第三十一話
「こうしちゃいられない。篁(たかむら)、あたしたちもいくわよ!」
「えっ!綺羅(きら)さん、それ本気で言ってるの?」
「あんたは気にならないの?セイラが誰と会っているか」
「それは……少し、気になるけど……」
「少しですって!冗談じゃないわ。いても立ってもいられるもんですか!」
言うやいなや、部屋を飛びだしていこうとする綺羅姫の袖(そで)を、篁がつかんだ。
「ちょっと待てよ、綺羅さん!」
「篁、あんたは平気なの?セイラの記憶が戻るかもしれないのよ!でも、もし罠(わな)だったら……。なにが起こるかわからないこんな夜に、セイラをひとりで行かせてしまっていいの!?」
「ぼくだって気が気じゃないさ。セイラをとめられなかったこと、今でも後悔してる。けど、内裏(だいり)中を捜(さが)しまわるのは無理だよ!時間もかかりすぎる。それに……綺羅さんの言う通りだとしたら、ぼくたちが押しかけて騒ぎ立てるのは、かえって迷惑(めいわく)だよ。セイラは、亥(い)の刻(こく)までには戻ってくるって約束したんだ。今はそれを信じて待つしかない」
綺羅姫は、篁をキッとにらみつけ、やがて自分ひとりの力ではどうにもならないと悟(さと)ったように、ぺたんとその場に座り込んだ。
「胸騒ぎがするのよ。セイラに限ってって思うけど、でも……なんだか、とても嫌(いや)な予感がしてならないの……」
――予感は、的中(てきちゅう)した!
待つほどもなく、簀子縁(すのこえん)を小走りに近づいてくる足音がして、困り切った顔の安積(あさか)が現れた。
「若君。ただいま、セイラさまへの文をことづかってきたという者がまいりまして……」
「えっ、また――!?」
「はあ。それが、どうしても直接文を手渡したいと申しまして……セイラさまはお出かけになられたと申し上げたのですが、それなら行く先を教えてほしい、どちらにまいられたのかとそれはもうしつこく……。若君は、セイラさまからなにかお聞きになっておられますか?」
聞いていた篁と綺羅姫は、たがいの顔を見合った。
「いや、ぼくも聞いてないけど……でも、その使者にはなにか事情(わけ)がありそうだ。ぼくが話を聞いてみるよ。母屋(おもや)は宴の客でいっぱいだろうから、ここの庭先に通してくれ」
釣(つ)り灯籠(どうろう)の下、簀子縁で待っていた篁の前に現れたのは、大貴族に仕(つか)えている女房(にょうぼう)といった感じの年若い女だった。
「右近衛(うこんえの)少将さまでいらっしゃいますね。あたくしは、さるお方に頼まれて文を届けにまいった者でございます。セイラさまはどちらにまいられたかご存知でしょうか?」
平静をよそおっていても、焦(あせ)りと不安にこわばった声で、女は口早に用件を言った。
「それが……ぼくにもわからないんだ。セイラはなにも言わなかったから……。セイラに、なにか急ぎの用事でもあるの?」
「……できれば、お連れするように言いつかっております」
「さっきの文使いと同じか。今夜に限って、なんでこうも次から次へと……」
ため息まじりの篁のつぶやきに、女は眉(まゆ)をひそめた。
「さっきの……?」
「ああ。セイラが出かけたのは文使(ふみづか)いが来て、それに呼ばれて出かけたんだよ」
それを聞いた女の顔に、さっと動揺(どうよう)が走った。
「そ…それは、どなたの……」
「それも言わなかった。行き先はたぶん内裏(だいり)だと思うけど、はっきりしたことはわからない……」
篁は、女の後ろにひかえていた安積(あさか)に目をやって、
「安積は、ほんとになにも聞いてないの?文を渡した時、セイラはなにか言ってなかった?」
「文を渡した時、でございますか?さあ……」
話の矛先(ほこさき)を向けられて、安積は考え込む表情をした。
「そう言えば……セイラさまが文をお読みになっておられる時、楊姫(ようひめ)…とつぶやくのを、耳にしたような……」
その瞬間、女は糸の切れた人形のように庭に倒れ込んだ――
倒れた女を、篁と安積はひとまず部屋に運び入れて、夜具(やぐ)の上に寝かせた。
寝殿(しんでん)の南庭(なんてい)では、宴のざわめきがまだ続いていた。
安積が去った後、綺羅姫は、意識の戻らない女の顔に扇(おおぎ)で風を送りながら、
「この娘、あたしと同じくらいの年ごろよね。いきなり倒れるなんて、どこか具合(ぐあい)でも悪かったのかしら?」
「そうじゃないと思う。楊姫(ようひめ)って聞いて、ひどくショックを受けたみたいだった」
「その楊姫が、セイラを呼び出したってこと?」
無言のままの篁に、綺羅姫はかまわず先を続けて、
「もしそうだったとしたら、セイラのなにかをその楊姫が知ってるってことになるわよね。だからセイラは、危険を承知で内裏(だいり)に……」
そこまで言って、綺羅姫はあることに気づいた。
「えっ、待って!じゃあ、楊姫は内裏にいるってこと?内裏にいる姫さまっていったら……」
篁は、こわい顔をしてうなずいた。
「そう。楊姫は、登花殿女御(とうかでんのにょうご)さまのお名まえだ!」
その名まえに呼び起こされるように、女が目を覚(さ)ました。
「気がついたのね!あなた、庭で急に倒れたのよ」
女は、あっと声を上げて飛び起きた。
「セイラさまは……!?セイラさまは、お戻りになられましたか?」
「いいえ、まだよ」
「まだ……」
胸元を押さえた女の手が、かすかに震(ふる)えている。
綺羅姫はそれを、文使(ふみづか)いとしての強い使命感からくるのだろうと思った。
「それ、よほど大事な文なのね」
「……セイラさまをお連れできるのは、今晩だけなんです」
「今晩だけ……?」
その奇妙な偶然の一致に、篁の胸が騒(さわ)いだ。
「楊姫(ようひめ)を知っているね?」
女は、ためらいがちにそれを認めた。
「なら、楊姫の名を聞いて倒れるほど驚いたのは、なぜ?」
「…………」
「それは、おまえ自身が楊姫の使者だからだ。違うかい?」
「右近衛(うこんえの)少将さま――!」
言うが早いか、女はさっと夜具(やぐ)を抜け出て、床に手をついた。
「それを申し上げる前に、どうかお人払いを願います!」
「えっ。ああ、綺羅さ……綺羅なら大丈夫だよ。信頼のおける女房で――」
とっさに言いつくろおうとする篁を、綺羅姫はすぐにさえぎった。
「ごまかすことないわ、篁。体裁(ていさい)なんか気にしている場合じゃないでしょ!」
そう言って、女に向きなおり、
「あたしは権大納言(ごんのだいなごん)の娘、綺羅よ。あたしたちセイラの友だちなの。今晩出かけて行ったセイラのことが心配で、ここで待っていたのよ。セイラは今、とても危険な状況(じょうきょう)なの。だから、セイラのことでなにか知っているなら教えて!」
姫君にしては珍(めずら)しい、率直(そっちょく)な態度に好感を持った女は、綺羅姫をひたと見つめてうなずいた。
「あたくしのことは少納言(しょうなごん)とお呼びくださいませ、綺羅姫さま。少将さまのおっしゃる通り、あたくしは楊姫さま…登花殿女御さまの使いの者ですわ」
「じゃあ、さっきセイラを連れ出した文使いは……」
少納言は、蒼(あお)ざめた顔できっぱりと言った。
「女御(にょうご)さまの使いなんかじゃありません!」
「そんな……!」
茫然(ぼうぜん)とする綺羅姫の横で、篁は少納言に鋭い視線を向けた。
「どういうことだ――!?」
「……すべては、あたくしの不始末(ふしまつ)が原因なんです」
少納言はいたたまれないようすで、一層(いっそう)蒼ざめた顔をそむけた。
「あたくしが女御さまから文をおあずかりしたのは、お午(ひる)ごろでした。雨が降っていて、女御さまはもったいなくも、こんな日に文使いを頼んだことをとても気の毒がっておられましたわ。あたくしは、大切な文を万が一にも濡(ぬ)らさないようにと、懐(ふところ)の奥深くにしまいこんだつもりでした。それが……牛車(ぎっしゃ)に乗りこもうとした時、確かめてみると……なかったんです!文が、どこにも……」
唖然(あぜん)とする篁と綺羅姫の前で、少納言はわっと泣き崩(くず)れた。
「泣いてちゃわからないでしょ、少納言!それで、どうしたの?」
「は…はい。あたくしは――」
少納言は起き上り、すばやく袖(そで)で涙をぬぐって、
「あたくしはすぐに戻って、自分が通った場所を何度も捜(さが)しまわりました。それでも文は見つからず、夕暮れになって女御さまのもとへ行き、すべてをお話しました。女御さまはお叱(しか)りになるどころか、濡(ぬ)れたあたくしを気づかってくださり……かわりの文を用意してくださって……ここにお持ちしたのが、その文ですわ」
そう言って、涙ぐみながら胸元(むなもと)を押さえた。
「えーと、待って。それじゃ、さっきの文は……」
「少納言が落とした文を誰かが拾(ひろ)って、それを利用しセイラをおびき出したってことだよ」
「だっ、誰かって……?」
綺羅姫は思わず、引きつった笑みを浮かべた。
こんなことは、冗談であってほしかった。
だが、苦渋(くじゅう)にゆがんだ篁の表情は、これがまぎれもない現実だと教えていた。
「少納言(しょうなごん)、思い出してくれ!牛車(ぎっしゃ)に乗る前……いや文を捜(さが)していた時でもいい。誰かとすれ違ったり、声をかけられたりしなかったかい!?」
「……いいえ、お見かけしませんでしたわ」
「もっとよく思い出してくれ!これは大事なことなんだ――!!」
篁のただならぬ迫力に、少納言は怯(おび)えた目をして激しく首を振った。
「わかりませんわ!あたくし、足元しか見ていなくて……誰が通ったのかも……。セイラさまは、じきにお戻りになりますわよね?こんなこと、誰かのいたずらに決まってますわ」
「だったらよかったけど……セイラは今、命を狙(ねら)われているんだ」
「………!!」
張り裂(さ)けんばかりに見開かれたその目が、急速に閉じていく。
自分の過(あやま)ちが招(まね)き寄せてしまった危難(きなん)を直視(ちょくし)することに、疲れ切った少納言の精神(こころ)は耐えられなかった。
「少納言!しっかりして――!」
崩(くず)れるように倒れ伏(ふ)す少納言にかけ寄りながら、綺羅姫は聞かずにいられなかった。
「篁……さっきの文使(ふみづか)いを差し向けたのは、左大臣だと思う?」
「ああ。文を拾(ひろ)ったのは別の人間だとしても、こんな卑劣(ひれつ)な手段で、今晩セイラをおびき出そうとするのは、左大臣しかいないよ!」
「で…でもセイラなら、そう簡単にやられたりしないわよね?逆に左大臣なんかやっつけちゃって、なんでもなかったって顔して、帰ってくるわよね?」
綺羅姫の言葉に、篁はうなづくことができなかった。
「ぼくだって、そう思いたいけど……」
セイラは、太刀を佩(は)いていかなかった。
楊姫(ようひめ)に会うつもりで内裏(だいり)に行こうとしていたなら、当然かもしれない。
――が、あの用意周到(よういしゅうとう)な左大臣が、たったひとりでセイラをおびき出したりするだろうか?
大人数に取り囲まれて、しかもあの波動(はどう)が使えないとしたら――
セイラといえども、素手(すで)でどれだけ太刀打(たちう)ちできるのか……。
そこまで考えて、篁はなにか大事なことを忘れている気がした。
それも命にかかわるような大事なこと……。
その時――
「篁!この娘(こ)、やっぱり熱があるわ!頬(ほほ)が熱いし、手だってこんなに……」
篁は、はっとして綺羅姫を振りかえった。
この時ほど、わが身を呪(のろ)い、心の底から後悔したことはなかった。
「綺羅さん、思い出したことがある!セイラ、ほんとはすごい熱があったのかもしれない。変に足がもつれてたし、助け起こした時、手が燃えるように熱かったんだ!」
歯ぎしりして、こぶしを何度も膝(ひざ)に叩(たた)きつける篁を、綺羅姫は茫然(ぼうぜん)と眺(なが)めていた。
篁の恐れは、現実のものになった。
牛車に乗ったセイラを、高熱が襲(おそ)いはじめていた。
ぞくぞくするような悪寒(おかん)が体中の神経をとがらせ、しきりに警報(けいほう)を鳴らし続けている。
邸(やしき)に引き返すべきだろうか――?
セイラは躊躇(ちゅうちょ)した。
こんな状態で参内(さんだい)しても、女御に迷惑(めいわく)がかかるだけではないか……。
だが、『今晩だけ――』という条件が、呪文(じゅもん)のようにセイラの心を金縛(かなしば)りにした。
やっとつかみかけようとしている手がかりを、みすみす無にしたくはない!
焦燥(しょうそう)と高熱が判断を鈍(にぶ)らせ、いつしかセイラの意識は朦朧(もうろう)としていった。
混濁(こんだく)した意識の中に、浮かび上がる光景があった。
セイラは尼寺(あまでら)にいて、庵主(あんじゅ)の話を聞いていた。
『姫さまは、明理(めいり)さまに――その方が呼びやすいからと、姫さまはいつもそう呼んでおられました。今は尹(いん)の宮さま…とおっしゃいましたか――その明理さまに、それはもうよくなついていらっしゃいました。なにをするにも明理さま、明理さまと……いずれは離れ離れになるというのに……。そんなお二人を見ていると、不憫(ふびん)で不憫で……』
『尹の宮殿は、確かご祖父の謀反(むほん)のせいで、こちらの慶尚院(けいしょういん)さまにあずけられたのでしたね』
『ええ。でも……謀反では、なかったのかもしれませんわ』
『えっ!ですが、そのためにご一族は……』
『まあ。わたくしとしたことが……つい、口が過ぎてしまいました。こんなことをお聞かせするつもりでは……』
『――かまいません。ぜひ、話していただけませんか』
『そうおっしゃられましても……わたくしのような田舎暮らしの者に、宮中のことがわかるはずもございません。当時の右大臣さま…公成(きんなり)さまのお父上ですが、その右大臣さまと新東宮が、相次(あいつ)いではやり病で亡くなられた時は、世間でもいろいろささやかれたものでしたが……』
『ささやかれたとは……?』
『それが、祟(たた)りではないかと……』
『祟り――!?喬周(たかちか)卿の――?なにか根拠(こんきょ)があったのですか?』
『さあ。先の右大臣さまはあまり評判のよくない方でしたし……明理さまのご一族に、同情を寄せる者も多くいたでしょう。あの文のことを知るまでは、由(よし)もないうわさ話…と思っていたものでした』
『あの文……?』
『慶尚院(けいしょういん)さまが大切に持っておられた文のことですわ。柚生(ゆう)姫さま亡き後、わたくしがこの尼寺にやってきたのは、今から十二年前。あの事件からは五年ほどたっていて、明理さまは十三歳、姫さまは八歳になっておられました。その頃には、人のうわさも消えかかっておりましたが、慶尚院さまは、一日たりとも忘れたことがなかったでしょう。太宰府(だざいふ)に遠流(おんる=流刑)となり、亡くなられた弟君からの文を、いつも懐(ふところ)から取り出してはそっと涙ぐまれておりましたの』
『喬周(たかちか)卿の文を……』
『ええ。わたくしは一度、その文にはなにが書かれてあるのかと、慶尚院さまにお尋ねしたことがございました。慶尚院さまは悲しげに微笑(ほほえ)まれて、これは人を不幸にする文だからと、お話しくださいませんでした。やがて姫さまが入内(じゅだい)なさり、明理さまの足もこの尼寺から遠のくようになってしまわれて……五年前、慶尚院さまは眠るようにお亡くなりになりました。息を引き取られる寸前、あの文をわたくしに託(たく)され、決して読まずにお墓に入れるようにと申されましたの。ですが、わたくしが棺(ひつぎ)に文を忍(しの)ばせようとしているところを、明理さまがご覧(らん)になっておられて……』
『尹の宮殿は、その文を読んだのですね?』
『血のつながった、たったひとりのご養母(ようぼ)が肌身(はだみ)離さず持っておられた文を、読まずにお墓に入れてしまうことはできなかったのでしょう。でも、やはり読むべきではありませんでした。慶尚院さまがおっしゃった通り、あれは人を不幸にする文でした。明理さまは、怖いくらい厳しいお顔をなさって……』
『文にはなんと……!?』
『わたくしには、慶尚院さまとのお約束を破ることはできません。明理さまのただならぬごようすに、ただ打ち震えておりました。すると明理さまは、突然狂ったように笑い出されて――恵信尼(けいしんに)、私と楊姫には、浅(あさ)からぬ因縁(いんねん)があったらしい。敵(かたき)同士という因縁が――と……。あらぬ罪を着せて、ご一族を破滅に追いやったのは、二の宮を東宮にしようとした右大臣の策略(さくりゃく)――と、文には書かれてあったそうです。しかもそれには、公成(きんなり)さまと兄の公経(きんつね)さまも加担(かたん)していたはず、と……。なんてむごいこと……』
『左大臣と左大将が……そうか!そういうことだったのか――!!』
『真偽(しんぎ)のほどは、わかりませんわ。文に書かれてあったことも憶測(おくそく)に過ぎず、確証(かくしょう)があったわけではございますまい……それでも、明理さまが受けたショックは大変なものでした。幼い頃にはわかるはずもなかった、ご自分が東宮というきらきらしいご身分だったことや、そのご身分を奪われて、なぜ今の境遇(きょうぐう)に甘(あま)んじなければならなくなったか、文によってすべてが詳(つまび)らかになったのですから……』
『……楊姫は、このことは?』
『わたくしから申し上げたことはございません…が、後宮におられる姫さまの耳には、明理さまのご出自(しゅつじ)について、いろいろ聞こえてくることもございましたでしょう。参詣(さんけい)にまいられた折(おり)、明理さまがおかわいそう――と、一度つぶやかれたことがございました。人が違ってしまわれたよう――とも……。やはりまだ、明理さまはあの文のことを気にかけておられるのでしょう。過ぎた昔のことに囚(とら)われていても、彼岸(ひがん=あの世)にいってしまった者が戻るはずもございません。こだわりを捨て、あるがままを受け入れて、静謐(せいひつ)なお心を取り戻してくださればよろしいのですが……』
『それは、御仏(みほとけ)の教えですか?』
『修羅(しゅら)に堕(お)ちないためには……心が憎しみに囚(とら)われていては、人は不幸になるばかりですから……』
8.長い夜
――ガクン!
と牛車が前に傾(かたむ)き、轅(ながえ=牛車の前に出ている二本の棒)が下ろされる音で、セイラは意識を取り戻した。
熱に浮かされている間に、どれくらい時間がたったのかはっきりしなかったが、牛車(ぎっしゃ)が止まったということは、内裏(だいり)に着いたのだろうと思った。
――気をしっかり持たなくては……。
自分にそう言い聞かせて、車の前簾(まえすだれ)を上げようとした時、ピリピリと肌を刺すような殺気(さっき)を感じた。
一人や二人ではない。
牛車を取り囲むように、四方からじりじりとにじり寄ってくる気配(けはい)がする。
その気配をかき消すような、ゴォーッという濁流(だくりゅう)の音が周辺に響いていた。
ここは内裏ではない!――と気づいた時は遅く、牛車の側面(そくめん)からセイラの目の前に、白刃(はくじん)が突き出てきた!!
次回へ続く・・・・・・ 第三十二話へ TOPへ