃良の横で、検非違使の捜索(そうさく)を見守っていた安積が茫然(ぼうぜん)とつぶやいた。
「人っ子ひとりいないとは……」
「嘘(うそ)じゃないよ!ここにいっぱい人がいて、戦ってたんだ。なっ、乙矢!」
「うん。戦ってた」
「だとしたら、さっきの侍たちのように、みんな散ってしまった後か……」
「なら、セイラさまはどちらに……?」
讃良姫の問いに答えるように、一本の紅い花――燃える松明の下から声が上がった。
「おーい、ここに死体があったぞ――!」
あたしは思わず目をつぶった。
まさか、まさか、まさか……。
「髪の色が違う!月の君ではありません!」
ほっとしたのもつかの間、今度はずっと向うの方で誰かが叫んだ。
「ひぇー!こっ…ここに、斬られた腕が――っ!」
あたしは、いても立ってもいられずに駆けだした。
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