第二十七話
追いつめられた男は、血走った目にギラリと殺気をみなぎらせると、自由なままになっていた左手で、腰の鞘(さや)から逆手(さかて)に太刀(たち)を抜きはなち、一挙(いっきょ)にセイラの胴をつき刺した。
一瞬早く気配(けはい)を察(さっ)したセイラが、ひらりと後方へ飛びのく。
手傷(てきず)を負(お)わせることはできなかったものの、両手が自由になった男は、すかさず太刀を持ちかえてかまえなおした。
だが、しぼり上げられていた右手が麻痺(まひ)して、すぐには力が入りそうにない。
セイラはクッとのどの奥で笑った。
「そんなしびれた右腕で太刀を振りまわして、私が切れるとでも?騒いだりしたら身のためにはならないと言ったばかりなのに、言うことを聞かない人だ」
そう言って、無防備に男に近づきながら、
「お前を東宮坊の役人に渡すつもりはない。安心しろ。事情があって、お前には左大臣との取引きの材料になってもらう」
「そういうわけには、まいりませんな」
男が、はじめて口を開いた。
野太(のぶと)いきたえあげられた声には、おさえた迫力があった。
「月の君は、相当に小賢(こざか)しい悪知恵のはたらくお方と聞いていましたが、こちらの動きを全てお見通しだったとは、さすがはと申しておきましょう。だが、それならばなおのこと、こうして見つかったからには、ぜがひでも生かして帰すわけにはいきませぬ。なに、舎人(とねり)が騒ぎを聞きつけてきたら、物の怪は月の君だと言えばよい。その姿を見たら、連中とてきっとそう思うはず。暗闇に光って見える人間など、いるはずがありませんからな」
「なるほど。お前には私の波動(はどう)が、他の者より強く見えるらしい」
セイラの口元からフッと笑みがかき消えた。
それが、自分の身に危険がせまっている兆候(ちょうこう)だということを、男は知らなかった。
「尹の宮さまが、わが殿になんと申されたかおわかりか?月の君は人にあらずと申された。人にあらずと……たしかに、その姿は人とも思えぬ。人ではないなら……」
右手の感覚が少しづつ戻りはじめてきた男は、次の瞬間、セイラの頭上にまっすぐ太刀を振りおろしながら叫んだ。
「バケモノに相違(そうい)あるまい――!!」
セイラは、超然(ちょうぜん)と立ちつくしていた。
毛ほども動いたそぶりも見えなかった。
だが、男が打ち込んだ太刀は、まるで最初から焦点(しょうてん)がぶれていたように、セイラの肩口をなんの手ごたえもなく通り過ぎた。
その瞬間、わずかに前のめった男の後頭部を、目にもとまらぬ強烈な手刀(しゅとう)が襲(おそ)った。
男は、あっけなくその場に倒れこんだ。
「バケモノ……か」
セイラは、寂(さみ)しげな笑みをきざんだ。
「それがもし本当のことだとしても、言われるのはあまりいい気はしないな……」
力なくつぶやいて、落ちている太刀をひろい上げる。
その太刀を、倒れている男の腰から引き抜いた鞘(さや)におさめた時――なに者かが近づいてくる気配(けはい)に、セイラはさっと全身を緊張させた。
そこに、心もとなげな松明(たいまつ)の灯(あか)りが、あたりを細々と照らしながら御所の裏手にまわり込んでくるのが見えると、セイラは自分よりはるかに重そうな男を手早く肩にかつぎ上げて、一気に屋根の上まで飛んだ。
「なあ、おい。ほんとに声なんて聞こえたのか?」
「聞こえたとも!今度は間違いなく『バケモノ――!』って声がしたんだ」
松明をかかげてやってきたのは、東宮坊舎人(とうぐうぼうのとねり)の二人組みだった。
「あの中(ちゅうろう=後宮に仕えた女官)のばあさんが、くせ者がひそんでいないか、御所の中をくまなく調べあげてくれ、なんて年甲斐(としがい)もなく気おって言わなきゃ、今ごろはとっくに外まわりだって調べがついてたのによ」
御所内の捜索(そうさく)になんの成果もえられず、時をむだについやしてしまったことに、若い舎人はいまいましそうに舌打ちをした。
「だけどよ、物の怪が『バケモノ――!』って声をあげるって言うのは、どう考えてもおかしかねぇか?」
「だから!声を上げた誰かがここにいたってことじゃねぇか。そいつがたぶん……」
「物の怪を……見た?てぇことは、やっぱり……」
二人は、互いの目を見つめあった。
もしここに、まぎれもない物の怪が現れたりしたら、帯刀(たちわき)でもない二人の手に負(お)えるとは、とうてい思えなかった。
ふいに、二人は背筋(せすじ)にゾクゾクするような悪寒(おかん)を感じて、あたりの闇に目をこらした。
「そういやあ、高倉って若い女房が、二、三日前から姿が見えないってばあさんがこぼしてたが、まさか物の怪に食われちまったんじゃないだろうな」
「オ、オレは信じねぇぞ。そんなもの……」
肩を怒らせて強がって見せた若い舎人の足元を、その時、黒いかたまりがサーッと走りぬけた。
「ヒェ――ッ!!」
恐怖に腰を抜かした二人は、思わずその場にしりもちを着いて倒れこんだ。
黒いかたまりは、床下からミャーッとかわいい鳴き声をあげた。
「なっ、なんだ猫か。おどかすない!」
ほっと胸をなでおろした若い舎人に、年かさの舎人はおずおずと切り出した。
「わしは、とっ、とりあえず右近衛(うこんえの)少将殿にご報告申し上げてくる。お前はそれまで外のようすを調べててくれ。なっ」
年かさの舎人はそう言い残すと、少しでも早くその場から離れようと、後ろも見ずに駆け出した。
取り残された若い舎人は、ひとりになると、急に闇がおし寄せてくるような妄想(もうそう)にとらわれた。
暗闇にうごめく得体(えたい)の知れない魍魎(もの)ほど、人の心を恐怖におとしいれるものはない。
やみくもに松明(たいまつ)を振りまわしながら、若い舎人(とねり)は、ついに音(ね)をあげるしかなかった。
「おーい、オレも一緒に行くよ。待ってくれよー!」
屋根の上から、そのようすを見守っていたセイラは、舎人がいなくなったのを確かめると、再び地上に舞いもどった。
肩にかつぎ上げられている男は、当分意識を取りもどしそうにない。
月は中天にかかり、セイラが幾夜も寝ずの番をして過ごした高い桐(きり)の梢(こずえ)の間を、流れ星がひとつ横切った。
ふいに、セイラは深い悲しみに襲(おそ)われた。
自分がなに者であるかを考えなかった日はない。
セイラにとってなんでもないことが、この国の人間にとっては驚異だということに、なぜ……?という疑問を抱(いだ)くこともたびたびだった。
だが、いくら考えてみても、答えはすべて模糊(もこ)とした記憶の中に封印(ふういん)されていた。
尹の宮が言ったという『――人にあらず』の一言は、そんなセイラの心底(しんてい)を刺しつらぬいた。
その言葉の意味を尹の宮に問いただすことが、今のセイラには恐ろしかった。
セイラは、無理やり感傷を断ち切るように、二度三度と首を振った。
それから、東宮御所を囲(かこ)むようにめぐらされている内裏の側壁(そくへき)を、いとも軽々と飛び越えていった。
その人間離れしたセイラの跳躍(ちょうやく)を、物かげから見つめている二つの目があった。
見おぼえのあるその顔立ちは、東宮に仕(つか)えている大蔵(おおくら)の命婦(みょうぶ)の顔だった。
翌朝――
まだ夜も明けきらぬ時分に、一輌(いちりょう)の牛車(ぎっしゃ)が内裏(だいり)の門を飛び出した。
乗っているのは、縁(ゆかり)の寺で物の怪退散(たいさん)の祈祷(きとう)を願い出た命婦だった。
その命婦を乗せた牛車が走っていった方向を見さだめてから、おもむろに動き出したもうひとつの牛車があった。
まるでこうなることを予期していたように、反対側の道端にひっそりととめ置かれていたその牛車には、セイラの姿があった。
二輌の牛車は、つかず離れずの間隔(かんかく)を保ちながら、暗雲たれこめる京の都を駆け抜けていった。
大小の邸が立ち並ぶ、左京(さきょう)六条の小路(こうじ)を少し折れたあたりで、命婦は牛車を止めた。
もとよりこの近辺(きんぺん)には寺などない。
思いがけないことに、牛車から降りてきた命婦は、尼の姿に身をやつしていた。
めざす邸はもう少し先のようだったが、邸内に牛車を乗り入れないのは、人目をはばかってのことと思われた。
どこかあわてふためいたようすで、牛車から小走りに駆け出した命婦は、やがてある門をくぐった。
しばらくして、邸を出てきた尼姿の命婦は、再び牛車に乗り込むと、ゆるゆると引き返していった。
その牛車が見えなくなると、セイラを乗せた牛車は、目当ての邸に近づいていった。
門前では、命婦にたたき起こされたらしい邸の者が、眠そうな顔であたりをはき清(きよ)めている。
「そこの者、少し尋(たず)ねたいことがあるのだが……」
セイラは朝帰りの貴族をよそおって、牛車の中からけだるそうに声をかけた。
「はい、なんでございましょう?」
「こちらは、どなたのお邸かな?」
「ここは、尹の宮さまのお邸でございます」
「ほおー。こんな朝早くから起きだして仕事をはじめるとは、尹の宮殿はよい家人(かじん)をお持ちだ。ところで、私の従者が、今お邸から出てきた尼が数珠(じゅず)を落としていったのをひろってね、できれば届けてやりたいのだが、どちらの寺の尼か教えてもらえないだろうか?」
家人はほめられたこともあって、すこぶる機嫌をよくして答えた。
「ああ、それなら慈恵寺(じけいじ)の尼です。寺のおつとめに間に合うようにと、お見えになる時は、いつもこの時分にまいられるのですよ」
「そう。ありがとう」
セイラは簾(すだれ)の内でにっこりと微笑(ほほえ)んだ。
その日は、未明(みめい)から濃(こ)い雲がどんよりと垂(た)れこめていた。
いつもなら、朝日が差しこんですがすがしい空気が味わえるころになっても、都はいまだ薄闇(うすやみ)の中に沈んで、湿気(しっけ)をふくんだ大つぶの雨がぼつぼつと降り出してきそうな気配(けはい)だった。
そんな天候(てんこう)にもかかわらず、右大臣邸の門前には人の姿があった。
いつからそうしていたのか、いらいらと落ち着かないようすで門扉(もんぴ)に寄りかかっている。
赤い目は、一晩中ろくに眠れなかったことを表していた。
そこに、牛車(ぎっしゃ)の重たげな車輪の音が聞こえてくると、待ち人(まちびと)は焦(じ)れたように往来(おうらい)に飛び出した。
「あれっ、篁(たかむら)じゃないか。こんな朝早くから起き出してくるなんてめずらしいね。どういう風の吹きまわし?」
ふいに現れた篁を見つけて車を降りたセイラは、疲れたようすも見せずおだやかな笑顔を向けた。
「こんな朝早く、じゃなきゃセイラを捕(つか)まえられないからだろ!ぼくが近衛府(このえふ)からもどる頃にはセイラはもうどこかへ消えてるし、かといって宮中では落ち着いて話もできないし……」
篁は、すねた子供のようにプイと横を向いた。
「あっは。そういえばここのところなにかと忙しかったから、ゆっくり話をする機会もなかったけど……。で、こうしてわざわざ帰りを待っていてくれるほど、大事な話って?」
後ろめたそうな顔の牛飼(うしか)い童(わらわ)が、ちょうど牛車を門の中に運び入れようとしているところだった。
それを横目でジロリとにらみながら、少しためらった後で、篁は思い切ったように口を開いた。
「昨夜、東宮御所(とうぐうごしょ)にまた物の怪が現れたよ」
「ああ、知ってる……」
「知ってるって?もちろんセイラは知ってるはずさ!その時、承香殿(じょうきょうでん)にいたんだからね。それなのに姿も見せないと思ったら、また今日も朝帰りかい?」
篁の口調は、いつになくとげとげしかった。
「……どうしても、はずせない用事があったんだよ」
とまどいを見せて弱々しく微笑(ほほえ)んだセイラに、篁は思いつめた横顔を向けて、ボソッとつぶやいた。
「――どちらのお邸なの?」
「えっ」
「とぼけるなよ!このところ、毎晩朝まで通ってる方のお邸だよ!はずせない用事ってそのことだろ?牛飼い童に口止めまでしてさ」
正面を向いた篁の顔色がすぐれないのは、寝不足と天候のせいばかりではなさそうだった。
セイラと目が合うと、篁はいたたまれないように視線をはずした。
「……そりゃ、セイラにそんな人が現れてもおかしくないけど、ぼくはでもセイラは……いいや、たとえそうだったにしても、ぼくにはとても信じられないよ!尹(いん)の宮殿がなにをたくらんでいるのか、それさえも目に入らなくなるほど、セイラが誰かにのぼせあがるなんて――!」
篁の言おうとしていることが徐々(じょじょ)に飲み込めてきたセイラは、クスッと鼻で笑った。
「昨夜の騒ぎを見すごしたつもりはないよ。だけど、どちらのお邸に通っていたかは、そう軽々しくは言えないな。なにしろ高貴なお方の住まっておられるところだからね」
「高貴なお方って、まさか……内裏(だいり)!?」
篁は、ギョッとしたようにセイラを見つめた。
「さすがに、篁は察(さっ)しがいい」
セイラは悪びれるようすもなく、あっさりと答えた。
一瞬にして、篁は顔色を失った。
茫然(ぼうぜん)と立ちつくし、ひどく虚(うつ)ろな声で、
「じゃあセイラは、とうとう今上のご寵愛(ちょうあい)を……」
と、そこまで言った時、篁はふいに指で口をふさがれた。
驚いて目を上げると、セイラは口元に人差し指を立てて笑っていた。
「からかうつもりはなかったんだ。篁があんまりそう思い込んでるものだからつい……。でも頼(たの)むから、往来(おうらい)であまり変なことは言い出さないでくれよ。私が通っていたのは、桐壺(きりつぼ)の桐の間だよ」
「桐壺――って、今の東宮御所じゃないか。そんなところにどうして……まてよ、桐壺に桐の間なんてあったかな……?」
篁の混乱(こんらん)ぶりを楽しんでいるように、セイラはにこにこと相好(そうこう)をくずした。
「もちろんあるさ。几帳(きちょう)のかわりに木の葉が身をかくしてくれるし、なにより見はらしがいい。天井がないのが少しこたえたけどね。初夏とはいえ、夜はまだまだ冷えるから」
あっ、と篁は声をあげた。
それまで鬱々(うつうつ)とふさぎこんでいた顔が、にわかに晴れ晴れとした表情になった。
「なあんだ。そういうことだったのか!じゃあ、昨夜現れた物の怪の正体をつきとめたの?あれも高倉のしわざ?……あれっ?でも変だな。そんなはずない。昨夜セイラは確か……」
「御所につかえている者にはもうなにもできないよ。お目つけ役をつけておいたからね。だから物の怪騒ぎを起こすには、どうしても外から賊(ぞく)をしのびこませるしかなかったのさ。後でくわしく話すけど、もちろん、賊はちゃんと捕まえてある。昨夜、承香殿(じょうきょうでん)にいたのは橘(たちばなの)中納言(ちゅうなごん)殿だよ。賊がいつ現れるかもしれないのに、のんびり宴になんか出ていられないからね。橘殿には 私の身がわりになっていただいたんだ。その方が物の怪も油断(ゆだん)して現れるかもしれないとは思ったけど……。それにしても、こんなにうまくいくとはね」
弾(はず)んだ声で、うれしそうにセイラが種明(たねあ)かしをするのを、篁は目を丸くして聞いていた。
「セイラには、物の怪がまた現れるってわかってたの?」
「わかるもなにも、そうなるように私がしむけたんだよ。例のうわさは、篁も聞いてるだろ?現れる必要がなくなった物の怪がまた現れれば、左大臣殿の疑いも晴れるかもしれないって、思わせるようにしたんだ」
「それって……左大臣殿をはめたってこと?」
「はめただなんて、人聞きの悪い」
セイラはひっそりと笑って、
「宮中の不穏(ふおん)な動きを憂慮(ゆうりょ)しておられる帝のために、左大臣殿に少しおとなしくしていてもらおうとしただけさ。それに、うまくいけば尹の宮と手を切らせることができるかもしれない」
「じゃあ、昨夜の物の怪は左大臣殿が……」
篁は複雑(ふくざつ)な表情をした。
「なんだか、東宮さまがおかわいそうだな。娘を入内(じゅだい)させるために、元の東宮坊大夫(とうぐうぼうのたいふ)にまで叛(そむ)かれるなんて……」
「……東宮さまには信頼できる女房をつけて、安全な場所でお休みいただいていたから心配ないよ。昨夜の騒ぎは、大きな鼠(ねずみ)でも出たことになってるはずだから」
「うん……でもこれで、賊が捕まったとわかれば左大臣殿も入内話どころじゃなくなるだろうし、讃良(さら)の入内も止められるね」
ほっとしたように胸をなでおろした篁とは逆に、今度はセイラの表情がくもった。
「ああ。でもひとつ気になることがあるんだ。高倉の姿が、数日前から見えなくなったらしい」
「まさか、左大臣殿にバレて捕まったんじゃ……!?」
「そんなはずはない。もしそうだったら……いや、これはもしかすると……」
次第(しだい)にけわしくなっていくセイラの顔を見ながら、篁は不安をつのらせた。
「もしかすると、なに……?」
「うん。どうやら、まわりの状況(じょうきょう)が一気に動きはじめているような気がする。あまりのんびりしている時間はなさそうだ。私は、これからあるところへ行ってみる。どうしても確かめておきたいことがあるんだ。高倉のことをどう判断するかは、それからでも遅くはないと思う。内裏(だいり)には、私は物忌み(ものいみ=方角や日が悪い期間中、家にこもって身をつつしむこと)だとでも言っておいてくれ」
「ぼくも行く!」
篁は断固(だんこ)として言った。
「セイラだけにすべてを押しつけるわけにはいかないよ。讃良のことだってある。それに、ぼくはこれでも、宮中の警護(けいご)をまかされている近衛(このえの)少将なんだよ。おまえのことを心配しながら、不安な気持ちで待ってるだけなんて嫌なんだ。セイラがなんて言っても、ぼくは一緒について行く。止めたって無駄だよ!そう決めたんだから!」
「篁……」
思いがけない口調の激しさに、セイラはたじろいで目を見はった。
「そんなに……心配してくれてたの?」
「ああ。よけいな心配だったようだけどね」
セイラのひたむきな視線と目が合うと、篁はわざとぶっきらぼうに言って横を向いた。
「でも、ほんの少しだけ期待もしてた……」
「期待、って……?」
ひどく静かな声で、セイラが尋(たず)ねた。
篁は、はじめ言いにくそうに口ごもっていたが、やがて観念(かんねん)したように話しはじめた。
「三位(さんみの)中将殿と権(ごんの)中将殿が、セイラをめぐって言い争いをしたって聞いたよ。邸にも毎日のように宴の招待やら誘いが舞いこんでくる。みんなセイラのことが好きなんだ。少しでも近づきになりたいって思ってる。でもセイラは、いつもそれを断ってただろ?必要以上の誰からの好意も受けようとしないみたいにさ。親しくしてる者といえば、最初に出会ったぼくと綺羅(きら)さんと真尋(まひろ)ぐらいのものだし……。セイラが、そうやって人を遠ざけるのは、自分がこの国で一時だけの客人(まろうど)だって思ってるからだろ?」
篁はチラッとセイラを見やって、悩(なや)ましそうに眉(まゆ)をひそめた。
「だからセイラは、自分が誰かを愛したり、愛されたりすることを恐れてる……。いつか記憶を取り戻して、自分のいた場所へ帰って行くセイラに、その思いを受け止めることはできないから……。ぼくは、そんなセイラの気持ちがわかるような気がしてた。でも、セイラが幾晩(いくばん)も邸をあけるようになって、どなたかのもとに通ってるって思うのは信じられなかったけど、ひょっとしたらセイラは、記憶が戻ってもこの国にいてくれるつもりになったのかと思ったんだ。そしたら、ずっと一緒にいられるなって……。だけど本当にセイラにそんな人が現れたりしたら、都中から呪(のろ)い殺されるかも知れないけどね」
はにかんだような苦笑(にがわら)いを浮かべた篁に、セイラは口をつぐんだまま、青ざめた頬(ほほ)を向けた。
ふいに、篁は不安にかられた。
自分が、ひどく愚(おろ)かなことを言ってしまったような気がした。
「ごめん、変なこと言って……。こんなこと言うつもりじゃなかったんだ。セイラが、どれだけ自分の国に帰りたがっているか、知らないはずはないのに……。こんなこと言って、困らせるつもりはなかったんだ。ぼくが言ったことは忘れてくれていいよ」
キュッと唇をかみしめた篁の胸に、自分の言葉が鉛(なまり)のように重くのしかかってきた。
――セイラは、自分の国に帰りたがっている……。
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