第二十一話


 敵意に満ちたその声に、ゆっくりと顔をあげたセイラは、むしろ興味深げに尹(いん)の宮を見つめた。

「ですがそうなると、たとえ私が除籍(じょせき)を願い出たとしても、帝は簡単にはお許しにならないでしょう。あなたのもくろみは、最初(はな)からつまずいていることになりますよ」

「除籍を願い出る必要はありません。月の君には、この場から失跡(しっせき)していただくのですから。行方(ゆくえ)が知れなくなったとあらば、主上(おかみ)といえども手のほどこしようがありますまい。一時の夢を見たものとおぼしめして、いずれはあきらめてくださるでしょう」

 背すじがヒヤリとするような、冷たく突き放した声に、セイラは一瞬息をのんだ。

 次の瞬間には、それまで感じたことのない猛烈な怒りがこみあげていた。

「なるほど、そういう手がありましたか。妙案(みょうあん)…と言いたいところですが、あいにく私は行方をくらますつもりはありませんよ。私にとって、殿上(てんじょう)の間は格好(かっこう)の情報集めの場ですからね。宮中を去るつもりはさらさらない、と申しあげたら……?」


 尹の宮は、口もとに酷薄(こくはく)な笑みをきざんだ。

「月の君には、私の申しあげていることが、まだよくおわかりになっておられないようだ。行方知れずになっていただくには、生きていてくださらなくともかまわないのですよ。もちろん、そのつもりがないとおっしゃるのでしたら、無理にでも姿を消していただくことになりますが……」

「脅(おど)し……ですか。おもしろい!受けて立ちましょう。ごらんのとおり、この部屋は譜面(ふめん)に埋(う)めつくされていて、出口にはあなたがそうして座っておられる。私の逃げ場はどこにもない。尹の宮殿にとっては、まさに願ってもない絶好の機会というもの。その短刀で、私の胸が突けるかどうか、ためしてごらんになるといい」

 短刀に手がかかり、ちりちりと身の毛が立つような殺気をまといはじめた尹の宮を、平然と見返して挑(いど)むように言うと、セイラの目に、ちらりと憐憫(れんびん)の色がよぎった。

「私は、あなたという方を買いかぶっていたようだ。あなたがそこまでしようとする、本当の目的はなんです?帝のためという、大義名分(たいぎめいぶん)だけではないでしょう」

 心の奥底までも見とおさずにはおかない、炯炯(けいけい)とした眼光に射すくめられると、尹の宮は逆に、自分が喉(のど)もとに白刃(はくじん)を突きつけられているような、圧倒的な戦慄(せんりつ)を覚えた。

 お互いの心臓の音まで聞こえてきそうな静寂(せいじゃく)の中で、二人はしばらくそうしてにらみあっていたが、やがて、気圧(けお)されたように尹の宮が目を伏せた。

 はりつめた空気を破り、口を開いた尹の宮は、それまでとはまるで違ったおだやかな声をしていた。

「もし……私が、月の君の……」

 その時、どこか遠くの殿舎(でんしゃ)で、キャーッという悲鳴があがった。

 悲鳴はその後もたて続けに起こり、時をおかずに、声のした方角にあわただしく駆けつける近衛(このえ)の足音がして、一帯(いったい)は騒然とした様相(ようそう)を呈(てい)しはじめてきた。

 尹の宮は、ハッとしたように口をつぐんで顔をあげた。

「なにやら騒がしくなってきましたね。私はこれで失礼いたします。先ほどのご忠告を、くれぐれもお忘れなきよう」

 闇が退(ひ)くように、音もなく尹の宮が立ち去った後も、セイラはしばらくその場を動こうとしなかった。

 外はいよいよ喧騒(けんそう)を増してきて、大勢の人が動きまわる気配(けはい)がしていた。

 セイラは、ひとつ大きく息を吐いて立ち上がった。

 それから、おもむろに騒ぎのする方へ歩きかけようとした時、肩口をスルスルとすべり落ちた物があった。

 拾い上げてみると、極上の練絹(ねりぎぬ)で仕立てられている袿(うちぎ)から、ほのかに帝の合わせ香“霞月(かづき)”が馨(かお)った。





 麗景殿(れいけいでん)の東にある後宮のひとつ、昭陽舎(しょうようしゃ=梨壺)は、五歳になる東宮の御座所(おましどころ)だった。

 その東宮御所(とうぐうごしょ)の周囲には、物々しくいくつもの篝火(かがりび)がたかれ、東宮坊の役人や近衛舎人(このえのとねり)たちが厳重(げんじゅう)な警戒(けいかい)にあたっていた。

「この騒ぎは、一体なんだい?」

 セイラは舎人(とねり)の一人を捕まえて聞いてみた。

「あっ、これは月の君!」

 舎人は、間近(まぢか)で見るセイラにぽーっと顔を赤らめながら、

「実は、東宮御所に物の怪(もののけ)が現れまして……」

「物の怪――!?」

「はっ。それが……女房(にょうぼう)どもの話によりますと、物の怪は亡き二の宮の怨霊(おんりょう)だ、などと申しますもので、それを聞いた別当(検非違使長官)殿が滅多(めった)なことを申すなと怒り出すやら、女房どもは恐ろしさのあまり泣き出すやらで、つい今しがたまで、そのことでもめていたのですが……」

 近衛舎人(このえのとねり)は、セイラに声をかけてもらったのがよほどうれしかったのか、聞かれてもいないことまで長々と話し続けた。

 そこに、緊急の呼び出しを受けた篁(たかむら)が、血相(けっそう)を変えて駆けつけてきた。

「セイラ!そこにいたのか。もう、話は聞いたかい?」

「ああ。東宮御所に物の怪が出たっていうんだろ。物の怪っていうのは、人にとりついて祟(たた)りをなす悪霊だって聞いたけど、それにしては……」

 腕組みをして考え込んでしまったセイラに、篁は小声でひそひそとささやいた。

「そのことなんだけど、これだけ騒ぎが大きくなってしまって、困ったことになりそうなんだ」

 篁はキョロキョロとまわりを見まわすと、人気のない庭のはずれにセイラの腕を引っ張っていった。

「物の怪の正体は、二の宮の怨霊だっていううわさがあるんだ」

「うん。さっきの舎人もそんなこと言ってたね……それが?」

「ええっ!もう舎人までそんなうわさをしてるのかい?まいったな……。実際、東宮御所の女房は、なにを考えてそんなこと言ってしまったのかな」

 篁は、心底(しんそこ)苦(にが)りきったように顔をしかめた。

「そういえば、別当(べっとう)殿も女房をひどく怒っておられたそうだけど、なにか事情(わけ)でもあるの?」

 篁は重々しくうなずいて、

「別当殿がお怒りになられるのも当然だよ。二の宮というのは、左大臣殿の亡き姉上、弘徽殿女御(こきでんのにょうご)と呼ばれていた方のお子で、今上の兄宮にあたり、左大臣殿にとっては甥(おい)にあたる方なんだ。一時は東宮になられたけど、はやり病ですぐにお亡くなりになったらしい。しかも左大臣殿は今の東宮、長良親王(ながらしんのう)の東宮坊大夫(とうぐうぼうのたいふ)でもあるんだよ」

「左大臣殿が、東宮の後見人か……それじゃ左大臣殿は、なんとも具合の悪い立場に立たされたことになるね」

「そうなんだ。長良親王は、先の帝が晩年、更衣(こうい=女御の下の身分)にお産ませになった四の宮で、そのお母上もすでに亡くなられている。長良親王には他に後見人がおられないし、左大臣殿が唯一(ゆいいつ)の東宮の後見人(こうけんにん)だったんだ。それをこんなふうに騒がれたら……」

 篁は唇を噛(か)みしめて、篝火(かがりび)に赤々と照らし出された東宮御所をながめた。

「左大臣殿は面目(めんもく)をなくして、東宮坊大夫をおりると言い出されるかもしれない!」

 ことの重大さが、ようやくセイラにもわかりかけてきた。

 東宮に立つということは、次の帝の位を約束されているということだったが、梨壺(なしつぼ)の東宮は、今上帝(きんじょうてい)が即位(そくい)した時、他に子供がいなかったため、形ばかりに立てられた東宮だった。

 その東宮にたよりがいのある後見人がいないということは、そのまま東宮自身の地位をも危(あや)うくしかねなかった。

 右大臣家という強力な後ろ盾(だて)を持つ麗景殿女御(れいけいでんのにょうご)に、もし御子が誕生することにでもなれば、後見人を持たない東宮の地位など、簡単にひっくり返されてしまうだろう。

 右大臣家の人間にしてみれば、このことはむしろ歓迎(かんげい)すべきことのように思われたが、生真面目(きまじめ)な篁には、そういう考えは頭の隅(すみ)にも浮かばないことだった。

 東宮は、あくまでも東宮なのだ。

「他に、後任(こうにん)を引き受けそうな公卿(くぎょう)はいないの?」

 篁は長いこと思い悩んだ末に、ようやく口を開いた。

「麗景殿女御には、わが右大臣家という確かな後見がついている。もうひとりの登花殿(とうかでん)女御には左大臣殿の弟で、宮中でも実力のある左大将殿がついておられる。そこへ持ってきて、左大臣殿が東宮の後見を降りたとなると、この先、新たな後任を探すことになったとしても、進んで受けようとする者はいないだろうな。両大臣ににらまれることを覚悟しなきゃならないからね」

 年若いとはいえ、篁はさすがに宮中の権力者の子息だった。

 状況を冷静に分析し、判断する能力には優(すぐ)れたものがあった。

 だがその顔には、濃(こ)い憂(うれ)いがきざまれていた。

「この際、物の怪が本当に二の宮の亡霊だったかどうか、なんて問題じゃないんだ。問題なのは、たとえ騒いだ女房にその気がなかったとしても、この一件は、確実に東宮の首を絞(し)めることになるっていうことなんだ。長良親王(ながらしんのう)のお立場は、これからますます厳しいものになっていくだろうな」

 ――これはただの偶然なんだろうか……?

 篝火(かがりび)に照らされた篁の悲痛な横顔をながめながら、セイラは奇妙な符合(ふごう)を感じ取っていた。

 帝の寵(ちょう)をひとりじめしているという理由で、尹の宮が殺意を持って現れた同じ日に、幼い東宮が窮地(きゅうち)に追い込まれる事態が発生する。

 まるで最初からしくまれてでもいたように……。

 ――これは本当に偶然にすぎないのか……?

 セイラは何度も心の中でつぶやきながら、尹の宮の氷のような冷たい視線を思い出していた。





 翌日、二の宮の御霊(みたま)をとむらう陰々(いんいん)とした読経の声が流れる宮中を、ひとりセイラは喜々(きき)として、清涼殿の御座所(おまし)に向かった。

「帝におかれましては、本日もご機嫌うるわしくあられ、おめでとうございます」

「ふん、ご機嫌うるわしいはずがなかろう。そなたこそずいぶんご機嫌うるわしそうだが、こんな朝からなんの用だ」

「はい。お取り込み中とは存じましたが、宜陽殿(ぎようでん)の雅楽(うた)を習得し終えたので、ご報告申しあげようと思いまして……」

「習得(しゅうとく)し終えた、だと――!?」

「ええ。実はもう少し早く終わるはずだったのですが、楽譜(がくふ)がごちゃ混ぜになっているところがありまして、その整理にえらく手間(てま)取ってしまいました」

 庭に飛び散った楽譜を、自分たちが適当に積み上げたせいで――とは、セイラは言わなかった。

「あれだけの楽譜を、本当(まこと)に……」

「そうおおせられるだろうと思いましたので、中庭に道具を運んで、なにかお聞かせしようとも考えたのですが……」

「―――今日は日が悪い。後にいたせ」

「それをうかがって安心いたしました。わたくしも、阿闍梨(あじゃり)の御読経(みどきょう)とはりあうのは気が引けますので」

 セイラは、これ以上ないほど上機嫌だった。

 御簾(みす)ごしの帝の反応を想像するだけで、楽しくて仕方なかった。

 なかば信じきれずにいた帝も、そのようすを見ると納得せざるを得なかった。

「きらきらしい神、か……」

「なにか……?」

「いや……。そなたを見ていて、ふと尹(いん)の宮から聞いたお伽噺(とぎばなし)を思い出していた」

「尹の宮殿といえば、昨夜、わたくしのところに袿(うちぎ)を置いていかれましたが……」

「ああ、それは私が宮に頼んだものだ。そなたはうたた寝をしていたようだったし、昨夜は少し冷えたのでね」

「あの袿は、やはり帝のご配慮(はいりょ)でしたか。では、尹の宮殿は……」

 眠っているセイラに、短刀を突き刺そうと思えば容易(ようい)にできたはず――

 だが尹の宮は、そうするかわりにセイラの肩に袿をかけ、じっと目覚めるのを待っていた……。

 セイラはそこに、尹の宮の行動の矛盾(むじゅん)を感じないわけにはいかなかった。

「袿はそなたに遣(つか)わす。このたびのほうびとして受け取っておくがよい」

 帝はそう言うと、セイラが謝礼(しゃれい)の言葉を言い終えるのも待たずに、人払(ひとばら)いの合図を送った。

 近侍(きんじ)の者が立ち去って二人だけになると、帝はセイラを呼び寄せ、にわかにいらだった声を出した。

「昨夜の騒ぎは、もう聞き知っているだろうな」

「はい」

「今朝早くに、左大臣から申し文がまいった。面目(めんもく)を失するうわさがあり、これよりは東宮坊大夫の役目を辞退して、沙汰(さた)あるまで謹慎(きんしん)するとな」

 セイラは、はっと顔色を変えた。

 いずれそういう事態になるだろうと予想はしていたが、この展開はあまりにも早すぎるように思えた。

 それだけ、左大臣の受けたショックが大きかったと言えるのだろう。

「例のうわさについては、検非違使別当(けびいしのべっとう)からの報告は受けていたが、それにしても東宮のまわりにいる者は、なぜそのような口軽な女房をつかえさせていたのか」

 帝は不快感をあらわに、厳しい声で言いはなった。

 宮中の不穏(ふおん)な空気は、ほんのささいなきっかけが、帝の権威(けんい)を失墜(しっつい)させる元になりかねなかった。

 それを思えば、帝のいらだちも当然といえたが、セイラはもっと別のことを考えていた。

「……この一件は、表面の出来事だけを追っていたのでは、その奥に隠れている真相が見えてこないような気がいたします」

 セイラは、昨夜感じた奇妙な符合(ふごう)を思い返しながら言った。

「――どういうことだ?」

「昨晩、わたくしも悲鳴を聞いて梨壺(なしつぼ)にかけつけましたが、物の怪が取りついているような、禍々(まがまが)しい邪気(じゃき)は感じられませんでした」

「そなたには、そのようなことまでわかるのか――」

 セイラは、はにかんだような苦笑いを浮かべて、

「わかる…というより、見えるのです」

「では、あの騒ぎは物の怪のせいではないと……?」

「物の怪は、実際に現れたのかも知れません。が、それは二の宮の怨霊(おんりょう)などではなく、生きた人間がしくんだものでしょう」

「愚かな――!そのようなことをして、なぜわざわざ騒ぎをおこす必要がある」

「おそらくは、騒ぎを起こすことでどのような事態が生じるか、しくんだ者には読めていたのだと思われます」

「つまりこれは、左大臣を東宮坊大夫(とうぐうぼうのたいふ)から降ろすための企(たくら)みだというのか?」

「はい。それによって東宮さまのお立場も、ご安泰(あんたい)とは言えなくなってしまいました」

「ふむ……」

 とうなったまま、帝はむずかしい顔をして考え込んでしまった。

 セイラの言おうとしていることが、もし当たっているなら、事は左大臣の東宮坊大夫辞退だけではおさまらなくなる。そればかりか―― 

「……セイラ、その先、そなたにはどこまで見えている?」

「さあ、左大臣殿もこのまま黙って引き下がるとは思えませんし……」

 セイラは慎重(しんちょう)に言葉を選びながら、

「帝の周囲で、次期皇位をめぐっての熾烈(しれつ)なかけひきが始まることは考えられます」

「私が即位(そくい)してまだ二年目だというのに、もう次の皇位の話か。気の早い者どもよ!」

 忌々(いまいま)しそうな帝の声に、セイラはニッと不敵(ふてき)な笑みを浮かべた。

「今頃はどこかで、狐(きつね)や狸(たぬき)が知恵をしぼって、これからの計略(けいりゃく)をねっていることでしょうね」

 こともなげに言って微笑(わら)っているセイラを見ると、帝はあらためて、この天女を敵にはまわしたくないものだと思った。

「やはり、そなたをただの侍従(じじゅう)にしておくのはもったいないな」

「それではわたくしを、物の怪退治のお役目につけていただけますか?これ以上宮中をかきまわされては帝のご心痛(しんつう)も増す一方ですし、わたくしも少し気になることがありますので」

「物の怪退治か。かまわぬが……なにかよい手でもあるのか?」

「そうですね……」

 セイラは少し考えて、おもしろい遊びを見つけた子供のように瞳を輝かせた。

「まず手始めに、東宮さまのお見舞いにまいろうと思います」





 先ぶれの女房に案内されて、長い迷路のような後宮の廊下(ろうか)を歩いてゆくと、読経の声が次第に大きくなってきた。

 どうやら読経は、梨壺(なしつぼ)のどこかで行われているようだった。

 殿舎(でんしゃ)のまわりには、昼だというのに依然(いぜん)としてかがり火が焚(た)かれ、東宮坊の役人や近衛舎人(このえのとねり)たちの姿も見えた。

 細殿(ほそどの)を通って、人影もまばらな東宮御所の廂(ひさし)の間にセイラが腰をおろすと、待ちうけていた年増(としま)の女官がうやうやしくあいさつした。

「ようこそお越しくださいました、月の君」

「あなたは……?」

「東宮さま付きの女官で、大蔵(おおくら)の命婦(みょうぶ)と申します」

 セイラはうなずき、さすがに神妙(しんみょう)な面持(おもも)ちで、

「昨夜来の騒ぎで、東宮御所のようすを案じておられる帝にかわり、お見舞いにあがりました。東宮さまのご機嫌はいかがでしょうか?」

「はい、それが……」

 命婦は口ごもって、顔をくもらせた。

「せっかくお見舞いにお越しいただいたというのに、まことに申しわけないことですが、東宮さまはお加減(かげん)がすぐれないごようすで……」

「お加減がすぐれないとは……どこかお悪いのですか?」

「そうではございません。昨夜からの騒ぎで、あまりお休みになっておられないのです。おかわいそうに、御読経まで気味が悪いとおっしゃられて……大層(たいそう)むずかっておいででしたが、先ほどようやくご寝所でお休みになられたところなのです。ですから……」

「そうでしたか……」

 当てがはずれたセイラは、がっかりしたようすで、

「それは弱りました。物の怪をごらんになった東宮さまから、じかにお話をうかがいたかったのですが……」

「いいえ。東宮さまはごらんになっておられません」

「えっ、では……」

「物の怪を見て悲鳴を上げたのは、新入りのあやめという端者(はしたもの)でございます。東宮さまがお休みになっておられる几帳(きちょう)の陰に、なにやら人影がゆらめいていると申しまして……」

「人影……ですか」

「はい。今にして思えば、わたくしが側についてさえいたら、このような騒ぎにはいたらなかったと悔やまれてなりません。今朝がた、左大臣さまからもきついおしかりの文をいただきました。すべては、監督のいきとどかなかったわたくしの責任でございます……」

 命婦が袖口で目頭(めがしら)をおさえると、後ろにひかえていた二、三人ほどの女房も、誘われるように涙をぬぐいはじめた。

 重苦しい雰囲気(ふんいき)が立ち込め、いたたまれない息苦しさを感じたセイラは、そっとため息をついた。

 こんなよどんだ空気の中では、物の怪が本当に現れてもおかしくないのではとさえ思えた。

「それで……その新入りのあやめという者には、人影が二の宮の亡霊だとわかったのですか?」

「端者(はしたもの)に、そのようなことがわかるはずもございません。実は、物の怪は今までに何度もこの東宮御所に現われては、東宮さまをお悩ませしていたのでございます。それが……」

「物の怪が現れたのは、昨夜が初めてではなかったのですか?」

 セイラは意外な顔をして、命婦(みょうぶ)を見つめた。

「もしそうでしたら、東宮さまもこれほどおびえたりはなさいませんわ。主上(おかみ)が即位なされて、昨年の秋にこの梨壺に東宮さまがお移りになられてから、今までずっと物の怪に悩まされ続けてまいられたのです」

「なるほど……では、ずいぶん気の長い計画だったのですね」



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