第二十八話


 セイラは、自分の国に帰りたがっている――わかっていたつもりでも、あらためて声に出して言ってみると、篁(たかむら)はなんとも言いようのない寂(さみ)しさにおそわれた。

「ただ、これだけはわかってほしい。セイラにできないことなんてあるとも思えないし、そんなセイラのことを、ぼくがとやかく心配するのは迷惑(めいわく)だって思うかもしれないけど……でも、ぼくたちは友だちだろ?友だちのことを心配するのは当然じゃないか。セイラはなんでもひとりでかかえこもうとするけど、ぼくは少しでもおまえの力になりたいんだ」

「……迷惑だなんて、思ってないよ。それに、篁があやまらなければならないことなんて、なにもない」


 
振り向いたセイラの、整(ととの)ったうすい唇に、優美(ゆうび)な曲線が描(えが)かれてゆくのを、篁は夢のようにながめていた。

 それは、胸がしめつけられるように切なく、心にしみいる笑顔だった。

 篁はつかの間、まばたきも忘れてその笑顔に見とれていた。

「心配してもらうって、いいものだね……」

 心の琴線(きんせん)に、あたたかなものが触(ふ)れて、心地よい響きをかなでている――そんな陶然(とうぜん)とした表情で、セイラがつぶやいた。

「感謝しなければならないのは、私のほうだよ」

「じゃあ、一緒について行っていいんだね!」

 パッと顔を輝かせた篁に、セイラはなだめるような目を振り向けた。

「それは、行ってもいいけど……。でも、本当に危ないことなんてないんだよ。尼寺へ行って、尼さんに話を聞いてくるだけだから」

「あまでらぁ!?」

「そうだよ。篁も行って、庵主(あんじゅ)さまのありがたーいお説教でも聞いてくるかい?」

「……ほんとに、それだけなの?」

 意外な返答に、篁は毒気(どっけ)を抜かれたような顔をして目を瞬(しばたた)かせた。

「ほんとにそれだけさ。だから、私ひとりでも大丈夫だよ。篁が参内(さんだい)から戻るころには、私も帰ってると思うから、その時にわかったことを話してあげるよ」

「だったら、今宵(こよい)の藤見(ふじみ)の宴には、間にあうね?」

「藤見の宴?」

 セイラは、わずかに眉(まゆ)を引き寄せた。

「うん。セイラはずっと邸をあけてたから、伝えるひまがなかったけど、毎年この時期に、わが邸でもよおされる宴なんだ。ほら、セイラも知ってるだろ?弓場(ゆみば)から見える大きな藤棚(ふじだな)を」

「ああ、それは知ってるけど……。それにしても、讃良(さら)姫が失踪(しっそう)してるっていう時に……?」

「だからこそ、宴を延期したり中止したりしたら、かえってあやしまれるっていうのが兄上の……正親町(おおぎまち)大納言殿の言い分さ。入内(じゅだい)話が出ている姫を宴の席に出すわけはないから、今日の宴に讃良の姿が見えなくても、誰も不思議に思わないだろうって言われてね。讃良を入内させること、まだあきらめてないみたいだ。おまけに最近では、父上までが入内はさけられないって思ってるようで、邸の者を使っては、内々に讃良を探させてるようなんだ。さすがに、権(ごんの)大納言殿の邸にまでは手がおよんでないけど……」

 篁は苦々(にがにが)しげに言って、顔をしかめた。

「ふーん、左大臣殿とはまだ手が切れてないのかな?案外、結束(けっそく)が固いんだな……」

 軽く腕組みした手をあごにあてがいながら、感心したようにセイラがつぶやいた。

「それとも、昨日…いや一昨日(おととい)のことだから、まだなにも聞かされてないって言う方が当たってるかな?」

「手が切れてないって、なんのこと?」

「うん。左大臣殿と正親町大納言殿の間に、ちょっとした離間(りかん)の計(けい)をほどこしておいたんだけど……。きき目が表れるまでには、もう少し時間がかかりそうだな」

 セイラはあごを沈めて、考え込むようすをしていたが、そのうちぱっと腕を振りほどくと、開けはなたれた門に向かって、ゆっくりと歩きはじめた。

「まっ、それも賊(ぞく)が捕(つか)まったって聞けば、正親町殿も考え直されるかもしれない。もう少し、ようすを見てみることにするか」

「ちょっと待てよ、セイラ!」

 篁は、あわてて肩を捕まえて、セイラを引き止めた。

「セイラが賊を捕まえたってことは、宮中ではまだ誰も知らないんだろ?それをわざわざ兄上に知らせるつもりかい?そんなことをしたら――」

「知らせなくても、尹(いん)の宮はもう知ってるよ」

「知っ……てる!?」

 セイラがこともなげに打ち明けたその事実は、篁を愕然(がくぜん)とさせた。

「ああ。賊を連れ出すところを、尹の宮に内通(ないつう)していた命婦(みょうぶ)に見られていたんだ。おそらく今日中には、左大臣殿の耳にも入るだろうな」

「どっ、どうして今までそれを言わなかったんだ――!?」

 篁は血相(けっそう)を変えて、猛然(もうぜん)とセイラにかみついた。

「しっ!声が大きいよ、篁」

 そろそろ、下働きの者が起き出してくる刻限(こくげん)だった。

 セイラはすばやくあたりを見まわしたが、低くたれこめている雨雲のせいか、まだ、人の動き出す気配(けはい)はなかった。

 篁は、かまわず先を続けた。

「尹の宮殿と左大臣殿に知られたってことがどういうことか、セイラにだってわかってるはずだ!ことが公表されていないとなればなおさら、連中が黙ってセイラを見逃(みのが)しておくはずがない!尹の宮殿は以前、セイラを脅迫(きょうはく)したって言ってたね。その上、物の怪騒ぎの証拠となる賊まで捕まったとなれば、連中は今度こそ、捨(す)て身の覚悟でセイラの命を狙(ねら)ってくるに……はっ!」

 突然、篁の脳裏(のうり)を恐ろしい考えがよぎった。

「もしも……もしも兄上まで、それに加担(かたん)したとしたら……!?」

「大丈夫、正親町殿にそこまでの度胸(どきょう)はないよ。今のうちに手を引けば、右大臣家は一緒に泥をかぶらずにすむってことぐらいわかるさ。それに、もしやつらが手出ししてきても、私の太刀(たち)の腕前は篁が一番よく知ってるだろ」

「それは、確かに……あの、波動(はどう)を集中させるとかいう神業(かみわざ)に、かなう者がいるとは思えないけど……」

 自分の身が危(あや)ういというのに、どこかそっ気ない感じさえするセイラの態度が、篁は妙に気にかかった。

「そんなことは気休めにしかならないよ。連中はどんな手を使ってくるかわからないんだ。事態がこうなってしまっては、一刻も早く賊を検非違使別当(けびいしのべっとう)殿に引き渡して、今上(きんじょう)のご裁断(さいだん)をあおぐしかない。とらえた賊はどこ?ぼくが、今からでも靫負庁(ゆげいのちょう)へ行って……」

「いいや、それはできない!」

 凛(りん)としてセイラが言った。

「セイラ――!?」

 なぜ!?とつかみかからんばかりの篁の剣幕(けんまく)を、セイラははかない微笑でかわした。

「私は、奴らの思い通りにはならないよ。そう簡単に殺されたりしない。私にできないことはないって、そう言ったのは篁だよ」

 紫色の濃(こ)い陰影(いんえい)をおびた瞳が、まだなにかを言いたげな篁を一瞬とらえると、ふいに足元をひるがえした。

「……おまえに、私はどんな風に見える、篁?私は本当に人間かな?……もしかしたら私の正体は、殺されても死なないような、とんでもないバケモノかも知れない。それでも……篁は変わらずに友だちでいてくれるかい……?」

 それは、篁がはじめて見る、別人のように心細げなセイラの姿だった。

 すぐには言葉もなく、茫然(ぼうぜん)と見守っていた篁の唇が、やがてわずかに開きかけた。

 ――と、その時、突如(とつじょ)として目の前が真っ白になった。

 影という影がこの世から消えうせたかと思われた瞬間、暗転(あんてん)した空にバリバリバリッという大樹(たいじゅ)を引き裂くような雷鳴(らいめい)がとどろいた。

 すさまじい轟音(ごうおん)が通り過ぎた後の、一時おとずれた静寂(せいじゃく)に、篁のさほど大きくもない声がやけにはっきりと聞こえた。

「セイラがバケモノだなんて、ぼくにはとてもそうは思えないな。でも、ぼくたちとは全然違う人間だってことは、とっくにわかってたよ」

 背を向けたままのセイラの肩が、ビクンと震(ふる)えた。

「あの雪の日に、セイラが天から舞い降りてきた時からね」

 再び強烈な稲光(いなびかり)が一帯(いったい)を照らして、篁の笑顔をスパッと切り取ると、その後を雷鳴(らいめい)が駆けぬけていった。

「それでも、ぼくは友だちになれてうれしかった……ほんとはセイラのことを、人よりももっとずっと、神仏に近い存在なのかもしれないって思うことがあった。でもセイラが望んでるのは、そんな特別な目で見られることなんかじゃない。そうだろ?」

 そう言った篁の双眸(そうぼう)は、にごりのない澄(す)んだ明るさに満ちていた。

「だから、ぼくはもうそんなことは考えないことにしたんだ。たとえなに者だったとしてもセイラはセイラだし、かけがえのない友だちだっていうことに変わりがあるはずがないもの」

 ボツッ、ボツッと降り出してきた雨が、急速に雨あしを速め、やがて、こらえていたものを全部はき出すように、瀑布(ばくふ)となって降りそそいだ。

 通りをへだてた向かい側の建物さえ見えなくなるほどの豪雨(ごうう)の中で、気がつくと、セイラは篁の肩をしっかりと抱きしめていた。

 なくした記憶の中の自分におびえて、足元からくずれ落ちていきそうな自我を、必死でつなぎとめようとしているあやうい少年の素顔がそこにあった。

 そんなセイラの心の痛みを肌で感じとりながら、篁は少なからぬ驚きにつつまれていた。

 日頃、おだやかな笑顔を絶やさないセイラの中に、これほど不安定でこわれやすい、玻璃(はり=ガラス)のようなもろさが秘められていると、どうして想像できただろうか。

 だが、この孤高(ここう)の魂の内に広がる、はかり知れない虚無を思えば、表面のその平静さは、きわどい精神の均衡(きんこう)の上にたもたれていたといえるのだろう。

 心の空白に、毅然(きぜん)として耐(た)えられる者など、いるはずがないのだから――

 ――ぼくは今まで、セイラのなにを見ていたんだ……!?

 きつく目を閉じながら、篁は自分を責めずにはいられなかった。

 ――はじめてセイラに会った時、吉野の山で綺羅(きら)さんが言っていたとおりだ。セイラが平気だったはずがない。不安につぶされそうにならなかったはずがないんだ……!

 激しく降りそそぐ雨も、今は感じなかった。

 妖(あや)しくざわめく胸の鼓動(こどう)をおさえながら、この傷(いた)んだ魂がいつか安らげる日が来ることを、篁は祈(いの)るように願わずにはいられなかった。


     
      
               


 それから二時(四時間)ほど後、あまり雨あしの衰(おとろ)えたとはいえない天候をおして、セイラは単身、鴨川(かもがわ)沿いに馬を走らせていた。

 右大臣邸の家令(かれい)の安積(あさか)は、この雷雨の中を出かけると聞いて驚きあきれていたが、せめて牛車(ぎっしゃ)をお使いくださいと懇願(こんがん)するのをしりぞけて、あえてセイラは騎乗(きじょう)した。

 牛飼い童や従者をずぶ濡(ぬ)れにするのは、さすがに気がとがめたからだった。

 そうでなくても、この悪天候に供(とも)をしたがる者などいないだろう。

 また一段としのつく雨に打たれながら、セイラは今朝方のことを思い出していた。

 やはり靫負庁(ゆげいのちょう)に賊(ぞく)を引き渡すべきだという篁(たかむら)の説得に、セイラは最後まで首をたてに振らなかった。

 だが、篁の方もそれでおとなしく引き下がったわけではなく、結局一日だけ猶予(ゆうよ)をもらって、賊は明日の朝引き渡すということで話がついた。

 この一日の猶予(ゆうよ)は、セイラには重大な意味を持っていた。

 そこには、雨が降ろうが槍(やり)が降ろうが、今日という日を無駄(むだ)にはできない事情があった。

 高倉(たかくら)の姿が消えたのは、左大臣の仕業(しわざ)ではない――セイラはそう確信していた。

 物の怪(もののけ)騒ぎを起こしたのは高倉だと、左大臣が気づいたなら、賊をわざわざ忍び込ませる必要もなかっただろう。

 うわさを打ち消すには、高倉を検非違使(けびいし)に突き出せばすむ。

 左大臣でないなら、高倉を隠したのは尹(いん)の宮しかいない!

 左大臣に捕(と)らわれたと見せかけて、左大将になにか重大な決断を迫(せま)ったのだとしたら……。

 尹の宮が遂(と)げようとしている目的は、もうそこまできているはず――

 賊を検非違使(けびいし)に引き渡して左大臣が捕らわれれば、左大将はすぐに、高倉の失踪(しっそう)は左大臣のせいではないと悟(さと)るだろう。

 疑われた尹の宮は、左大将との間に決定的な亀裂(きれつ)が生じる前に、急いで行動を起こすに違いない。

 篁の言葉を借りれば、清廉(せいれん)で尊敬にあたいする、野心などないはずの男――その男が、東宮やまわりの人間をまきこみ、重臣二人を手玉にとってなにを企(たくら)んでいるのか?

 賊を引き渡す前に、セイラはどうしても先手(せんて)を取っておきたかった。

 尼寺(あまでら)に行って、それがわかるかどうか――セイラにも成算(せいさん)があったわけではない。

 が、昨年の秋に昇殿(しょうでん)して間もなく、左大将に近づいて高倉を東宮御所にもぐりこませていることを考えると、それ以前になにかがあったと判断すべきだろう。

 これは賭(か)けだ――と、セイラは思った。

 なによりも、今度こそ記憶の手がかりが得られるかもしれない――

 せめて、登花殿女御(とうかでんのにょうご)と尹の宮がなにを知っているのか、それがわかれば……。

 また何度か空が光っては、雷鳴(らいめい)はそのたびに少しずつ遠のいていった。

 着がえたはずの狩衣(かりぎぬ)は、すでにだいぶ濡れていた。

 出がけに安積が着せてくれた雨衣(あまごろも)や笠(かさ)は、この雨ではあまり役に立たなかった。

 体は冷えきっているはずなのに、頬(ほほ)をつきさす雨が、セイラには妙に心地よく思えた。

 頭の芯(しん)に澱(おり)のようにたまった疲れが、にぶく熱を持ちはじめている感じだった。

 篁の前では素振(そぶ)りも見せなかったが、ここ数日の不眠の見張りで、セイラの体力はかなり衰弱(すいじゃく)してきていた。

 わずか一時(いっとき)ほどの仮眠(かみん)では、それを回復するのに、やはり無理があったといえるだろう。

 鴨川は、ここで桂川(かつらがわ)と合流して、大きく川幅を広げた。

 セイラは、水かさの増した桂川の濁流(だくりゅう)を横目で見やりながら、安積から教えられたとおりに橋を渡った。

 目ざす慈恵寺(じけいじ)は、もう少しのところまできていた。

 体調を気にとめる間もなく、手綱(たづな)をにぎり直したセイラは、どうやったらあやしまれずに尼寺にもぐりこめるかと、そんなことを考えはじめていた。


     
      
               


「綺羅(きら)姫ー!」

 寺の門をくぐって、馬上から飛び降りるやいなや、セイラは大声を張り上げた。

「綺羅姫ー、どこにいるんだ!?早まったことをするんじゃない!綺羅姫ー!」

 そう叫びながら、セイラは寺の奥へとずんずん進んでいった。

 すると、一枚の雨戸(あまど)がカタリとはずれて、そこから年老いた尼が顔をのぞかせた。

「どなたかは存じませんが、ここにいる者はみな、世俗(せぞく)を離れて静かに暮らす尼ばかり。騒ぎ立てはご遠慮願いましょう」

「あなたは?」

「わたくしはこの寺の庵主(あんじゅ)をつとめる者です」

「これは……ご無礼をいたしました」

 セイラは素直(すなお)に頭を下げて、笠を取った。

「私はセイラと申します。一刻を争うもので、このようにいきなり押しかけてしまったことをお許しください」

「セイラ?……まあ、ではあなたさまが都で評判の……」

 庵主ははじめて見るセイラの容姿(ようし)に目を奪われ、しばらくは声もなかった。

「はい。実は私の知り合いの姫が、今朝突然尼になると言い出して、こちらの方角に向かったと聞き、友人と二人で後を追ってきたのですが……。橋を過ぎたあたりで、この雨のために見失ってしまいました。てっきり、この尼寺に駆け込んだものと思ったのですが……」

「いいえ……そういう姫君はここにはまいられておりませんよ」

 心配そうにキョロキョロとあたりをうかがうセイラに、庵主はようやくわれに返って答えた。

「そうですか……」

 セイラは気落ちしたように、ガックリと肩を落とした。

 降りしきる雨が、その髪や額を容赦(ようしゃ)なく濡らしていく。

 庵主はそんなセイラのようすに、少なからず同情を覚(おぼ)えた。

「その姫君というのは、セイラさまがお慕(した)いしていらっしゃる方ですの?」

「私ではなく、友人の婚約者なのです」

「まあ……」

「二人の結婚は篁の……友人の母上にずっと反対されていて、それが綺羅姫には耐えられなくなったのでしょう。だからといって、尼になるなど早まったことを――!」

 セイラは、二、三度激しく首を振って、あわただしく笠をかぶりなおした。

「こうしてはいられない。手遅れにならないうちに、早く居場所をつきとめねば……」

「なにやらこみ入った事情がおありのようですね。そういうことでしたら、無粋(ぶすい)なとがめだてはいたしますまい。この先にも、蓮花寺(れんげじ)という尼寺がございます。姫君はおそらくそちらに向かわれたのでしょう」

「寛大(かんだい)なお心づかいに感謝いたします。蓮花寺にはすでに篁が向かっていますから、私はその先の尼寺を当たってみることにします。では……」

「お待ちください」

 さっときびすを返そうとしたセイラを、庵主は思いがけずほがらかな声で引きとめた。

「セイラさまはご存知ありませんのね。橋を渡ったのでしたら、この先には尼寺は蓮花寺しかございません。お探しの姫君は、必ずやその寺にいらっしゃるでしょう。でしたら、お二人のことはお二人だけで解決させておあげになるのが、よろしいのではありませんか?それよりもセイラさまは、その濡れたお衣服を着がえなければ、このままではお風邪を召されてしまいますよ」

 セイラは心の中で、ひそかに安積に感謝した。

 この辺に尼寺が二つしかないことは、安積から聞かされていた。

 だから、庵主がそのことを言い出してくれさえしたら、雨やどりをさせてもらうきっかけがつくれるはずだと思っていた。

 もし当てがはずれて、庵主がなにも言わなかったとしたら……その時は強引に仮病でも使うしかない――と思っていたところだった。

「――そうですね。二人のことは、二人だけにしておいた方がいいのかもしれませんね」

 しばらくためらってみせた後で、セイラはニッコリとして言った。

「ええ、ええ。それがよろしゅうございますとも。この雨が止むまでには、姫君もきっとお考えをあらためられていることでしょう」

「そうあってくれることを願っています。それから……このことはぜひ内密(ないみつ)に願いたいのですが……」

「もちろん、わかっておりますよ」

 なにも知らない庵主は、セイラの申し出に人の良さそうな笑顔で答えた。

「このような賎寺(しずでら)ですからなにもございませんが、雨が上がるのを待つ間、白湯(さゆ)なりと進ぜましょう。さっ、こちらへおあがりください」

「それでは、ご好意に甘えさせていただくことにします」

 セイラの口元に、会心(かいしん)の笑みがこぼれた。


     
      
               


  次回へ続く・・・・・・  第二十九話へ   TOPへ