第三十三話


「九条(くじょう)へ行こう、綺羅(きら)さん!」

「私もまいりますわ!」

 讃良(さら)姫が叫ぶと同時に、綺羅姫の後ろからも声がした。

「あたくしも……お供(とも)、いたします」

「少納言(しょうなごん)!寝てなきゃダメよ」


 綺羅姫の制止(せいし)も聞かず、むっくりと起き上がった少納言は、熱にうるんだ目を篁(たかむら)に向けた。

「こうなったのは…すべて、あたくしの責任…ですわ。セイラさま…お連れしなければ…女御(にょうご)さまにも、申しわけが……」

「そんな体でなに言ってるの、少納言!」

「気持ちはうれしいけど、そのようすでは足手まといだ。一刻を争う時に、病人を連れては行けない。おまえは内裏(だいり)に戻って女御さまに報告してくれ。セイラは宴(うたげ)の客に連れ出された後で、しばらく待っていたが、結局会えなかったって……いいね!」

「少将(しょうしょう)さま……」

 少納言の顔に、驚きととまどいが広がる。

「女御さまを煩(わずら)わせたくない。本当のことを申し上げたら、女御さまはきっとご自分のせいだと思われるだろう」

「はっ、はい……ありがとう、ございます。ありがとう…ございます……」

 少納言は両手をついて、深々とお辞儀(じぎ)をしながら涙をこぼした。

「讃良は邸(やしき)に残るんだ。家出をして戻ってきたばかりで、この上なにかあったりしたら、兄上が悲しまれる」

「また家出をするわけじゃありませんわ!私にだって、セイラさまをお助けするお手伝いくらいできます!一刻(いっこく)を争うなら、人数が多い方がいいでしょう?そうだわ!父さまとおじいさまにもこのことをお話して、お力を貸していただきましょうよ。ねっ、兄さま!」

 篁は眉間(みけん)にしわを寄せ考え込んでいたが、やがてきっぱりと首を振った。

「いいや、だめだ!
『月読(つくよみ)』がセイラを殺そうとしている暗示(あんじ)だなんて、父上や兄上は信じないよ。はっきりした証拠がない以上、左大臣との関係がギクシャクしている今、お二人はなるべく左大臣を刺激したくないと思うだろう。女御さまの文のことは、なおさら話すわけにはいかない。ここはやはり、ぼくたちだけで行くしかない!」

「では…では、私だけでも……!」

 ――その時だった!

 あわただしく駆(か)け寄る足音がして、部屋の入口に安積(あさか)が姿を現した。

「若君に申し上げます!ただいま宮中より蔵人頭
(くろうどのとう=帝の秘書官長)さまのご名代(みょうだい=代理人)がまいりまして、若君とセイラさまお二人に至急お会いしたいと申しております」

「蔵人頭の名代が……!?わかった、すぐ行く!」

 篁は、こわばった表情をさらに厳(きびし)しくして、

「少し時間がかかるかもしれないけど、綺羅さんも讃良もここにいてくれ。いいね、くれぐれも二人だけで早まったことはしないように!」

 そう言い残して、篁は鳥が飛び立つように部屋を出ていった。

「蔵人頭(くろうどのとう)さまのご名代がまいられた…って、どういうことでしょう?綺羅姫さま」

「さあ。あたしにもよくわからないけど、篁の顔色からすると、あまりいいことじゃないわね」

「蔵人頭は、主上(おかみ)のご命令…でしか、動きませんわ。ですから、蔵人頭の名代というのは、主上のご名代ということ…なります。主上が表立って…動けない時に、蔵人頭を通じて…ご内命(ないめい)を、お伝えするんです……」

 苦しそうに話す少納言の説明に、綺羅姫は焦(あせ)りをつのらせた。

「だったら、宮中でもなにかあったんだわ。こんな時に……篁、どうするつもりかしら」

 立ちあがっては座り、座ってはまた立ちあがってうろうろと歩きまわっていた綺羅姫は、しびれを切らしたように簀子縁(すのこえん)に出た。

 異変(いへん)に気づいたのは、庭の方で宴の客が騒いでいる声を聞いた時だった。

 数人の客が大声で『あれを見ろ――!』『火事だ――!』と叫んでいる。

 綺羅姫が目をやると、南の夜空の一角が、禍禍(まがまが)しい銅色(あかがねいろ)に染まっていた。

「なにがどうなってるの……」

 周囲の状況が、一遍(いっぺん)に目まぐるしく動き出すのを、綺羅姫は感じていた。

 それが吉をもたらすのか、凶をもたらすのか――

 夜空を焦(こ)がす焔(ほのお)に、なに者かがせせら笑う悪意を感じ取って、綺羅姫はぶるっと身震(みぶる)いした。

「気がついたかい?あれは、左大将殿の邸が燃えているんだ」

「篁――!?」

 いつの間にか戻っていた篁が、暗がりから釣(つ)り灯籠(どうろう)の下にぬっと姿を現した。

「蔵人頭の名代は、なんだって……?」

「うん。それが……」

 篁は口ごもって、キッとまなじりを上げた。

「いいかい、綺羅さん。これからぼくの言うことをよく聞いてくれ。ぼくはこれから、どうしてもあるところに行かなくちゃならない。だから……」

 ――パシン!

 言葉よりも早く、綺羅姫の手が篁の頬(ほほ)に飛んだ。

「見そこなったわ、篁!セイラの命よりも、帝の命令の方が大事だなんて!」

「そうじゃない!衛門佐(えもんのすけ=衛門府の次官)殿はセイラの身を心配してくれて、九条に検非違使(けびいし)をやって捜索(そうさく)してもらうよう、蔵人頭を通じて今上(きんじょう)に奏上(そうじょう)すると約束してくれたんだ。ぼくたちだけで捜すよりも、その方がずっとセイラを見つける確率が高いし、いいに決まってる!」

「セイラのこと、他人(ひと)まかせにするっていうの!?」

「ぼくはセイラを助けたいんだ!どんなことをしても――!!他人まかせだっていいさ!セイラが無事に見つかりさえすれば……そうじゃなかったら、ぼくは……クッ!」

 篁の肩が、細(こま)かく震(ふる)えていた。

 うつむいたその頬(ほほ)に、ひとすじの涙が光るのを見て、綺羅姫ははっとした。

「篁……」

「頼むよ、綺羅さん!これでも必死で考えたんだ。セイラを助けるために、なにが一番いい方法か……ぼくは、セイラが調べていたことを引き継(つ)いで、あるところに行ってくる。セイラが戻った時、なにがあったか話してやれるように……だから綺羅さんは、必ずセイラを見つけてくれ!」

「わかったわ、篁」

「でも、これだけは約束してほしい。決して無理はしないって……そう言っても、綺羅さんのことだから、危険だとわかっててもやめないだろ。だから、用心のために安積をつけるよ……いいね!」

「私も、ご一緒しますわ!」

 その声に振り返ると、讃良姫が部屋から走り出てきた。

「決して、足手まといになりません。だから――!」

 綺羅姫は篁を見上げて、

「讃良姫がいなかったら、セイラの居場所もわからなかったわ。人手は多い方がいいでしょ?」


   
 ◇    ◇    ◇


 真夜中だというのに、洛中(らくちゅう)の大路(おおじ)は、昼間のように人や物でごった返していた。

 松明(たいまつ)を掲(かか)げ、人ごみを撥(は)ね退(の)けるようにして行き過ぎる牛車や荷車。

 大きな荷物を背負(せお)った男たちや、身の回りの品々を抱(かか)えた女たち。

 泣いている幼児(おさなご)の手を引いている母親……。

 誰もかれもが怯(おび)えた目で、我がちに先を急いでいた。

 その流れに逆らって、南に向かう牛車の中にあたしと桔梗(ききょう)、讃良姫がいた。

 桔梗は、長い間待たされていたのがよほど頭にきたのか、さっきからずっと黙りこんでいる。

 あたしだって、まさかこんな形で九条に戻ることになるなんて思いもしなかった。

 右大臣邸に向かった時は、セイラや篁の驚く顔が見たくてわくわくしていたのに、今は重く張りつめた空気だけが、あたしたちのまわりにあった。

「こんなに人がたくさん……みんな、火事から逃げてきた人たちでしょうか?」

 不安げに外のようすをうかがう讃良姫に、あたしも落ち着かない気分で、

「そうね。火事があったのは、方角からいって堀川(ほりかわ)通りのあたりだったと思うから……あの辺は大きなお邸が多いし、使用人も大勢いたでしょうね」

 燃えているのは左大将の邸――篁はそう言っていた。

 左大将と言えば、最初に物の怪騒ぎを起こした犯人だって言ってなかったっけ……。

 だったら、篁が向かった先は……。

 そんなことを考えていると、突然牛車(ぎっしゃ)の車輪に、ものすごい勢(いきお)いでなにかがぶつかってきた!

 あたしたちの身体(からだ)がガクンと大きく揺(ゆ)れて、狭(せま)い車内の壁(かべ)に叩(たた)きつけられる。

「姫…さま、おけがは……」

「痛(い)った――!あたしは大丈夫よ、なんともないわ。讃良(さら)姫は?」

「ええ。頭を…少し打ちましたけど、これくらい平気ですわ」

 すぐに、ようすをうかがいに安積(あさか)がやってきた。

「讃良姫、おけがはございませんでしたか!?暴走(ぼうそう)した馬が向かってきて、避(よ)けるに避(よ)けられず……」
 
・・・
「あたしは無事よ、桔梗(ききょう)も、讃良姫もね!」

 そう言って、じろっと安積をにらみつけて、

「それより急いでちょうだい!こんなところで時間を無駄にできないわ」

 ふん!安積のふくれっ面(つら)なんか、この際気にしてられるもんですか。

 一刻も早く、セイラを捜(さが)しださなきゃ……。

「あっ…!」

「どうしたの?讃良姫」

「おじいさまが、お守りにくれた鏡が……」

 渡されたお守り袋には、手のひらにおさまるほどの丸い鏡が入っていて、それが真っ二つに割れていた。

「なんだか怖い……悪いことばかり起りそうな気がして……」

「セイラは大丈夫よ、きっと」

 そうよ。セイラに限って、万が一のことなんて……あってたまるもんですか!


     
               


 九条の別邸に着くと、真っ先に聞こえてきたのは愚弟(ぐてい)の真尋(まひろ)の声だった。

「姉さん!ぼくに断りもなく、讃良(さら)姫をどこに連れ出したのさ!ぼくは篁(たかむら)から、責任を持ってあずかって――」

「讃良姫なら、ここにいるわよ!」

 えっという声がして、車の前簾(まえすだれ)がパッとめくれ上がった。

 釣(つ)り灯籠(どうろう)のほのかな明かりが、車内に差し込んでくる。

「讃良姫、無事だったんですねー!いやー、よかったよかったー!」

 まるで人さらいにでもあったみたいに、大げさに喜んでいる真尋はほっといて、あたしはさっさと東の対屋(たいのや)に向かった。

 騒ぎを聞きつけて、別邸(べってい)を取りしきっている家令(かれい)の和泉(いずみ)が飛んできた。

 和泉は、あたしが生まれる前から、ずっとわが邸(やしき)に仕(つか)えてくれている。

 今では六十を過ぎたおじいちゃんだけど、いざという時はとても頼りになった。

「姫さま、いかがなされました?今夜はもう遅いので、四条のお邸に戻られたものと思っておりましたが……」

「緊急事態(きんきゅうじたい)よ、和泉――!」

 あたしは、邸中の男たちを起こして、この付近(ふきん)一帯のようすを探(さぐ)らせるように言った。

「人が大勢集まっているところや、厳重(げんじゅう)な見張りが立っている邸があったら、すぐに知らせてちょうだい!」

「それはまた、物々(ものもの)しいことで……」

 事情がわからずとまどいつつも、あたしの目を見ると和泉はすぐに行動に移した。

 いちいち話さなくても、その場の空気を読み取ってすばやく対処(たいしょ)してくれる――そういうところが、あたしは気に入っていた。

 入れ違いに、簀子縁(すのこえん)をどかどかと大きな足音が近づいてくる。

「姉さん!こんな夜中まで讃良姫を連れまわすなんて、どういうつもりだよ!」

「讃良姫はね、ここに戻ってきたんじゃなくて、セイラを捜しにきたのよ!」

「セイラ…?なんでそこでセイラが出てくるのさ?セイラなら右大臣邸に――」

「いたけど、夕べにせの文に呼びだされたまま、邸に戻っていないの」

「姫さま!そのお話本当ですの!?」

 讃良姫と安積(あさか)を先導(せんどう)してきた桔梗が、凍(こお)りついたようにあたしを見つめる。

「本当よ。だから、あんたたちも協力してちょうだい」

 真尋を加えて五人揃(そろ)ったところで、あたしはこれからの計画を話した。

「讃良姫がつかんだ情報では、セイラはこのあたりのどこかにいるはずよ。邸の男たちに、付近のようすを探らせているけど……なにかわかるまで待ってられないわ。和泉に連絡を頼んで、牛車の用意ができたらあたしたちもすぐに出かけるわよ。讃良姫もいいわね!」

「ええ、もちろんですわ!」

「セイラさまは、きっと大丈夫ですわよね。姫さまも牛車の中でそう――」

「そう思いたいけど、帰ると約束した亥(い)の刻(こく)はとっくに過ぎてるわ。セイラが簡単に約束を破るようなやつじゃないことは、桔梗(ききょう)も知ってるでしょ」

「でもさ、セイラがにせの文(ふみ)にあっさり騙(だま)されるなんて、信じられないな」

「悪い偶然が重(かさ)なったのよ、いろいろと……」

 正確には、にせの文というわけじゃない。

 文は確かに、楊姫(ようひめ)さまがお書きになられたものだったし……。

 だからこそ、セイラも信用したんだと思う。

 今さら言ってもはじまらないけど、少納言(しょうなごん)が文を落としたりしなければ、左大臣だってこんなに簡単にセイラをおびき出すことはできなかったはずよ。

 そう思うと、少納言が少し恨(うら)めしい気もするけど……そう言えば、楊姫さまはセイラになにを伝えようとしたんだろう……。

「姉さんってば――!聞いてるの?その文は、誰からだったの?」

「えっ、ああ…文ね、文は……」

 まずい!ここで楊姫さまのお名まえを出すわけにはいかないわ。

 内密(ないみつ)にセイラを後宮(こうきゅう)に呼ぼうとしていた――なんてことがバレたりしたら、大問題になってしまう!

「セイラさまを呼び出したのは、左大臣ですわ!」

 思いがけず讃良姫が助け船を出してくれて、あたしはほっとしたけど、みんなは唖然(あぜん)として目を丸くした。

「なっ、なんでさ!いつの間にそんなことに……」

「時間がないの!話せば長くなるから説明してるひまはないわ。ただ…左大臣だってことははっきりしてるけど、証拠がないの。だから、みんなもそのつもりでいてちょうだい!」

「そのつもりって……?」

「他言無用(たごんむよう)ということですわ、真尋さま」

「――すべては、私の責任です!」

 突然、安積がガバッとひれ伏して、床(ゆか)に頭をこすりつけた。

「そのような文とは知らず、セイラさまに取り次いでしまった私の……」

「まあ。なにもおまえのせいじゃないわ、安積」

「いいえ、讃良姫さま!私がにせの文を取り次いだせいで、セイラさまを危険にさらし、若君や姫さままでお悩ませしていたとは……。この上は、私が必ずやセイラさまをお捜しして――」

 バカ正直にひとりで飛び出していこうとするんだもの、冗談じゃないわ!

「待ちなさいよ、安積!あんたの務(つと)めは、あたしと讃良姫を守ることでしょ。そのあたしたちをほうって行くっていうの!?」

「そ、それは……」

「行くんなら、あたしたちも一緒よ!」

 九条と言っても、隅々(すみずみ)まで捜しまわるにははかなりの時間がかかる。

 あたしたちは二手に分かれて、真尋と桔梗は邸の西側を、あたしと讃良姫は東側を捜すことにした。

 先に出発した真尋たちに続いて、あたしたちも牛車で邸を出ようとすると、後ろから和泉が追いかけてきた。

「姫さま――!お待ちくだされ!」

 あたしは車の後ろ簾(すだれ)を撥(は)ね上げて、

「どうしたの?和泉」

「まずは、この者たちの話をお聞きくだされ。鳶丸(とびまる)、乙矢(おとや)。姫さまの前で、もう一度さっきの話をお聞かせせよ!」

 牛飼(うしか)い童(わらわ)の鳶丸(とびまる)と乙矢(おとや)は、あたしの前にぺたんと座って、

「えっとー。おいら、その…さっきまで火事を見に行ってたんです」

「火事を見に…?ああ、あれね」

 夜空を焦(こ)がす焔(ほのお)の色はだんだん薄れてきていたけど、ここ九条からもはっきり見えていた。

「大路(おおじ)は、歩けないくらい人がいっぱいいて……だからおいら、遠まわりして鴨川(かもがわ)沿(ぞ)いに帰ってきたんだけどォ……その途中で見たんです。なっ!」

「うん。暗くてよくわからなかったけど……川岸で大勢の人が戦ってるような感じだった」

「あれは絶対、妖(あやかし)だよ。なっ!」

「妖(あやかし)ですって……?」

「大きな人魂(ひとだま)みたいなのがふわふわ動いていて、それをみんなが追いかけてた」

「………!!」

「そしたら、急にバン!って爆発したから、おいら怖くなって逃げてきたんです。なっ!」

「あんたたち!今すぐそこへ案内して――!!」


  次回へ続く・・・・・・  第三十四話へ   TOPへ